「どういうことだ」
部屋の主人がおらぬ部屋のソファで、一見くつろいで──しかし実は固まっている三人の侍女を見下ろし、久金晶は白皙を歪ませた。
「紅玉、翠玉、黄玉。返事をしろ」
それぞれの肩を揺するものの、彼女達の瞳は硝子玉のように揺らがない。
晶は紅玉と呼んだ侍女の耳に触れる。そこには紅色のピアスが埋め込まれていた。
「戻れ」
ひと言で女の姿は消えて、彼の手の中にはピアスだけが残る。後のふたりにも同じようにすると、晶は手のひらを強く握りこんで額にあてた。
脳裏を駈けるのは、三人が最後に見ていた記憶。
──家に戻ってよろしいかしら。
──妹が体調を崩したの。
──これからは姉をよろしくお願いします。
晶は目を開ける。
水晶めいた薄い水色の瞳に浮かんだのは、困惑か。
「……妹? 何を馬鹿なことを」
す、と立ち上がると窓の外へ目をやる。
とっぷりと暮れた庭の中、木々に寄り添う人影が凝った空気に固まっている。
──両家の奥様ごっこは楽しかったわ。ここならお姉様も安心して過ごせるわね。
「そうか……そういうことか。随分と甘く見られたものだな」
爛々と輝く瞳が幻影を見据える。
すると、その硝子に映る影があった。
「晶様、その台詞はどう聞いても悪役です」
眼鏡をかけた長身の男を硝子越しに睨みつける。しかし何処吹く風といったように男は耳にかかる髪をかきあげた。藍色のピアスが露になる。
「うるさいぞ、藍玉」
「ご忠告申し上げているだけです。これではお会いされた時、手紙とご本人のギャップで梢様が混乱されるでしょう。せっかく好青年を演出していたのに台無しですよ」
藍玉と呼ばれた男はあくまでも淡々とした表情を崩さない。大層な苦言──否、暴言だったが、晶もそれを意に介さず、くるりと体を反転させて藍玉に向き直る。
「明日、斎樹姉妹を連れてこい」
「おや、一晩猶予を与えるとはお優しい」
「どうせ病状がどうのと駄々をこねるだろう。そちらの手配も済ませておけ」
「仰せのままに」
藍玉は一礼すると、人形のような姿勢の良さで部屋を後にした。
ひとり残された晶は部屋を見渡す。
梢のために設えた調度の数々。
菓子箱は手つかずのままだったが、添えておいた手紙はない。
「……脈はあるのか。いや、資料か?」
その時、刺すような痛みが晶の手を貫いた。
呼吸が止まる。痛みが紛れる。一拍遅れて次の波が来る。
発作に強ばった手を力ずくで握り、やり過ごす。慣れたくはないが、嫌という程付き合わされてきた痛みだ。
「……ッ」
拳をテーブルに叩きつけて痛みを散らす。手の甲に浮かび上がるのは、血管でも骨でも筋でもない。
崖のようなひび割れた亀裂だ。
きらきらと輝く鉱物の断面に似たそれは、美しいがゆえに禍々しくもある。
「何故だ……梢」
「おい、久金家から使いが来ているぞ。冷徹久金、傲慢久金のお出ましだ」
翌朝一番、濁声で久金久金と連呼されて梢は跳ね起きた。昨日、つぼみの様子を見ながら寝落ちしたようで、首のつけねが痛い。
ばんばんと無遠慮に叩かれる襖に飛びつく。突っ支い棒を噛ませてあるとはいえ、開けられたら大変だ。この叔父ならやりかねない。
「わかりました! 今伺います!」
「今回の縁談は斎樹と久金だと決まっているからいいようなものの、火邑と水波も年頃らしいからな。久金の坊ちゃんを逃がすんじゃないぞ」
襖越しというのにヤニ臭い息がかかりそうで梢は顔をしかめる。叔父と顔を合わせていないのをいいことに隠すつもりも無いのだが。
五家の結束を血で強めるために、年頃の子どもは政略結婚を余儀なくされる。
それでも時代が下るにつれて、問答無用に結婚させるわけでなく、一応は互いの自由意志も尊重するようになってきた。
火邑家と水波家にも適齢期の男女がいる。火邑家の三人兄弟は秀才揃いだと評判だ。
