しばらくの間、高校には久金家から通うことになった。制服も勉強道具も斎樹家から速やかに引き取られ、客間に運び込まれた。
見慣れた自分の書き込みが残る辞書を開くことができる幸運を喜ぶと同時に、梢はやはり疑問を消すことができずにいる。
「……少なくとも、お礼はきちんと言うべきよね」
正直、晶が自分と結婚するかどうかの答えは出せずにいる。しかし、このまま避け続けてもいい方向に向かわないことだけは確かだ。
「晶様ですか? このお時間ですと気晴らしにお庭に出ることもございますよ」
お茶を淹れてくれた黄玉に尋ねれば、笑顔で返答してくれた。自然な笑顔にそつの無い応対。式神だと忘れそうになる。
ひと月過ごしていたおかげで、広い屋敷と言えどおおよその目安はつく。
洋風な屋敷ではあるものの、古くからある木を活かした庭は和風の趣きを備えている。大ぶりな松が目に止まった。
「あの時の……」
姉の夫として合格だと決めたあの日にも見た松だ。こうして再び見ることになるとは思わなかった。
感慨に浸りながらそっと幹に触れる。自然と呼吸が深くなる。
「……ですか、……に」
「ああ……と、ほら」
葉のそよぐ音に混じって聞き慣れた声が耳に届く。
つぼみの声だ。
松を迂回してそちらの方向へ向かう。会話の相手は晶だろうか。
「……夢みたいで、わたし、まだ実感がわかなくて」
「これから嫌でも噛み締めることになるだろうさ」
「もう、晶様は意地悪なことを仰るのですね。嫌だなんて……あるわけございませんもの」
涙まじりの声。しかし、悲しくて泣いているわけではないことは、話の内容から察しはつく。
おっとりした声音が弾んでいる。
余程いいことがあったのだろう。
しかし、梢にはそこから先の内容が上手く頭に入ってこない。
鼓動が胸から飛び出しそうに暴れ回っている。
そっと木々の合間から垣間見たつぼみは、涙を指先で拭いつつも晴れやかな顔をしている。
あのように頬を上気させている姉を見るのは久しぶりだ。
晶も表情こそ見えないものの、彼女に寄り添うように立ち、幾度か頷き返す後ろ姿からは伴侶に相応しい包容力を感じさせる。
元々、こうなることを望んでいたはずだ。
優秀で、誠実な久金晶を姉の夫とする。
それが姉の幸せを願う、梢の目的だった。
それならば、なぜ、こんなにも、息が詰まるのだ。
「……梢さんには、もう?」
晶の口からまろびでた自分の名前に、梢の心臓がひときわ激しく胸を叩く。喉の辺りがどくどくと熱い。
「まだなんです。あの子、きっと驚くわ。けれど、きっと祝福してくれるって……信じてますから」
祈るように手を組み、染み入る幸せに浸るつぼみに、晶は肩の力を抜いて笑いかける。
「姉妹だというのに嫉妬してしまいますよ。おかしな話でしょう」
「あら、笑いませんよ。わたし、存じてますもの」
慈愛に満ちたまなざしを送るつぼみを、彼女に困ったように笑いかける晶を、梢はもう見ていられない。
何のために晶を探していたのかも忘れて立ち去ろうとした時──ざあっと風が吹いた。
巻き上がる葉が、散る花びらが、しなやかに揺れる枝が──
晶の視線を、梢に導いた。
「……梢?」
「あら、梢ちゃん。学校は終わったの? おかえりなさい。そうだ、あのね、お話が」
「……あ、あとで聞くね。今は……ごめんなさい」
つぼみの顔がうまく見られなかった。
こんなあからさまな反応を見せたら心配をかけるのはわかっている。しかし、ふたりの方を向きながら、焦点だけをぼかすのが精一杯だった。
逃げるように踵を返して庭木の中に身を滑り込ませる。
