「次、秋雨寮からムギと、千尋寮からココーっ」
梅雨の終わり、湿気の多いある夜。
彩羽学園の寮の中で、一番の面積を誇る男子千尋寮。その中は大勢の熱気も相まって夏さながらの暑さとなっていた。
実況によって次の選手たちが読み上げられれば、うおおおっと低い声が寮を揺らす。
「お、優牙おかえり。めちゃくちゃアツかったぞ」
「あー煌。負けたー・・・・・・」
先ほどの試合に出て、惜しくも負けてしまった優牙が、情けなさそうに頭をかく。
「いや、マジお疲れ様だった。あんな長い読み合いは久しぶりに見たな。実況も興奮してたろ」
ちょっと早口になりかけるのを抑えながら、煌は優牙をなんの衒いもなく賞賛する。少し照れ臭そうになってから、優牙は笑みを浮かべる。
「あはは。頑張ったんだけどな〜。負けたわ」
「いやでも、あの実況の先輩確か一番歴長いぞ。そんな人をあんだけ興奮させるんだから、お前はすごかったってことだ」
「煌、・・・・・・照れるからそれ以上は」
いつもは憎まれ口を叩き合う仲だ。先に耐えきれなくなった優牙が煌の肩を両手で押し返した。
「なに言ってんだ。ほら見ろ、後ろにもっとお前を褒めたい奴がいる」
「う・・・・・・わあ」
彼の背後には、先輩かっこいいという目で見つめる後輩たちがいる。くるりと優牙を回して後輩たちへ向き直らせ、優しく背中を押して優牙をその群がりに放り込む。
「優牙先輩っ」「すごかったです」「あそこで中央じゃなくて端を取るなんて、先輩さすがでした」
そう、結構年下からは慕われてんだよな、こいつ。
委員会やクラブには積極的に顔を出すタイプで、陰で後輩から崇められるような存在だ。そして、煌としては、優牙自身がそうなるように努力していることを知っているから実は単純に嬉しい。
話し相手を後輩たちに差し出した煌はそっとその場を離れて、人を縫って中央まで歩いていく。
千尋寮の玄関から談話室をぶち抜いて作られた大きな空間、そこにいるのは男子ばかり。男子寮なので当たり前と言えば当たり前なのだけれど、その量といったら異常だ。イヌ科だけでなく、雑多な獣人の男子たちがごった返す風景は圧倒される。
掻き分け掻き分けようやく辿り着いたセンターには、簡易的なステージがある。高校三年生の中から選ばれた“運営”が設置するものだ。
周りにはさらに密度を大きくして、男子たちが群がっている。一際高身長である煌は、後ろからそれを覗き込んだ。
多くの男子が見学する中、選ばれた二人が真ん中で行われているのは──ババ抜き、である。
ババ抜き。そう、トランプを使ってタイマンで行う、あれ。
今のような一学期の終わり、毎年夜な夜な男子寮で開催される定期トランプ大会。いつからか男子寮の伝統となっているらしい。煌が入学した十年前には既にあったので、かなり長い歴史を誇っているようだ。
試合の日にはお菓子が持ち寄られてソフトドリンクの入ったグラスが並び、ちょっとしたパーティーの様相を呈している。
「いやー素晴らしい読み合いが行われていますね。あーっ捨てたっ、ついに一セット合ったみたいですね!」
今熱狂的に実況しているのは、今年度卒業して人間界の大学へ進む高校三年生の生徒である。
彼の熱い言葉と同時に辺りが湧き、煌もたまらず「おおっ」と声をあげた。
この大会はトーナメント方式で数日にわたって開催され、夏休みに入る直前に決勝戦が行われることになっている。ただし、夜更けに。夜な夜な、ババ抜きが繰り返されるのである。
教師には秘密の、アウトローな大会なのだ。
「あ」
それから一試合が終わったタイミングでふと、黒い髪に白いインナーカラーをちらりと覗かせた、片目の隠れた男子が目に入る。
「あぁっお前、あのっ・・・・・・白黒──っ」
あのときだけでなく、今まで何度か見かけた姿。いつも影からこちらを伺う、不気味なやつ。最近は雨続きで外に出れていなかったせいか、とんと見なくなった。
一抹の懐かしさにも似た気持ちが浮かび、つい声に出てしまった。白黒だなんてとんでもないことを叫んでしまったものである。
慌てて口を塞ぐが、賑やかな寮内でもその声は相手に届いてしまったらしい。すぐ目の前を横切ろうとしていたから、当たり前か。
「・・・・・・え? 俺? なにか用すか?」
自身の容姿が白黒である自覚があるらしいそいつは、こっちに振り向いた。
「っああ、ん〜・・・・・・えっと」
うまいこと会話を繋げられない。あの日目にしてから、彼のことは少し気になっている。なんとかして話したいんだけどなー・・・・・・。
「え、なんかやりました? 俺。すんません、気づかなくて」
名も知らぬ彼は、目を泳がせる煌を見て、なにを思ったかすぐにすまなそうな顔になった。
「いや、特になにもされてないけど、えーと、同じ学年? 高一?」
姿勢が悪いからか、煌より背が低く見える。そうでなくとももともとの動物によって背の高さは変わるので、背丈で学年を推測するのは非常に難しいのだ。
