十二月半ば。
 この前、和哉が追想転移することの阻止に成功した。それ以来、秀也は上機嫌だった。
 自分の身近にいる人、特に失いたくない人をこの手で救うことができた。それが何より嬉しかった。

 今までずっと公安に勤めてきたが、その成果というものはなかったように思える。追想転移利用者を減らそうと努力してきたが、そもそも減らすための方法もわからずに、ずっと手付かずだった。仕事をするたび、自分への戒めかのように言い聞かせ、縛り上げていた。
 だからこそ、今回和哉を追想転移させなかったことは、秀也にとってとても大きな一歩であった。これほど、自分が成長できたと実感したことはなかったかもしれない。

 そんな秀也は今どうしているかというと、自分の家で玲と二人で勉強している。一体なぜ、こうなったのだろうか。
 つい先日、突然玲から二人で勉強したいと言われた。それも秀也の家で。
 いきなりのことで、何が何だかわからなかったが、二人が小学生だった頃――玲が秀也の家に来ていた頃を彼女が思い出したかった、そんな要素を感じる提案だった。

 もちろん断る理由なんかなく、あっさりと受け入れている訳だが、やはりあの頃と同じようには振る舞えない。妙な緊張感があった。玲は前から容姿が整っていたが、高校生になった今では磨きがかかっている。
 女子と二人きりという空間を改めて考えてしまうと、玲を意識してしまう。余計に昔と同じようには出来ない。

「秀ちゃんって、ずっと学年二位をキープしてるよね? 普段から勉強してるの?」

 秀也の気も知らないで、玲はそんなことを聞いてくる。
 返すのに一瞬あたふたしそうになったが、冷静を装って話す。

「玲と毎日勉強してた時に習慣付いてな。自分から成績上げようとはしてないけど、この習慣続けてたらこうなった」

 嘘と事実を織り交ぜた。
 勉強の習慣がついたというのは本当で、玲を秀也の家で預かっていた時、過ごす時間のほとんどが勉強だった。小学生の簡単な範囲とはいえ、習慣になってしまうとその後も同じ行動を自然ととるようになる。
 特に二人は復習だけでなく予習もやっていたため、内容には尽きなかった。

 嘘というのは、自分から成績を上げようとしていないという部分だ。
 同じく小学生の時、秀也は玲に頭がいい人になると約束した。これは玲の母親が玲に対して、レベルの低い人と関わらない方がいいと言ったことが発端だ。恐らくここでのレベルとは、能力のことを示すのだろう。
 レベルの低い人と関わってはいけないのならば、レベルの高い人とは関わってもよいということになる。そうであれば、秀也自身がその人になればいいと思ったのだ。

 ある時期から一切話さなくなった間柄でも、その努力は欠かさず続けていた。いつ、玲と再び話すようになってもいいように。

「え、あれからずっと? 学年二位になるのも当たり前だね」

 などと言ってくる。

「そんなこと言って、玲は断トツの一位だろ? どんだけ勉強してるんだか」
「知っての通り、空き時間ずっとだよ。休み時間も、放課後も、家でも全部」

 えへんとでも言いたげな様子だった。
 本当に変わっていない。これで目指している夢というのが、教師というのだから、努力の量を間違えているのではないかと思う。もちろん教師になるためにも努力は必要だが、もっと気を楽にしてもいいのではないだろうか。

「ずっとそうだよな。俺なら絶対すぐにやめるよ。まぁそう思って連れ出して迷惑かけたのは……俺なんだけどな」

 口から言葉を発している途中で、なぜか無性に罪悪感が出てきた。二人で昔を思い出していたからだろうか、自然とあの日のことが頭に浮かんでくる。
 玲が秀也の家に来なくなった理由。秀也が無理やり遊びに連れ出したから、玲の母に目をつけられて玲は来なくなった。二人が話さなくなった理由まではわからなかったけれど、彼女が家に来なくなった理由だけは当時すぐに理解できた。
 だからこそ、玲には悪いことをしたと思っている。秀也自身が、彼女ともっと話したかったという気持ちも含んではいるが、迷惑をかけたのは間違いなかっただろう。
 この前のファミレスでの食事の時も、罪悪感は頭の片隅に残っていた。あの時は相談することを念頭に置いていたため、玲の家庭の事情を浅く考えていたけれど、正直な話良くなかったのではないかと後から考えたことも。

 けれど彼女は、

「そんなことない。迷惑なんかじゃなかったよ。私は思いっきり楽しんでたし、今でも素敵な思い出だよ」

 と、穏やかな笑みを浮かべてそう言った。

「そう? ――なら、よかったよ」

 謝りの言葉は口に出さなかった。お互い、過去のことだと割り切るのが正解だ。これ以上掘り返す必要もない。
 どちらが悪いかという話ではない、ということで終わらせるのが一番平和だろう。心の中の罪悪感は全然消えてくれないけれど。


 そのような会話を挟みながら、勉強を進めていく。
 学年トップ一位と二位がこの場にいるため、お互いに取り組む問題はかなり難易度の高いものだった。時々秀也が問題に詰まった時は、玲に助けを求めた。
 小学生の頃に思っていたことだが、彼女は人に教えるのが非常に上手なのだ。わからないところを把握する能力が異常に早く、秀也に合った解決策を提示してくれる。
 玲が志している教師という職業には、これ以上ないほど適している能力だった。