妙に急く呼吸が落ち着かない。
「大丈夫、これで予定通り。お姉様と晶様が結婚すれば、お姉様を幸せにできる」
言い聞かせるように繰り返す。
歩を緩めて、母屋に向かう梢の腕を──
「きみの幸せはどこにあるんだ」
晶が、掴んでいた。
「な、んで」
「誤解しているだろうから、説明しに」
「何を、誤解するっていうの。大丈夫よ、ちゃんと理解してる。順調にお姉様と仲良くなっているみたいだから、邪魔しちゃ悪いなって気を利かせたの。確かにお姉様に恋人がいるのは初めてだから、どうすればいいかわからなくて挙動不審だったかもしれないけど、そのうち慣れるから大丈夫」
浅い呼吸の中、言い訳ばかりが次から次へと口をつく。
喋り続けていることで、余計に息を吸うタイミングを掴めずに苦しさは増す一方だ。けれど、自分の声で頭を溢れさせれば晶の言葉を聞かずに済む。
ただその一心だった。
「新婚家庭に花嫁の妹がいたらやっぱり窮屈でしょう。制服とか教科書まで持ってきて貰って申し訳ないけれど、私、斎樹の家に戻ることにします。だから、晶様も花嫁のところに、戻って──」
浅いばかりの呼吸が封じられた。
忙しなく動かされていた唇が、ようやく休むことを許される。
酸素を求めて開いた唇に押し当てられているのが晶のそれだと気づいた頃には、晶の腕が背中に回されていた。
「っ、ん」
焦って突っぱねようとしたが晶はびくともしない。
重なる唇のあたたかさと背を包む腕のたくましさに、強ばっていた身がゆるゆるとほどかれていく。
拒むつもりだった手が彼の肘辺りをそっと握るようになった頃、力の抜けた梢は後ろの樫の木にもたれかかっていた。
「なんで……」
「おかしなことを言う。花嫁のところに戻ったまでだ」
「花嫁は、お姉様でしょ、どうしよう、こんな、顔向けできな……」
無理やりされたとはいえ、キスを拒めなかったのは事実だ。
姉に対する重大な裏切りだ。
じわじわと押し寄せるのは焦燥か、後悔か。梢の顔が青ざめる。
反省や贖罪だけが胸を占めるならまだいい。しかし、唇を重ねた時の記憶は心の片隅に甘美なものとして刻まれてしまった。しっかりと脈打つそれは、どんなに葉を重ねようと覆い隠すことが適わない。
寒くもないので震えながら己の腕を抱き「どうしよう」とうわ言のように繰り返す梢の手首を掴み、晶は身をかがめる。
キスを恐れて顔を背けた梢だが、露わになった耳元に唇が寄せられた。
「よく聞け。姉は火邑家の次男を婿にとる。そして、きみは、俺と結婚して久金に入る。これがすべてだ」
睫毛に留まって視界を覆っていた涙の粒が、弾けて消えた。
「…………え?」
恐る恐る顔を上げると、勢いよくデコピンされて悲鳴をあげた。
「な、にするのよ!」
反射的に噛みつく梢だが、晶は目を醒まさせてやったとでも言わんばかりに得意げな顔で顎をさする。
「シスコンなら姉のことをしっかり見ておくんだな」
差し出されたのは封筒だった。宛名は久金晶。差出人は斎樹つぼみである。
「ら、ラブレター?」
「今の話の流れでどうしてそうなる。つぼみさんの了解は貰ってあるから読んでいい」
恐る恐る封を開けて中身に目を通す。見慣れた姉の筆跡だった。
「……つきましてはかねてよりお付き合いのありました火邑家次男、燎さんとの婚姻を認めて頂きたく……次の総会で五家当主の方々にお話を差し上げる予定です…………え?」
何度読み直そうと、ひと文字たりとも揺らがない事実がそこにある。