人間でいえば中学生くらいの背丈でも、ただもともとが小動物なだけで成人していたりする。
「あ、そうす。B組の──あ、獏っす」
どうやら別のクラスのようだ。さすがに二ヶ月も経てば、クラスメイトの顔と動物くらいは覚える。
「おー、獏か、なるほど。えっと、俺は煌。えー・・・・・・金烏、だな」
獏は、玉兎や金烏に次いで特別な動物とされる。人間が長い間獏は夢を食べると信じ続けたため、夢にまつわる特別な力を手に入れた種だからだ。
ただ、金烏玉兎よりも個体数は少なく、煌と同じクラスには獏はいないし、その生態は謎に包まれている。どんな力を使うとか、男女比はどちらの方が多いとか。
そういうことはなに一つ、知らない。
「知ってます、・・・・・・有名なんで」
「あ、・・・・・・そうか」
俺はまったくお前のこと、知らないんだけどな。
そう思いつつ、苦笑いしてしまった。金烏の中でも一際な高身長と、整った顔立ち、鮮やかな金髪。ちょっとした有名人であることは自覚していた。
しかし、他クラスの男子まで知れ渡っているとは驚きだ。
「え・・・・・・ほんと俺、なんか、しました?」
意味のわからないタイミングで謎の笑みを浮かべる煌に、獏は二、三歩あとずさってビビりまくっている。
今気付いたのだが、彼は小脇に何冊か本を抱えていた。大きさやカバーイラストからして文庫本というよりかはもう少し大きな、資料集のようだ。
「あ、ごめん。なんでもない、悪い」
「はあ。えっと、すいません、行っていいすか?」
「うん。引き止めてごめんな」
彼の去り際、ちらりと目に入った資料集は、どうやら昔話や童話についてのようだった。
「ふぅん。ホワイトガーデン・・・・・・」
横で、芝生上にうつ伏せに寝転びながら頬杖をつく月紫がつぶやく。いつもの場所、いつもの時間──いや、今日は少し早いか。
季節は夏へ移り変わり、長かった梅雨が明けた。乾いた地面に躊躇いなく体を伸ばせば、開放感が胸を突く。
今日気づいたこと。どうやら月紫は、御伽話の他に、園芸に興味があるようだ。
梅雨明け、彼女は園芸の指南書に手を伸ばしていた。今は、小説を読む煌の隣でそれに首っ丈だ。
「ねね、煌さんはこの白い花の色、見分けつくの?」
こちらに見せてきたページには、白を基調とした庭──ホワイトガーデンの例が見開き一ページ、フルカラーの写真で載っている。花はもちろん、庭に置く石やアーティファクト等も白に揃えるようだ。
「ん? ああ。ほら、こっちの花はちょっと緑だろ。で、これはピンクっぽい・・・・・・って、わかんねえよな」
「そうなんだよね・・・・・・ウサギだから。いいなぁ、煌さん」
微笑みながら、月紫は少し残念そうな、拗ねたような顔をしている。
元の動物の視野が完全に反映されるわけではないが、色彩感覚の優劣や、視野の狭い広いは関わってくる。例えば、金烏──カラスは色彩感覚に優れる、とか、ウサギは少し弱い、とか。
「私なんか、ウサギ姿でここ行ったら埋もれちゃいそう・・・・・・かくれんぼとか有利じゃない?」
「残念ながら、俺は一瞬でわかる」
言い切ることができるのは、彼女の毛色が本当に目立つからだ。混じり気のない、純白が。
仮にこれが、少しでもオフホワイトであれば、先ほどの言葉にたぶん、おそらく、という副詞が入っていた。
「えー、つまんないですって。手加減してよ煌さん」
その口振りは拗ねさせてそう言いながらも、浮かぶ彼女の笑みは柔らかい。
口調は前よりもずっと砕けているが、未だに呼び名は煌“さん”のまま固定だった。それを少し、寂しく思うくらいには、煌の気持ちは、
気持ちは──。
「っそういえば、月紫、帰るのか? 今回」
「あー、どうしようかなぁ。そっか、そんな時期か」
高い位置から鋭く燃えるような光を振り撒く太陽を見上げて、その赤っぽい瞳をすがめる。
そして、ふと視線をこちらへ落とした。
「たぶん帰るんじゃないかな。煌さんどうします?」
あと数日で夏休み、実家へ帰る人もいれば帰らない人もいる。それは個人の判断次第だ。
今日は夏休み前の短縮授業ということもあり、今は授業終了直後にも関わらずまだ正午を過ぎた頃だ。同じクラスからさりげなく目配せをし合って、今から食堂へ行こうか、その前に図書館に寄ろうかとふらふらと人の少ない木の下へ寄ってきたのだった。
たまたま混み合う食堂の前で出会えたのだ。煌は毎日食堂利用者だが、月紫はこれまで寮内で食事を済ませることも多かったため、かなり低確率の偶然と言える。
「よかった、俺も帰るつもりだったから」
今回は、人間界には行かないつもりだ。どうやら二夏が旅行に行く予定があるらしく、カフェには寄れないので。
月紫をちらりと見て、いたずらっぽく笑う。
「しばらくかぐや姫はお預けだな?」
「うあーほんとですね? あ、でも大丈夫、一冊実家にあるから!」
「あっ、あるんだ、やっぱり」
さすがというかなんというか・・・・・・。
「そう。いつだっけ・・・・・・ちっちゃいときに誕生日プレゼントでもらって」