 そんな矢先、

「秀ちゃん、聞いてほしいことがあるの」

 と、少し落ち着いた声色で玲が話し始める。

「どうした?」

 なぜか嫌な予感がした。彼女の周りの空気だけぴりぴりとしていて、どんよりとひどく重たい。そう感じる。

「実は私……、来年から短期留学に行くことになったの」
「は? 留学?」

 思いもよらない単語が出てきて、素っ頓狂な声が出た。

「うん。お母さんが、行った方がいいって」
「え、教師になるのに留学って必要ないよね? それとも、ただの経験的な?」

 そう聞くと、玲は途端にバツが悪そうな表情を浮かべた。口を開くまで大分時間がかかり、その後に出てくる言葉が何なのか考える時間まで与えられるほど。

「そういえば、先生になりたいって言ったことあったっけ。それはね、やめたの。お母さんに勧められた通り、弁護士になるから」
「……は?」

 秀也がこの瞬間待っていた言葉は、そんなものだったのだろうか。
 何も納得できなかった。秀也自身、本当に彼女は教師に向いていると思っている。小学生のころ、玲は親の指示ですべて動かされていて、目指していた弁護士も親から勧められたと言っていた。いや、あれは命令や脅迫の類いだ。

 しかし今は違うと言う。先生になりたいと言ったあの時の表情、あの表情は一点の曇りもなかったように見えた。玲の心からの言葉だと思った。それは勘違い……いや、嘘だったのだろうか。
 あんなに純粋な笑顔を浮かべていたから、これからの玲は母親の言いなりばっかりではなくなると、安心していたというのに。

「なんで、なんでやめたんだよ! 言ってただろ、先生になりたいって。玲に合ってると思うんだよ、人に教える仕事は」
「うーん、あの時は確かに思ってたんだけど、今では弁護士も悪くないかなって。お母さんもそれを望んでるし、私としても自信がつく仕事だからね」
「……玲は、本当にそれでいいのか?」
「うん。これが一番いいよ」

 即答だった。もう決まりきったことと言っているような気がして、これ以上深堀り出来なかった。
 けれど、何かが引っかかる。彼女が問題ないと言っているけれど、おいそれとは見逃せない。彼女がまだ、母親からの呪縛から解放されていない気がして。

「でね、私が話したかったのは留学のことなんだけど」

 その話はここで終わりという雰囲気を出し、少し強引に話を戻す玲。

「来年……って言っても二月からなんだけど、そこから半年間留学に行くんだよね。だからその間の生徒会を秀ちゃんに任せたいの」
「あ、ああ。それはもちろん」

 そういえばと思い出す。以前彼女が「まだ正式には決まっていないことだから」と言って教えてくれなかったことがあった。教室で玲と担任が二人で話していたことを、たまたま秀也が聞いてしまった時。
 確か担任は寂しくなる、みたいなことを言っていて、何のことなのかさっぱりだった。しかしそれが留学の話だったとすれば、全てがつながる。ということは、留学の件が正式に決まったということなのだろうか。

「それとね? 来週のクリスマスにデートしてほしいんだけど」
「それももちろん……じゃないな。勢いですごいこと言い出すじゃん」

 危うく流されて了承するところだった。
 一度整理しよう。さっきまで玲の夢の話をしていて、そこから留学の話に戻された。なかなか規模の大きい話だったから、頭の中が留学ということでいっぱいになっていた。
 だから会話も多少雑になっていたせいで、突然彼女が言い出したデートという言葉に、反応できなかった。
 果たして、どういうつもりなのだろうか。

「なんで急にそんなことを?」
「留学行く前にさ、こっちで思いで作りたいんだよね。せっかくのクリスマスだし、遊びたいなーと思って」

 妙に納得できる内容。思い出作りと言われてしまっては、断るものも断わりにくくなってしまう。

「でもさ……」
「今回はお母さんの目とか気にしなくていいよ? 流石にクリスマスだからお母さんも家にいるけど、一日くらいは駄々をこねてみせるから」
「じゃあデートするか」
「よろしい」

 自分でもびっくりするほど、あっさりと約束してしまった。クリスマスに遊ぶこと自体はいいのだが、デートという言葉に引っ掛かりを覚える。
 玲はあえてデートという言葉を選んでいるが、そのような意味ではない……はず。

 それに、やはり思い出作りという点に弱かった。それならば玲のためにしてあげたいという感情が勝ってしまう。
 玲とクリスマスにデート。正直に言えば、魅力的すぎる話だった。誰かと遊ぶことはあっても、こういったクリスマスに外に出ることは今までなかったから。まだ一週間あるというのに、楽しみで仕方がなかった。


 翌日。以前と同様に、昼休みに公安からの着信が入っていた。仕事の連絡だ。
 学校を早退し、すぐに公安に向かう。
 和哉を救えたことといい、クリスマスのデートの約束といい、秀也にとって良いことが連続で起こっていた。だから足取りが妙に軽い。
 いつも通り窓口で自分の名前を言い、資料を受け取った。その資料に目を通す。そこまでは、いつも通りのはずだった。

