きっと僕は彼女の事が好きだったんだと思う。部活中楽しそうに友達と笑っている君を目で追って、目線が合う度に逸らしてそれでも懲りずにまた君を見ていた。君と帰りが一緒になると少しばかり胸が高鳴っていた。でも、この感情に気付いたのは君が僕の日常から消えてしまってからだった。そのまま時間が過ぎてその感情も薄れて、もう君の事が本当に好きだったのか確かめることもできない。

「さて、先輩いきますよ!」
「おうおう良いだろう。最後に一回先輩としての威厳を見せつけてやろう」
夏の蒸し暑い部室のなかで僕は袖を捲し上げて言う。
「由紀ちゃんお願い!」
「ではでは、佐藤先輩バーサス葵ちゃんの今年取った賞の数の開示をどうぞ!」
勢い良く腕を振り上げる。
「六だ!」
「先輩…」
僕は勝ちを確信して思わず頬が緩む。
「私は七です」
が、それは一瞬にして真顔に戻った。
「えっと…その…ジュース奢りますよ……」
葵が気まずそうに僕の肩を叩く。え?こういうのって大体先輩が勝つやつじゃないの?え?
「……よし!皆部活始めるよ!」
由紀ちゃんがそう言うと周りに集まっていた人がちりじりになっていく。中心に残ったのは葵と僕だけ。
「ほらいきますよ先輩。ジュース買いに」
「おう…」
僕は大きく肩を落として一階にある自販機へ階段を下りていく。その間葵は一言も発っさないので僕は気まずくなって歩くのが速くなる。
「ちょっ!先輩速いですって!」
僕はそれを聞こえていないふりをして階段を下りた。四階から自販機につく頃には僕も葵も息が上がっていた。
「なんで…いきなり歩くの…速くしたんですか」
気まずかったからなんて言えるわけもなく「なんとなく」と適当なことを言う。
「あー、さては嫌がらせですねー私がさっき勝っちゃったから」
「違う違う、確かに少し、いやだいぶ悔しかったけどそんなことはしないよ」
「本当ですか?先輩たまに負けず嫌い出ますから信用なりませんね」
葵は頬を膨らませながら自販機のボタンを押した。続いてもボタンを押す。
「先輩、水でよかったんですか?」
「これが一番安かったろ?」
「そう、だからそれでよかったんですか?」
「何葵、もしかして本気で気にしてんの」
「だって、先輩もう今日で引退しちゃうじゃないですかだから最後くらいは花を持たせるべきだったなーって」
「変なとこで真面目なのな」
むっとまた葵の頬が膨らむ。
「まぁ気にしてないからさ、葵も気使わなくて良いよ。それに高校でも書道続けるつもりだから、今度は葵よりも多く賞取ってやる」
すこし張り切り過ぎただろうか。こうでもしないと葵がこのまま気を遣いそうなので強気に宣言してみたが。後になって恥ずかしさが出てきた。
「…そのなんと言うか葵もこんなことで気を落とすなよ」
「そうですね」
夏の太陽に照らされているその笑顔は僕には眩しすぎるくらいだった。

あれから少し話をしていた。そろそろ帰ろうかと切り出した頃には冷たかった水は夏の蒸し暑さによって常温になっていた。僕はそれを一気に飲み干して自販機の隣にあるゴミ箱へ投げ入れた。
「先輩!」
葵に呼ばれ振り返ると葵はスマホをこちらに向けていた。
「ん?」
「ほら、笑って笑って」
「え、いや、僕そんなに写真好きじゃ…」
カシャッと音がなる。スマホを覗いていた葵が顔を覗かせた。
「見ます?」
「何勝手に!」
「思い出ですよ。思い出」
撮った写真を静かに眺める君に文句を言おうと思ったが止めた。
僕は葵のスマホを見てみるそこには恥ずかしそうに顔を隠そうとする僕がいた。
「先輩面白いかっこうしてますね」
そういって楽しそうに笑う君がみれたからよかった。

「ただいま」
そう言うと家の中からは楽しそうな母さんの声が響いてきた。今日は父が帰って来る日だということを忘れていた僕は跫を潜めて廊下からリビングを覗いた。すると母の向かい側に座っていた父と目があった。
「帰ったのか!」
父が声をあげていった。母もその声につられて僕をみた。
「悠真何してるの?」
僕は安心してリビングの扉を開いた、それから「ただいま」ともう一度言って父の側へ行き久々にあった父との再会を僕は喜んだ。
「前にあったのは四ヶ月前か、すこし背が伸びたか?」
父は転勤して僕たちとは違うところに住んでいる。それでもこうして何ヵ月かに一度帰ってくる父の事を僕は慕っていた。
「父さんは最近どう?」
「そうだな、最近は近くに美味しいラーメン屋ができたからそれを楽しみに仕事頑張ってるよ。今度、悠真も連れて行こうか」
「いいの!」
「駄目です、悠真は夏休みは受験勉強してください」
「えー、どうせここ田舎だからどこも定員割れるから勉強しなくても行けるよー」
僕は唇を尖らせてどうにか受験勉強から話を逸らそうと話題を考える。
「そんなこと言って、落ちたらどうするのよ」
「だから大丈夫だって、それにほら母さん楽させるために良い大学に行くからさ」
「なんで、高校受験の話をしているのにそんなことを言うのかしら」
「……バレた?」
「まぁ、そういうことだ悠真とラーメン行くのは高校に受かったらだな」
「えー」
家族との会話は好きだ。父さんとどこかへ行く約束も、母さんと軽口を言い合うのも僕はこの変わらない生活が好きだった。

