客間は姉妹のために設えられていた。
空調も、水周りも、つぼみの体調や調薬に配慮された造りになっている。
部屋を見て回り、あれこれと感嘆しているだけで一日が終わりかけたことに梢は唖然とした。至れり尽くせりも極めれば時間を奪えるのだな、と若干失礼なことを考える。
食事を済ませたふたりは、ソファで身を寄せあっていた。
「梢ちゃんが言っていた通り……久金様っていい方なのね? こう言っては失礼だけれど、お噂とかけ離れてらして、とても意外」
少々浮き足立っているつぼみを見ているうちに冷めてきた梢は、髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜてふう、と上を向いた。天井が高い。
「確かにいい人だとは思ったけど……あの本人を見たら絶対何か裏がある、とは思う。でも、これに乗らない手はないよ。大丈夫、何かあったらお姉様だけは私が」
「そのことなんだけどね、梢ちゃん。話があるの。わたし、結婚は……」
ノックの音でつぼみの言葉が掻き消された。
「失礼致します」
侍女三人娘のお出ましだ。
「ご歓談中に申し訳ございません」
「旦那様より梢様にお話があるとのことです」
梢の目つきがぴりりと鋭さを増す。すっくと立ち上がり拳を握りしめた。
「ほらね。いいわ、受けて立つ」
「梢ちゃん! 穏便にね!」
ため息をつきながら取縋るつぼみを宥めて黄玉と翠玉に託し、またもや紅玉に案内されることになった。
道のりが先程と違う。どうやら私室への招待のようだ。
こじんまりとした部屋に久金家の当主の座とのミスマッチを感じるものの、椅子に腰掛けていた晶の背中が、くるりと背もたれを回転させて振り向いた。
「何の御用でしょう」
「斎樹の次女──つまりきみにしかできない頼みだ」
晶は手を差し出す。握手の形ではない。手の甲を向けている。
白い陶器のようなすべらかな肌に、歪んだ影が落ちているのが見えた。
「お怪我ですか? それなら私でなく姉でしょう……と」
ぎくりと言葉を切る。
これは傷口ではない。
手の甲に亀裂が入っている。
しかも、ぱくりと菱形に開いたそれの断面は、きらきらとまばゆいばかりに瞬いているのだ。
これが人体にあるものでなければ、素直に美しいと称賛もできようものだが、脈打つ拍動に呼応してちらちらと魅せる色を変えるそれは、禍々しいとしか言いようがない。
「……これは」
「これが、久金家を五家の頂点に押し上げた源の祝福であり──呪いだ」
晶の語気が切羽詰まったように激しさを帯びる。
声にならない悲鳴が呼び覚ました光の明滅が勢いを増す。
「うあ……ッッ!」
光が乱反射する激しさに比例して顔を歪めていた晶は手首を抑えて項垂れ、椅子から床になだれ込んだ。咄嗟に梢は駆け寄る。
「大丈夫ですか!? 人を……さっきの秘書さんをお呼びします!」
ドアに目を遣った梢を引き止めんばかりに手首を掴まれた。ぎりりと音がしそうなほどに締め付けられて、梢の息も荒くなる。
「……きみなら、鎮め方を知っているな」
「鎮め方? そんな、私には──」
おろおろと惑う手首を掴まれ、乱雑に押し付けられた先にはまばゆい亀裂がある。
手のひらが光に触れた瞬間、瞼の裏に閃光が走った。
「きゃ、ああ!?」
梢の頭に直接、光の奔流が降ってくる。
瞬きごとに視界を埋め尽くす光の勢いに翻弄されていた梢だが、手首が軋むほどに掴まれる痛みでようやく我に返る。
土ノ都の封印、水波の浄化、火邑の調伏、そしてすべてを阻む久金の結界。
瞬きごとに光景が切り替わるのは、見ている主体が異なるからだ──と気づいた時にすべてを把握した。