「誕生日・・・・・・そういや、月紫っていつ誕生日?」
「え? 明日ですよ?」
「明日っ?」
急すぎる。何気なくそんなとんでもないことを言うが、聞いてしまった煌からすればプレゼントを一日で探すのは不可能なので焦りが浮かぶ。
「誕プレどうしようとか考えてます? いらないですよ、面倒なんで。だって、煌さんの誕生日に返さないといけなくなるじゃないですか」
察しのいい彼女は笑ってそう言った。急に粗雑な物言いになったから、本心ではないんだろうとは思うが。
来年こそは、と決意しつつ申し訳ないと頭を下げる。
「そう、か。悪ぃな」
「いーんです。ん〜、でも今は妹たちのものになってるかもな、絵本」
「妹いるんだ」
「二人、いる。春休み以来だな〜会うの。煌さんは妹さんとかいるんですか? あ、違う、弟さんか」
玉兎は女家系、金烏は男家系。そのことをふと思い出した月紫が訂正を加える。
「あ、俺も一応妹はいるよ。うん。──あとは兄が一人かな。今はたぶん故郷でなんかしてる」
「えっ、妹なの? めずらしっ」
「そうだな。まあ、女性がいないわけじゃないからな」
「あ、それはそう」
月紫がはっと気づいたようになって、ふむふむと数度うなずく。玉兎の方も、きっと女性の比率が少々高いだけで、男性がいないわけではないのだ。
ただ彩羽学園には、極端に女性の金烏と男性の玉兎は少なかった。だからやっぱり、月紫も感覚がそちらへと引っ張られてしまうのだろう。
「なまじ私たちって全体的に顔面偏差値高いばっかりに、少ない男性取り合うよね〜。全員普通に顔いいから。皆やっぱり故郷から出たくないからさ。玉兎の郷で人生完結が憧れ、みたいな。取り合い取り合い。煌さんとこ、そんなんないです?」
「ん〜・・・・・・なかったことも、ないんじゃないか?」
確かに女子の取り合いはあったが、正直あんまり展開のしにくい話だった。懐かしそうな表情の月紫に、上の空で返してしまう。
乾いた青空を見上げれば、ゆったりとした風が吹き抜けていった。
「煌さん、ってこういう話苦手だよね?」
「え? そう見える?」
はっと彼女に視線をやる。
「うん。なんか、すいーって目が逸れていく。わかりやすく」
「・・・・・・自覚なかった。確かにそうかも」
よく考えれば、今彼女に視線を戻したということは、先ほどまでは逸れていたということで。
「わかりやすいよ? なんか昔、恋愛関連であったんです? 私でもわかる」
「月紫は結構人見てるからな〜、私でもってのは信憑性がないけど」
「え、私が? えーっ、そんなことないと思うけどな?」
月紫は本当に心当たりがないようで、不思議そうな顔をして自分の記憶を探っているようだった。
「そんなことないことない。だってほら──そうだな、例えばお前が俺を煌さま、って呼んだとき」
少し考え込んで、再び口を開け、そう言葉を紡ぐ。月紫はまだピンと来ないのか、うーんと怪訝そうな顔だ。
「俺がそれ嫌がったの、ピンポイントで当てたろ。そういうとこ」
「それは、・・・・・・煌さんの顔見て、なんとなく察しがついたから」
先ほどの自身の発言と矛盾するような言葉を言ってしまったことに気づいて、バツの悪そうな顔をする。
「うーん」
「そういうとこだって。ほら信憑性落ちた」
「そうなの、かなぁ。まあ、確かに、人の気持ちには敏感なのかも? え、もしかしたら私、人間観察得意なのかな。天才かも」
「じゃ、俺が今なに食べたいか当てれる?」
「ちょっと待ってね、見るから。・・・・・・むむむむ」
まるで人の心を映す水晶を覗き込むかのように、神妙な顔で眉間に皺を寄せ、こちらをじっと見ている。
「えー・・・・・・山菜の天ぷら! ワラビ!」
「残念、俺は今大量にマヨネーズのかかったソース焼きそばが食べたい」
ぱたん、と広げていた小説を閉じる。
「えっ細かっ」
当てさせる気なかったよね、と月紫が非難の眼差しを向けてくる。
いや、結構月紫も限定してたけどな? 山菜の天ぷら、しかもワラビって。
「じゃ、食堂行くかー」
空腹を訴える腹を抱え歩き出す。青々とした芝生を踏む足音が二つ。昼食どきの、静かなテラスに響いた。
「でも私、わかることあるよ? 煌さんが今、してほしいこと」
「お。聞かせてもらおうか」
図書館に入る手前、ガラス張りのドアの前で立ち止まる。月紫の方に向き直ると、彼女は微笑みをふっと消して、うつむいた。
なにごとかと聞くより前に、月紫が息を吸ったから、中途に開いた口を再び閉じ、そして同時にぱっと彼女が顔を上げた。
「──煌」
ほんのりとその白い肌が、紅潮している。
「っああ、人の呼び方変えるのって慣れないね? 煌、だって。舌がおかしくなったみたい」
すぐに月紫は、にぱっと笑顔を戻して、歩き出した。煌はついその場に立ち尽くしてしまいその背中を見送りかけて、慌てて追いかける。
「合ってた? 毎回煌さんって呼ぶたびにちょっと悲しそうなんですもん。敬語使ったときとか。敬語はクセなんで許してほしいんですけど」