翌日、部活を引退した僕は放課後特にすることもないまま帰路につく。外は暑く蝉の声が耳に纏わりついている。
「溶けるー」
額に流れる汗を制服の袖で拭いながら海辺を歩く。たまに吹く潮風だけが癒しだった。海は太陽の光を反射していてギラギラと眩しい。浜にはそれなりに人がいた。いつも、地域のおじさんやおばさんばかりだったからこうして遊びに来ている大学生や社会人の人を見るとすこし不思議な感覚に陥る。
僕はすこし戻って階段から砂浜へおりた。踏んだ場所が窪んで靴の裏と同じ形になる。砂に反射した熱気のせいで先程よりも暑く感じた。僕は靴を脱ぐ。靴下を脱いだ靴に詰め込んで砂に足をついた。
「あっつ!」
焼けるような暑さが伝わる。僕はできるだけ爪先で跳ぶようにして歩く。パシャと足が海に付くと先程までの暑さが嘘のように飛んでいった。海が足を撫でる。潮の匂いが、海の音が僕を包む。
「夏だなぁ」
カシャッ
僕がそう呟いたときにカメラの音がした。後ろにはこの辺では見ない顔をした少女が一人立っていた。そのカメラが向けられたのが僕だと気づくのに時間は要さなかった。僕がどうして良いか解らずに立っていると。その子は明るく笑って見せた。
「君良いね」
いきなり女の子にそういわれすこし照れ臭くなる。
「もう一枚撮ってもいい?」
「いいよ」
暑さのせいかはたまた、名前も知らない彼女の雰囲気のせいか僕はいつの間にかそう答えていた。

「ただいま」
家に着いたのは結局いつも部活が終わったときの時間と余り変わらなかった。
「お帰り」
今日は父は居らず、母だけが僕に返事を返してくれた。僕は自分の部屋へ入ってすぐに荷物をおいてお風呂に向かった。早く汗を流したかった服も雨でも降ったぐらい濡れている。
「悠真、お風呂入るならためといてね」
「はーい」
本当は湯船にも浸かりたかったのだが、ためている時間も気持ち悪いままでいるのが嫌なため仕方がない。僕はさっそくシャワーで体を流して洗った。シャワーを終えてすぐに課題を消化する。机の隣に掛けてあるカレンダーの日付を見る。夏休み開始の日に大きく丸がしてあった。前に書いたような気もするが、覚えがない。きっと夏休みが始まる日を聞いて気分が高揚していたときに付けたのだろう。
それにしても受験か。昨日、家族で話したことを思い出す。この辺はいわゆる過疎地域だ。人口も少ない。その割りに要らなくなった建造物や民家が多く残っている。中学校の全校は六十人程度で一学年に一クラスしかない。修学旅行で東京へ行った時は同じ空のしたにこんなところがあったのかと心底驚いた。僕は息を吐く。正直、この辺にある高校は定員割れしていないところの方が少ない。だから、ある程度受かるだろうと自信を持っている。外では特に名前も知らない虫の声が響いている。窓からは海が覗いていた。
「ー君良いねー」
海で出会った少女は夏の暑さによってみせられたものだったのか、いつの間にか居なくなっていた。少女の立っていた場所がすこし窪んでいた。足の大きさは僕よりすこし小さくてサンダルのような跡だった。また明日、海に行けば会えるだろうか。何故か彼女の事が気になってその日はあまり眠れなかった。

私には好きな人がいる。彼は私の一つ上で私は彼の名前を呼ぶのが恥ずかしくて先輩と呼んでいる。
「先輩!」
昼休みいつも机に突っ伏している先輩の背中を叩く。これが日課になっている。今日はなかなか起きず二発目を入れる。
「ん、葵か…もうすこしだけ…」
「先輩、どうせまた夜遅くまでゲームでもしてたんでしょ」
「違うよ、勉強してました」
「あーはいはい、ゲームのね」
「いやほんとに」
「マジですか」
私は先輩と顔を見合わせる。
「さすがに受験生だからね」
「でも先輩…この前まで「どこも定員割れしてるから大丈夫」とか訳の解らないこと言ってたじゃないですか」
先輩は明らかに視線を泳がせながらまた机に突っ伏してしまった。
「いいだろ別に…勉強のモチベが出たんだよ」
「確かにそうですね。でも、無理しすぎないように」
「はい」
私が口調を先生みたくすると彼もそれに倣って口調が変わる。心地が良いそう思う。私はこんな田舎早く出て都会で悠々自適に暮らしたいと思っていたけど、彼ともう少しだけでいいからここにいたいと今は思う。
「やっぱり、姉ちゃんここにいた」
扉の方で私の双子の妹茜が私を見つけるなりため息混じりにこちらにむかってそう言った。茜は私よりも落ち着いていて可愛らしくお菓子作りが得意だ。私はそんな茜を羨ましく思っている。私はがさつで女の子らしさなんてものが無いと自分で解っている。私も茜のように女の子らしかったら彼も…なんて考えてしまうくらいだ。
「姉ちゃん今日、生徒会の集まり」
「え!嘘」
確かに朝担任がそんなことを言っていたような気もする。
「本当、皆まってるから早く行かないと」
「えっうん!先輩また後で」
私は茜に腕を引っ張られながら教室を後にした。