これは、境界線を超えたあやかしが最期に捉えた視界だ。
封じられる直前の怨嗟。
浄化される寸前の執着。
調伏されまいとする足掻き。
そして、己の力が及ばずに弾かれる絶望。
押し寄せる記憶の渦に目がくらみそうになったが、掴まれているのとは逆の手でポケットから竹笛を取り出し、折る勢いで音を鳴らす。
切り裂くような高音が記憶の乱反射を薙ぎ払う。
「ふ…………う、ッ!」
息の吹き込み方を低いものに変えて、沈む光を履き清めるように掬い取る。
あとはいつもの流れだ。天を覆わんばかりに生い茂る葉をイメージし、そのひとひらひとひらで覆い隠していく。
ひと息ごとに伸びゆく枝葉のざわめきで、なおも暴れる光の記憶を押さえ込んだ。
「お、わり……ました」
はあっと大きく息をついて、床に倒れ込みかけた梢の肩を支えたのは、いまだ顔色の戻らぬ晶だった。
「…………間違っていなかった、やはり、きみが……」
呼吸を整えながら横目で晶の手の甲を見る。
ぎらぎらとした反射こそ落ち着いたものの、亀裂はくっきりと残っていた。
「そんな、まだ残って……」
もう一度触れようとする梢の手を避けて、晶は背に隠す。
「もういい。これ以上は負担が大きすぎる」
「でも」
なおも言い募る梢が身を乗り出すと、晶は片腕で抱き寄せる。
するりと頬を撫でられ、梢は目を丸くした。
「なっ」
「顔色が悪い」
先程まで痛みに呻いていたとは思えぬ力で、晶は梢を抱き上げてソファに座らせる。
その隣にぴたりと寄り添うように腰を下ろし、小声で「聞いてくれるか」と問うた。
「それは……ここまで来たら話してくれるんでしょう? 気になりますよ」
「そうか。これを見てどう思った」
もう一度手の甲を掲げる。脈打つきらめきが、色を変えた。
「……境界線を越えたあやかしの末路。いえ、最期に見た光景……ううん、最期に抱いた記憶そのもの?」
思い起こすのも躊躇われる中、考えを手繰るように口にした答えに、晶は無言で頷いた。
「そう。見た通りだ。あれは今まで俺達が、そして遙か昔から俺達の祖が成してきたこと。それが降り積もって澱となっている」
「そんな、だってあやかしは祓われているはず。どうしてその記憶が、あなたにだけ悪さをするの」
その問いに、晶は焦点の合わぬ瞳で応えた。
悲しむような、諦めたようなそのまなざしに見覚えがある。その記憶を手繰るより前に、晶は静かに口を開いた。
「それは久金家が負う力によるものだ。我が家は知っての通り、強固な結界を以ってあやかしから護る役割を持つ。しかし、鋼鉄の護りから弾かれたものはすべて消え去る訳では無い。相手が強ければ強いほど、硬ければ硬いほどに残滓が生まれる。水で浄化するほどでも、火で調伏するほどでもないそれらは、静かに積もって結界に浸透していく」
「それが──結界の使い手、あなたの内側に澱のように溜まっていくの?」
「そういうことだ」
晶は手の甲をかざす。
ちらちらときらめくそれは、これまで受けてきたあやかしの痛みを無言で主張しているように見えた。
「残滓といえどあやかしだ。集まるほどに力を増す。しかし外側にあるものなら弾けもしようが、ひとたび内側に──俺の中に入り込んだそれは、並外れた妖力で暴れ回る」
ぎらりと蠱惑的な光が晶の瞳を映しとる。はっと梢は口を覆った。
──突如、攻守一体の並外れた力を得た久金家。
──若き当主は何者も寄せ付けない力で久金家を五家の頂点に押し上げた。
「まさか、あなたの力の源って」
「察しがよくて助かるよ。まあ、そういうことだ。あやかしを祓う側があやかしの力に呑まれているなんて、恥晒しもいいところだろう?」
冷めた瞳で笑い飛ばした晶は、隣で口を噤む梢を見下ろす。