振り向かないまま、月紫は口を動かし続ける。
「んー・・・・・・ちょっと外れ」
ようやく彼女の隣に並んで、前を向いたまま返す。煌も少し、照れくさい。
二人の間に明確な形があるわけじゃない。だけど、確かに少しずつ、互いに近づいている。
「えー、自信あったんだけどね?」
「今、してほしいことっていうか・・・・・・ずっとしてほしかったことだったから」
平静を装うけど、その語尾は少し震えた。
「・・・・・・それなにが違うんです?」
「えー、それはさ、現在形か現在完了形の違いみたいな・・・・・・ん〜」
冷房の効いた図書館内に入って、読書に勤しむ生徒を見受けた二人は、声をワントーン落とす。
「現在形だと習慣も表しますけど。あ、変わることのない真理?」
照れ隠しか、月紫の口調が敬語に戻った。手早く図書館を抜け、食堂へ向かう。お互い何故だか、少し早足で。
「・・・・・・ああ言えばこう言う・・・・・・もういいだろ。俺はマヨネーズたっぷりのソース焼きそばが食べたいんだから」
ため息をこぼして、スピードを落とす。月紫はそんな煌を見て微笑んだ。
「ふふ、私もワラビの天ぷら食べたいんで。じゃ・・・・・・行きましょう。煌」
「よお。お前、今回は寮にいなかったらしいな」
夏休みが明けた。二学期一日目のHR前の時間、煌は同じクラスの優牙の席へ近づいて、声をかけた。少し離れた場所には月紫が座っているが、相変わらず基本的にクラス内で話すことはない。
「あ、久しぶり煌。お土産いる?」
一ヶ月ぶりに見る顔が笑って、こちらに温泉まんじゅう二十四個入りの箱を差し出してくる。半分ほどなくなっていて、社交的な彼がおそらくクラスメイトに配った跡なのだろうと推することができた。
「えっ、お前人間界行ったの?」
すぐさまそう察して驚くことができたのにはわけがある。獣人たちの暮らすこの街に、基本温泉はない。
それぞれの種が集まり暮らす集落のなかには湧く場所もあるかもしれないが、確か人狼の里にはなかったはずだ。
それでも信じられずに聞くと、あっさり優牙はうなずいた。
「うん」
「え? マジ?」
「うん」
「ええええっ」
朝の騒がしいクラス内で、その声はよく響いた。が、各々が会話に夢中で、こちらに注目が集まることはない。
「ちょ、煌うるさいよ。もう、まんじゅういらないか」
つい叫んだ煌に顔をしかめて、優牙は机に乗った温泉まんじゅうを片付けようとするもんだから、慌てて一個つかんだ。
「いるいる、いる。・・・・・・人間界ってお前、なにしに行ったんだ」
「二夏ちゃんに会ってきたの。毎年毎年、寂しかったんだよねー寮誰もいなくなるから」
いつだったか、実家が嫌いだと言い放った優牙。一人で残るのは寂しいと、口先では言いながらも頑なに帰ろうとしなかった。
ようやく重い腰を上げたかと思いきや、あんなに怖がっていた人間界に行っていたとは。
「すげー成長だな・・・・・・びっくりだよ」
「やめてよまじまじそんなこと言うの」
顔をそらして、しっしと乱雑に手を振られたので、煌は手元のまんじゅうの個包装を破る。
「それにしたってさー・・・・・・んっあれ、開かねえ・・・・・・あ、開いた──あひふにあひにいってたんは」
「なんて?」
「あひふにあひ・・・・・・っげほ、げほっ、ごほっ」
「いやいやいや落ち着いて」
まんじゅう一個を一呑みにしようとしたせいで、口の中の水分がどんどん失われていく。慌てて飲み込もうとしてむせ、次はゆっくり噛んで喉に落とし込み、繰り返し先ほどの言葉を伝える。
「んっ・・・・・・いや、あいつに会いに行ってたんだなーって」
「え、あ、うん。まあ」
「連絡先とか交換してたっけ? てかなんなら人間界でさらに旅行行ったんだ。それも、あいつと? あのうるさいやつと温泉? あっ確か旅行行くって聞いた気が」
「・・・・・・まあ」
確か二夏のいる商店街は別に温泉街ではなかったはずだ。
すると、優牙の視線がすいーっとずれていった。あ、恋バナ関連の話するとき俺こんな感じなのかな、などと月紫の言葉を思い出しつつ。
「えっお前が女の子関連で恥ずかしそうにしてんの初めて見た」
これまで幾人かとデートへ行き、付き合い、もしくは付き合うまでは行かずとも男女二人で出かけることの多かった優牙。いくらからかっても飄々と、煌も頑張れ〜とウザい反応しかしなかったのに。
「・・・・・・してないって」
ぎっと鋭く睨み返される。煌も特にそれ以上追求することなく、次はからかい始める。
「まあ、よかったよかった。お兄ちゃん安心したよ」
「煌の弟になったつもりはないけど」
なんとも刺々しい反応だ。一つ笑って、優牙の机に軽く腰をかける。
「優牙が。そっかー・・・・・・ついにか」
「煌こそ。・・・・・・知ってる? ちょっとよくない噂流れてるの」
急に不穏な空気を帯びた声を出して、優牙はそんな話題を持ち出してくる。彼の方を軽く振り向いてみれば、らしくないほど真剣な顔がそこにはあった。
