ワタくんは相変わらず屋上に来ていないらしい。
 サイトウさんとメッセージのやりとりをすることにも慣れた。
 私が行って報告する日も、仕事終わりにサイトウさんが確認して報告する日もある。
 屋上で会う日も、そうじゃない日もずっとやりとりを続けていた。

 どれくらい会えていないだろうか。
 夏休みも終わりに近づいて来ているのに。

 目の前のワークは、一向に進まない。
 手につかない宿題もあと数ページで終わりだ。
 あ置き去りにされたシャーペンが、机の上をコロコロと転がっていく。
 
 窓の外の紫色とオレンジが混ざり合った空を見上げれば、無性にワタくんに会いたくなった。

 ワタくんの家に行ってみようかな。
 でも、会いたくなくて来てないんだったら……
 
 そんな無駄な考えがまた、頭の中でぐるぐると巡る。
 こんなことを考えるのはもう何度目だろう。

 切ない色をした空を雲が横切っていく。
 空を見るとワタくんを思い出してしまうのは、いつも空に近いところで会ってるからかな。
 そういえば、今日はサイトウさんから玉ねぎを貰ったんだった。

 初めて玉ねぎが実ってるところを見たから、あぁやって育つとは知らなかったなぁ。
 袋から丸々とした茶色い玉ねぎを取り出せば、独特の香りがツーンと鼻に突き刺さる。
 玉ねぎはざっと見ても十個以上、入ってた。

 ワタくんに、持っていこうかな。
 半分くらい。
 ふと思い立つ。

 会いに来ないなら、会いに行こう。
 会いたくなかったって、言われたら……それはその時だ。
 傷つくかもしれないけど。

 ビニール袋から玉ねぎを半分くらい取り出して、机の上に転がす。
 そのまま、いつものリュックに残りの玉ねぎが入った袋を突っ込む。
 一応、スマホを開いて「サイトウさんから貰った玉ねぎ持っていくね」とだけメッセージを送っておいた。

 姉に気づかれないように、こっそりと部屋を抜け出す。
 母と共にまたDVDを見てるのか、リビングからきゃーという声は聞こえるが、気づく様子はなかった。
 また、何か言われたら困るから、母と父にもメッセージだけ残しておく。

『出かけてくる、夜には帰るね』

 玄関でぽちぽちと打っていれば、リビングの扉がギィイっと小さい音を立てて開いた。
 失敗したと振り返れば、立ってるのは母。

「ちょっとだけ、出かけて来ます」

 小さな声で口にすれば、母もわかったのか無言で頷く。
 微笑んでくれるようにはならないけど、こうやってやりとりができるようになっただけ進歩したのかも。
 そう考えていた私に聞こえた微かな声は、前とあまり変わらない冷えたものだった。

「気楽でいいわね」

 ぐっと飲み込んで、玄関の扉を開ける。
 瞳の奥から堪えきれない涙が浮かびそうになった。
 母にとって、私は変わらず疎ましい存在でしかない。
 そんな証明みたいな言葉に聞こえた。
 
 ちょうど帰宅した父とすれ違う。
 下を向いたまま、予定を告げる。
 父にも冷たい言葉を掛けられたら、私はどうしたらいいんだろう。
 そんな気持ちが胸の奥から、体を冷やしていく。

「お母さんには言ったけど、出かけてくるね。夜には帰るから」
「あんまり、遅くならないようにな」

 父から帰って来た言葉は、柔らかさを孕んでいた。
 ほっと安心して胸を撫で下ろして、顔をあげる。
 目が合った父の表情は、歪ながら優しいものだった。

「うん、おかえり。いってきます!」

 つい、張り切った大きな声になったけど、それくらい、当たり前のやりとりが嬉しかった。

 駆け出すように、あの日の記憶を頼りに見慣れない街へと進む。
 ワタくんの家への道のりは、ビルからの記憶の方が鮮明だ。
 それでも、途中の建物、公園、方角はなんなく覚えている。

 オレンジ色の濃かった空は、どんどん紫色に染め上げられていく。
 夕方になれば、だいぶ涼しくなってきた。
 ほんのり温かい風に背中を押されながら、あの時見た道を探す。