「まさかきみが自分の身代わりとして久金に嫁入りしたなんて、彼女は予想してなかったみたいでな。どう打ち明けて説得すればいいか、手紙で相談を受けてた」
──手紙。
はっと遡った記憶が弾ける。
久金家から帰ってきたあの日、座布団の下に隠すように敷かれていた封筒は、もしや。
「知っての通り、火邑家の当主は俺と五家筆頭を張り合う血の気の多いやつだが、次男坊は穏健派だ。だからといって舐めてかかると火傷するだろうが……そのあたりは、きみの叔父が身をもって知ることになるだろうよ」
「そんな……」
知らずのうちに握りしめていた便箋がくしゃりと歪む。
「お姉様が私の知らない男と結婚……!?」
「そこか。もう根回しは済んでるから、次の総会でふたりの婚姻は正式に通達される。さっき伝えていたのはそれだよ。あんなに喜んでいたんだから、妹なら祝福してやれ」
シスコンもここまで来ると重症だな、と呆れた晶は梢の手から手紙を抜き取った。このままでは蛇腹折りにされかねない。丁寧に折り畳んで封筒にしまっていると、梢が腕にしがみついてきた。
「火邑燎に決闘を申し込みたいのでそれも総会で諮って頂けますか、私より弱かったら斎樹家に婿入りなど認めません」
「……却下する」
息継ぎなしに言い切る梢に若干引きつつも、晶は梢を振り払おうとはしなかった。
「……それより、俺はきみを嫁にするつもりなんだが、それについて異論が出ないのは何よりだな?」
「はっ」
勢いよく飛びすさった梢の真顔に笑いつつ、晶は必要以上にゆっくりと近づき、顔を寄せる。
「つぼみさんと話していただけであんなに嫉妬してくれたとは、予想外だよ」
「あ、あれは、あなたがお姉様に不埒なことをしないか心配だっただけで」
「不埒なことって?」
ふ、と吐息が耳にかかる。それだけで頬を赤くした梢を満足そうに見つめた晶は、さりげなく木の幹に追い詰める。
「……っ、そ、それより、あなたこそ、どうして私と、その、結婚するって……その、あやかしの記憶を鎮めるだけなら、わざわざ結婚しなくてもいいのに」
「知りたいか?」
静かに手を取られる。
「一回だけだ」
静かに脈打つ手の甲に触れさせられる。途端に記憶の断片が溢れ出す。
しかし、知らない風景ではない。
角隠し、紋付袴。
波の踊る水波の家紋と一直線に揺らがぬ土ノ都の家紋が目に入る。
そうだ、これはずっと昔、まだ政略結婚の意味も知らなかった頃に出た結婚式だ。
式に参加できたのは力を発現したつぼみだけだった。
己のうちに眠るものの自覚のなかった梢は、庭で遊んでおいでと放り出されて──
弾けるように景色が変わる。
サスペンダーを付けた男の子がうずくまって泣いている。
そうだ、あの子は手の甲をごしごしと擦っていたっけ。
“ころんだの? バイキン入るとお熱でるって、おねえちゃん言ってたよ”
“ころんでない。はなせよ”
“水道、あっち。ちゃんと洗わなきゃ”
ばしゃんと水飛沫が上がる。
蛇口からの水を跳ね返すように、ぎらぎらと噛みつくようなフラッシュ。目の中に星が弾けて痛いくらいだ。
だからあの時、梢は──
“えいっ”
“おい、手なんかにぎんな! きたないってしかられるぞ”
“あばれちゃだめ。このパチパチしてるの、ちゃんと、おとなしくしてたら治るから”
傷口を直接握るなんて、今思えばとんでもないことだ。
けれどあの時は、手を洗う水ごと押さえ込んでしまえば綺麗になって治ると信じていた。子どもの考えなんてそんなものだ。
そうだ、あの後、お姉様が迎えに来た。力の発現の気配に驚いた大人達に抱えられて連れていかれて、何やらお説教を受けて、それで、男の子は──
