ワタくんとバイバイをして一人、帰路を歩く。
 薄暗い紺色に染まった空の下、生ぬるかった風は、ひんやりとしてきた。
 アイスを食べたり、二人でおしゃべりしてるうちについつい遅い時間になってしまってる。

 駅でちゃんとメイクは落としたし、このまま帰っても大丈夫。
 わかっているのに、足が鉛のように重たい。
 両親と姉もそろそろ帰ってくる時間だ。

 ワタくんとの楽しい気持ちのまま、今日という日を終わらせられたらいいのに。
 
 スマホがポンポンっと何件も通知音を鳴らして、ポケットの中で揺れた。
 連続での通知音にまたクライスメイトのくだらないメッセージだろう。
 スマホを開く気もわかないから、鳴ったまま一人道を歩く。

 どうせ、また誰かの悪口だ。
 もしかしたら、私のかもしれないけど。

 舞い上がっていた体は、冷えた風で冷まされていく。
 つい、どうしたらこの地獄から抜け出せるかばかり想像してしまった。

 死ぬ以外に選択肢は、あるの?

 頭を抱えても答えは出ない。
 ずっと、ずっと、考えてきたことだから。

 自宅が見えてきて、目を凝らして見つめてみても明かりはまだ付いてない。
 両親も、姉もまだのようだ。

 ふぅっと胸を撫で下ろして、玄関の鍵を開ける。
 ひとりぼっちの家には、あいさつをしない。
 両親や姉が居たとしても、私の「ただいま」には返事はないけど。

 家族が帰ってくる前にシャワーを浴びてしまおうと、髪の毛を結んでいたゴムをほどく。
 引っ張れば、パチンと弾けて切れてしまった。

 思ったよりも大きかった音に、体が硬直する。
 弾けた髪ゴムを拾い上げながら「ままならないなぁ」と言ってしまいそうになった。

 ポイっと洗面台の下に置いてあるゴミ箱に放り投げて、浴室の扉を開けた。
 浴室乾燥をしていたらしく、干されたままの洗濯物が目に入る。

 両親の服と姉の服を仕分けして、それぞれの部屋の前のカゴに突っ込む。
 私の服も洗わなきゃいけないけど、今はそんなことよりこの幸せの余韻に浸っていたい。

 洗濯カゴに入れて置いたら、また何か言われてしまうだろう。

「休みなんだからこれくらいやりなさいよ!」
「母さんだって大変なんだから」
「手伝わなきゃダメだよ、ミアちゃん」

 幽霊のように透き通った家族が私を責め立てて、すぅっと消えていく。
 ワタくんの笑顔を思い出してかき消しても、心の痛みはじわりと迫ってきた。

 *  *  *

 シャワーを浴びて、そのまま眠ってしまうくらい疲れていたらしい。
 目を覚ませば、小鳥がちゅんちゅんと鳴いている。
 リビングからは、姉の甲高い笑い声が響いていた。

 ボォっとする頭で、起き上がる。
 昨日のことがまるで夢だったみたいだ。
 ワタくんと楽しく動物を見て、幸せな味のするお弁当を食べて、私は、子どもみたいにはしゃぎ回っていた。

 不意に、帰宅途中のスマホの通知が頭に浮かび上がる。

 どうせ、大した話じゃないだろうけど。
 読んでおかないと、また「なんで読んでないの?」「クラスの一員なのに!」「そういうとこだよぉ、ミア」とか、言われるに決まっている。

 スマホを開けば、メッセージの通知は百件を超えていた。
 アプリの右上に、百と+のマークが記載されている。

 一件一件読むのもめんどくさくて、一番最後までスクロールして流す。
 内容を、聞かれることはどうせない。

『彼氏居るからってエライわけ?』
『無視とか、さすがに人としてどうかと思うよ』

 連なる言葉に、ドキンっと心臓が揺れた。
 私以外の誰かが、責められてる?
 私のこと?
 ワタくんとの昨日の動物園を見られていた?

 この二文だけじゃ、分からない。
 なのに、私のことを責め立てる文章のように受け取れて、叫び出したくなった。
 
 遡ろうと指を滑らせたところで、姉の軽快な「いってきます」の声が聞こえた。
 心臓がバクバクと脈を打つから、息が切れる。

 怖い、読むのが、怖い。
 どうか、私のことじゃありませんように。

 指が震えてうまく操作できないでいると、扉の外から母の声が聞こえた。

「いつまで、寝てるの。お姉ちゃんの見送りもしないで」

 その後にもぶつぶつと何かを言っていたけど、うまく聞き取れない。
 メッセージと母からの言葉で、気が狂いそうになる。
 頭が割れそうなくらい、ずきんずきんと痛い。
 脈打つたびに、痛みが体中に広がっていく気がした。

「いい加減にしてよ、自分のことくらい自分でしてって言ったでしょう!」
「もう起きたから、大丈夫」
「お姉ちゃんはちゃんと、起きられたのに」

 起きられたって、母が声をかけて起こしただけでしょう。
 そんなに、お姉ちゃんは特別なの?
 私には、わかんない。
 
 それに、夏休みだから学校もないのに……
 なんでそんなに、怒られるの?

 考えてから、母には夏期講習が学校であると言っていたことを思い出した。
 慌てて制服に手を掛けて、着替える。
 頭が回らなくて、リボンタイがうまく結べない。

 教科書も何も入ってないカバンを肩にかけて、扉を開ければ、冷たい視線を投げかける母が立っていた。
 姉には優しい声で今日も「いってらっしゃい」と伝えたのだろう。
 想像して、涙が溢れ出しそうになった。

 私だけ、どうして、そんな尖った声色を受け取らなくちゃいけないの。

 それでも、私は弱いから、唇を歪に歪めて「おはよう」と震える声で告げる。
 母は、はぁっと深いため息を隠しもせず、私の顔から目を逸らした。
 表情の変化に、出そうになった涙をぐっと飲み込む。

「いつになったら、大人になるんだか」
「ごめんなさい、いってきます」
「ごはんは?」
「空いてないから、大丈夫」
「帰ってきたら洗濯と洗い物だけでもしておいてね!」

 作ってくれるわけでもないのに、聞かれるだなんて。
 今日はなんだか、変だ。
 胸騒ぎがするのに、どう聞けばいいかわからない。
 それでも、頼まれごとをすれば「いいえ」とは答えずに、頷いてしまう。

 頼まれるだけ、期待されてる。
 まだ、見られてる。
 そんなことを、心の慰めにしていた。

 私の方を一度も見ようとしない母の生え際だけ見つめる。
 目を見たら、また、暗闇のような瞳に吸い込まれて、きっと悲しくなってしまうから。

「知らないからね」

 吐き捨てて、母はリビングへと戻っていく。
 時計を確認していないけど、姉が出て行ったということは、父もそろそろ出かける時間だろう。

 玄関に向かえば、案の定、父が靴を履いてるところだった。
 私の足音は聞こえていたはずなのに、父はまっすぐと靴を見つめている。

「おはよう、お父さん」
「あぁ、気をつけるんだぞ」

 優しい言葉に、じわりと瞳から堪えきれなくなった涙が浮かぶ。
 いつもだったら、そんなこと私に向かって言わないくせに。

「うん、いってらっしゃい」

 掠れた声で頷いて、出ていく父の背中を見送る。
 いってらっしゃいまで、届いたかはわからない。
 それでも、久しぶりに父と交わした言葉には違いなかった。