「あついね」
外は太陽が照りつけ焦げてしまいそうだった。たった、数分で汗が滲む。特に胸の下は大変なことになる。……私はなったことはないのだけど。そんなことはさておいても、この暑さは驚異的だった。
「姉ちゃん…溶けてないで…早く歩いてよ……」
「いや、あんたがそれ言う?」
私の後ろを歩く茜は息を上げて歩いている。
「だって…私…体力無いし…あと、汗のせいですごく蒸れて余計に…」
私は茜の顔からすこし視線を落とす。……この世界は心底不公平だ。
「ほら、シャキシャキ歩く!」
私はお手本のように背筋を伸ばして足を前に出す。夏のコンクリートは私たちを料理するかのように太陽の熱を直に私たちに浴びせる。ここら辺は木陰が多くあり日差しは無いが太陽の熱がコンクリートに反射しているのが辛い。夏用の制服も汗で若干透けていた。
「もう…無理、休憩」
そう言って茜はその場にしゃがみこんでしまった。ちょうど私も限界がきそうだったので茜の隣に腰かける。海とは反対方向にある私たちの家に着くまであと五分は歩くだろう。目の前に見える誰かの家の縁側には風鈴が鳴っている。
「綺麗」
「え?何が?」
私の呟きに興味を持ったのか茜も私と同じ視線を送る。
「ほんとだ、風鈴とか久々に見たよ」
「夏だね」
「そうだね」
私たちは暫くその風鈴を眺めていた。風は本当に気を紛らわす程度しか吹いていなかったが、風鈴の音でそれ以上に涼しく感じた。
「そろそろ行こっか」
「えーもう少しだけ休憩しない?」
「そう言っていつまで経っても家に帰れないのもう解ってるから」
私は渋々立ち上がった茜を引っ張って歩いた。木陰が無くなって太陽が直に肌を刺す。コンクリートの熱に太陽私たちは挟まれている。日焼け止めを塗っていなかったらさながら南の国に行ったようになっていただろう。
「て言うかさ、お姉ちゃん佐藤くんに告白したの?」
「へ?」
変な声が出てしまった。
「なんで?」
「だって、お姉ちゃん佐藤くんのこと好きでしょ」
「私が?先輩のこと?ないない」
私はあくまで冷静なように振る舞う。
「誤魔化しても駄目だよ。て言うかお姉ちゃんすぐ顔に出るから書道部の皆知ってるよ」
「嘘!」
「ほーら、やっぱり」
私は言葉につまる。私ってそんなに顔に出てるの?
「先輩も気づいてるかな」
私は恐る恐る聞いてみる。
「いや?この前それとなく聞いたけどなんとも」
「なんて聞いたの」
「えーっと」

「お姉ちゃんの事どう思います?」
「うーん、良い後輩かな」

「と、こんな感じに」
「そんなに直接的に言わなくても!」
顔が熱くなるのは日差しのせいだ。
「でも、多分だけどあれブラフだよ」
「どういうこと?」
「これは私の感だけど、先輩も姉ちゃんの事好きだよ」
茜がそんなことを言う。先輩が、わたしを?
「いや、ないないない。だって、そんな感じしないし…」
「お互いに鈍感だもんねー」
茜は楽しそうに口をすぼめる。私は確かに動悸が激しくなったが顔では冷静さを保っている。…はず。もし、もしもだ。先輩が、私の事を意識していたら…それほどまでに喜ばしいことはない。
「あっ今、もし本当に先輩が意識してたらとか考えてたでしょ」
「なんでわかるの!」
「だって顔に出てるし」
私はペタペタと自分の顔を触る。そんなに顔に出るのだろうか私は。

今日もまたいつもよりも早い時間に帰れている。今まで意識していなかったが部活動の時間は結構楽しかったのだとわかった。こんなに早く帰れても勉強しかすることがなく、家に帰るまでのこの時間が唯一の楽しみになっていた。
「あっ君またきたんだ」
海辺の木陰に座っていた彼女の隣に腰かける。
「ここ良いよね。海が見えて木陰のおかげで多少は涼しいし」
「そうだね」
素っ気なさ過ぎただろうか。向日葵が似合いそうな白いワンピースに身を包んだ彼女の姿にたじろいでいるのが彼女にわからないように僕は視線を逸らした。
「そうだ!」
彼女が思い出したように立ち上がる。
「君に手伝って欲しいことがあるんだった」
「えっなに?」
彼女はすこしだけ勢いが落ちながら小さく呟く。
「この街の事もっと知りたい」
「え?」
驚いた。こんな田舎で何もないところに興味を持つ人がいることに。
「どうして?」
「どうしてって…とにかく!私はこの街の事が知りたいの!」
「わかった、わかったよ」
彼女は頬を膨らませていたが、すぐに笑顔になって座っている僕に手をさしのべた。
「よろしく」
僕はその手を握り立ち上がった。
「うん、よろしく」

