「そういや、人間界、知り合いいるんだっけ? なんて名前なの」
「ん? ああ・・・・・・二夏(にか)。二夏っていう、女子」
「えっ。女性なの? ん、二夏?」
「ああ。二、夏、だ」
「そう。・・・・・・煌、さあ」
 なにかを言いたげに、優牙がため息をもらす。なんとなくなにを言いたいのかわかりながら、ちらりと優牙を見る。少し、視線が鋭くなってしまったかもしれない。
「なんだ」
「・・・・・・・・・・・・や、なんでも」
「ははっ、気にすんな。わかってる。・・・・・・わかってる、けど」
「ん、ぁごめんごめん。ごめんってば」
 煌がうまく言葉を紡げられずにうつむくと、すぐに、優牙は困ったような顔を崩していつもの笑みを見せる。
「ニカちゃん。会いに行ってもいい?」
「いや、いいけど」
「えー、楽しみだなあ。どんな子?」
 問われ、彼女の姿を思い起こしてみる。去年度の冬、久しぶりに会いに行った、彼女の顔を。まとう雰囲気を。
「ん・・・・・・賑やか、だな。おしゃべり」
「そっか」
 少しの沈黙。妙な空気になってしまった。やっぱり名前を出したのは失敗だったかな。でも、彼はどうやら会いに行くつもりらしいし、いつかは伝えないといけないことだっただろう。
「寮、帰るか? もう」
 日は傾き、窓からは真っ赤な光が差し込んでくる。
 朱に染まった廊下を出て、学校から寮に向かう道に立ち止まる。ちょうど、大きな図書館の裏だ。
 そういえば、ここで文庫本を小脇に抱えた月紫にハンカチ貸してもらったんだっけ。本を借りた、帰りだったのだろうか?
「うん、そうだね。僕は帰ろうかな。煌は? また月虹寮?」
 ああ、いつも通りの優牙が戻ってきた。ほっとするやら面倒やら。にやにやする彼の言いたいことはすぐに察することができる。
「からかうな。そんな頻繁には行かねえよ。今日が初めてだったんだからな」
「へー? 進展あったら教えてね? たぶんあの子、同じクラスだよね、見たことあるもん。いいねえ」
「進展もなにもねーから! いい加減からかうな」
「はいはい、金烏サマ」
 からかうなと言ったところで大人しく従う優牙ではない。
「あー・・・・・・うるせぇ」
「いい親友でしょ、僕。心配してあげてんの」
「うるせえな。さっさと帰れ」
 しっしと再三追い払うと、はいはいと言いながら、優牙は自分の寮へと帰っていく。
 先に優牙を帰したはいいものの、特に用事があるわけでもない。俺も帰るかと、歩き出そうとしたとき、前に見覚えのある背中が見えた。図書館の方に向かっている。
 ぼんやりと目で追っていると、彼女はどさどさっ、と派手な音を立てて手から大量の文庫本を落とした。慌ててしゃがみ込んで拾おうとしている。
 おお、大丈夫か?
 さすがに放って置けなくて、走り寄った。・・・・・・こんなことしてたら、また優牙にからかわれそうだけど。
「大丈夫?」
「あっ・・・・・・すみ、すみませんっ、すみません」
 目を伏せたまま、相手が煌だと気付かずに月紫は必死に本を拾い集めて、煌もそれの手助けをする。
 なんてこともなく片付いて、そのときようやく月紫と目が合った。
「あ。煌、さま。すみません。ご迷惑を」
「あ、うん」
 さま、な。
 つい苦笑した。月紫とも多少距離を取った方がよさそうだろうか──と、心の中では苦々しく思いながら。
 そんな煌の心中を的確に察したのか、月紫ははっと口を塞いだ。
「ごめんなさい、つい。手紙を書いたときの、呼び名で」
「ああ、なるほど。・・・・・・煌、で、いいけど」
「あ、じゃあ、煌、さん。あれ? いいんですか?」
 ふっと肩の力が抜ける。拾い上げた本を半分持ったまま図書館へと向きを変えると、申し訳なさそうに見上げられた。
「まあ。うん、重そうだから。手紙、よく書くのか?」
「え・・・・・・」
 月紫の顔が、ちょっと困ったような色を乗せた。変な質問でもしてしまったのだろうか。筆で書かれたような字が綺麗だったのが印象的だったから、つい聞いてしまったけど。
 んー、と話を変えようと考えた。そんな煌に、自分の感情が表に出ていたことに気づいたのか、慌てて首を振る。
「あ、すみません。ちょっと。手紙ですよね。えと、何年前、でしょうか・・・・・・だいぶ昔からです」
「そうなんだな。いや、字が綺麗だなって思ったから。筆? だったよな?」
 小さな機械音を立てて、図書館の透明な自動ドアが開く。
「ええ。昔・・・・・・筆ペンを、買ってもらったので」
 入ればそこには、一面に本棚が広がる。彩羽学園自慢の、広い図書館である。
 図書室ではない。図書館だ。
 独立した建物として、校舎と寮の間にそびえている。
 月紫が大量の本を返却するのに付き合うために、カウンターへ向かう。
「いいのですか?」
「大丈夫。ただ、あとでちょっと俺も調べ物っていうか、本探したい」
 小声でそう聞いたあとに、煌の返答にこくん、とうなずく。
 人間界のガイドブックでも確認しよう、と思った。二夏の家のカフェが乗ったというガイドブックはあるだろうか?