「だから、きみとの縁談を望んだ。記憶を覆い隠す斎樹家の娘。まさか生きてる人間の他に、式神の記憶まで関与できるとは思わなかった。期待以上だよ」
「式神……あの侍女さん達のこと? そうよ、お姉様こそ花嫁だとあの子達の記憶を書き換えたはずなのに、どうしてさっきは、はじめましてだなんて」
「記憶に関与されたらこちらでは直しようがないんだ。だから顕現を解いて初期化した。本体の石さえあれば何度でも作り直せるからな」
梢は彼女達のピアスに思い至る。色違いの石が核だったとは。
「姉を護るために俺を利用したそちらも無茶苦茶だとは思うが、自分本位では俺も人のことは言えないな」
晶の瞳が梢を捉える。
「どうせ元々家のための結婚だ。きみも腹は括っているだろう」
ぐいと背中を抱き寄せられる。互いの瞳に互いが映る。
「梢が欲しい。きみの力が必要なんだ」
「わ、わたしは……」
きつい命令口調なくせに、縋るまなざしで求められて、梢の中でざわざわと葉が騒ぐ。
助けられるものなら助けたい。
しかし、ここで梢が久金家の嫁になれば、斎樹の家に残された姉は──
「だめ!」
梢は晶の胸を突き飛ばす。勢いで立ち上がると駄々をこねるように首を横に振った。
「おい、ここまで打ち明けておいて──」
「協力しないわけじゃない!」
言い切った梢は、大きく息をついて呼吸を整えた。ゆっくりと晶を見据える。
「記憶の封印なら嫁がなくてもできるでしょう。お姉様がここに嫁げば自然と関係は近くなるもの。定期的に往診する形をとれば、周りから悟られることなく対処していけるはず」
「っだから……!」
「お姉様を見捨てるなんてできない! たったふたりの家族なの。あなたが誠実なのはよくわかった。できる限り協力する。だから、私の頼みも聞いて」
絞り出すような懇願に、晶はそれ以上の言葉を止めた。
しんと冷えきったふたりの間で、言葉がかつんと弾かれて落ちる。
「……いい加減、姉離れしろ」
「そんなこと、あなたに言われる筋合いはない」
「いいか、きみの姉は──」
コンコンとノック音が響く。
「お二方、どうかその辺りでお納めください」
藍玉だった。
廊下にまで言い合いが筒抜けになっていたのかと、恥ずかしくなった梢は唇を噛んだ。
「梢様を慮るなら、今宵はここまでと致しましょう。もう夜も遅うございます」
どこまでも淡々と告げられた内容に、晶は俯きがちに了承した。
「そうだな。もう休め」
それ以上の会話を続けるつもりはないとばかりに背を向けられる。
藍玉が導いた先の廊下には翠玉が待っていた。
「すみません、助かりました」
「いいえ、仕事ですので……梢様」
藍玉が深く頭を下げた。
「えっ、ちょ」
「お願いがございます」
うろたえる梢に構わず藍玉は言葉を重ねる。こういうところが主従そっくりだと場違いにも思った。
「私の意思で申し上げます。晶様の伴侶となってください」
しんと静まり返った廊下で藍玉に頭を下げられ、翠玉にそのままの姿勢を保ったまま見つめられている。
居心地の悪さを破ってくれるものは誰ひとりいない。
「どうして、私なの。姉じゃだめなんですか」
「これ以上は申し上げられません。ですが、晶様がお望みなのは梢様ただおひとり。それをわかって頂きたかったのです」
すうと折り目正しく背筋を伸ばした藍玉は、眼鏡のアンダーリムに指を添えて位置を直す。
耳を覆っていた髪が少しだけ揺れて、藍色のピアスが見えた。
彼も式神なのだ。ここまで意志を持った式神を複数操れる晶の能力に、底知れないものを感じて梢の背筋が粟立った。
翠玉に案内されて戻った客間では、扉を開けるなりつぼみが不安げに抱きついてきた。