 その内容を見た瞬間、先ほどまでの浮ついた気持ちは遠く彼方へ消えていき、焦りと困惑と自責の念で埋め尽くされる。
 そんなはずはないと、いつまでたっても信じ切ることができない。そんな素振りは見えなかったし、悩みがあるようにも見えなかった。だから何故なのだと虚空に向かって問い続ける。
 その資料には、今日学校を欠席していたはずの人物、村上連の名前が書いてあったのだ。
 ついに、クラスメイトから追想転移の利用者が出てしまった。
 気付けなかった。村上がそんな事態になっていることを。彼が人生をやり直したいと思うほどに、絶望してしまっていたことに。
 何が皆を救うだ。全然自分の力が行き届いていないではないか。油断しているつもりはなかったけれど、結果としてクラスメイトから被害者が出てしまっている。和哉を救って上機嫌になるのではなく、より努力することが必要だったのではないのか。完全に秀也の責任である。

 村上が追想転移してしまったということがあまりにショックで、変わってしまった彼を見ることに怖気づく。自分の失態を目の当たりにしたくなかった。
 それでも、守れなかった責任が秀也にはある。今日のこれは仕事としてではなく、一つの使命として果たさなければいけない。

 恐怖をかなぐり捨て、自分の過ちを受け入れる覚悟をする。
 転移室の扉を開け、中のカプセルから出てくる村上を待つ。
 そこで見たのは、

「おじさん、誰?」

 高校生とは程遠い、子どもの姿だった。


 追想転移というシステムは、稀にイレギュラーが起こる。よく起こるのは、性格が元のものと大きく変わってしまうこと。それはよく見るのだが、今回起こっているのは年齢の変化のようだ。
 年齢の変化というケースは今まで経験したことがない。稀に起こるということを耳に挟んだだけ。それが村上の身に起きてしまっていた。
 目の前の状況が、頭の中を乱す。

「俺、は……水上秀也。君の名前、言える、かな?」
「村上連」

 名前が一致している。窓口でもらった資料を見ても、年齢は十七歳で、通っている学校は秀也と同じ。目の前にいる少年からも、秀也が知っている村上の面影を感じる。
 色々なことを確認していくたび、村上に似ている誰かではないということが繋がっていく。村上蓮本人だということが、秀也の中で事実になっていく。

 これは……流石にしんどいものがある。状況的な問題としてだけ見ると、彼自身の今後の生活や戸籍上の問題。けれどそれとは別に、クラスメイトとしての問題があった。
 今後、彼は陽ノ森高等学校に登校することはない。もちろん、今目の前にいる村上が高校生になれば、陽ノ森高等学校に入学する可能性はある。けれどそれは未来の話。
 同じ学園生活を共にすることはもうない、そう思うと、途端に胸がつらくなる。
 これが守れなかった代償なのだろうか。改めて自分の無力さを痛感する。


 仕事の通り村上を実家まで連れていき、親御さんに説明をする。今回は年齢が変わってしまっているため、より多くの時間を要した。

「村上さんの場合、年齢変動という個人差から、公安より特別支援金が出ます。詳しくは後日書類が郵送されますので、そちらをご覧ください」
「はい……ありがとうございました」

 村上の母親は、心ここにあらずといった様子だった。会話もただ言葉を並べているだけ。
 当然だ。突然息子の記憶がなくなり、年齢も変わってしまったと言われるだけ。冷静でいられる方がおかしい。他人の秀也でさえ、可哀想に思えてくるというのに。

 ちなみに、追想転移後は服装も変化する。今回のケースで言えば、幼くなったからといって服が大きいままということではなく、ちゃんとその体に合った服を着ている。こことは違う、並行世界で過ごしていた服装を着ている。そのつり合いは取れているのだ。
 見た目に相応しい、無邪気な表情をしている幼い村上を最後に見て、秀也はその場を立ち去った。心の中で、彼に謝罪と今までの感謝を告げた。直接言っても、伝わらないだろうから。
 最後に見た村上の表情。あの表情は、今まで見たことがない類いのもの。それが、村上が変わってしまったという何よりの証拠で、改めてもう会うことはないと知らされた。

 そう思うと、やはり追想転移というシステムは頼るべきではないと再び思う。確かに自殺よりはマシかもしれない。しかし、イレギュラーで様々なものが変化してしまうと、その人自身の面影がどんどんなくなっていってしまう。
 外見も内面も変わってしまえば、それは同一人物だと言えないだろう。
 そうなることを防ぐために、秀也は再び決意する。もう二度と、同じ学校から被害者を出さないと。


 仕事を終え、急いで学校へ戻る。生徒会は既に始まっている時間だが、十分活動できる時間が残っている。
 生徒会室の前まで着く。扉を開けようと取っ手に手をかけた瞬間、中から誰かの叫ぶような声が聞こえてきた。内容を聞き取るのは難しいけれど、声の判別だけは簡単だった。
 それが誰か分かった瞬間、すぐに扉を開ける。