ぱちん、と視界が弾けた。
梢の目の前には、サスペンダーをつけた男の子が──成長した久金晶が立っている。
「綺麗なくせに不気味で、痛くて、妙なものを見せる。誰も触れたがらなくて当然だ」
その手の甲には変わらず深い亀裂が刻まれ、歪でうつくしい深淵が覗いている。
「あんな風に触れられたのは初めてだった。きみが姉に連れられて行った後、確かに一旦痛みは鎮まったんだ」
「……だから、私を?」
「もう一度会いたかった。どうか久金家以外の四家に居ればと調べ回って……隠れるのが得意だな、流石は斎樹家だ」
「別に隠れていたわけじゃ……」
「ようやく見つけたかと思えば、式神の記憶まで隠して雲隠れだ。おかげで確信が持てたけどな」
晶の腕が梢の背に回る。抱きしめる手があまりに力強いのは、痛みを堪えるためなのか。
「ね、ねえ、痛むんですか? なら治療を」
梢が腕の中で身じろぐと、晶は抱擁を緩めて梢にされるがままに手を預ける。しかし、亀裂は痛いほどの光を放っていなかった。
「あれ、今はそんなに……」
「……初めてこの手に感謝する気になったな」
「え?」
「梢に触れてもらえる」
一拍遅れて意味を飲み込んだ梢の頬が、ぶわりと赤く染まる。彷徨う視線は亀裂を覆い隠す自分の手を撫でていくだけだ。
「……私、まだ、あなたのことよく知らない」
「ああ」
「結婚って言われても実感湧かないし、久金家の嫁が務まる自信もない」
「そうか」
「……今、お姉様と天秤にかけたら確実にあなたが負ける」
「…………善処する」
最後は流石に堪えたらしく、言葉に詰まったのが明らかだったが晶は梢を見つめたままだ。
「こんな私でも良いなら──」
「梢じゃなきゃ意味が無い、そう言っただろ」
覆い被さるような返答と共に、晶はそれ以上の言葉を梢から奪った。
見慣れた自分の書き込みが残る辞書を開くことができる幸運を喜ぶと同時に、梢はやはり疑問を消すことができずにいる。
「……少なくとも、お礼はきちんと言うべきよね」
正直、晶が自分と結婚するかどうかの答えは出せずにいる。しかし、このまま避け続けてもいい方向に向かわないことだけは確かだ。
「晶様ですか? このお時間ですと気晴らしにお庭に出ることもございますよ」
お茶を淹れてくれた黄玉に尋ねれば、笑顔で返答してくれた。自然な笑顔にそつの無い応対。式神だと忘れそうになる。
ひと月過ごしていたおかげで、広い屋敷と言えどおおよその目安はつく。
洋風な屋敷ではあるものの、古くからある木を活かした庭は和風の趣きを備えている。大ぶりな松が目に止まった。
「あの時の……」
姉の夫として合格だと決めたあの日にも見た松だ。こうして再び見ることになるとは思わなかった。
感慨に浸りながらそっと幹に触れる。自然と呼吸が深くなる。
「……ですか、……に」
「ああ……と、ほら」
葉のそよぐ音に混じって聞き慣れた声が耳に届く。
つぼみの声だ。
松を迂回してそちらの方向へ向かう。会話の相手は晶だろうか。
「……夢みたいで、わたし、まだ実感がわかなくて」
「これから嫌でも噛み締めることになるだろうさ」
「もう、晶様は意地悪なことを仰るのですね。嫌だなんて……あるわけございませんもの」
涙まじりの声。しかし、悲しくて泣いているわけではないことは、話の内容から察しはつく。
おっとりした声音が弾んでいる。
余程いいことがあったのだろう。
しかし、梢にはそこから先の内容が上手く頭に入ってこない。
鼓動が胸から飛び出しそうに暴れ回っている。