最近、先輩は帰るのが早い。とはいっても、受験生である三年生からしたら普通なのだろう。たまにで良いから部室にも顔を出して欲しいと思うのは私のわがままだろうか。夏休みに入ってしまったら、先輩に会う機会はもっと減ってしまう。冬には受験で先輩は忙しいだろうから邪魔はしたくない。この気持ちを伝えるなら今しかない。わかっていても、体は動かないのが常だ。
「はぁ」
「なに?悩み?」
ため息をついていたのを隣にいた茜に聞かれた。どうせ、顔に出やすいらしい私は誤魔化してもバレるのだろう。すると私の予想通りに茜はニヤニヤと広角をあげる。
「もしかして、佐藤先輩がきたりしないかな-。とか考えてる?」
「そうだけど」
やはりバレたらしく、私は恥ずかしさとこうも簡単に見破られたことの悔しさをまぎらわすようにぶっきらぼうに答える。
「くぅー青春してるねー」
拳を握りしめガッツポーズのようなにしている茜を横目に私はため息をついて筆を取る。邪な想いを無にして一画目。これが一番集中できる。
「で、告白しないの?」
「え?」
動揺のせいで一画目からヨレてしまった。そんなことお構いなしに茜は私の答えをまってる。
「……まだ」
間をおいて放った一言は自分でも驚くぐらいに自信の無い小さな呟きのように出た。
「えーもう、言っちゃったらいいのに」
「でも、やっぱりそう言うのはまだ早いって言うか…」
私は恥ずかしくて口ごもる。
「そうかー」
意外にも茜はあっさりと引き下がった。私はまた、からかわれるのだろうと身構えていたがその必要はなかったみたいだ。
「そう言えばさ、佐藤先輩の友達からこんなものを預かってるけど」
茜は部の道具が置いてあるところから一つの袋を取り出した。その袋は学校指定の体操着をいれる袋で中には案の定体操服が入っていた。
「これがどうかしたの?」
「これ、佐藤先輩が忘れてった体操着だって明日休みだし佐藤先輩今日体育有ったらしいからお姉ちゃん届けたら?」
「私が?」
「だってお姉ちゃん佐藤先輩に会いたいんでしょ? それに佐藤先輩もさすがに夏に使った体操服は洗濯したいと思うよ」
会いたいなんて事を言った覚えはないけど、久々に先輩に会えるとなると高鳴る胸がそれを否定させてくれなかった。
「部活終わりに届けたら?」
「うん、そうする」
茜から袋を受け取った時、部室の扉が開いた。
入ってきたのは滅多に来ない部活動の顧問で私は急いで体操服の入った袋をロッカーに入れてすぐに筆を取った。

「あっ」
「どうかした?」
思い出したのは展望台を上りきった時だった。この暑い夏は草木が生い茂っておりここに来るまで苦労した。が、
「体操着忘れた」
完全に忘れていた。今日は体育があって明日も体育があると言うのに流石に今日の汗だくだった体操着をまた着ると言うのは気が引ける。かといって学校まで戻るのも面倒だ。
「取りに戻ったら?」
彼女の提案を受け入れる他無い。
「うーん、面倒だけどそうするしかないよね」
僕は渋々学校に戻ることにした。彼女とはここで別れて一人で学校へ戻った。日は沈み始めていた。夏は日が沈むのが冬と違って遅いため多少は明るい。暫く歩いてようやく学校に着いた。この時間は部活終わりの生徒がちらほら正門から出てくる。
「あれ? 先輩?」
僕が靴箱に靴をしまってスリッパを取り出したときに一つ向こうの靴箱に向かおうとしていた葵に呼ばれた。彼女は目を丸くしてその場で固まっている。
「あー、体操着忘れて取りに」
「あっ、それなら預かってますよ」
葵は手に持っていた袋を差し出した。よく見るとそれは僕の体操着をいれた袋だった。
「え? ありがとう。誰から預かった?」
すこし間をおいてから葵が
「先輩の友達から」そういった。
「そう、それならそいつにも感謝しとかないとな」
「そうですね」
そのまま僕たちは途中まで一緒に帰ることになった。久々に葵と話すことが出来ることが嬉しかった。
「やっぱ、部活無いと暇だわ」
「先輩、ちゃんと勉強してるんですか?」
葵が僕の顔を覗き込んで聞く。
「うん、それなりには」
「これはしてないですね」
僕は咳払いをしてから上を向いた。藍色の空が山の奥に沈みこんでいる。先程から心臓の音がうるさいくらいに高鳴っている。いつもそうだ、葵といるといつも鼓動がが痛いくらいに跳ね上がる。
「先輩?聞いてます?」
葵に肩を叩かれ意識を自分から葵に向ける。
「私この辺で」
葵の家は僕とは反対の方向でこの十字路で別れなければならない。
「おけ、じゃあまた」
「また」
互いに背を向けて帰路に着く。すこしの寂しさが残ったまま歩く。
「先輩!」
後ろから聞き馴染みのある声が僕を呼んだ。振り返るとてを大きく振った葵がいた。
「明日は部室に顔を出して下さいねー!」
僕も彼女に倣って手を振る。
「わかったー!」
「明日、部室で待ってますから!」
そう言うと彼女は満足そうに目を細めてから背を向けた。明日は部室に行こうそう決めた途端に嬉しくて、僕はすこし暗くなった道を駆けて帰った。
それが、彼女との最後の会話になるとも知らずに。

それを知ったのは学校の朝礼の時だった。それまではいつもと何ら変わりの無い日常だった。「朝だっていつもより学校が楽しみで早く起きたんだ。君に会いたくて教室に荷物をおいて君のクラスへ行ったんだ。いつもなら僕より先について居るはずの君が居なくて、居なくて……」
嗚咽を押し込むように声を出す。交通事故だった。葵は僕と別れたあと三百メートル程のところで飛び出してきた運搬用の車にはねられて帰らぬ人となった。
僕のせいだ、あの時もっと一緒に居ればこんなことにはならなかったのかもしれない。泣いている茜の親族を見て自責の念が僕を押し潰すように押し寄せる。ずっとあの時こうしていればとそんなことばかり考えてしまう。意味の無いことと解っていても僕は目の前の現実を受け入れられなかった。あの時交わした約束が脳裏によぎる。
「待っててくれるんじゃなかったのかよ」
小さく漏れたその声は誰の耳にも届かないままゆっくりと消えていった。