「なんとか出来ないんですか!? 必要な仕事があるなら私が全部やりますし、休日だって使います! だから、もう一度……」
「そういう問題じゃないんだ、高峰。これは学校の問題なんじゃなくて、この地域の問題なんだ。私や高峰が何と言おうと、変えられるものではないということだ。いい加減わかれ」
「……そんな」

 中で話していたのは、玲と生徒会担当の先生。外にまで響いていた声は、玲のものだった。
 玲はとても必死に嘆いていた。どうしても諦められないとでも言いそうな、少ししつこいくらいの反応。それが上手くいかずに終わってしまった結果、彼女はその場で跪いてしまった。
 今の二人の会話だけではわからず、近くにいた青山に聞いてみることにした。

「……何の話?」
「会長が言ってた桜並木だよ。うちの学校から続いてる桜って、敷地外まで続いてるでしょ? それが、近くのショッピングモールくらいまで全部保護しようとしてて、そこまで行くと学校だけじゃどうにもできないって話。そもそも伐採される原因が、桜の肥大化だけじゃなくて、マンション建設のせいなんだって。建設の邪魔になっちゃうから保護することはできないって話を今してたの」
「……なるほど」

 こればっかりは仕方ない。生徒会の定義はあくまで、学校内の改善・向上だ。校外のことになってしまうと、思うように活動することはできない。特にマンション建設がこの町で計画されているのであれば、その建設の妨げになる桜並木を伐採するのは普通のこと。伐採阻止はただの迷惑になってしまう。
 さらに言えば、最終の決定権は市にある。あちら側がダメだと言い続ければ、ダメになってしまうもの。力は及ばないだろう。

 生徒会活動の初日から、玲は桜並木を守りたいと言っていた。桜並木にこだわる理由は、皆も秀也も正直分からない。けれど、言い始めた際は一人でもやり遂げると宣言したほどで、意志というか信念を感じた。だから秀也はそれに賛成したのだ。
 そうまでして彼女がやりたかったことが、実行できないと知った今、玲の心は折れてしまった、そういうことだろう。

 こんなに気持ちが沈んでいる玲を見るのは初めてで、秀也自身も動揺してしまう。なんだか、これ以上見ていられなかった。基本的に失敗しない彼女が挫折する姿は、見るだけで苦しくなる。
 それに、玲にはどうしても苦しい思いをしてほしくない。どうにかしようと、玲のもとへ行って言葉を掛ける。

「玲、今日はもう帰ろう。生徒会活動も今日は終わりにして、一回落ち着く時間を作ろう。今はそれが必要だよ」
「……うん」

 聞いたことないくらい低い声で、どんよりしていた。全ての希望を失ったようだった。このままではまずいと感じ取る。

 彼女の体を起こし、一緒に下校した。幸いなことに、家は隣同士だ。
 下校している最中は、いつもの会話ができるような様子ではなかった。無言で気まずい空気が漂いながらも、秀也はどうにか玲の元気を取り戻す方法を考える。

 この状況を打開できるほどの案は思いつかなかったけれど、少なくともこのまま彼女を一人にしてはいけないと感じた。玲の家は、よくない意味で普通でない。その普通じゃない家庭が、彼女を苦しめている原因だと秀也は思っている。
 この絶望状態の最中、さらに悪化するような状況にしてはならない。せめて落ち着くまで、秀也の家に上げようと考えた。
 その旨を伝えると、玲はこくんと首だけ振って、何も言わずについてきた。

 ついこの前に玲を家に上げたが、その時のような楽しい空気は訪れない。構図は一緒でも、こうなった背景が違う。それだけでこんなにも重苦しくなるとは。
 玲をソファーに座らせ、一先ずお茶を出す。あえて日常と同じ行動をすることによって、自分自身の心も落ち着かせようとした。今の彼女には何が必要か、何をするのが正解なのか。精一杯思考を巡らせる。

 でも結局解決策なんて出てくるわけもなく、会話も始まらない。わざわざ明るい空気を作るというのも、違う気がした。
 なのであれば、今の玲の具合に付き合うことにした。今まで聞きたかったことを単刀直入に聞きながら。

「玲、……なんで桜並木を守りたかったんだ?」

 なんとなく避けていた疑問。でもこんな状況になってしまっては、知る権利くらいはあるはず。
 しかし玲の反応は、凍り付くような冷笑を浮かべた後、

「守れないならもうどうでもいいよ」

 恐ろしくぞっとするような声。この先へ踏み出すことを躊躇ってしまうくらいには、怯えてしまった。

「れ、玲らしくないじゃん。ここで引くような人じゃないだろ」
「だって、私が勝手に言い出したことだもん。それに、もうどうしようもないって言われちゃったら、諦めなきゃいけないんでしょ?」

 なんだろう、言っていることは普通のことなのに、なぜか納得できなかった。どこかでいつもの玲と違うと思ってしまったから。以前ファミレスで一緒にご飯を食べた時、彼女は失敗したときは取り戻すと考えるのではなく、いつも通りに戻すことを考えていると言っていた。秀也からはその行動をしているようには見えなかったし、そもそも考えることすらできていないのではないだろうか。
 玲は話し続けた。

