屋上に出れば、変わらずに青い空が出迎えてくれる。
 畑ではサイトウさんが、秋野菜を育てるのに肥料を撒いているところだった。
 ワタくんの定位置の、ペントハウス横のベンチに座る。

 気づいたら、フラッとワタくんが現れるような気がしてしまう。
 ワタくんが居なくなったというのに、私は涙ひとつこぼさなかった。
 人間は、あまりにも悲しすぎる時は、心が動かないんだ。

 ワタくんが居なくなった実感は、正直無い。
 最後に見送ったのは、私なのに。
 
 サイトウさんが、頬に土を付けたまま、駆け寄ってくる。

「ミアちゃん、読んだ?」

 唐突な言葉に、首を傾げる。
 読んだ……?
 思い当たるのは、ワタくんの小説だったけど。
 ワタくんは、結局私には、一回も見せてくれなかった。

「何をですか?」
「渉くんの小説」

 軍手を脱いでから、スーツのポケットに手を突っ込む。
 取り出したスマホで、何かを打ち込んで私に見せる。

「これ、聞いてない?」
「聞いてない、ですねぇ。私に見られたくないじゃないんですかねぇ」

 心臓が、速く脈打つ。
 ワタくんの考えていたことを知りたい。
 でも、知りたくない。
 それに、小説はあくまでフィクションだ。

 読んだところで、ワタくんの思いなど残っていないかもしれない。
 ごくんっと唾を飲み込めば、サイトウさんは私の手にスマホを載せる。

「読みなよ、ミアちゃん宛だから」

 まるで、手紙のような言い方だ。
 サイトウさんがそういうなら、そうなんだろう。
 こくんと頷いて、スマホを借りる。

「じゃあ、俺は、野菜に水でもやってこよー」

 気を遣ったのか、畑の方に戻っていくサイトウさんの背中を見送る。
 スマホに目を映せば、著者は「齊藤ワタル」と書かれていた。
 私、そういえば、ワタくんの苗字知らないや。
 本当に齊藤なのか、サイトウさんから貰ったのか。
 わからないけど、貰ったの方が正しい気がした。

 タイトルは「死期が見える僕と、空を見上げる彼女」だった。
 私のことかもしれない、と少しだけ期待してしまう。

*  *  *

 人の死期は、二つ存在する。
 運命として受け入れなければいけない青と、自分で選んだ赤の二つだ。

 僕は、あと数ヶ月で青を迎え入れる。
 死にたくない気持ちを抱えながら、生きる日々だ。
 そんな時に、僕の目の前に、あと数秒の赤を表示した女の子が現れた。

 その女の子は、きっと死場所を探していた。
 屋上のフェンスに、そろりそろりと慎重に近寄っていく。
 フェンスを掴んだかと思えば、体を持ち上げる。
 死ぬ気だ、と気づいた。
 僕は生きていたいのに、自分で命を捨てようとしてる。

 無性に腹が立って、邪魔してやろうと思ってしまった。

 *  *  *

 まさか……。

 顔をあげて、フェンスを見つめる。
 まるで、私たちが出会った場面のような描写に、息を呑む。

 ワタくんが、本当に死期が見えていたかは、今更確認する術はない。
 それでも、事実のような気がした。
 そうじゃなきゃ、あんなに諦めたように「死にたくない」なんて口にしないはずだ。

 胸がぎゅうっと締め付けられる。
 どれほど、怖かっただろうか。
 そんな時に、死のうとしてる私に出会ったら、苛立ちもするだろう。

 喉が締め付けられるように乾く。
 最初の一ページ目なのに、読むのをやめたい。
 ワタくんの心を覗いてるみたいだった。

 一旦スマホを閉じて、畑に近づく。
 水をやり終わったサイトウさんは、野菜の苗をひとつひとつ、丁寧に確認していた。

「もう読んだの?」
「一ページ目だけ……サイトウさん、いつから知ってたんですか、この小説のこと」
「うーん、結構初めかな。ペンネームをサイトウにしたいって相談されて教えてもらったから」

 やっぱり、サイトウさんから貰ったのかと納得して頷く。
 私には、読ませてくれなかったのに、サイトウさんには教えていたのかと嫉妬心が湧き上がってきた。

「サイトウさん、このURL送ってもらえますか?」
「いいよー、勝手に知ってるもんだと思ってた」
 
 サイトウさんにスマホを返せば、すぐに私にメッセージで送ってくれる。
 自分のスマホで開いてから、サイトウさんに別れを告げた。
 これは、じっくりと、一人で向き合いたかったから。

「帰ります。また、来ますね」
「おー、来年の春何植えたいか、考えておきなよ」
「はい」

 手を振って、屋上を後にする。
 早る気持ちのせいで、足がもつれた。
 エレベーターのボタンを何回も押す。
 そんなことしても、早く帰れるわけじゃないのは、わかっているけど。