順番はあるものの、必ずしも今年、久金家と斎樹家が結ばれる必要はない。もし、そちらが先に結婚するようなら、つぼみを斎樹家から──この薄汚い叔父から解放するチャンスが潰えてしまう。
口調と声色だけはよそ行きに装って「ご心配なく」と返すが、叔父は納得していない。
「今回の婚姻、あの冷徹久金から申し出があったと聞いている」
「ええ」
「久金始まって以来の秀才が、何を考えて斎樹を指名する? 水波の嬢ちゃんは雨乞いの手練と評判だぞ」
それに美人だ、と付け加えられて、それはお前の私欲だろ、と梢の瞳から更に温度が消えていく。
「あちらの目的など……こちらが知りたいですわ」
「斎樹の家を乗っ取ろうとしているんじゃないだろうな」
それはあんただろ、と梢は口の形だけで口答えする。
「いいか? ここの当主は俺だ。本家筋とはいえ、まだ頼りないお前達の親代わりなんだからな」
何を恩着せがましいことを。両親を喪ったあの日にずけずけと乗り込み、保護者気取りか。
直系から外れていることを逆手に取り、つぼみをいやらしい目で見ていることが梢には許せない。
優しく美しい、ただひとりの姉。
斎樹の家が司ってきた治癒の力を色濃く継いだ、類まれなる天賦の才能は、まぎれもなく彼女自身のものだ。
この男にのさばらせておいたら姉の才も、姉自身も確実に穢される。
梢は襖に張り付く指の力を更に強める。
「叔父様はご心配なさらず。久金様はお優しい方です。そんな方をお待たせしてはなりませんので、すぐに参りますね」
さっさと話を切り上げようと声を張り上げる。叔父としても久金に悪印象は持たれたくないらしく、ぶつくさ文句を言いつつ引き下がっていった。
「優しい? 五家のトップ気取りの傲岸不遜な若造が」
足音が遠ざかっていくのをぴったり耳をつけて確認し、ようやく梢は襖からそっと離れた。
「確かに、叔父様の言うことにも一理あるのよね」
それぞれ司るものの異なる五家は対等であるべきだ。
しかしそれは理想であり、力の発現が顕著な者を頂く家が、自然とリーダーシップをとるようになっている。
この世代は久金家がそうだった。
元来、堅牢な結界を張ることが久金の役割だった。どちらかといえば後衛部隊としての活躍を主とする久金は、治癒を司る斎樹と肩を並べていたはずだ。
それがどうだ。久金晶は盾ばかりでなく矛の力すら発揮している、久金家始まって以来の天才と名高い。攻撃も防御もひとりで完結するその圧倒的な力に、矛盾は起きていない。
若くして溢れんばかりの才気ほとばしる久金晶はその力を惜しみなく発揮し、幽世との境界線を強化し、はみだしたあやかしを容赦なく処断した。
これは攻撃を司る火邑家の領域を冒すものだと異論もあったが、実力差は明らかだった。
「融和を図るために火邑家と縁組をするならともかく、どうしてうちと……?」
考え込んだ梢だが、柱時計の刻む音にはたと我に返る。これでは久金の使いを待たせる一方だ。
「つぼみ様と梢様、お二方をお連れするようにと主人より仰せつかりました」
急いで支度を整えた梢とつぼみを応接室で待っていたのは、結い上げた黒髪とそれに似合いの黒い石のピアスをした女性だった。
「ふたりを?」
「ええ」
元よりこれから姉だけを久金家に連れて行って、梢の立ち位置をそっくりそのまま譲り渡すつもりではいたのだが、先方から二人揃っての指名と聞くとどうにも厄介だ。
久金家の嫁はつぼみひとり。梢は名前すら上がっていないはずなのに。
「かしこまりました。ふたりで参りましょう」
梢の思考をふつりと断ったのはつぼみの声だった。張りのある凛とした声音は堂々としていて、まさに長女の風格だ。
「家族になるのですもの。顔を合わせておいて損はなくてよ」