そっと木々の合間から垣間見たつぼみは、涙を指先で拭いつつも晴れやかな顔をしている。
あのように頬を上気させている姉を見るのは久しぶりだ。
晶も表情こそ見えないものの、彼女に寄り添うように立ち、幾度か頷き返す後ろ姿からは伴侶に相応しい包容力を感じさせる。
元々、こうなることを望んでいたはずだ。
優秀で、誠実な久金晶を姉の夫とする。
それが姉の幸せを願う、梢の目的だった。
それならば、なぜ、こんなにも、息が詰まるのだ。
「……梢さんには、もう?」
晶の口からまろびでた自分の名前に、梢の心臓がひときわ激しく胸を叩く。喉の辺りがどくどくと熱い。
「まだなんです。あの子、きっと驚くわ。けれど、きっと祝福してくれるって……信じてますから」
祈るように手を組み、染み入る幸せに浸るつぼみに、晶は肩の力を抜いて笑いかける。
「姉妹だというのに嫉妬してしまいますよ。おかしな話でしょう」
「あら、笑いませんよ。わたし、存じてますもの」
慈愛に満ちたまなざしを送るつぼみを、彼女に困ったように笑いかける晶を、梢はもう見ていられない。
何のために晶を探していたのかも忘れて立ち去ろうとした時──ざあっと風が吹いた。
巻き上がる葉が、散る花びらが、しなやかに揺れる枝が──
晶の視線を、梢に導いた。
「……梢?」
「あら、梢ちゃん。学校は終わったの? おかえりなさい。そうだ、あのね、お話が」
「……あ、あとで聞くね。今は……ごめんなさい」
つぼみの顔がうまく見られなかった。
こんなあからさまな反応を見せたら心配をかけるのはわかっている。しかし、ふたりの方を向きながら、焦点だけをぼかすのが精一杯だった。
逃げるように踵を返して庭木の中に身を滑り込ませる。
妙に急く呼吸が落ち着かない。
「大丈夫、これで予定通り。お姉様と晶様が結婚すれば、お姉様を幸せにできる」
言い聞かせるように繰り返す。
歩を緩めて、母屋に向かう梢の腕を──
「きみの幸せはどこにあるんだ」
晶が、掴んでいた。
「な、んで」
「誤解しているだろうから、説明しに」
「何を、誤解するっていうの。大丈夫よ、ちゃんと理解してる。順調にお姉様と仲良くなっているみたいだから、邪魔しちゃ悪いなって気を利かせたの。確かにお姉様に恋人がいるのは初めてだから、どうすればいいかわからなくて挙動不審だったかもしれないけど、そのうち慣れるから大丈夫」
浅い呼吸の中、言い訳ばかりが次から次へと口をつく。
喋り続けていることで、余計に息を吸うタイミングを掴めずに苦しさは増す一方だ。けれど、自分の声で頭を溢れさせれば晶の言葉を聞かずに済む。
ただその一心だった。
「新婚家庭に花嫁の妹がいたらやっぱり窮屈でしょう。制服とか教科書まで持ってきて貰って申し訳ないけれど、私、斎樹の家に戻ることにします。だから、晶様も花嫁のところに、戻って──」
浅いばかりの呼吸が封じられた。
忙しなく動かされていた唇が、ようやく休むことを許される。
酸素を求めて開いた唇に押し当てられているのが晶のそれだと気づいた頃には、晶の腕が背中に回されていた。
「っ、ん」
焦って突っぱねようとしたが晶はびくともしない。
重なる唇のあたたかさと背を包む腕のたくましさに、強ばっていた身がゆるゆるとほどかれていく。
拒むつもりだった手が彼の肘辺りをそっと握るようになった頃、力の抜けた梢は後ろの樫の木にもたれかかっていた。
「なんで……」
「おかしなことを言う。花嫁のところに戻ったまでだ」
「花嫁は、お姉様でしょ、どうしよう、こんな、顔向けできな……」
