私は、夏休みが終わっても生きていた。
 はぁっと深いため息を吐いて、教室の前で立ち尽くす。
 クラスメイトたちのメッセージを無視したまま、学校が始まってしまった。

 どんな反応が来るか、恐怖で足が震える。
 今までの嫌がらせよりひどいかもしれない。
 それでも、学校に来ないという選択肢はなかった。
 怖くて仕方ないけど、ワタくんのためだからと決意して来た。

 ワタくんが、私が普通の日常を送ることを望んだから。
 できることなら、学校を全部休んで、ワタくんの隣で色々な話をしたかった。
 でも、ワタくんを困らせたいわけではないし、それは私のワガママだとわかっている。
 だから、こうやって学校に来たんだけど……

 教室の扉がいつもより、やけに重く感じられる。
 横にぐっと引っ張れば、ガララという音を立ててしまった。
 すでに登校していたクラスメイトたちが、一斉にこちらを見る。

 西音さんともばっちり目が合ってしまった。

「おはよう!」

 お腹の底から出した声は、教室に響き渡る。
 クラスメイトたちは、シィーンっと黙り込んだ。
 そして、普通の顔で「おはよー」と返事をしてくれる。

 もしかして、私がメッセージを無視し続けてる間に、飽きた?

 期待が胸の奥から膨らんでいく。
 そんなことで飽きる人たちだとは思えないけど……そうだったら、いい。

 西音さんも普通の表情で「おはよー」とだけ、返してくれた。
 本当に、終わったのかもしれない。
 ホッとしながら、席に着く。
 机の中にもいたずらの痕跡はない。

 終わった……
 こんなあっさりと終わるだなんて。

 なんとも言えない感情が胸の中を駆け巡っていく。
 スマホがポケットの中で揺れて、メッセージを知らせる。
 取り出せば、ワタくんからの「学校着いた? 新学期だよね?」という心配のメッセージだった。

 安心させる文面を作って、送り返す。
 あとで、学校内の写真でも撮って送ろう。
 私が学校に行くのを辞めることを、本当に心配していたから。

*  *  *

 久しぶりの学校は、何事もなく終わる。
 今日は始業式だから、お昼までの短縮授業でよかった。
 安心した気持ちを胸にしまいながら、急いで教室を取り出す。
 
 ワタくんの口ぶりから、残された時間は多くないことを知っていたから。

 見慣れたビルを見上げながら、ちょうど一階にあるエレベーターに飛び乗った。
 早く早くと気持ちが急く。
 今日は元気だから屋上に来てるよ、とワタくんはメッセージに書いていた。

 元気な姿を見て、少しでも安心したい。
 そんな気持ちが、ボタンを押す指を急かす。
 エレベーターがぐんぐんと上昇していくにつれて、私の気持ちも一緒に上昇していく。

 いじりが無くなったことを報告したら、ワタくんは喜んでくれるかな。

 チンっと楽しそうな音を鳴らして、エレベーターの扉が開いた。
 屋上の扉を開けば、瑞々しい野菜たちが出迎えてくれる。
 畑の周りには人がまばらにいて、お互いの野菜を交換したりしてた。
 
 その中にサイトウさんも居て、いつものようにスーツ姿で、野菜をカゴいっぱいに詰めている。

 涼しげな風が、私の制服をひらひらと揺らす。
 押さえながら空を見上げれば、白いトマトみたいな雲がゆっくりと流れていた。

 今日の空も、青々と輝いていてキレイだ。
 胸いっぱいに、空気を吸い込む。
 手を伸ばせば、雲も掴めそうな気がするくらい、澄んでいる。

 ペントハウス横のベンチに顔を向ければ、ワタくんは真剣な表情でカタカタとパソコンに打ち込んでいた。
 邪魔をしないように、ゆっくり足音を立てずに近づく。
 ピタリ、止まったかと思えば、急に私の方を見る。

「気づいてるよ」

 イタズラっぽい笑顔で、こちらに顔を向けてパソコンを閉じる。
 カバンに入れようとした瞬間、強い風がワタくんのブランケットを持っていきそうになった。
 慌てて駆け寄って、ブランケットを押さえる。

「ありがと、ごめんごめん」

 素直に感謝しながら、ワタくんはブランケットを掛け直した。
 微かに触れた太ももが前よりも、明らかに細くなってる。
 ごはんすら、まともに食べられていないのかもしれない。

 ワタくんの状況を想像して、私の方が泣きたくなる。
 どれくらい、しんどいのか。
 それなのにどうして、屋上に来たのか。

 元気だから屋上に行くよという言葉は、嘘だったのかとも思った。
 でも、今の状況の中では元気なのかもしれない。

 気付かないふりをして、ワタくんの隣のベンチに座る。
 太陽を吸収したのか、ベンチは熱くなっていた。

「ワタくん、小説見せてくれないねぇ」

 病状には触れず、ふざけたように口にすれば、「完結してないからね」と答えてくれる。

「意地悪!」
「最初から、完結したらって約束だったでしょ」
「たしかに。あ、ワタくん、おいしーいスープ飲まない?」

 カバンの中から、水筒を取り出す。
 ワタくんがごはんを食べれていないことを想定して、今日家を出る前に作って来た。
 授業を受けて来たけど、保温瓶になっているから、まだ、温かいはずだ。