姉が消えた。私の前から唐突に。あまりにも急な出来事にまだ頭の整理がついていない。佐藤先輩とはお姉ちゃんのお葬式以来顔を合わしていない。私も会う気はなかった。今あってもなんと切り出せばいいのか私にはわからない。案外気さくにいけば向こうも気さくに返してくれるかもしれない、そんな想像を膨らませてみたが一瞬で霧散した。佐藤先輩の苦しそうな顔を思い出すと気さくに話しかけるなんて事が難しいことは解っている。
何故か私にはあまり悲しいとか寂しいといった感情は無かった。けど、私が居なくなれば良かったのではないかという考えが私の中で蠢いていた。姉は凄い人だと私が一番理解している。どんな時も頼りになって、私なんかよりも勉強も出来て。そんな姉よりも、すぐに諦める癖があって勉強もろくに出来ない私が姉より長く生きていることが許せなかった。
あの時、私が姉に余計なお世話を働かなければ私が佐藤先輩に体操服を届けていたらきっとこの場にいたのは姉の方だろう。私は…怖い。

「向き合って」

「っは」
目覚めた時、時計の針はまだ二時を指していた。
ひどく悪い夢を見た。その夢は受け入れ難い現実だった。今のいままで僕は逃げてきた。解っていたんだ、こんなことを続けるのは無理だと。解っていたんだ、現実だって。それでも僕は向き合うのが怖くて必死に見ないようにしてた。茜もきっとそうなのは明白だった。彼女は僕の前では葵として生活していた。だから、僕が部活に行くとその矛盾は壊れてしまう。それでも、どんな矛盾もいつか本当に成るようにと願っていたんだ。
でも、限界だ。十二月二十五日、この日で終わりにする。全てを受け入れる。嘘を終わらせる。

ここ最近はクラスでも浮わついた話題が飛び交っている。皆が皆、クリスマスというイベントにうつつを抜かしている。それまで付き合っていることをオープンにしていなかった人もこのクリスマスの前にはどうもその高揚した気持ちを隠すのは難しいようであちらこちらで驚きの声があがっていた。そんな中僕はずっと今朝の事が頭から離れないでいた。
「今日なんか、ボーッとしてるね」
昼休み寒い中外で寂しく昼食をとっていた僕のとなりに彼女は座った。
「そうかな」
彼女から差し出されたココアを手に取る。暖かい感触が悴んでいた手にじんわりと広がる。
「今日ずっと、ノートもとらないで外ばっか見てるよ」
何でも見透かしたように彼女は僕の目を見た。
「東雲さんはさ、過去が怖いって思ったことある?」
何でこんな話をしたのか解らない。もしかしたら僕は君を拠り所としていたのかもしれないし、過去から逃げる口実を作るために君に話したのかもしれない。どうにせよ僕はまだ、逃げ道を探す程恐れていた。それを肯定するのが怖かった。
「私は過去が怖いと思った事は無いかな。寧ろこれから先、未来の方が怖い」
「なんで?」
「私が私でなくなるから。かな」
僕が呆気にとられているとチャイムの音が響いた。
「ほら、教室戻んないと」
そうして、立ち上がった彼女の背中がとても小さく見えた。

「向き合って」夢の中で姉はそういった。私の気のせいかも知れないけど。でも、何故かずっとその言葉が夙夜夢寐《しゃくやむび》としていた。十二月二十五日当日、私はきっとまだ覚悟が出来ていない。その証拠にどこかで、本当の事を言わなくてもこのままで良いのではないかと思う自分がいた。このままずっと何も知らない振りをしていく、それも悪くないのではと。
「茜、呼ばれてるよ」
となりに座っていた友達に耳打ちされるまで私は教員に指名されていることに気が付かなかった。私は急いで立ち上がる。
「ここ」
教科書を開いて必死に指を指してくれている箇所を読み上げる。
「つまり自分には、人間の営みというものが未だに何もわかっていないーーーー」
ひとしきり読み終えたあとに「ありがと」と手を合わせて感謝する。私は一息ついて、授業に集中するようにの挑んだがすぐに思考は今朝の夢に変わる。向き合う…私は姉のようになることで姉がまだここにいるような錯覚をしていたのかもしれない。それを心の支えにしていたのかもしれない。それが今私の心を揺らしていた。夢に出てきた姉の姿が脳裏によぎる度私は誰なのだろうと自問自答を繰り返して前に進めない。この場からこの世界から姉の変わりに消えれたらいいのに。
「向き合って」
最後に聞こえた姉の声がまた耳元で聞こえた気がした。そう言われたってそう簡単に変われる訳ではない。
「茜」
姉の声がまた聞こえた今度は鮮明に。それを境に視界がスッと開ける。前に立つ教員の声が良く聞こえた。
決めた。私はもう逃げない。中学の時、毎日のようにこの道を歩いた。
ガードレールは相変わらず曲がっているし、白線は消えかかっている。何年ぶりだろう。高校に入ってからこの道は使うことはなくなってしまったが記憶は鮮明で迷わずにこの場所についた。
「遅いですよ。先輩」
前に立つ茜に言われた。
「いやー懐かしくってつい思い出に耽りながら歩いちゃった」
「そうですよね」
僕たちはあの時を懐かしんで今は廃校となった校舎を見る。僕は知っている。君が葵ではなくて茜だということを。僕は覚えている。葵がもういないことも。

葵がいなくなった時僕はどうしていいのか解らないまま部屋から出なくなった。現実がとても怖かった。外にでなければ、葵のいない現実をみないでいられるのではないかと考え一歩も部屋から出ずにただひたすら壁をみていた。夜は眠ることもままならなかった。目をつぶれば瞼の裏に眩しい日々か反射して映るから。
高校一年の冬休みだった。その頃は大分僕も落ち着きを取り戻して高校にも通っていた。ある時、部屋の掃除をしてると一枚の写真立てがベッドの下に落ちていた。ひどく埃を被っていたのでそれを払って見るとそれは僕が中学の時、部活を引退したときに撮った写真だった。そもそも全校が少ない僕たちの中学はもちろん部員も少ないためこの年の引退生は僕だけだった。
その写真の中央には僕と葵がいた。僕は写真立てから写真を取り出して見る。ふと、裏に何か書いてあることに気が付いた。