「なんか自分の無力さに打ちひしがれたっていうか、私ひとりじゃ、結局何もできなかったんだなぁって」

 まるで自分を嘲るかの様。
 なんとなくわかった気がした。彼女は今、塞ぎこんでしまっている。塞ぎこんだ人は客観的に物事を見ることなんてできず、冷静な判断に欠けてしまう。
 普段の彼女ならば、ショックな出来事さえも見事にコントロールしてしまうはず。だが、今回のような大きすぎる出来事に対して、心はやられてしまった。今はもう、秀也の言葉に耳を傾けることもできなさそうだ。

 共感の言葉も、まだ諦めないで――などのような励ましの言葉も、今は無意味。
 村上の件で先程まで落ち込んでいた秀也だから気付けた。今は誰かに言われても、自分を曲げることはない。秀也ががむしゃらに努力すると決意したように、玲はひたすら絶望してしまったのだ。

 だから、せめて少しでも良くなるようにと、

「クリスマス」

 別の話題を振ることにした。

「……え?」
「行きたいところ考えとけよ。俺もデートプラン考えておくけど、折角ならお互いの行きたいところの方がいいだろ」

 桜並木の話をこれ以上してしまうと、さらに追い詰める恐れがある。ならば、彼女が楽しみにしていた話をすればいい。

「それはそうだけど、なんで今、急にその話を?」
「これ以上この話しても、玲が辛いだけだろ。俺は楽しい話がしたい」
「……秀ちゃんには勝てないや」

 そこからは秀也が少し強引に話を振った。基本は秀也が話し続け、たまにする質問の返事を玲がするだけ。そんな中身もないような会話を、秀也の母が帰ってくるまでしていた。
 さっきよりも玲に覇気が戻っていて、少しは役に立てたのかなと、そう思えた。
 それに、村上の件の直後というのもあり、少しだけ彼女を救えたのかなと考える。そう思えただけで、自分の気も楽になった。


 翌日。
 朝のホームルームで、珍しく正装の担任が教室に入ってきたことにクラスメイト達が戸惑い、異様な空気で一日が始まった。
 皆が気になっていた内容は担任から告げられる。村上が追想転移してしまったこと、年齢が変わってしまったことにより、このクラスの名簿から村上蓮の名前が除かれてしまうこと。
 予期せぬ出来事に、クラス中が騒然としていた。驚き、悲しみ、嘆き、涙を流す人まで。感情のあらわれ方は人それぞれだったけれど、喜ぶ人は一人としていなかった。
 授業中や休み時間も、クラスで笑いが起こることは少なく、皆何かを抱えながら過ごしていた。

 昼休みには、和哉が話しかけてきて、

「シュウ、やっぱ俺間違ってたみたい。追想転移しようなんて、思うべきじゃなかった。今こうなって初めてわかったよ、自分が楽になるだけで皆が苦しむってこと」

 と放った。
 和哉も改めて思い知らされたようで、秀也としてはこの先和哉が追想転移しないということがわかって、一つだけ安心できることが増えた。

 和哉の言う通りであるが、やはり追想転移はそれに伴う代償が大きい。自分が追想転移してしまった後は、皆がどう思うかなど知る術もない。だからこそ周りを大切に考え、一度踏みとどまってほしいと思う。
 国が推奨する人生のやり直しは、本当に希望を与えるものなのか、それとも破滅へ導くのか。より信じがたいものへと変貌し、この場にいる全員が、この先の人生を考え直す瞬間となった。


 約一週間後。
 ようやくやってきたクリスマス当日。二人はイブではなく、二十五日の本命に約束をした。
 今日は平日で、しかも午前午後ともに授業である。そのため、当然夕方からのデートで、当然格好は制服。
 周囲から見た二人は、完璧なカップルだろう。クリスマスに男女二人が一緒にいる理由は一つしかない。けれど本当は違っていて、玲の思い出作りのために来ている。普段外出できない彼女の少ない機会だ、精一杯楽しませ、秀也自身も思い切り楽しもうと思う。

 先日、お互いの行きたい場所へ行きたいと言ったのだが、玲を楽しませることばかり考えていたせいで、自分の行きたい場所など考えていなかった。
 お互いデート慣れなどしていなく、どこへ行くか話し合った末、結局場所は近くのショッピングモールに決まる。ここならある程度の用件は済んでしまうし、利用しやすさは桁違いだった。

「秀ちゃん、ゲームコーナー行こ!」

 ショッピングモールに着くなり、玲ははしゃいでそんなことを言い出す。デートってなんだっけと一度考えてみる秀也だったが、本人が行きたがっているので、早速そこに決定することに。
 数分歩いて目的の場所に着く。

「本当に最初がゲームコーナーでよかったのか? 服とか見たりしても――」
「UFОキャッチャーやりたい」

 はい。承知いたしました。
 軽い足取りでUFОキャッチャーの台を見て回る玲を傍から見守りつつ、自分もよさそうな台を探す。

 無邪気な笑顔を浮かべる彼女を見て、本当にゲームコーナーに来たかったのだと思い直す。もう少し歩けば、近くにより大きなゲームセンターがあったのにと思う秀也だったが、それとは別に過去のことを思い出した。
 小学生の時に玲を無理やり連れ出した場所が、このショッピングモールで、その時もここでUFОキャッチャーをした。だから彼女はここを選んだのだろうか。そうだとしたら合点がいく。
 それほど玲は、あの日の出来事を大切にしてくれていたのかもしれない。