無理やりされたとはいえ、キスを拒めなかったのは事実だ。
姉に対する重大な裏切りだ。
じわじわと押し寄せるのは焦燥か、後悔か。梢の顔が青ざめる。
反省や贖罪だけが胸を占めるならまだいい。しかし、唇を重ねた時の記憶は心の片隅に甘美なものとして刻まれてしまった。しっかりと脈打つそれは、どんなに葉を重ねようと覆い隠すことが適わない。
寒くもないので震えながら己の腕を抱き「どうしよう」とうわ言のように繰り返す梢の手首を掴み、晶は身をかがめる。
キスを恐れて顔を背けた梢だが、露わになった耳元に唇が寄せられた。
「よく聞け。姉は火邑家の次男を婿にとる。そして、きみは、俺と結婚して久金に入る。これがすべてだ」
睫毛に留まって視界を覆っていた涙の粒が、弾けて消えた。
「…………え?」
恐る恐る顔を上げると、勢いよくデコピンされて悲鳴をあげた。
「な、にするのよ!」
反射的に噛みつく梢だが、晶は目を醒まさせてやったとでも言わんばかりに得意げな顔で顎をさする。
「シスコンなら姉のことをしっかり見ておくんだな」
差し出されたのは封筒だった。宛名は久金晶。差出人は斎樹つぼみである。
「ら、ラブレター?」
「今の話の流れでどうしてそうなる。つぼみさんの了解は貰ってあるから読んでいい」
恐る恐る封を開けて中身に目を通す。見慣れた姉の筆跡だった。
「……つきましてはかねてよりお付き合いのありました火邑家次男、燎さんとの婚姻を認めて頂きたく……次の総会で五家当主の方々にお話を差し上げる予定です…………え?」
何度読み直そうと、ひと文字たりとも揺らがない事実がそこにある。
「まさかきみが自分の身代わりとして久金に嫁入りしたなんて、彼女は予想してなかったみたいでな。どう打ち明けて説得すればいいか、手紙で相談を受けてた」
──手紙。
はっと遡った記憶が弾ける。
久金家から帰ってきたあの日、座布団の下に隠すように敷かれていた封筒は、もしや。
「知っての通り、火邑家の当主は俺と五家筆頭を張り合う血の気の多いやつだが、次男坊は穏健派だ。だからといって舐めてかかると火傷するだろうが……そのあたりは、きみの叔父が身をもって知ることになるだろうよ」
「そんな……」
知らずのうちに握りしめていた便箋がくしゃりと歪む。
「お姉様が私の知らない男と結婚……!?」
「そこか。もう根回しは済んでるから、次の総会でふたりの婚姻は正式に通達される。さっき伝えていたのはそれだよ。あんなに喜んでいたんだから、妹なら祝福してやれ」
シスコンもここまで来ると重症だな、と呆れた晶は梢の手から手紙を抜き取った。このままでは蛇腹折りにされかねない。丁寧に折り畳んで封筒にしまっていると、梢が腕にしがみついてきた。
「火邑燎に決闘を申し込みたいのでそれも総会で諮って頂けますか、私より弱かったら斎樹家に婿入りなど認めません」
「……却下する」
息継ぎなしに言い切る梢に若干引きつつも、晶は梢を振り払おうとはしなかった。
「……それより、俺はきみを嫁にするつもりなんだが、それについて異論が出ないのは何よりだな?」
「はっ」
勢いよく飛びすさった梢の真顔に笑いつつ、晶は必要以上にゆっくりと近づき、顔を寄せる。
「つぼみさんと話していただけであんなに嫉妬してくれたとは、予想外だよ」
「あ、あれは、あなたがお姉様に不埒なことをしないか心配だっただけで」
「不埒なことって?」
ふ、と吐息が耳にかかる。それだけで頬を赤くした梢を満足そうに見つめた晶は、さりげなく木の幹に追い詰める。