 思いの外、簡単にワタくんの家には着けた。
 庭では、雑草が生い茂って揺れている。
 窓のカーテンは閉め切られていて、在宅かはわからない。

 すぅっと深呼吸をしてから、ピンポンを押す。
 会いたくないと言われませんように。
 祈りながらも、家の中から反応はない。

 無視されたのかも。
 そんな想像が頭に浮かんで、心臓がぐっと痛んだ。
 違う、ワタくんはそんなことをする人じゃない。
 もしかしたら、どこかに行ってるのかもしれない。

 もう一度、ピンポンに人差し指を掛ける。
 押したら……出てこなかったら……
 悪い想像ばかり簡単に浮かんでは消えていく。

 世界がこの場所だけ、止まったみたい。
 ふぅっと一息吐き出せば、扉の奥から微かな音が聞こた。

「ワタくん……?」

 遠慮がちに声を出せば、カチャンと鍵を回した音が耳に響いた。
 扉に手を掛ければ、すんなり扉は開く。

 玄関には、はぁはぁっと息を荒げて、倒れ込むワタくん。

「うそ、大丈夫?」

 慌てて駆け込めば、ワタくんは笑顔を見せる。
 顔は真っ赤だし、額には汗が浮かんでいるのに。
 来なきゃよかった。
 私のせいで、ワタくんに無理をさせたんだ。

 血の気が足元までサァアアっと引いていく。
 支えようとワタくんの肩に手を掛ければ、熱すぎる体温に驚いた。

「みーちゃん、久しぶり」
「そんなこといいから、ワタくんの部屋どこ?」
「二階」

 上の方を指差しながら、乾いた笑い声を出す。
 私が来たから、二階から這いつくばって降りて来たってこと……?
 信じられなくて、目を丸くする。
 バカじゃないの。
 違う、バカは私だ。
 会いたいからって、ワタくんが体が弱いと言っていたことも忘れて、会いに来た私がバカだ。

 両親は? と喉元まで出かかって、ぐっと押し込んだ。
 玄関は相変わらず、靴もほとんど置かれていないし、部屋の中はただ沈黙が流れている。
 ワタくんは、体調が悪いことすら、親にも隠しているのだろう。

 この前泊めてもらった部屋を思い出す。
 リビングの横だったから、階段を登るよりはたどり着くのは楽なはず。
 ワタくんの右腕を肩に掛けて、力を入れる。
 すんなりと持ち上がった軽さに、足元がふらついてしまいそうだった。

 それでも、私の力はたかが知れてる。
 軽々と持ち上げることはできず、肩を貸して歩くのが精一杯。
 この前の部屋に入って、ワタくんを壁に寄り掛からせる。

「緊急事態だから、ごめんね」

 謝りながら、布団を勝手に押し入れから取り出して敷き始める。
 ワタくんは、笑顔を作ったまま、壁にもたれて話を続けようとした。

「玉ねぎ、持って来てくれたんでしょ」
「黙ってて!」

 つい語気が強くなる。
 ワタくんは底抜けのバカだ。
 そんなに体調が悪いくせに。
 でも、その優しさに私はずっと甘え続けていた。
 ワタくんの中で、私は……そういう存在なんだ。
 自覚して、瞳が潤んでくる。

 布団を敷き終わり、ワタくんを布団に転がせばモゾモゾとおとなしく入っていく。

「来てくれたのにごめん」
「ごはんは? 食べられる?」
「うーん、ちょっとだけ、なら」

 悩んでから小さく答えるから「わかった」とだけ告げる。
 このままワタくんを置いていくのは、怖い。
 でも、この家に何があるかわからない。

「ちょっとだけ出るから寝てて」

 汗ばんだ髪の毛をそっと撫でる。
 ワタくんの頬が緩んで、無理に作っていたであろう笑顔が和らいだ。

 ワタくんの家を出ながら、スマホを取り出して父の電話番号を探す。
 ぷるるるっというワンコールでお父さんは、電話に出た。

「もしもし」
「あ、お父さん。私、今日、友だちの家に泊まる! 両親いないのにすごい熱出してて、看病したくて。急でごめんなさい、でも、一人にできない」

 焦った言葉は空回ってる。
 父は、一瞬黙り込んだが、私の焦ってる様子に気づいたようだ。
 そして、「わかった。何かあったらすぐ連絡しなさい」と言ってくれる。

「ありがとう。お母さんには伝えておいて。ごめんなさい」

 電話を切って、近くのコンビニまで走る。
 北道の途中にあったはずだ。
 食べられそうもの、冷やすやつ。薬は、わからない。
 ただの風邪なのかも。
 体が弱いって言ってたから持病なのかも。
 私には何もわからない。