「よくない噂? なんだよそれ」
「日華ちゃん関連のこと」
トーンの落とされた声で唐突に囁かれたその名に、煌は息を呑む。ずきっと、胸の奥、どこかに鈍い痛みが走った。
「っ──はあ?」
「煌が誰とも付き合わないの、故郷に残してきた大事な人がいるからだって言われてんの。まあ明け透けに言っちゃえば、恋人がね」
「そん、なんじゃ──っ」
「いや、僕は知ってるってば。僕に抗議しても意味ないよ。ただそれが、最近ひそひそされてるから」
「なんで」
十年間、優牙以外誰にも話してこなかった。そのはずなのに。
「どっかから話がもれたんじゃないのかな・・・・・・隠してきてもやっぱりどっかから出るもんだし」
「俺・・・・・・そんなんじゃ、ないんだけどな」
「わかってるって。そんな苦しそうな顔しないでくれる?」
言われて、自分の眉間に深いしわがよっていることに気づく。煌はそれを隠すように、くるりと優牙に背を向けた。
「ふー・・・・・・ごめんごめん。いや。まあ、気にしてもしょうがないだろ、噂なんて」
「でも最近、月紫ちゃんと仲良いんでしょ。てか好きじゃん」
「・・・・・・は? は? は・・・・・・? お前、なにをっ──」
唐突な暴露に、思わず机からずり落ちそうになる。
「それ大丈夫なの? あの噂聞いて、勘違いとかされたらさ」
「・・・・・・っふー・・・・・・」
何気なくこぼされた言葉。改めて座り直して、片手で額を押さえる。ため息しか出ない。
「お前さ」
「うん」
「お前・・・・・・お前さ」
「え?」
ちらりと振り向いて見た顔は、本気で不思議そうな色を浮かべている。再び額に手を当てた。なんだこいつ。
「お前、やめろよ。俺が・・・・・・あっさりそんな・・・・・・どこで聞いてきたんだ、その話」
「えー・・・・・・だってわかりやすいんだもん。授業中とかちらちら見てるから。図書館によく行ってるし、そのあとを月紫ちゃんが追うのも見てたから。なんならアピってると思ってた」
「キモっ」
なんでそんなに観察してるんだ。思わず彼の方向をばっと振り返ってから、身を引いて眉根を寄せるという、なんとも正直な反応が出た。
「えっ傷ついた。シンプル悪口じゃん」
「うん」
「うんって。うんって、ひどくない? ・・・・・・まあでも、とりあえず気をつけなよ」
「うーん」
忠告されても、正直危機感はない。曖昧な返事のまま止めておく。
──なぜならば今週末、二人で人間界に行く約束をしていたから。
すると急に、優牙が改めてこちらに向き直る。やけに真剣そうな顔で、椅子から立ち上がり視線を煌に合わせて。
「で、告白は?」
「・・・・・・もろもろ片付いたら、機を見て・・・・・・かな」
「うわー腰抜け。情けねえなあ! なに、機を見て、って。すぐしなよ」
余計なお世話だ。しっしと邪険に右手を振る。
「うるっさいな、もう。終わりな、この話」
「えー。まあ、いいけど」
優牙は再び彼の椅子に座り直す。
「で、煌、僕にお土産は?」
ヤバい。買ってない。これ絶対なんか奢れって言われる。もしくはさっき食べたまんじゅうを吐けって言われる。
「・・・・・・え?」
「帰ったんでしょ? 金烏の郷。お土産」
「あ、そろそろ予鈴が・・・・・・」
にこにことこちらに手を差し出してくる優牙。彼の視界からフェードアウトするように、煌は自分の席まで戻った。
「えっ・・・・・・と」
うろうろと、彼女の視線が宙を彷徨う。室内ですら目立つ、月紫の眩しい銀髪から目を逸らすように。
後ろに流して緩くくくった髪を気まずげに、月紫は撫でた。
「あ・・・・・・」
まずかっただろうか、とちらりと月紫を見る。この反応は、彼女にとって一番してほしくないものだったのではないか──そう思って。
けれど次の瞬間、ぱっと二夏は笑みを浮かべる。そして、いつもの調子で喋り始める。
「つくしちゃん? だよね。初めまして、二夏っていうの。漢字はねー二つの夏。二つの夏って書いてニカ。珍しいでしょう。これね、実は、お母さんとお父さんの初デートとプロポーズの季節が由来になってて──」
二夏は口を動かしつつ、カウンター席の椅子を少し引き寄せ、座った。突っ立ったまま呆気に取られている月紫にも、そしてその横で胸を密かに撫で下ろす煌にも、椅子を勧めた。
「あ、ありがとう」
「お、さんきゅ」
各々の小さなお礼も受け流しながら、彼女は自分の名前の由来を話してくれる。
その間に煌は、奥の方から顔を出す二夏の母──カフェ『Summer Vacation』の店長に話しかけた。
「店長、俺いつもの頼んでいいです?」
「いらっしゃい、煌くん。もちろん。お連れの可愛い子はなにがいいかな」
「んー・・・・・・山菜あります?」
どうやら話し込んでいるようなので、適当に注文しておくことにする。
「山菜? うーん、ぎりぎりヤマモモのジャムのトーストが出せるけど、山菜はないかも」
「あ、じゃあそれで。あとは一応、水を。口すぐ乾くだろうし」