 ワタくんの答えも待たずに紙コップを、手渡す。
 ワタくんは、頬を緩めながら受け取って私の方へと紙コップを向けて待つ。

「みーちゃんの料理おいしいよね、幸せの味がするっていうか」

 私がワタくんの料理に抱いた感想と全く一緒で、蓋を開けようとしていた手が滑る。
 驚いて顔を見つめれば、ワタくんは不思議そうに首を傾げた。

「なに?」
「まさかの言葉だったから」

 こほんっと、咳払いしてから、スープを注ぐ。
 今日は、卵スープにしてみた。
 卵は完全栄養食ともいうし。
 少しでも、力になってくれたら嬉しい。

 とぽとぽと優しい音で紙コップに注げば、黄色の卵は渦を巻く。

 幸せの味がする……か。
 先ほどのワタくんの言葉を噛み締めて、舞い上がりそうになるのを堪えた。

 ワタくんに注ぎ終わり、自分用にも注ぎ始めればサイトウさんが、こちらに向かってくるが目の端に映る。

「ミアちゃーん、渉くーん!」

 大きな声で、はしゃいだ小学生みたいに手をブンブンと振っている。
 大人なのに、大人らしくない。
 最初は、感じなかったサイトウさんへの感想に、勝手に頬が緩んでいく。

「みーちゃんそれ隠して。あの人に取られる」

 ワタくんがふざけてるのかと思えば、真剣な表情だ。
 独り占めしたいと思うほど、私の料理が口に合うってこと?
 あまりの嬉しさに、このまま、青空に浮かび上がってしまいそうだ。

 ワタくんに言われた通り、水筒を閉めてカバンに放り込む。
 間一髪で、サイトウさんは水筒には気付かなかった。
 でも、私たちの手元の紙コップには目ざとく気づく。
 
「何飲んでの?」
「卵スープです」
「いいなー! 俺も!」

 わくわくと期待した目でこちらを見つめている。
 ワタくんは、「イヤです」ときっぱり答えて、ふぅふぅっとスープに息を吹きかけていた。
 取り上げることはしないものの、サイトウさんがしゅんっと眉毛を下げたのを見て、可哀想になってくる。

 私の紙コップを差し出せば、パァァッと顔を明るくして「いいの? 本当に? いいの?」と何度も繰り返した。
 こくんっと頷けば、遠慮なく頭を撫でられる。
 いつのまにか、簡単に触れられる距離感になってたな。

 イヤじゃなく、むしろ、嬉しいけど。
 サイトウさんは紙コップに、口をつけてゆっくりとスープを味わう。
 ふぅっと一息ついたかと思えば、真顔になった。

「幸せの味がする、な」

 まさかの言葉に、驚きん隠せないまま、ワタくんと顔を見合わせる。
 私たち三人は同じ感性を持ち合わせてあるのかもしれない。

「なんだよ、二人して」
「いやぁ、ねぇ、ワタくん」
「ねー、みーちゃん」
「なんだよ!」

 不思議そうなサイトウさんを置き去りに、ワタくんと顔を見合わせてくすくすと笑い合う。
 ふいっと拗ねたサイトウさんは私たちの間を割り込むように、ベンチに座った。

「サイトウさん、狭いですって」
「仲間はずれみたいにされたからな」
「大人の対応してくださいよ」
「なんだと、この」

 私たちの頭を、片手ずつわしゃわしゃと撫で回して「このこの」とサイトウさんは口にする。
 そして、まっすぐ空を見上げた。

「青いなぁ」
「ですねぇ……」
「二人とも、なんだか楽しそうでよかったよ」

 不意にそんな事を呟くから、またサイトウさん越しに、ワタくんと目配せをする。
 サイトウさんは、私たちを子どもみたいに思ってくれてるのは気づいていた。
 でも、ここまで優しい理由は相変わらずわからない。

 その理由がどんなものであれ、私も、ワタくんもサイトウさんに救われていることには変わりないけど。

「ごめんなさい」

 ワタくんがぽつり、と小さい声でサイトウさんに謝る。
 意味がわかってしまって、二人から目を逸らして空を見上げた。
 青が目に染みて、涙がつぅっと頬を伝っていく。

「謝るなよ、しょうがないことだろ。でも、寂しいな……会える時はたくさん会おうな」

 サイトウさんも、意味が通じていたらしい。
 ワタくんと私の肩を抱き寄せて、ぐっと力を込めた。
 大人の大きい体に包まれたのは、久しぶりで、そのこともますます私の涙に拍車をかけた。