「秀ちゃん、これやりたい!」

 玲が目をつけていたのは、うさぎのぬいぐるみが景品になっている台。あの日に獲得したのも、うさぎのぬいぐるみではなかっただろうか。全く同じではないけれど、ほとんど同じと言っても間違えではない。本当にそれでいいのかと一瞬迷ってしまう。
 けれどワクワクが溢れている玲を見て、ここで別の台を提案する気にもなれず、彼女の言う通りにすることを決めた。

「了解。まずは一回やってみようか」

 機械に百円硬貨を一枚入れ、一回目の挑戦をする玲。前にやったのは、もう五年以上も前になる。それ以来彼女は遊んだりはしていないようだから、やはり苦戦しているようだった。
 一回の挑戦では獲得出来ず、彼女は続けて挑戦した。台を変えないということは、このぬいぐるみが本当に欲しいのだろう。
 何度も挑戦する玲を見て、秀也は微笑ましい光景を見ているような気がした。普段は見られない子どもらしい姿を見て、こんな一面もあるのだと知る。このまま見ているだけでも満足できそうだった。

 しかし、失敗するたびに百円硬貨はどんどん消費されていき、すでに何枚入れたかわからなくなる。金銭的な意味でも時間的な意味でも、ここで大量消費するのはもったいないと判断し、

「玲、一回だけ俺がやってもいい?」
「? いいけど……」

 ちょっとした手助けをすることにした。
 同じように百円硬貨を一枚投入し、挑戦してみる。機械にある二つのボタンを順番通りに操作し、いいタイミングで離す。

「すごい! あともう少しで取れそうだよ!」

 一段と明るい笑顔を咲かせる玲。
 うまい具合に調整できたようだった。景品を獲得できそうになった瞬間の彼女の喜び方が、素直に可愛くて仕方がない。まだ取れていないというのに、その場で飛び跳ねそうになっている。逆に獲得してしまったら、どんな反応を示すのだろうか。

 チャンスの到来に、玲がやる気満々で再度挑戦する。そして無事にぬいぐるみを落とすことができたのだ。

「やったー!!」

 想定通りのはしゃぎ具合だった。普段は温厚な彼女だけれど、この瞬間だけは年相応の感情をさらけ出していて、心から楽しめているのが見て取れる。
 幸運なことに、クリスマスにゲームコーナーを訪れる人はほとんどいなかったので、周囲の注目の的になるようなことはなかった。それもあって、こんなにはしゃいでるのだろうか。

「秀ちゃん、ありがと!」
「いやいや、結局玲が取ったんだから、お礼なんていらない」
「それでもだよ」

 こんなにも喜んでいる彼女の姿を見て、もはや謙遜すらどうでもよくなってきていた。こんな小さな幸せで、こんなにも喜んでもらえるのならば、いつでも与えるというのに。
 心からの笑顔を咲かせている玲を見て、この笑顔がこの後も続くようにと願うのだった。


 その後は、いくつかのゲーム機で遊んだ後、ショッピングモールに併設されている服屋などを見て回った。物色しているだけでも十分楽しむことができた。もちろん、玲と一緒だからというのは間違いない。
 しかし彼女は何も買わなかった。小物や雑貨でさえも買おうとすることはなく、見て回るだけ。秀也も特別何かを買おうとしていたわけではなかったけれど、二人揃ってゼロというのも珍しい話である。

 そんな時間もあっという間に過ぎ、夜ご飯の時間となる。
 秀也が事前にチェックしていた場所に連れていった。少し奮発して、高校生らしくないレストランを選んだ。慣れない高級感に二人とも緊張するが、こういう時でないと出向こうともしないため、これはこれでありだと二人で話した。
 金銭的には公安の仕事をしていることもあって、大きな問題はない。ただ、玲の金銭事情が全く分からなかったけれど、了承してくれたのでお金には困っていないのかもしれない。

 クリスマスデートは本当に楽しいもので、食事中も会話が弾んでいた。

「さっきはありがとね。これ取るのサポートしてくれて」

 玲は袋の中に入ったうさぎのぬいぐるみを指さして言った。

「いやいや、わざわざ感謝されることじゃない。それより、前に取ったのもうさぎだったよな? 一緒でよかったのか?」
「うん。一緒がいいの。――あ、もちろん前のも大事にしてるよ? 部屋に飾ってるし、たまに一緒に寝てるよ」

 エピソードがとことん可愛くて困る。
 それに、昔の思い出の品をそんなに大事にしてもらえているのは、非常に嬉しいことだった。

「ねぇねぇ、秀ちゃんが今も勉強続けてる理由って、絶対私のせいだよね?」
「え、なんでそうなる」

 話題が突然思わぬ方向へ転換した。

「だって、前は私が秀ちゃんと話せるように、勉強に付き合ってくれてたでしょ? 習慣付いたって言ってたけど、私のせいだろうなって思って」

 この話をした途端、不安そうな表情をしていた。本当に自分のせいだと思い込んでいる様。
 事実ではある。秀也がここまで勉強を頑張ってこられたのは、小学校の頃があったから。あの日々がなかったら、今頃はこんなに優秀ではなかっただろう。
 だが、一度も玲のせいなんて思ったことはない。きっかけが彼女なだけで、それを悪く捉えてもいなければ、憎んだり恨んだりもしていない。