ね? と微笑む姉の真意が掴めないまま、梢は静かに頷いた。
「お初にお目にかかります。侍女の紅玉でございます」
「黄玉でございます。まあ、可愛らしい姉妹様」
「翠玉と申します。旦那様がお待ちでいらっしゃいますわ」
「私共、誠心誠意、奥方様にお仕え致します」
昨日と変わらぬ綺麗なユニゾンで出迎えたのは侍女の三人娘だった。
梢は唖然としながら、その作りもののようなかんばせを見つめる。
「どうして」
梢の術が、少しばかり歪んでいる。
意図した上書きではない。
これでは初期化だ。
戸惑いを隠せない梢の脇腹を、つぼみがつんとつついた。
「どういうこと」
静かに問われて梢は首を横に振った。
それだけで言いたいことを察したつぼみは、それ以上追求せずに前を向く。
侍女のひとり──紅色のピアスを着けた紅玉が先導する廊下をふたり並んで進む。
長い長い廊下。
母屋のそのまた突き当たり。
触れることをためらうほどに艶々と磨かれた手摺りを伝って階段を上る。
上り終えた頃には太ももがうっすらとだるくなっていた。
「これ、結構、太ももにくる、ね。お姉様、大丈夫……?」
「そう、ね……いい運動になる、わよ」
はあっと深く息をついたつぼみが上気した頬で笑う。
「ここの往復してるだけで、お姉様どんどん筋肉つくわよ。一年後に会いに来たらカモシカみたいな足かも」
「まあ、一年も会いに来ないつもりなの」
姉不孝よ、と抗議される。
梢としてはカモシカのくだりをつっこまれると思っていたので、微妙にずれたやりとりに乾いた笑みをこぼした。
「こちらで、旦那様がお待ちです」
案内してくれた侍女が深々と礼をする。
「ありがとうございます、紅玉さん」
昨日術をかけた本人かと確認の意味もこめて名前を呼べば、紅玉はぱっと顔を上げる。にこやかに微笑む頬がほのかに染まっていた。
古めかしい風合いのドアノブを見ながらノックをする。
「斎樹つぼみ」
「斎樹梢」
「ただいま馳せ参じました」
声を揃えて言い終わる前に錠の開く音がした。
「待っていた。お初にお目にかかる。俺の花嫁──斎樹、梢さん」
キン、と冴えた声音。どこか作り物のような抑揚で呼ばれた名前に、梢の胸の内がざわめいた。それを抑え込むように一礼する。
「“はじめまして”、久金晶様」
ついぞ旦那様と呼ぶことはなかったな、と梢はどこか苦い気持ちで顔を上げて眼前の男を見つめる。
真正面から見るのは初めてだが、やはり噂通りの雰囲気が肌に刺さる。
水晶のような薄い水色の瞳。
陶器に似たキメの細かい肌。
包み込む柔らかさよりも、すべてを跳ね返す、圧倒的な鋼が似合う男。
手紙で感じた温厚さを見出すには時間がかかりそうだ。
一瞬、見誤ったかという予測が過ぎる。
しかし、ここで暮らしたひと月の間では屋敷の雰囲気も使用人も、余所者を蔑ろにするような人柄に見えなかった。
梢は己の直感を信じたかった。
「……梢さん?」
もう一度、呼びかけられて気がついた。
なぜ彼は梢の名を呼ぶ?
「斎樹家息女」と婚姻するつもりでこの縁談を持ちかけたはずではないのか。
これではまるで──
「ふたりとも、そこにいては冷える。中へ」
晶がすたすたと中へ進む。恐る恐る足を踏み入れると、端に控えていた男性が折り目正しく礼をした。
秘書だろうか。眼鏡の似合う整った顔立ちだ。晶とよく似ている。
「さて、聞かせてもらおうか」
設えられた革張りのソファにふたりが腰を下ろしたことを確認し、晶は口火を切った。
「何を、でしょうか。こちらこそ、妹の私までがお呼び出しを受ける意図が掴めませんが」
「おや、今日は妹と名乗るのか。そちらは日によって長幼が入れ替わるようだな」
切り出したつもりが墓穴になっていた。とっさの返しができずに梢は固まる。
この男、どこまで知っている?