「何か……されたの?」
黙って首を横に振る。晶の力の源について、姉に話そうとは思えなかった。
晶が別れ際に言いそびれた言葉が耳に残っている。
姉は、何か隠している。
「ねえ、お姉様」
「なあに」
つぼみのつぶらな瞳が揺らいでいる。
ここで隠し事をしていないかと問い詰めることは簡単だ。
しかし──
「……疲れちゃった。お姉様も知らないところでひとり待たされて緊張したでしょ。休もうか」
「……ええ。あのね、侍女さんから伺ったんだけど、しばらく私たち、このお屋敷に留まることになったみたいよ」
「えっ、学校は? 新学期からどうするの?」
「荷物は取りに行ってくれるから、ここから通えるって」
「そう……」
叔父の住む家に戻らなくていいのは正直有難かった。姉とも離れずに済む。
「どうして、晶様はこんなにも良くしてくれるんだろう」
ベッドに潜り込んだ梢の呟きにつぼみはぷっと吹き出した。
「なあに突然。あなた、仮嫁入りで本当はいい方なのよってあんなに力説していたじゃない」
「それは直接会ってなかったからで……」
ふっと灯りが消える。
つぼみが寝支度を整えて、隣のベッドに寝転んだのが気配でわかった。
そっと手を差し伸べる。
「こおら、梢ちゃんの甘えん坊」
「……じゃあいい」
すっと布団に引き戻そうとした手が柔らかく握られる。なめらかな、あたたかい姉の手。
「どうして、が続くのは相手を知りたいからよ」
「……当たり前じゃない。お姉様の旦那様になる予定のひとよ」
暗闇で姉の輪郭がほのかに揺らぐ。
「いい加減、素直になりなさい。梢ちゃんの心はあなただけのものなのよ」
その言い回しに、晶に言われたものと似たようなものを感じ取って、梢は閉じかけていた瞼に力を入れる。
しかし、結局瞳は開くことなく思考は夜に沈んだ。
空調も、水周りも、つぼみの体調や調薬に配慮された造りになっている。
部屋を見て回り、あれこれと感嘆しているだけで一日が終わりかけたことに梢は唖然とした。至れり尽くせりも極めれば時間を奪えるのだな、と若干失礼なことを考える。
食事を済ませたふたりは、ソファで身を寄せあっていた。
「梢ちゃんが言っていた通り……久金様っていい方なのね? こう言っては失礼だけれど、お噂とかけ離れてらして、とても意外」
少々浮き足立っているつぼみを見ているうちに冷めてきた梢は、髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜてふう、と上を向いた。天井が高い。
「確かにいい人だとは思ったけど……あの本人を見たら絶対何か裏がある、とは思う。でも、これに乗らない手はないよ。大丈夫、何かあったらお姉様だけは私が」
「そのことなんだけどね、梢ちゃん。話があるの。わたし、結婚は……」
ノックの音でつぼみの言葉が掻き消された。
「失礼致します」
侍女三人娘のお出ましだ。
「ご歓談中に申し訳ございません」
「旦那様より梢様にお話があるとのことです」
梢の目つきがぴりりと鋭さを増す。すっくと立ち上がり拳を握りしめた。
「ほらね。いいわ、受けて立つ」
「梢ちゃん! 穏便にね!」
ため息をつきながら取縋るつぼみを宥めて黄玉と翠玉に託し、またもや紅玉に案内されることになった。
道のりが先程と違う。どうやら私室への招待のようだ。
こじんまりとした部屋に久金家の当主の座とのミスマッチを感じるものの、椅子に腰掛けていた晶の背中が、くるりと背もたれを回転させて振り向いた。
「何の御用でしょう」
「斎樹の次女──つまりきみにしかできない頼みだ」
晶は手を差し出す。握手の形ではない。手の甲を向けている。
