「おかえり、煌にーちゃん」
煌には一人、妹がいる。
彩羽学園が長期休暇に入るたび、煌はすぐさま金烏の郷に帰っていた。それは今も、そう。だけど、滞在する時間は一年前と比べてとても短くなった。
「よっ、煌。よく帰ってきたな」
一年前まで、妹である日華と、兄の笑顔が迎えてくれる実家に帰ることは、煌にとって楽しみな一大行事だった。
「ただいま、日華。兄ちゃんも」
ああ、これはいつだろう。中学一年生くらいの俺が、勝手に喋る。
長い間ずっと──ずっと聞いていない日華の声と、久しぶりに見た、兄、耀の笑顔にずきりと胸が痛くなる。
「煌にーちゃん、どうだった? 今回も行ってたんでしょ、人間界!」
リビングでスーツケースの荷解きを始めてすぐに駆け寄ってくる日華は煌の一つ年下、今年十五歳になる。天真爛漫で快活な女の子だ。
母親も父親も金烏で、煌よりもさらに強く金烏の性質を受け継いだ容姿をしている。つまりはもんのすっごく可愛い。
「行ってきた行ってきた。ほら、今回は温泉地のお土産。兄ちゃんも」
スーツケースの隅に入れてきたお土産を取り出して、二人に見せると、テーブルでゆっくりとくつろいでいた耀も驚いて顔を上げる。
「おお、俺にもか?」
「そう。三個セットだったから」
昔の自分を通して見たのは、小さな、色違いのおみくじのキーホルダーを三人で分け合う──そんなある日の、日常だった。
日華の笑顔が、出会った頃の、屈託がないものとは少し違い始めたことに気づいたのはいつだっただろう。
──わたし、人間界にいきたい。
──いけばいいじゃん。
なんでわざわざ俺にそんなことを、と不思議に思って答えたら、でも、と、まだ幼い日華は目を伏せる。
──でも、日華は金烏のさとからでていかないよな、って、お父さんが。
そのときはなぜそんなことを言われたからといって人間界に行ってはいけないのだろう、と疑問に思うばかりだった。だけど日華は幼いながらも彼女の父──煌の義父のかすかな圧を感じ取って、怯えていたんだと思う。
大きくになるにつれ、日華はどんどん、モテた。希少な"女子の金烏獣人"だったから。
引く手数多というやつで、義父ももちろんそんな状態の日華が人間界に行きたいと思ってるなんて考えすらしなかっただろうな。まさに玉の輿になるような富豪からも婚約の申し込みが来たりしてたし。婚約なんて今どき、なんて、その誘いを笑い飛ばせるほど煌たちの両親は器が大きくなかったらしい。
煌の母、つまり日華の義母も一緒になって日華の相手を精選し始めた。
確かに、娘を思っての行動だと、そう、受け取ることだってできるだろう。
でもあの日、彩羽学園に通いたいと、そう言った彼女の言葉を拒絶したのは本当に日華のためを思った行動だったのだろうか。
「彩羽学園? あそこは人間界に行くための機関だぞ? 今は必要ないだろう」
「でもわたし、人間界に行きたいんだ。別に特に金烏の郷で人生完結させるつもりないから」
結構はっきり、日華はそうやって自分の夢を言った。だというのに。
「とんでもないわ、日華ちゃんを待ってる方はたくさんいるのよ? 煌がいなくて寂しいのかしら、ごめんなさいねあの子ったら」
その頃、すでに煌は彩羽学園初等部に通っていて、でも日華は途中入学でもいいから彩羽学園に通いたいと言った。人間界に行ってモデルになる、なんて夢を語ったりしていた。
今だって鮮明に覚えている。小学校高学年の、長期休みに帰った初日だった。
「違う、わたしは」
「まあ落ち着け、日華。今学ぶべきことは他にあるだろう」
そう言って彼らは日華に、花嫁修行のようなことを押し付け続ける。
ろくに話もさせてもらえないまま、日華は悔し涙を浮かべて廊下に帰ってきた。
「なんで・・・・・・なんで、わたしは人間界で暮らしちゃダメなの?」
