学校が休みに入ったのに、相変わらず息は詰まる。
 むしろ、ますますしんどくなった気がして、家の方が私には重たいのだなぁと実感してしまった。

 数着の私服を眺めてから、一番新しくてきれいなものを取り出す。
 身に纏えって、くるりっと回りたい衝動に駆られる。

 全身変なところがないか、鏡で何度も確認した。
 百均で揃えた化粧道具で、メイクもしてみる。
 アイシャドウとアイラインだけ、だけど。

 スマホの動画を参考にしながらやってみたから、失敗はしなかったと思う。
 薄いピンク色が目の周りを明るくしてくれているように見えるし、何度も引き直したアイラインは少しだけ目を大きく見せてくれてた。

 スマホの通知音が鳴って、やっと鏡から目を離す。
 開いたスマホには、渉くんから『おはよう。今日大丈夫?』という確認のメッセージが表示された。

『おはよ、もう少しで家を出るよ』

 と送り返してから、もう一度だけ前髪を手櫛で整える。
 心が弾んで、体まで中に浮いてしまいそう。
 動物園は、小学生以来だし。
 友だちと、は初めてだ。

 平日だから両親は仕事に行ってる。
 それに、姉も今日は施設に行ってるから、気づかれる心配はない。
 帰ってくる前にメイクは落としてしまえば、大丈夫。

 メイクをしてることがバレたら、きっと無駄なことに、とか、変な友だちが、とか、叱咤されるに違いない。
 今日だけは、幸せな気分で終えたかった。

 初めての、友だちとのお出かけ。
 
 もう一回鏡を見て、前髪を少しだけ手直しして帽子を被る。
 これなら、クラスメイトに会ったとしてもすぐには気づかれないだろう。

 気づかれたら、何を言われるか、どんな絡まれ方をするかわからない。
 学校の外で、会ったことはないから未知数だけど。
 でも、そもそも西音さん以外は、私の顔を覚えているかも怪しい。
 
 家を出ればまばゆい光に、目を奪われた。
 ぱしぱしと何度か瞬きをしていれば、マシになった気がする。

 今日のために貯めていたおじいちゃんおばあちゃんから送られてくるお年玉を開けた。
 電車代と、ごはん代に使うように。
 百均のメイク道具にも、少し使ったけど。

 渉くんとは、駅で待ち合わせだ。
 家から駅までの道のりは大丈夫。
 歩き慣れているわけではないけど、何度か歩いたことがある。

 見慣れた学校の校舎を横目に通り抜ける。
 ふわりと吹きつけた風が、舞い上がって熱を持つ私の体を冷ましていく。
 夏休みに入ってるからか、すれ違うのは、小学生や中学生などの学生が多い。

 小中学時代のことを思い出して、ずしりと石みたいなのが心の中を締め付けた。
 首をぶんぶんと振れば、道角に咲く花と目が合う。
 誰に見られるわけでもなく咲き誇る花は、美しい。

 景色全てが美しく感じられるのは、今日の楽しみのおかげかもしれない。
 屋上以外で渉くんと会うのは、初めてだけど。
 どきどきよりも楽しみの方が大きい。
 
 駅の外観が近づいてきて、抑えきれずに足取りが軽くなっていく。
 信号待ちの向こうにクラスメイトの姿を見つけて、帽子を深く被る。

 気づかれませんように……。

 祈りを込めながら、ただ白線を跨いでいく。
 キャハハという笑い声を上げたクラスメイトたちは、私には一目もくれず、楽しそうにどこかへと向かっていった。

 同じ方向じゃなくてよかった。
 胸を撫で下ろしながら駅に近づけば、渉くんの姿を見つけた。
 いつもより軽装備に見える。
 半袖のTシャツを着ているし、リュックも一回りほど小さい。
 当たり前か、パソコンとかをいつも持ってきてるもの。
 それでもリュックには、いつもの水筒が見えるし、ズボンはいつもと同じ黒いパンツ。

 周りに他の知り合いがいないか、キョロキョロ確認してから渉くんに近づく。
 屋上以外で会うのは、初めてなことに気づいて、心臓がバクバクと焦った音を奏でた。

 今更なのに、緊張で上手く声が出ない。
 震えた右手を上げながら、消え入りそうな声で渉くんに呼びかける。

「おはよう、渉くん」

 渉くんは帽子を深く被った私を見ても、すぐにわかったようで、顔をパァアっと輝かせた。
 そして、大きな声で私の名前を呼びそうになるから、慌てて口を塞いだ。

「おはよう、ミ……」
「しーっ! 知り合い居るかもしれないから名前は、呼ばないで」
「え、えぇ? じゃあどうしよう」

 困ったように頭を掻きながら、何かを考えている。
 渉くんは、「あっ」と小さく呟いてから、顔をあげて私の目を見つめた。
 にまぁーっと唇を横に薄く開く。

「みーちゃん」
「へ、あ、でも、いいかも」
「じゃあ、僕は、ワタくん、とか?」
「渉くんは、渉くんでいいじゃん」

 渉くんの提案にぷっと吹き出す。
 それでも、あだ名での呼び合うという特別なことが、友だちらしくて良い。
 少しどきどきしながら、呼んでみる。
 あだ名で呼ばれるのも、呼ぶのも、初めてだった。

「ワタくん」

 声は掠れてしまったし、情けないことにひゅっと裏返ってしまった。
 怖くてワタくんの方を見れない。
 それでも、ワタくんは私に声を返してくれる。
 
「なに、みーちゃん」

 いつもより固い声に、ワタくんも緊張してるのが伝わってくる。
 屋上でしか会ったことなかったから、全てが新鮮だ。
 
「ワタくん」
「何度も呼ばれるとくすぐったいな」

 身を捩るように笑い合っていれば、二人の空気が丸くなったように感じた。
 笑い声が途切れればワタくんは、手を差し出す。

 えっと思いつつも、ワタくんの白い手を見つめる。
 ワタくんはきょとんとしながらも、いつもの声色になっていた。

「じゃあ行こう」

 今時の友だちって性別が違っても手を繋ぐんだ。
 私にとっては全てが初めてで、全てがわからない。

 手を繋ぐのは、小学生の集団登校以来かも。
 心臓がどうにかなりそうだけど、ワタくんがそういう行動をするってことはきっと、友だちとして普通のこと。
 自己完結して、素直にワタくんの行動に従ってみる。

 そっと柔らかく握りしめれば、ワタくんは「そういうことじゃなかったんだけど」と小さく声に出した。
 驚いて離そうとした私の手を、細いワタくんの手が握りしめる。

「まぁそれもいっか」
「えっ、どういうことだったの」
「荷物持つよだったんだけど……」
「うそ、荷物は軽いから大丈夫。っていうか手を繋ぐのが普通なのかなって、勘違いした……ごめん、えっと、離そっか」

 言い訳がずらずらと勝手に並んでいって、早口になってしまう。
 恥ずかしさと混乱で頭の中はぐちゃぐちゃだ。