「別に気にすることない。実際成績は上がったし、結果的にはよかったんだよ。それに、誰かと違って勉強モンスターにはなってないから大丈夫」
「誰がモンスターだって?」

 おっと失言。
 その後は料理、会話とともに楽しみ、満足したところでレストランを去る。いつもは来ないような高級レストランでも、途中から緊張はすっかりなくなり、肩の力を抜いて満喫することができた。値段なだけあって、料理も空間も素晴らしかった。

 二人が次に向かったのは、クリスマス時期になると作られるイルミネーション。近くに有名なイルミネーションがあり、折角ならということで行くことになった。
 定番になぞるようだが、こういう時期には自然と見たくなるものだ。
 ツリー型やトンネル型。様々な形状のものがあり、これを目的で来ている人の注目はもちろん、通りかかっただけの人の注目さえもすべて集めていた。
 家族で来ていたり、友達のグループでいる人たちもいたけれど、やはり多いのは恋人たち。ロマンチックな雰囲気が用意されており、まさにといった様子であった。

「綺麗……」

 隣にいる玲が、ふとそんな声を漏らす。思わず声に出してしまうくらいには、綺麗に輝いていた。
 色々な種類のものを見て回り、最後に一番大きな、ツリー型のイルミネーションの前で立ち止まった。最も豪華に装飾されているこれの前でするのが、相応しいと思っていた。
 しかし、しばらく経つと玲が話し始めた。

「私ね、桜並木をどうしても守りたかった」
「………」

 秀也はこの場でやりたいことがあったのだが、そんな空気ではなくなってしまう。しかし逆に、彼女の本音が聞ける瞬間だと理解する。
 少し真剣な様子の彼女を横目で見ながら、発される声に集中する。

「留学の予定があったから、保護する計画の基盤だけ作って、あとは秀ちゃんに任せようかなって思ってたの。……なのに、それすら出来ないんだから困っちゃうよね」

 どこか遠くを見ているようだった。目の前にあるイルミネーションに焦点は合っているように見えず、もっと遥か遠く。それが彼女の不甲斐なさ、後悔を表しているようだった。
 やはり玲はまだ、桜並木のことを割り切れていない。仕方のないことだと思うことができずに、ずっと心の奥底で悔やんでいる。それをどうにか拭ってあげたかった。

「留学ってさ、二月から行くって言ってたけど、いつ頃帰ってくるんだ?」
「半年間の留学ってことになってるの。現役で大学に行くために、あまり長くは行けなくて」
「じゃあそれまでに、俺が何とかしとく」
「え?」

 それをどうしても伝えたかった。

「理由はどうであれ、全てが無意味なんてことは絶対にない。玲が今まで頑張ってきたことも、きっと意味はある。だからさ、その頑張りを無駄にしないためにも、俺が桜並木を守るよ」
「……でも、どうにもならないって」
「俺だって無策なわけじゃないよ。少なくとも、学校の敷地内ならなんとかなるだろうし、やってみる価値はある」
「……そっか。敷地外を守りたかったんだけどなぁ」

 最後に玲が何を言ったのかは、あまり聞き取れなかった。
 ずっと、諦める必要はないと伝えたかった。秀也が何とかして見せるからと、そう言って安心して留学に行ってほしかった。最終的に行き着く先が弁護士だとしても、余計な心配は抱いてほしくないから。

「だから、安心して頑張ってこい!」
「うん。ありがと」

 この行動が本当に玲のためになったかはわからないけれど、何もできない自分も嫌だった。だから納得できる行動をするのみ。それが彼女を救う一つになると信じて。
 この話が落ち着いたところで、秀也はこの場でやりたかったことを思い出し、その話へと転換させる。

「玲、ちょっといい?」
「? どうした?」

 鞄の中に忍ばせていた、とあるものを取りだす。

「クリスマスプレゼント。デートなんだから、これくらいあってもいいだろ?」
「……!!」

 玲の表情が一転し、パァッと明るい笑顔が見られた。驚きと喜びたっぷりの笑顔。これをずっと見たかった。

「開けていい?」
「もちろん」

 プレゼントを渡す際の様式美のようなやり取り。ここで開けてはダメなんて言うことなどほとんどないというのに、大抵はこの一連の動作をする。もらった側はワクワクのせいで、そんなことを考えてもいないだろうけど。
 中身も見ていないのにすでに嬉しさを溢れさせて、玲はラッピング袋を開ける。その中から出てきたものは二つ、マフラーと腕時計。

「おお。思ったよりも高価なものでびっくりしたよ」

 公安に入っていて本当に良かったと思うくらい、奮発してしまっていた。

「ちょっと重たいかもだけど、留学に行くって言ってたから、腕時計とかいいかもって思ったんだよ」
「そして日本時間に合わせるんでしょ? 恋人みたいだね」

 いたずらめいた表情をされる。痛いところを突かれてしまった。
 実際それを買う瞬間は、同じことを考えていた。その時からなんだかくすぐったかったけれど、それでもプレゼントしたかったのだ。特に、デザインが桜をモチーフとしていて、似合うと思った。季節とは全然合わないけれど。
 ちなみに、マフラーは保険も兼ねて選んでいたりする。 