何度も悔し涙を見た。まだ小学生だった彼女は、一人で人間界に滞在することも難しい。
「煌にーちゃん、わたしを金烏の郷から出して。人間界に連れて行って」
何度も懇願され、準備を始める度に親からは反対された。今は忙しいんだから、大事な時期なんだから、って。
忙しいのなんて、今だけじゃない。もう何年もずっとだ。
少しでも人間界の空気を運びたい、と煌は何度も通い、お土産や雑誌を必ず買って帰るようにした。
いつからか日華は、金烏の郷から出たいと言わなくなってしまった。外への強い憧れを、彼女はまったく外に出さなくなってしまったのだ。
「お前が俺と結婚すれば・・・・・・色々解決するんじゃね? って、思ったり思わなかったり」
たぶんこんなことを軽く言ってみたのは、中学校に入った頃。もう日華は彩羽学園に通いたいとは言わなくなっていた、そんな頃だ。
「あはは、ないない、だってわたし、メンクイだよ?」
「え、でも俺結構顔いいだろ」
自覚はあった、痛いほどに。
「違うじゃん、タイプってのがあるの。わたしのタイプ黒髪だから!」
恥ずかしさとか、そういう甘酸っぱいのは微塵も含まない顔のまま、少し疲れたように笑ってから日華は自分の部屋に戻っていった。
あとに残った煌は、小さくつぶやきを落とす。
「はは・・・・・・まあ、知ってた、けど」
彼女が黒髪のイケメンに目がなくて、特に日本のとある俳優にぞっこんなのはすでに知っていた。だからこそ煌は、週末の休みには日本へ通って雑誌を買い漁っていた。
それでも、少しでも。
どんどん弱々しくなっていく義妹を元気にしたかったから、ちょっとだけ、ちょっとだけそんなことを言ってみた、それだけだ。
結局煌には人間界のものを供給し続けることしかできない。でもそれを上回るペースで日華の精神はすり減っていった。
日華が重圧に潰されるのは簡単なことだった。ある日、日華は失踪した。煌の、帰るべき故郷の姿が、壊れたのだ。
煌には一人、妹がいる。
彩羽学園が長期休暇に入るたび、煌はすぐさま金烏の郷に帰っていた。それは今も、そう。だけど、滞在する時間は一年前と比べてとても短くなった。
「よっ、煌。よく帰ってきたな」
一年前まで、妹である日華と、兄の笑顔が迎えてくれる実家に帰ることは、煌にとって楽しみな一大行事だった。
「ただいま、日華。兄ちゃんも」
ああ、これはいつだろう。中学一年生くらいの俺が、勝手に喋る。
長い間ずっと──ずっと聞いていない日華の声と、久しぶりに見た、兄、耀の笑顔にずきりと胸が痛くなる。
「煌にーちゃん、どうだった? 今回も行ってたんでしょ、人間界!」
リビングでスーツケースの荷解きを始めてすぐに駆け寄ってくる日華は煌の一つ年下、今年十五歳になる。天真爛漫で快活な女の子だ。
母親も父親も金烏で、煌よりもさらに強く金烏の性質を受け継いだ容姿をしている。つまりはもんのすっごく可愛い。
「行ってきた行ってきた。ほら、今回は温泉地のお土産。兄ちゃんも」
スーツケースの隅に入れてきたお土産を取り出して、二人に見せると、テーブルでゆっくりとくつろいでいた耀も驚いて顔を上げる。
「おお、俺にもか?」
「そう。三個セットだったから」
昔の自分を通して見たのは、小さな、色違いのおみくじのキーホルダーを三人で分け合う──そんなある日の、日常だった。
日華の笑顔が、出会った頃の、屈託がないものとは少し違い始めたことに気づいたのはいつだっただろう。
──わたし、人間界にいきたい。
──いけばいいじゃん。
なんでわざわざ俺にそんなことを、と不思議に思って答えたら、でも、と、まだ幼い日華は目を伏せる。
──でも、日華は金烏のさとからでていかないよな、って、お父さんが。
そのときはなぜそんなことを言われたからといって人間界に行ってはいけないのだろう、と疑問に思うばかりだった。だけど日華は幼いながらも彼女の父──煌の義父のかすかな圧を感じ取って、怯えていたんだと思う。