白い陶器のようなすべらかな肌に、歪んだ影が落ちているのが見えた。
「お怪我ですか? それなら私でなく姉でしょう……と」
ぎくりと言葉を切る。
これは傷口ではない。
手の甲に亀裂が入っている。
しかも、ぱくりと菱形に開いたそれの断面は、きらきらとまばゆいばかりに瞬いているのだ。
これが人体にあるものでなければ、素直に美しいと称賛もできようものだが、脈打つ拍動に呼応してちらちらと魅せる色を変えるそれは、禍々しいとしか言いようがない。
「……これは」
「これが、久金家を五家の頂点に押し上げた源の祝福であり──呪いだ」
晶の語気が切羽詰まったように激しさを帯びる。
声にならない悲鳴が呼び覚ました光の明滅が勢いを増す。
「うあ……ッッ!」
光が乱反射する激しさに比例して顔を歪めていた晶は手首を抑えて項垂れ、椅子から床になだれ込んだ。咄嗟に梢は駆け寄る。
「大丈夫ですか!? 人を……さっきの秘書さんをお呼びします!」
ドアに目を遣った梢を引き止めんばかりに手首を掴まれた。ぎりりと音がしそうなほどに締め付けられて、梢の息も荒くなる。
「……きみなら、鎮め方を知っているな」
「鎮め方? そんな、私には──」
おろおろと惑う手首を掴まれ、乱雑に押し付けられた先にはまばゆい亀裂がある。
手のひらが光に触れた瞬間、瞼の裏に閃光が走った。
「きゃ、ああ!?」
梢の頭に直接、光の奔流が降ってくる。
瞬きごとに視界を埋め尽くす光の勢いに翻弄されていた梢だが、手首が軋むほどに掴まれる痛みでようやく我に返る。
土ノ都の封印、水波の浄化、火邑の調伏、そしてすべてを阻む久金の結界。
瞬きごとに光景が切り替わるのは、見ている主体が異なるからだ──と気づいた時にすべてを把握した。
これは、境界線を超えたあやかしが最期に捉えた視界だ。
封じられる直前の怨嗟。
浄化される寸前の執着。
調伏されまいとする足掻き。
そして、己の力が及ばずに弾かれる絶望。
押し寄せる記憶の渦に目がくらみそうになったが、掴まれているのとは逆の手でポケットから竹笛を取り出し、折る勢いで音を鳴らす。
切り裂くような高音が記憶の乱反射を薙ぎ払う。
「ふ…………う、ッ!」
息の吹き込み方を低いものに変えて、沈む光を履き清めるように掬い取る。
あとはいつもの流れだ。天を覆わんばかりに生い茂る葉をイメージし、そのひとひらひとひらで覆い隠していく。
ひと息ごとに伸びゆく枝葉のざわめきで、なおも暴れる光の記憶を押さえ込んだ。
「お、わり……ました」
はあっと大きく息をついて、床に倒れ込みかけた梢の肩を支えたのは、いまだ顔色の戻らぬ晶だった。
「…………間違っていなかった、やはり、きみが……」
呼吸を整えながら横目で晶の手の甲を見る。
ぎらぎらとした反射こそ落ち着いたものの、亀裂はくっきりと残っていた。
「そんな、まだ残って……」
もう一度触れようとする梢の手を避けて、晶は背に隠す。
「もういい。これ以上は負担が大きすぎる」
「でも」
なおも言い募る梢が身を乗り出すと、晶は片腕で抱き寄せる。
するりと頬を撫でられ、梢は目を丸くした。
「なっ」
「顔色が悪い」
先程まで痛みに呻いていたとは思えぬ力で、晶は梢を抱き上げてソファに座らせる。
その隣にぴたりと寄り添うように腰を下ろし、小声で「聞いてくれるか」と問うた。
「それは……ここまで来たら話してくれるんでしょう? 気になりますよ」
「そうか。これを見てどう思った」
もう一度手の甲を掲げる。脈打つきらめきが、色を変えた。
「……境界線を越えたあやかしの末路。いえ、最期に見た光景……ううん、最期に抱いた記憶そのもの?」