『先輩へ こんにちは葵です。こんな風に手紙を書くのは初めてで少し照れくさいので分かりにくいところにあえてかいています。さて、先輩は高校での部活何をするか決めましたか?どうせ先輩の事です。もう部活なんてせずに帰宅部にでもなろうかな、とか考えているんでしょう。そんな先輩に一つ良いことを教えてあげます。私も先輩と同じ高校に行くことに決めました。これでもし、先輩が帰宅部にでもなっていたら私が無理やりにでも書道部にいれてあげます。それでまた、先輩より賞を取ってこれでもかと言うくらいに勝ち誇ります。冗談はこれくらいにして。あっ、先輩と同じ高校に行く事は冗談じゃないですからね。
先輩。私、先輩の事が好きでした。ずっと好きでした。こんな風に伝えることが今の私にとっての最大限ですが。高校生になって先輩とまた、部活ができたら。ちゃんと言わせてください。
葵より』

僕は暫くの間呆然としていた。頬に流れる涙を気にしない程僕はその写真を見ていた。
数ヶ月後に茜が僕と同じ高校に入学した。でも、茜は僕の知る茜ではなかった。僕は前を向くことが出来た。けど、茜はそうではなかった。茜は葵になることで偽っていた。この現実を。
僕はそれを知って嘘をついた。それが今できる茜にとっての最善だと思ったから。

「うわー、ちょっと怖いですね」
「不法侵入は犯罪だぞ」
昼も過ぎ夕暮れにさしかかる日差しが僕達を見張っていた。
「そんなこと言いながら先輩も入ってるじゃないですか」
そう言いながら茜はどんどん奥へ入っていく。日の光はとうに遮られ電気も当然ない。靴箱から少し奥は、完全とまではいかないがそれでも恐怖を感じるには十分な暗さだった。
「何してるんですか?」
「えっいや」
僕は茜の隣に立つことで恐怖を紛らす。廊下は埃や塵が積もっていた。ここも大分廃れてしまった。閉校になったのは丁度茜が卒業した時だった。人口の少ないこの街で唯一の中学だった。
「うわー、一年来ていないだけでこんなに懐かしく感じるんですね」
茜は楽しそうに机が乱雑になった教室を見てまわる。一年の時の教室、二年の時の教室、三年の時の教室。家庭科室に、図書室等を見ていくうちに僕はなんだか悲しいような寂しいような感情でいっぱいになった。思い出が風化していく感覚が胸の奥で蠢いていた。茜も段々懐かしむように各教室での思い出を話し始めた。
「先輩入学した時の事覚えてます?」
「覚えてなかったけど、一年の教室見て一気に思い出した」
事実僕は覚えていなかった。あの頃の未来に対する輝きを。
「私も今、思い出したんです」
そう言った彼女の顔には何か確固たる意志を感じた。
「最後はここですね」
目の前にある扉は昔何度見たか解らない程何度も見た扉だ。扉のガラス部分には達筆な文字で書道部と書いてある。
「懐かしいです。この文字先輩が書いたんじゃなかったけ」
「そうだよ」
ここは、僕にとっての始まりでそして終わりになる。意を決して僕は扉に手を掛けた。
中は解っていたが何もなかった。それでもあの日々が僕には鮮明に目に映る。この場所は生涯忘れることはないだろう。ここで、君に出会って、ここで、君に恋をした。
「茜」
僕は君を忘れたくない。
「え?」
「君は葵じゃない」
暫く無言の時間が流れた。その静寂はすぐに破られた。
茜は目に涙を浮かべた。そして、それは僕が何かを言う前に決壊した。僕は何がなんだか解らないままその場に唖然とする。
それんな僕に茜は話し始めた。本当は葵ではないこと、そして茜は現実を受け入れていること何より彼女は僕が葵の死を受け入れられていないと思っていたらしいこと。つまり、僕たちは互いに現実を見ない振りをしていた。
言葉に出してみたがあまり府に落ちた気がしない。
一段落した茜は濡れた袖を折る。目は少し腫れていた。向き合ってみるとこうも簡単に終わってしまった。僕は茜にもう一度聞く。
「本当に茜は大丈夫なの?」
「そうですね。先輩こそ良いんですか?」
お互いに黙る。僕たちは多分同じことを考えている。
「っははは」
茜は笑い出した。
その笑い声につられて僕も笑いをこらきれなくなって吹き出す。声が校舎中に響くのがわかった。あぁ、懐かしいな。この場所で僕は笑っている。何度も間違いだと、自分に言い聞かせてきた。その度に茜を言い訳にして、本当に現実に向き合えていなかったのは僕だったのかもしれない。でも、それも終わりだ。僕は、僕たちは笑えている。

「先輩って呼ぶのもこれで最後ですね」
僕たちは、埃まみれの部室の床に座っている。辺りはもう暗い。といってもまだ時刻は六時だった。
「え?」
「だって、この呼び方は悠真先輩って呼ぶのが恥ずかしくて呼べなかったお姉ちゃんが考えたんですから。大変だったんですよ妥協点見つけるの」
茜は外に光る星を見ていた。
「お姉ちゃん、佐藤先輩の事が好きだったんですよ」
いきなり放たれたその言葉に僕は勢い良く振り向く。
「死人に口無しってことで」
茜は屈託のない笑顔を見せた。その顔はよく葵に似ていた。
「僕も、葵の事が好きだったんだと思う」
「何で疑問形なんですか?」
「解らなかったから、かな。僕がその気持ちを知る前に葵は居なくなってしまったから」
僕も星を見た。彼女は向こうで元気にやっているだろうか。
「でも、今なら解る」
僕は立ち上げって窓を開けた。外気が埃を宙に舞わせる。噎せそうになるのを押さえて。大きく窓の外に身を乗り出した。
「僕は、葵の事が好きだー!」
山に呆気なく消えていくこの叫びが君に届いているようにただ僕は願っている。