見定めるつもりだったのは向こうも同じらしい。
「そういえば──“姉”のつぼみさん」
ふいと話の矛先が変わる。
姉に何か酷いことを言おうものならただでは済ませない。眉間に力を込める。
「具合が芳しくないと聞いていたが、顔色は良いようで何より」
「……あら」
「家を背負う重責、重々承知している。同じく当主の座にあるものとして、援助は惜しまん。遠慮なく申し付けるように」
「……もったいないことでございます」
瞬きを二、三度繰り返したつぼみが静かに頭を下げる。
拍子抜けした梢に、再び晶の視線が向けられた。ぴんと立てた長い人差し指で軽く宙を叩く。
「初めに、情報を共有しておこう。まず、姉のつぼみさんの力は知られている通り、異常を覆い隠す──すなわち治癒」
こくりとつぼみは頷く。
久金は人差し指の隣に中指を添えた。はじめに出でたものよりも背の高い指。姉よりも我を張る自分自身を思い起こさせて、直視できずに目を伏せる。
「そして次女、梢さん。きみこそが斎樹家の影なるお役目──記憶の隠蔽、覆い隠す力の継承者だな」
弾かれたように瞼を開いた梢だが、言葉の一太刀で声を刈り取られたようだった。
久金晶は、すべて知っている。
「我々の領域に入り込んではならぬものが、見てはならないものを見てしまう。どんなに久金の結界が頑強だろうと、ほころびはある。その隙間を縫うのが斎樹の役目だ」
その通りだ。
この世ならざるものと接触したものの魂は乱れる。荒々しい力と感応して均衡を失う。自己を、他者を傷つける。
そういったことへの対処こそが、本来の斎樹の役目──記憶を覆い隠す。すなわち記憶を隠蔽し、工作する。
使い方を間違えれば人倫に悖る力だ。それゆえ斎樹は長い間、家の中で秘してきた。
梢が力を発現したのは小学校に上がる前だ。それを知らぬうちに力を行使して、こっぴどく叱られたことが一度だけある。
それを久金家の人間が知っているとは。
「斎樹は当主を──きみたちの父を失い、不安定になっている。分家筋がしゃしゃりでてきたようだが不穏な動きをしているな。だからこそ建て直しには外部の力が必要と思い、婚姻を申し入れた──が、なぜ長女を手放そうとする?」
晶の視線はまっすぐ梢に向けられていた。
つぼみの意思ではなく、梢の意思だと知っている。そんな目付きだ。
誤魔化すことはできそうにない。
はあ、と深くため息をついた。
こうなれば、承知の上で晶に乗ってもらうしかない。
「おっしゃる通り、これは私の一存。姉をそちらに嫁がせるつもりでございます」
晶は押し黙っている。続けろということだろう。
「お察しの通り、原因は分家筋の叔父。あれは姉を邪な目で見ている。はっきり言って目障りです」
あまりに率直な物言いに、晶は唇を緩めた。つぼみは口を覆ったものの、どう言い繕うべきか考えあぐねて、結局小さく首を横に振った。
「残念ながら私では姉を守りきれない。だからこの縁談は渡りに船でした。けれど、せっかく嫁いだ先が地獄では、守ったことにならない」
「だからきみが斥候役となったわけか」
さらりとまとめられ、梢は頷いた。彼の慧眼を密かに称賛する。
「舐められたものだな」
しかし──やはりと言うべきか、梢の計画は、晶の自尊心をいたく傷つけたらしい。
整った笑みには凄みすら感じられる。
しかしここで臆しては負けだと踏みとどまる。
「舐めてなど。むしろ感謝したほどです。顔を合わせぬ相手にあれほどの気遣い。侍女の方々にも大変よくしていただきました。従者は主の鏡。久金様の器量あってこその久金家でしょう。ですので確信したのです。姉を幸せにしてくれるのは、晶様しかいないと」