 一面ガラス張りの図書館内。一歩出れば、緑の豊かな芝生が広がる。広大な自然の中、ゆったりと読書ができるよう整備されているのだ。
 少し鋭い夕日の下、陽光を遮る木の下には生徒の姿がちらちら。
「あ、人間界、ですか?」
 返し終え、人間界についての本やガイドブックが置かれた箇所へ向かう。返却までついてきてもらったことを申し訳なく思っているのか、月紫が付き合ってくれる。
 その中から適当に見繕い、テラスまで出た。どこで見ようか、と歩いて、奥の方にある、ある程度日差しの当たる大きな木の下に目をつける。
「そう。人間界。行ったこと、ある?」
「あ〜・・・・・・あります、ね」
 ちょっと気まずそうに、月紫の視線が逸れた。人間界に、なんて、知ってる生徒の中で行ったことがある人はいないからな。
 知らないことが当たり前なのだ。未知であり、恐怖の対象でしかない。
「まあ、ないよなあ」
「あの、あります」
「うん。・・・・・・ん? ある?」
 ここでようやく、煌は自分の勘違いに気づく。予想外の答えだったので、勝手に自分の中で言葉を歪曲していたようだ。
 立ち止まって振り返ると、眉を寄せながら笑う月紫がいた。彼女の、腰まである髪が風に流されて揺れている。
「あります。あるんです。その、恥ずかしい、ん、ですけど」
「恥ずかしい?」
 不思議な表現をするな、と思う。月紫はもっと困ったような顔になって、言い淀んだ。
「ええ、その・・・・・・」
「人間界、俺も行ったことあるけど」
 数歩歩いて、大木の下に座る。月紫も、驚いたような声を上げながら隣に座った。
「え、そうなんですか?」
「うん。結構頻繁に行ってるけど。なんで恥ずかしい、なんて・・・・・・思った、んだ?」
 少し問い詰めるような口調になってしまったのは申し訳ないと思う。
 月紫は、困惑した表情を崩さないまま話し始めた。
「その・・・・・・行ったことがあるのは、中学生のときなんです。一回だけ。当時、文通をしていた相手がいて」

 それは、二年前のお話──月紫が好奇心旺盛でよく笑う、元気な中学生だった頃の話だ。
 彼女は当時、いずれそちらへ出ていくことになる人間界、という存在に強い興味を持っていた。
 そんなある日、ひょんなことから人間界の日本に文通相手を見つけて、文通を始めた。もちろん“玉兎”の血が混ざった獣人などであるという事実は隠して。日本にいるごく普通の、ありふれた女子中学生として、だ。
 相手は同い年の男子。文字列から伝わってくる性格は優しそうで、狭い世界に住む月紫にいろいろなことを教えてくれた。
 たとえば、全寮制ではない、独立した中学校。たとえば、小さな映画館ではなく、たくさんの施設が併設されたショッピングモール。
 先生がテスト監督中に寝ていたこと。友達とカラオケに行って喉が枯れたこと。たまたま時間割の半分が自習時間になったこと。
 そんな、ささいな日々のできごとを。
『──ツクシの字って、綺麗だよな』
『ありがとう。うちの近くはちっちゃい商店街とさびれた映画館しかないんだ。行ってみたいな、カラオケ。あと、おしゃれなカフェも! 商品名が長くてややこしいんでしょう? 読めるの?』
『俺は難しいかも。クラスの女子とかはよく話してるけど。新作が出たって。誘われたら行くけど、全部女子にお任せにしてる』
 送られてくる内容はどれもとても楽しくて。
 月紫の中で、人間界への期待は膨らむばかりだった。
 ──文通を始めて数ヶ月。月紫は、彼に会いに行くことを決めたのだ。