大きくになるにつれ、日華はどんどん、モテた。希少な"女子の金烏獣人"だったから。
引く手数多というやつで、義父ももちろんそんな状態の日華が人間界に行きたいと思ってるなんて考えすらしなかっただろうな。まさに玉の輿になるような富豪からも婚約の申し込みが来たりしてたし。婚約なんて今どき、なんて、その誘いを笑い飛ばせるほど煌たちの両親は器が大きくなかったらしい。
煌の母、つまり日華の義母も一緒になって日華の相手を精選し始めた。
確かに、娘を思っての行動だと、そう、受け取ることだってできるだろう。
でもあの日、彩羽学園に通いたいと、そう言った彼女の言葉を拒絶したのは本当に日華のためを思った行動だったのだろうか。
「彩羽学園? あそこは人間界に行くための機関だぞ? 今は必要ないだろう」
「でもわたし、人間界に行きたいんだ。別に特に金烏の郷で人生完結させるつもりないから」
結構はっきり、日華はそうやって自分の夢を言った。だというのに。
「とんでもないわ、日華ちゃんを待ってる方はたくさんいるのよ? 煌がいなくて寂しいのかしら、ごめんなさいねあの子ったら」
その頃、すでに煌は彩羽学園初等部に通っていて、でも日華は途中入学でもいいから彩羽学園に通いたいと言った。人間界に行ってモデルになる、なんて夢を語ったりしていた。
今だって鮮明に覚えている。小学校高学年の、長期休みに帰った初日だった。
「違う、わたしは」
「まあ落ち着け、日華。今学ぶべきことは他にあるだろう」
そう言って彼らは日華に、花嫁修行のようなことを押し付け続ける。
ろくに話もさせてもらえないまま、日華は悔し涙を浮かべて廊下に帰ってきた。
「なんで・・・・・・なんで、わたしは人間界で暮らしちゃダメなの?」
何度も悔し涙を見た。まだ小学生だった彼女は、一人で人間界に滞在することも難しい。
「煌にーちゃん、わたしを金烏の郷から出して。人間界に連れて行って」
何度も懇願され、準備を始める度に親からは反対された。今は忙しいんだから、大事な時期なんだから、って。
忙しいのなんて、今だけじゃない。もう何年もずっとだ。
少しでも人間界の空気を運びたい、と煌は何度も通い、お土産や雑誌を必ず買って帰るようにした。
いつからか日華は、金烏の郷から出たいと言わなくなってしまった。外への強い憧れを、彼女はまったく外に出さなくなってしまったのだ。
「お前が俺と結婚すれば・・・・・・色々解決するんじゃね? って、思ったり思わなかったり」
たぶんこんなことを軽く言ってみたのは、中学校に入った頃。もう日華は彩羽学園に通いたいとは言わなくなっていた、そんな頃だ。
「あはは、ないない、だってわたし、メンクイだよ?」
「え、でも俺結構顔いいだろ」
自覚はあった、痛いほどに。
「違うじゃん、タイプってのがあるの。わたしのタイプ黒髪だから!」
恥ずかしさとか、そういう甘酸っぱいのは微塵も含まない顔のまま、少し疲れたように笑ってから日華は自分の部屋に戻っていった。
あとに残った煌は、小さくつぶやきを落とす。
「はは・・・・・・まあ、知ってた、けど」
彼女が黒髪のイケメンに目がなくて、特に日本のとある俳優にぞっこんなのはすでに知っていた。だからこそ煌は、週末の休みには日本へ通って雑誌を買い漁っていた。
それでも、少しでも。
どんどん弱々しくなっていく義妹を元気にしたかったから、ちょっとだけ、ちょっとだけそんなことを言ってみた、それだけだ。
結局煌には人間界のものを供給し続けることしかできない。でもそれを上回るペースで日華の精神はすり減っていった。
日華が重圧に潰されるのは簡単なことだった。ある日、日華は失踪した。煌の、帰るべき故郷の姿が、壊れたのだ。