つくしちゃんってそういえばどんな字を書くの、と質問している二夏をちらりと見やる。
「ははっ、そうだね。ほんとにこの子はよく喋るから・・・・・・少々お待ちを」
店長は苦笑いをしつつ調理に戻っていった。
「月に紫、って書いてつくし。私もなかなか変わってるんじゃないかな」
「確かに、あんまり見ないね。でも紫の月、っておしゃれじゃん」
「二夏ちゃんも由来エモいよね」
「え、マジ? エモいとか言ってくれたの月紫ちゃんが初めてなんだけど」
・・・・・・え、対等に話してる。月紫があの二夏と対等に話してる・・・・・・。
唖然としていると、からんからんと入り口のベルが鳴って、少しむっとした空気が冷房の隙間を縫って流れ込んできた。誰か来店したらしい。
店長がまた奥から顔を出して、笑顔を見せた。
「こんにちはぁ。今開いてます?」
「あ、優牙くんいらっしゃーい。今ねー煌くんも来てるのよ」
「おっ、よお。優牙じゃねーか」
この休日にも、彼はここへ通っているらしい。なんとも慣れた様子で入ってきた優牙は、所在なげに話す二人の女子を見ていた煌に、驚いた表情を浮かべた。
「えっ煌じゃん。なんでいるの?」
「いちゃ悪いか」
「悪かないけどさー・・・・・・えっ月紫ちゃんじゃん。ますますなんで?」
「俺が連れてきた。月紫、興味あったらしくて」
「えーそうなんだ。あ、おばさーん僕あれいいですか?」
優牙が来たのは予想外だが、話し相手ができたのは幸いだ。
「なんだよあれって」
「ぇとー・・・・・・いっつも僕が頼んでるやつ。お肉」
「急にお前、語彙力どうした」
「吹っ飛んでった。煌がいると思わなくて」
あまり表情には出ていないが、しっかり驚いているらしい。
「煌、ほんとに月紫ちゃんと仲良いんだ。脈アリじゃん。てか二人結構話弾んでない?」
「そうなんだよなー、俺一方的に話し相手になってただけだったからびっくりしてる」
最近のドラマや雑誌等芸能界の話に関しては煌はすでに門外漢であり、まったく返事ができなかったのだが。
「うんうん。僕も最初の頃はそうだった。最近は結構話せるよ」
「あー経験値が足りなかっただけか。結構長い付き合いなはずなんだけどなー」
しばらくそうやって話していると、海鮮の匂いとともにパスタが運ばれてきて、続けてステーキと、トーストも出てきた。
「お待たせ。召し上がれ」
「ありがとうございます」
ポテトとともに盛り合わせられた小さめのステーキが優牙の前に置かれる。
「あ、いただきまーす」
「わ、煌注文してくれたの?」
「一応。ワラビなかったからヤマモモで」
「やったあ、美味しそう。ありがとう、いただきまーす」
三人が箸を持った横で、二夏が母親に文句を言っている。
「あれお母さん、私の分は?」
「あんたは水よ。お昼ご飯食べたでしょ、頼むんだったらお金払いなさいな」
たんっと冷たいグラスが置かれて、二夏が口を尖らせている。
「えー、優牙一切れ分けて」
「こら二夏」
「あ、大丈夫すよ。僕ちょっとここ来る前に流行りのスイーツ食べてきちゃったから、全然」
ダウト。心の中でつぶやく。
流行りのスイーツなんて、嘘に決まってる。人間界に不慣れな彼が、人間の多い街まで繰り出して買い物なんて、できるはずがなかった。よっぽど二夏によく思われたいんだろうか。
相当『ほの字』──と、どこかで読んだ表現を思い出しつつ、パスタを頬張る。
「ありがとねえ優牙くん。でもダメよ。二夏、ポテトの余りあげるから」
「やったぁあっ。うーん、おいひい」
なんだかんだと揉めつつ、この親子は仲が良い。
「──えっ。煌がぁ?」
トイレに行った帰り、急に自分の名前を叫ばれて、立ち止まった。二夏だ。
続けて、背中にどすっと衝撃が走る。
「うぷっ、なに──って、なに、話してるの?」
後ろを歩いてきていた優牙がぶつかったらしい。思い切りぶつけた鼻を押さえる彼も二夏の大きな声に気づいたようで、眉をひそめて忍び足になる。
「煌が、か・・・・・・浮いた噂一つもなさそうなあいつが、って私全然彼のこと知らないんだけどね」
「私も、だよ、それは。近いようで遠い気がして──なんだか」
──煌煌、なに話してるの? ここからじゃよく聞こえん。
こそこそ、こそこそ。後ろから優牙が話しかけてくる。
──わかんねえ。なんだ? ・・・・・・近いようで、遠い、って。
知らず知らず、小さな声で彼女の言葉を反芻する。
は? と、後ろで怪訝そうな優牙の声がして、肩に彼のあごが乗る。身を乗り出したらしい。正直痛い。
「え、そうなんだ? すっごい仲良さそうだったけど」
「・・・・・・たぶん、仲は良い方。けど、なんだろう。遠い、気が、するの。ってごめんうまく言えない。終わり、終わり」
──おい、煌煌、言われてんぞ。お前知らないうちに一線引いてんじゃないの?
──・・・・・・どう、だろ。
自分ではうまくわからない。
「大丈夫? 月紫疲れた声してる」
──疲れた声・・・・・・。
──煌?