 玲はすぐにマフラー、腕時計を身に着け、これ以上ないほどの幸せオーラを出してそれらを見つめている。腕時計はサイズ合わせをしなくてもぴったりだった。
 刹那、彼女の頬に一筋の涙が流れる。

「……え?」

 玲も、なぜ泣いているのかわかっていないようだった。

「ち、違うの! これは……嬉し涙だから!」
「泣くほど喜んでもらえたんなら、俺も嬉しいよ」

 必死に涙を拭いて、笑顔を作っていた。そんなに必死にならなくてもいいのにと思いながら見守った。たまには感情を爆発させたっていい。

「……いいのかな。私、秀ちゃんからもらってばかりだよ」
「いいんだよ。俺があげたいと思ってるだけだから」
「そういう意味じゃないんだけどなぁ」

 困ったように笑う玲。秀也があげたいと言ったのはプレゼントのことで、彼女がもらっていると言っているのは、気持ちのこと。そんなことはわかりきっていたけど、敢えてとぼけることにしたのだ。

「この二つ、全部持っていけるかなぁ」

 そう零す玲。持っていくというのは留学先にということだろうか。
 そんな感情に浸るのも束の間、玲ははっと思い出し、

「こんなこと言ってる場合じゃないの。あのね、私もプレゼント!」

 慌てて取り出していたのは、リボンがついた小さな箱。
 早速開けてみると、ブレスレットが入っていた。ただの金属製や紐製のものではなく、白と緑が混ざったような色の石がついているものだった。恐らくパワーストーンというやつだろう。

「ありがとう。大事にするよ」

 そう言って、秀也もそれをすぐに自分の腕につける。

「私もちょっと重たいけど……、気に入ってくれると嬉しいな」

 玲が、下から顔を覗き込むようにして言ってくる。気に入るかが不安と、行動だけで伝わってきた。

「もちろん。玲がくれたってだけで、本当に嬉しい」
「よかった。……あのね、私のこと、忘れないでほしいな」

 またしても唐突すぎる内容。
 秀也がブレスレットを気に入るかどうかの不安とは、また違った不安が含まれていた。なぜ彼女を忘れてしまうという方向に繋がるのかわからないけれど、それはたぶん、留学に行ってしまう間のことを指しているのだろう。

「大袈裟だろ。もしかして、思い出してほしくてアクセサリにしたのか? そんな程度じゃ絶対忘れるわけないし、忘れてほしくても忘れてやんない」
「……そうだよね。それもそうだよね」

 彼女の不安を全て拭うことはできなかったかもしれないが、さっきより表情は明るくなっていた。秀也の回答にも満足そうにしていた。

「秀ちゃん、思い出を、ありがとね」

 そう言った後、秀也が今まで見た中で、最も綺麗な笑みを見せた。


 二人一緒に帰宅した後、秀也は一人ベッドに横たわる。さっきの出来事が頭から離れてくれず、今日は寝れそうにない。
 楽しかった。素直に楽しかった。本当に楽しかった。
 二人きりの空間は、今までも何回かあったはずなのに、今日だけ特別に幸福感を感じた。この気持ちが、玲も同じだったらいいなと願う。同じ温度感でいられたらいいなと思う。

 あと一か月と少しで、彼女はいなくなってしまう。この一か月は、玲に捧げよう。今日だけでなく、この先ももっと思い出をたくさん作ってあげよう。そうすれば、留学先でも心細くない。秀也もいい気持ちで見送ることができる。
 この先のことを考えてしまうと、どんどん次に会う日を待ち遠しく思う。今から楽しみの気持ちが止まらない。
 次に会った時は、どんな会話をしようか、どんな場所に連れて行こうか。そんなことばかりが、頭の中を埋め尽くしていた。そして玲が留学から帰ってきた時には、桜並木が残っていることを報告できるように、精一杯努めよう。
 そうして二人がまた笑顔になれる。

 そう、思っていた。


 翌日。
 十二月も終盤になった。年末は公安が休みになるため、いつもより少しだけ早く月末の活動記録を提出しに行く。
 関東は久々の大雨で、傘を差して公安に来るのも大変だった。

 窓口で用件を伝えて、公安の建物に入る。

 いつも通りのはずだった。

「秀ちゃん……?」

 背後から聞こえる声。今秀也のことをそう呼ぶ人は、世界で一人しかいない。
 後ろを振り向くことを体が拒む。鼓動はあり得ない速さまで到達し、呼吸は荒くなる。

 本当にその人なのか、なぜここにいるのか。だって、ここに来る理由は他にないのだから。

 信じたくない。いや、そんな訳がない。昨日、あんなに楽しそうだったではないか。

 体の震えを抑えながら、振り向く。そこにいたのはやはり、警備員と一緒にいる高峰玲。昨日クリスマスデートした、玲がいた。

 秀也はこの日、今までの日々を後悔することになる。