私たちは帰りの道をお姉ちゃんの話をしながら帰った。お互いにお姉ちゃんの事を好きなため話題は尽きずにゆっくり歩いて帰った。
心地よかった。私の心がスッと軽くなった。私は誰なのかと聞かれたら今なら言える。私は茜。穂波 茜だ。
「茜?」
そう呼んでくれる人が隣にいる。切れ長の目に鼻は高く目にかかりそうな前髪の青年。私はこれ程までにお姉ちゃんに嫉妬したことはない。
「どうかしたの?」
「いいや、何でもないです」
必然と笑顔が溢れた。あぁ、好きだな。私は佐藤先輩の事が好きだ。けど、今はもう少しだけこのままで居たい。私が私のままでもう一度君の事を好きになるそのときまで。

「なんか雰囲気変わった?」
そんなことを彼女に言われて僕は「そうかな」と返す。
「うん、なんか前よりもこう…生きてる感じがする」
「前は死んでそうだったってこと?」
「うん」
「否定してよ!」
僕は日常を取り戻しつつあった。あれから、一日たって冬休みにはいった、少し遅い冬休みだ。僕と茜は前よりも話す機会は減ってしまったけどお互いに学校生活を謳歌している。
「それよりさ、写真撮りに行こうよ」
彼女は目を輝かせてカメラを僕に見せる。
「そうだね。僕もそろそろ行きたかった」
「そう言うと思って、もう行くところ決めてるんだ」
彼女はカメラを鞄に大切そうにしまうと、今度はスマホの画面を僕に見せる。
「SNS漁ってたら見つけたの、割りとよくない?」
目の前に出された写真は確かに綺麗だ。でも…
「でも、これ山の上じゃない?」
この写真は登山が好きな人が趣味で頂上からの写真をあげているようだった。僕は勿論体力は皆無に等しい。そんな僕の怪訝そうな顔を見て彼女はニヤリと口角を上げる。
「実は、ロープウェイもあるよ!」
「おー!」
これならどれだけ体力ない僕も行けそうだ。僕たちは日時を決めてこの日は解散した。

息を吐くとその息は白くなって宙に舞う。十二月も終わり、今日から一月だ。
「明けましておめでとう」
電車から降りてきた彼女は青色のマフラーを口元に寄せていた。
「おめでと」
眠そうな目を擦りながら彼女は早朝の寒さに身を震わしていた。
「それにしても良かったね。電車あって」
「ほんと、日の出見るために人が結構来るからこの時間も電車走ってるなんてここだけだよ感謝しなきゃ」
彼女はすぐにいつもの調子に戻って駅のホームに手を合わせる。
「それじゃ行こっか」
彼女は明日の方を指差して楽しそうに歩き始めた。十分程してすぐに麓にあるロープウェイ乗り場に着いた。そこそこの人が並んでいて少し緊張して隣にいる彼女を見たが彼女はそんなことを気にするでもなく人の多さに少し感心していた。
漸く僕達の番が来てロープウェイに乗り込む。このロープウェイは最大三人までが限界らしく僕達ともう一人が乗ることになった。ロープウェイの中は快適で少し暖かい。山頂付近までは五分かかるらしい。その間も彼女は目を輝かせて辺りを見渡し、後続に乗っていた小学生くらいの女の子と手を振りあっていた。
「着いた~!」
ずっと座っていたので背伸びをすると気持ちが良かったが、その反面あの暖かさが恋しい。
「やっぱり高いところだと下より寒いね」
「ここからまだ登るよ!」
彼女が指差す方向にロープウェイから降りた人達がぞろぞろと結構な急斜面を歩いていた。
これって、ガチな人がやる奴では?
不安な僕を他所に彼女は早速向かい始めた。
「まって……一回休憩…」
「もー体力ないなー」
僕たちは登山靴と防寒着を借りて登っていた。僕はすぐに体力が尽きたが彼女は溌剌と前を行っていた。どこにそんな体力があるのか不思議だ。
「あと少しだから」
「わかった…」
先程から何度このやり取りを繰り返しているか解らない。寒い筈なのに汗が額を伝う感覚が残る。
「ねぇみて!」
彼女の指差す方は僕達が登ってきた道より遥か下だった。僕も倣って下を見る。そこには太陽が今にも顔を出しそうな程に明るく山を照らしていた。
「あと少しだからさ、行こうよ!」
そうやって彼女は僕の手を引いた。僕も先程の疲れは残っていたけど、早く登りきりたいと思った。疲れがピークを迎えそうな時「着いたー!」と彼女の声が聞こえた。
「はあ…着いた…」
辺りはすっかり明るく日の出とはほど遠いほどに太陽は燦々と降り注いでいた。
「ごめん…僕にもっと体力があったら…」
情けない。僕は日頃運動しておくべきだったと心から自分を叱った。
「ううん、私は満足したから」
彼女は時々遠くを見ている。別に本当に遠くを見ているわけではなくて、ただ、どこか僕よりももっと先をその目で見ている。
僕はそれをなんとなく眺める。意味なんてない。その消えてしまいそうな儚さに僕は惹かれている。
「あのさ」
彼女が僕の方を振り返る。
「次はどこ行こっか」
「もう次の話し?」
「私、行きたいところ沢山あるんだ」
そう言う彼女はまた、遠くをみていた。
「例えば?」
「うーん、そうだなぁ」
彼女は暫くその場で顎に手を当てて考える素振りをする。
するといきなり思い付いたかのような表情で、
「今度はさ、佐藤くんが行きたいところに行きたい」
「僕が行きたいところ?」
「そう、なんかいつも私が行きたいところに連れ回して申し訳ないなーって思う時あるからさ」
一応申し訳ないとは思っていることに驚きつつ僕は考える。僕が行きたいところ。考えれば考える程に思考は行ったり来たりを繰り返して、結局何もないことに気がついた。そもそも、僕が行きたい場所で写真を撮れるような場所があっただろうか。僕が眉間に皺を寄せていたのか彼女は「今決めなくても良いからね」とフォローしてくれた。
下山中も彼女は新しい物をみたかのようなテンションで、それとは反対に僕は今にも死にそうな程に疲弊しきっていた。何だか登りよりも下りの方が辛いような気がした。ロープウェイのところまで下った僕たちは借りていた登山靴と防寒着を返却して今度は帰りのロープウェイに乗る。前回同様三人まで乗れるようだった。しかし、僕達が山を下りきった頃には殆どの人が帰っており僕と彼女の二人で乗ることになった。後続のロープウェイにはもう人は乗っておらず彼女は景色を楽しんでいた。かえって僕は足が張っていて筋肉痛がほぼ決まっていた。
「それじゃあ、また」
「またね」
帰りの電車を降りて駅を出た所でいつもの挨拶をかわす。
「写真を現像したら一枚頂戴ね」
「うん」
僕は彼女の後ろ姿が見えなくなった頃に歩き出した。丁度日が昇りきった頃で心なしか暖かいような気もするが、冷たい北風が吹く度に身を震わせて家までの山道を登った。
「ただいま」
家にはまだ誰もいない。僕は自室のベッドに腰を掛けてカレンダーを見た。一月一日。年越しの時はいつも寝過ごしていたから、誰かと居たのはとても久しぶりだった。時計の針の音がいつもより大きく聞こえた。