はっと気がついた。確かに、そうかもしれない。
初対面なのに・・・・・・どうして、二夏は煌が気づけなかったことを見つけるのだろう。いや、煌が鈍いだけなのだろうか。
「あー・・・・・・はは。わかる? 最近あんまり寝れてなくて。勉強が難しくてさ。そういや二夏って、勉強出来る方なの?」
「中の上、かなー私は。え、月紫悪い感じ?」
「うーん、最近はね・・・・・・」
どうやら話が逸れたらしい。そろそろ戻らないと不自然だろうと優牙が言い出し、煌たちは月紫の元へと戻ることにする。
疲れたような、重い月紫の声が、少し、尾を引いて耳に残った。
月紫が、来ない。
人間界から戻って、数日。
最近月紫が図書館に来ない。
北海道のガイドブックを片手に、ちらちらと入り口を確認する。先ほどから激しい夕立が降り始めたため、室内で読書だ。一つしかない入り口の近くを陣取った。
何度も見るそこに、銀髪の彼女は現れない。
「・・・・・・月虹寮・・・・・・行ってみるか」
正直気は進まない。しかし、一日ならまだしも、こうも続くと心配になる。なにかしらに巻き込まれていたら困るしな。
立ち上がって、図書館から玉兎たちの寮、月虹寮へ向かおうと外に出る。そんなに離れていないので、走ればずぶ濡れにならずには行けるだろう。
軽く腕で雨を遮ろうと顔の前にかざして走り出そうとした瞬間、前から走ってきた誰かとぶつかった。
わっという小さな女子の声がして、目の前に白銀の髪が舞う。まさか。
「つく──」
月紫、と口走ろうとして、別人であると気づいた。違う。彼女の髪はこんな緩いウェーブを描いてはいない、と。
「いや、悪ぃ、人違っ」
「あ、あ、あの、煌さんですかっ?」
「え? あれ」
よく見れば見覚えのある顔だ。確か月紫の友達で同じクラスの、朔、と呼ばれていた子だ。
「やっぱり、煌さんですよね?」
「あ、ああ、そう、だけど」
「月紫が倒れたときにまるで遺言みたいに言ってたから・・・・・・いつも図書館で会ってるって聞いてたから、心配してるとあれだなって」
前回会ったようなゆったりとした喋り方が、少し乱れている。慌てているのだろうか。
「・・・・・・倒れた?」
「さっき、急に。・・・・・・あ、別になんか睡眠不足と疲労、貧血に低気圧だろうって医務室の先生は」
「は?」
「確かにここ最近よく寝れないって言ってたし、そのせいか夜遅くまで勉強してたし。昨日生理来たって言ってたし、今日雨だし」
フルコンボだな・・・・・・。
「なんか、最後に煌って言ってたから、なんか言いたいことあったのかもとか思って。あの、医務室に行ってやってくれません?」
断る理由はなかった。うなずいて、医務室へ走り始める。
雨に軽く濡れながら走って着いた医務室の前の廊下に、なにかへんてこな機械が置いてあることに気づく。変なワイヤーやボタンがあちこちについた箱型の機械だ。
「え、なんだこれ」
あまりにも見慣れないものだったから、ついしゃがんでのぞき込む。なんだろう・・・・・・つい興味本位で、いろいろ触って試してみる・・・・・・いや、わかってる。よくないよな? わかってる、わかってるんだけどさ。
だからこのボタンだけちょっと最後に押してみるだけ押してみて──
「へっ? ちょ、なにして・・・・・・あっ、ばかぁあああっ」
かちっ
あの日、ババ抜き大会で出会った獏の声が背後からしたかと思えば。
ひゅん、と落ちるような感覚のあと、煌は見覚えのない場所に立っていた。
「は? え? な、え、ど、どこだここ」
なんとも古風な部屋だ。板張りの床に、壁は襖、やけに豪華な絵が描かれている。瞬間移動? か?
『はぁああああ・・・・・・』
あたりを見まわしつつ戸惑っていると、ため息が聞こえた。でっかいため息だ。謎にエコーがかかっている。頭に響くような感じの声。
『なんてことをしてくれたんすかあ・・・・・・』
この声、聞き覚えが──先ほど、ここに落ちてきたとき耳に尾を引いた声。
「・・・・・・獏、か?」
『そうっすよ。煌さんっすよねこの金髪』
「どういう状況だ? 説明してほしい」
『説明もなにも! 煌さんが! 勝手に! 俺の機械を! いじったんじゃないすかぁああっ』
キーン。・・・・・・うるさ。
「機械・・・・・・ああ、あれ?」
あの、へんてこな。
『そうっす!』
それに関してはなにも言えない。ぽりぽりと頭を書いて謝る。
「いや、うん・・・・・・悪かったよ。悪かった、あれは俺が悪い。ほんとごめん。・・・・・・悪かったけどそれは説明じゃない」
気づいた。和服を着ている。袖がやけに重い。
「説明してくれ。ここはどこだ?」
『・・・・・・・・・・・・月紫さんの夢の中、っす』
かなり間を置いて、返ってきた答えは予想だにしないものだった。
「は? 月紫、の?」
思わず問いかけ返すと、獏が数拍黙った。
『・・・・・・俺が操作してる、夢っす』
「ぁあ。獏だから? にしたって、なんで」
獏は、夢を操る力を持った特別な動物である。少し納得したが。
が、なぜ月紫の?