思い起こすのも躊躇われる中、考えを手繰るように口にした答えに、晶は無言で頷いた。
「そう。見た通りだ。あれは今まで俺達が、そして遙か昔から俺達の祖が成してきたこと。それが降り積もって澱となっている」
「そんな、だってあやかしは祓われているはず。どうしてその記憶が、あなたにだけ悪さをするの」
その問いに、晶は焦点の合わぬ瞳で応えた。
悲しむような、諦めたようなそのまなざしに見覚えがある。その記憶を手繰るより前に、晶は静かに口を開いた。
「それは久金家が負う力によるものだ。我が家は知っての通り、強固な結界を以ってあやかしから護る役割を持つ。しかし、鋼鉄の護りから弾かれたものはすべて消え去る訳では無い。相手が強ければ強いほど、硬ければ硬いほどに残滓が生まれる。水で浄化するほどでも、火で調伏するほどでもないそれらは、静かに積もって結界に浸透していく」
「それが──結界の使い手、あなたの内側に澱のように溜まっていくの?」
「そういうことだ」
晶は手の甲をかざす。
ちらちらときらめくそれは、これまで受けてきたあやかしの痛みを無言で主張しているように見えた。
「残滓といえどあやかしだ。集まるほどに力を増す。しかし外側にあるものなら弾けもしようが、ひとたび内側に──俺の中に入り込んだそれは、並外れた妖力で暴れ回る」
ぎらりと蠱惑的な光が晶の瞳を映しとる。はっと梢は口を覆った。
──突如、攻守一体の並外れた力を得た久金家。
──若き当主は何者も寄せ付けない力で久金家を五家の頂点に押し上げた。
「まさか、あなたの力の源って」
「察しがよくて助かるよ。まあ、そういうことだ。あやかしを祓う側があやかしの力に呑まれているなんて、恥晒しもいいところだろう?」
冷めた瞳で笑い飛ばした晶は、隣で口を噤む梢を見下ろす。
「だから、きみとの縁談を望んだ。記憶を覆い隠す斎樹家の娘。まさか生きてる人間の他に、式神の記憶まで関与できるとは思わなかった。期待以上だよ」
「式神……あの侍女さん達のこと? そうよ、お姉様こそ花嫁だとあの子達の記憶を書き換えたはずなのに、どうしてさっきは、はじめましてだなんて」
「記憶に関与されたらこちらでは直しようがないんだ。だから顕現を解いて初期化した。本体の石さえあれば何度でも作り直せるからな」
梢は彼女達のピアスに思い至る。色違いの石が核だったとは。
「姉を護るために俺を利用したそちらも無茶苦茶だとは思うが、自分本位では俺も人のことは言えないな」
晶の瞳が梢を捉える。
「どうせ元々家のための結婚だ。きみも腹は括っているだろう」
ぐいと背中を抱き寄せられる。互いの瞳に互いが映る。
「梢が欲しい。きみの力が必要なんだ」
「わ、わたしは……」
きつい命令口調なくせに、縋るまなざしで求められて、梢の中でざわざわと葉が騒ぐ。
助けられるものなら助けたい。
しかし、ここで梢が久金家の嫁になれば、斎樹の家に残された姉は──
「だめ!」
梢は晶の胸を突き飛ばす。勢いで立ち上がると駄々をこねるように首を横に振った。
「おい、ここまで打ち明けておいて──」
「協力しないわけじゃない!」
言い切った梢は、大きく息をついて呼吸を整えた。ゆっくりと晶を見据える。
「記憶の封印なら嫁がなくてもできるでしょう。お姉様がここに嫁げば自然と関係は近くなるもの。定期的に往診する形をとれば、周りから悟られることなく対処していけるはず」
「っだから……!」
「お姉様を見捨てるなんてできない! たったふたりの家族なの。あなたが誠実なのはよくわかった。できる限り協力する。だから、私の頼みも聞いて」