翌日、寒さに身を捩らせながらベッドから出たくない自分を何とか奮い立たせて目を覚ます。僕は制服をハンガーから取って着る。まだ冬休みだが今日は部活の日だ。マフラーを巻いて外に出た相変わらず日差しはあるが風が冷たい。
「おはようございます。佐藤先輩」
「おはよう」
途中、茜と会ったため一緒に行く事になった。かといっても特になんの話をするわけでもなく、ただ静かに学校までの道のりを歩いた。校門の前で茜の方は別の部活をしている友達と合流して、そこからは僕一人で部室に向かった。外は運動部が忙しそうに部活動の準備をしていた。それを眺めながら廊下を歩いた。そして遂に部室の前に立った僕は、非常にビビっていた。そもそもなぜ僕が今日部活動に顔を出すことになったのか。それは、もう思い残す事が無くなったからと、葵との約束を少しでも果たそうと考えて、その事を茜に相談したら是非来て欲しいと言われたから来てみたのだが、そう言った当の本人は途中で僕を置いてきぼりにして友達のとこ行ってしまった。
一度スマホの時計を見る。ここに立ってから一分も経っていない。茜を待つことも考えたが、ビビってますなんて恥ずかしくて言えるわけがない。
僕は勇気を振り絞って手を掛ける。手に力が入る。大丈夫。一応僕も書道部員だし。この部室に入るの入部した時以来だけど。深く息を吸う。
「しっ、失礼します」
その瞬間何かが破裂するような音が響いた。それと同時に茜と皆の声がした。
「佐藤先輩、復帰おめでとうございます!」
目の前にはパーティー用のクラッカーを盛大に散らした部の皆が僕を待っていた。
僕は言葉を失ったまま暫くの間呆然としていた。
「どうです?驚いたでしょ」
悪戯に笑う茜が言った。僕は茜にいつ着いたのか聞くと「先輩が着く少し前に、と言うか部室の前で何してたんですか?中々入ってこないから何かあったのかと思って危うく開けるとこでしたよ」
「あーいや、それはちょっと緊張してて」
「今はどうですか?」
茜は周りに視線をやる。皆が茜に協力して僕なんかのためにこうして時間をくれた。
「もう緊張しない」
「良かった。じゃ、皆部活に戻ろっか。ほら佐藤先輩もやるんですから早く体操服に着替えてください」
催促されて僕は体操着に着替えて部活に臨む。
冷えた体操服が冷たくて寒さに拍車がかかった。暖房は入っているがあまり変わっていないようにも思うが外よりはマシだ。茜に渡された筆を手に取る。久々に触れた筆の感触は慣れるのに時間がかかった。半紙の上を筆がなぞる度に部活に熱中していた日々が鮮明に思い出せた。好きだったこの匂い。墨の匂いがとても好きだった事を思い出した。あの時の葵の声が胸の奥でこだまする。「向き合って」実際、向き合ってみると呆気なく終わった僕達の過去への蟠りも向き合わなければこうして茜と書道をすることもなかった。
「佐藤先輩! 手が止まってますよ!」
「ごめんごめん」
書道に熱中する茜を見ると葵を思い出す。誰よりも楽しそうに字を書いていたその姿を。
「どうかしました?」
一瞬、茜が葵と重なる。その瞬間、確かに聞こえたんだ。
『頑張れ』って。
「いいや、なにもついてないよ」
葵、僕は頑張るよ君との約束を果たせるようにそれまで待っていてよ。いつか、僕が君と同じ場所に辿り着いたら話してあげるよ。この夢見心地な世界での楽しい日々を。