『月紫さんの・・・・・・夢を、うーん、目標? を、叶えてあげたかったから』
「夢? 目標、ってああ、かぐや姫になりたいとか、そういうあれ?」
『そうっすそうっす』
「え、獏、もしかして・・・・・・月紫のこと好きなのか?」
降ってきたのは沈黙。
「獏〜?」
『・・・・・・あ、物語始まるっすね。あ〜、もう、俺が入る予定だったのに・・・・・・』
「入るって、え、お前かなりヤバいな?」
『あ、それは自覚済みっす』
自覚あるんだ。
「月紫が倒れたのもお前のせいか?」
『それは違うっすよ! たまたまっす。あ、廊下で寝始めた煌さん結構外から見たらヤバいんで、医務室内にあとで移動させとくっすね』
「あ、俺廊下で寝てんの? いや、そりゃそうか。頼んだ。てか持ち上げれる? 俺結構背高いだろ」
『チビってバカにしたっすよね今。確実に』
「いや一言も言ってねえ。筋肉の心配だ、・・・・・・確かに小柄だったけど」
『俺だって本気出しゃあカラス一匹なんて余裕っす、だって本来の姿は俺の方が大きいんすよ』
「でも俺外では人型とってるからなぁ」
『またチビってバカにしました?』
「お前もしかして異次元と会話してる?」
そんなことを言っていたら、周りの景色が変わり始める。目の前にはすだれ──御簾、後ろは庭。縁側のような場所に立っているのだった。
「うお。なんだこれ」
『ここはかぐや姫の世界っす、今からかぐや姫に会いに行くんすよ。煌さんは帝っす』
「帝? とんでもねえな」
『頑張って勉強したんすから。その装束とかも実際の平安時代の天皇の衣装っすよ』
ちょっと誇らしそうなのが、声音からわかる・・・・・・あれ、案外可愛いな?
「これは、中に入っていいのか?」
『あ、そうっすね。本来昔は男女が顔を合わせるのはよくないんすけど、物語の世界なんすから気にしなくていいっす』
「そこはいいんだな」
苦笑いしながら、御簾をくぐって室内に入る。
『じゃ、天の声は消えるっすね』
それから、獏は静かになった。
室内には、長い銀髪を持った袿姿の、かぐや姫、がいた。
「えっと、失礼します?」
ゆっくり、かぐや姫がこちらを向く。
「あ」
まあ、予想はしていた。そうだろうなって思っていた。
だって月紫の夢だろ? で、月紫の夢を叶えたいんだろ? じゃあ主人公は、月紫だろう。予想外はここからだ。
見覚えのある、赤みの強い瞳がこちらをとらえた、そのときに。
かぐや姫──月紫は、素早く身を翻して煌の横を通り、御簾を払いのけ、外へ走り出てしまう。
「へっ? あ、ちょ、月紫っ」
『え、月紫さん?』
これには天の声も黙っていられなかった様子で。
追いかけようと外に出た瞬間に、周りの景色が変わり始めた。
『あ、タイムアップっす』
「は? 短っ、お前もうちょっと計画性持てよ!」
『つ、次の夢から時間を組み換え始めるっす。次は浦島太郎っす』
浦島太郎、ね・・・・・・ん?
「・・・・・・俺もしかして、亀になる?」
一抹の不安を持って臨んだ浦島太郎では、まさかの乙姫になった。なぜ乙姫なんだとは思いつつ待っていたら、結局浦島太郎(月紫)は竜宮城の門前まで来て帰ってしまった。追いかけようと思ったときにはすでに彼(彼女?)は陸に上がったあとのようで、また会えなかった。
桃太郎でも、鶴の恩返しでも、どの童話でも、どのお伽話でも、月紫に会うことは叶わなかった。
触れようとした瞬間に、月紫は踵を返して手からすり抜けてゆく。
追いかけて、追いかけて、無我夢中で追いかけて── 長い、長い、旅だった。長かったのか、短かったのか、時間感覚すらも忘れてしまうくらいに。
何度も銀髪の少女や少年を、女性や男性を見かけては、タッチの差で触れることができずに舞台が変わる。その度に新しい肉体を手に入れ、物語が進む。気づけば獏の声は聞こえなくなっていた。
月紫に触れようと、月紫と言葉を、視線を交わそうと、必死に動き続けて──ああ、またか、と思う。
また、周りの景色が変わる。
白い。
一言で言ってしまえばそれだけ。しかし煌の目には色彩に富んだ植物たちが映る。それらは一面に植えられ、一部には白いアーティファクトも見受けられる。白い木材で出来た東屋や、白く塗られた鉢植え、白ウサギの人形、陶器の置物。
「ホワイトガーデン、てやつか・・・・・・アスター、アセビ・・・・・・あいうえお順なのか?」
いつか月紫が話していた。
確かホワイトガーデンの話をしたのはあの日だけ。獏はどれだけ耳がいいんだ、あの距離でも会話が聞こえていたとは。
少し辺りを散策してみる。植物に詳しくない煌に対してかはわからないが、親切にも植えられている花の一つ一つに、小さな看板で名前が明記されているようだ。
ちょっと黄色寄りの白の花。隣には、少し青っぽい白の花。
「こう見ると、マジで月紫の毛皮の色って珍しいんだな」
あの、混じり気のない純白はよっぽど珍しいのだろうと、改めて認識した。
「・・・・・・ん?」
一人でつぶやいたそばから花たちに埋もれた純白が目に留まる。
思わず近づけば、それはすぐに動き出した。俊敏に、でも、追いつけない速さじゃない。
玉兎の姿になった月紫に、とても、とてもよく似ている。
「っ月紫!」
叫んで、走り出す。しかし、その姿に触れることは叶わなかった。
気づけば目の前には小さく開けた、なにも植えられていないスペースがあって、その真ん中には無惨に折られた白い花が置かれている。よく見れば、葉がハートの形をしていた。小さな花が、散らばって落ちている。
あいにく煌は植物に明るくない。困惑していれば、目の前に手のひらサイズの看板がささっていることに気づく。
『ライラック』
書かれている文字を確認した途端、また周りの景色が変わる。