「……っ、そ、それより、あなたこそ、どうして私と、その、結婚するって……その、あやかしの記憶を鎮めるだけなら、わざわざ結婚しなくてもいいのに」
「知りたいか?」
静かに手を取られる。
「一回だけだ」
静かに脈打つ手の甲に触れさせられる。途端に記憶の断片が溢れ出す。
しかし、知らない風景ではない。
角隠し、紋付袴。
波の踊る水波の家紋と一直線に揺らがぬ土ノ都の家紋が目に入る。
そうだ、これはずっと昔、まだ政略結婚の意味も知らなかった頃に出た結婚式だ。
式に参加できたのは力を発現したつぼみだけだった。
己のうちに眠るものの自覚のなかった梢は、庭で遊んでおいでと放り出されて──
弾けるように景色が変わる。
サスペンダーを付けた男の子がうずくまって泣いている。
そうだ、あの子は手の甲をごしごしと擦っていたっけ。
“ころんだの? バイキン入るとお熱でるって、おねえちゃん言ってたよ”
“ころんでない。はなせよ”
“水道、あっち。ちゃんと洗わなきゃ”
ばしゃんと水飛沫が上がる。
蛇口からの水を跳ね返すように、ぎらぎらと噛みつくようなフラッシュ。目の中に星が弾けて痛いくらいだ。
だからあの時、梢は──
“えいっ”
“おい、手なんかにぎんな! きたないってしかられるぞ”
“あばれちゃだめ。このパチパチしてるの、ちゃんと、おとなしくしてたら治るから”
傷口を直接握るなんて、今思えばとんでもないことだ。
けれどあの時は、手を洗う水ごと押さえ込んでしまえば綺麗になって治ると信じていた。子どもの考えなんてそんなものだ。
そうだ、あの後、お姉様が迎えに来た。力の発現の気配に驚いた大人達に抱えられて連れていかれて、何やらお説教を受けて、それで、男の子は──
ぱちん、と視界が弾けた。
梢の目の前には、サスペンダーをつけた男の子が──成長した久金晶が立っている。
「綺麗なくせに不気味で、痛くて、妙なものを見せる。誰も触れたがらなくて当然だ」
その手の甲には変わらず深い亀裂が刻まれ、歪でうつくしい深淵が覗いている。
「あんな風に触れられたのは初めてだった。きみが姉に連れられて行った後、確かに一旦痛みは鎮まったんだ」
「……だから、私を?」
「もう一度会いたかった。どうか久金家以外の四家に居ればと調べ回って……隠れるのが得意だな、流石は斎樹家だ」
「別に隠れていたわけじゃ……」
「ようやく見つけたかと思えば、式神の記憶まで隠して雲隠れだ。おかげで確信が持てたけどな」
晶の腕が梢の背に回る。抱きしめる手があまりに力強いのは、痛みを堪えるためなのか。
「ね、ねえ、痛むんですか? なら治療を」
梢が腕の中で身じろぐと、晶は抱擁を緩めて梢にされるがままに手を預ける。しかし、亀裂は痛いほどの光を放っていなかった。
「あれ、今はそんなに……」
「……初めてこの手に感謝する気になったな」
「え?」
「梢に触れてもらえる」
一拍遅れて意味を飲み込んだ梢の頬が、ぶわりと赤く染まる。彷徨う視線は亀裂を覆い隠す自分の手を撫でていくだけだ。
「……私、まだ、あなたのことよく知らない」
「ああ」
「結婚って言われても実感湧かないし、久金家の嫁が務まる自信もない」
「そうか」
「……今、お姉様と天秤にかけたら確実にあなたが負ける」
「…………善処する」
最後は流石に堪えたらしく、言葉に詰まったのが明らかだったが晶は梢を見つめたままだ。
「こんな私でも良いなら──」
「梢じゃなきゃ意味が無い、そう言っただろ」
覆い被さるような返答と共に、晶はそれ以上の言葉を梢から奪った。