絞り出すような懇願に、晶はそれ以上の言葉を止めた。
しんと冷えきったふたりの間で、言葉がかつんと弾かれて落ちる。
「……いい加減、姉離れしろ」
「そんなこと、あなたに言われる筋合いはない」
「いいか、きみの姉は──」
コンコンとノック音が響く。
「お二方、どうかその辺りでお納めください」
藍玉だった。
廊下にまで言い合いが筒抜けになっていたのかと、恥ずかしくなった梢は唇を噛んだ。
「梢様を慮るなら、今宵はここまでと致しましょう。もう夜も遅うございます」
どこまでも淡々と告げられた内容に、晶は俯きがちに了承した。
「そうだな。もう休め」
それ以上の会話を続けるつもりはないとばかりに背を向けられる。
藍玉が導いた先の廊下には翠玉が待っていた。
「すみません、助かりました」
「いいえ、仕事ですので……梢様」
藍玉が深く頭を下げた。
「えっ、ちょ」
「お願いがございます」
うろたえる梢に構わず藍玉は言葉を重ねる。こういうところが主従そっくりだと場違いにも思った。
「私の意思で申し上げます。晶様の伴侶となってください」
しんと静まり返った廊下で藍玉に頭を下げられ、翠玉にそのままの姿勢を保ったまま見つめられている。
居心地の悪さを破ってくれるものは誰ひとりいない。
「どうして、私なの。姉じゃだめなんですか」
「これ以上は申し上げられません。ですが、晶様がお望みなのは梢様ただおひとり。それをわかって頂きたかったのです」
すうと折り目正しく背筋を伸ばした藍玉は、眼鏡のアンダーリムに指を添えて位置を直す。
耳を覆っていた髪が少しだけ揺れて、藍色のピアスが見えた。
彼も式神なのだ。ここまで意志を持った式神を複数操れる晶の能力に、底知れないものを感じて梢の背筋が粟立った。
翠玉に案内されて戻った客間では、扉を開けるなりつぼみが不安げに抱きついてきた。
「何か……されたの?」
黙って首を横に振る。晶の力の源について、姉に話そうとは思えなかった。
晶が別れ際に言いそびれた言葉が耳に残っている。
姉は、何か隠している。
「ねえ、お姉様」
「なあに」
つぼみのつぶらな瞳が揺らいでいる。
ここで隠し事をしていないかと問い詰めることは簡単だ。
しかし──
「……疲れちゃった。お姉様も知らないところでひとり待たされて緊張したでしょ。休もうか」
「……ええ。あのね、侍女さんから伺ったんだけど、しばらく私たち、このお屋敷に留まることになったみたいよ」
「えっ、学校は? 新学期からどうするの?」
「荷物は取りに行ってくれるから、ここから通えるって」
「そう……」
叔父の住む家に戻らなくていいのは正直有難かった。姉とも離れずに済む。
「どうして、晶様はこんなにも良くしてくれるんだろう」
ベッドに潜り込んだ梢の呟きにつぼみはぷっと吹き出した。
「なあに突然。あなた、仮嫁入りで本当はいい方なのよってあんなに力説していたじゃない」
「それは直接会ってなかったからで……」
ふっと灯りが消える。
つぼみが寝支度を整えて、隣のベッドに寝転んだのが気配でわかった。
そっと手を差し伸べる。
「こおら、梢ちゃんの甘えん坊」
「……じゃあいい」
すっと布団に引き戻そうとした手が柔らかく握られる。なめらかな、あたたかい姉の手。
「どうして、が続くのは相手を知りたいからよ」
「……当たり前じゃない。お姉様の旦那様になる予定のひとよ」
暗闇で姉の輪郭がほのかに揺らぐ。
「いい加減、素直になりなさい。梢ちゃんの心はあなただけのものなのよ」
その言い回しに、晶に言われたものと似たようなものを感じ取って、梢は閉じかけていた瞼に力を入れる。
しかし、結局瞳は開くことなく思考は夜に沈んだ。