本音と追従のブレンドを装填してひたすら連射。息継ぎに殊勝さの演出として頭を下げて一呼吸。
顔を上げ、口の端を上げた。
「このようにお優しい方ならば、姉も幸せな家庭を築いていけるのでは、と期待しています。幸い、長女と次女どちらが嫁いだのかは対外的には明らかになっていませんので、これがラストチャンスです。姉を、大切にしてくださいませ」
譲れないのだ。これだけは。
とどめは目力。真正面から睨みつけんばかりに見つめると、満更でも無さそうに晶は目を細めた。
「……人の気も知らないで」
意図がつかめず生まれた空隙。
それを操れるのは生み出した本人の晶のみだ。
「いいだろう。事情は把握した。つぼみさんはこちらで引き取る。きみもだ」
「はあ? 花嫁を二人も? さすがの久金家といえどそれは法律に引っかかるでしょう」
「花嫁ではない。今の話を聞いてその叔父がいる家に返せると思うか」
「えっ」
姉妹そろって口を開ける。
「必要なものは用意させる。藍玉!」
「かしこまりました」
控えていた眼鏡の美青年は、それだけですべてを把握したらしい。りん、と傍らの机から手に取った呼び鈴を鳴らすと待ち構えていたように侍女三人娘が現れた。そのタイミングに驚きつつ、梢とつぼみは流されるように客間に連れられて行った。
初顔合わせという名の対決を制した晶の後ろで、藍玉は眼鏡の位置をくいと直す。
「流石は晶様。ご婦人にお優しいことですね」
「うるさい」
「それより、肝心な話をしていませんね? 少なくとも梢様には包み隠さずお話して、協力を仰がねばなりません。花嫁などどちらでも構わないこと……っと失礼致しました」
花嫁の話題を持ち出した途端に、晶の纏う空気が剣呑になる。藍玉は慇懃に頭を垂れた。
「花嫁は梢だ」
朗々と言い放った決定事項を知らぬは梢ばかりのようである。
客間は姉妹のために設えられていた。
空調も、水周りも、つぼみの体調や調薬に配慮された造りになっている。
部屋を見て回り、あれこれと感嘆しているだけで一日が終わりかけたことに梢は唖然とした。至れり尽くせりも極めれば時間を奪えるのだな、と若干失礼なことを考える。
食事を済ませたふたりは、ソファで身を寄せあっていた。
「梢ちゃんが言っていた通り……久金様っていい方なのね? こう言っては失礼だけれど、お噂とかけ離れてらして、とても意外」
少々浮き足立っているつぼみを見ているうちに冷めてきた梢は、髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜてふう、と上を向いた。天井が高い。
「確かにいい人だとは思ったけど……あの本人を見たら絶対何か裏がある、とは思う。でも、これに乗らない手はないよ。大丈夫、何かあったらお姉様だけは私が」
「そのことなんだけどね、梢ちゃん。話があるの。わたし、結婚は……」
ノックの音でつぼみの言葉が掻き消された。
「失礼致します」
侍女三人娘のお出ましだ。
「ご歓談中に申し訳ございません」
「旦那様より梢様にお話があるとのことです」
梢の目つきがぴりりと鋭さを増す。すっくと立ち上がり拳を握りしめた。
「ほらね。いいわ、受けて立つ」
「梢ちゃん! 穏便にね!」
ため息をつきながら取縋るつぼみを宥めて黄玉と翠玉に託し、またもや紅玉に案内されることになった。
道のりが先程と違う。どうやら私室への招待のようだ。
こじんまりとした部屋に久金家の当主の座とのミスマッチを感じるものの、椅子に腰掛けていた晶の背中が、くるりと背もたれを回転させて振り向いた。
「何の御用でしょう」
「斎樹の次女──つまりきみにしかできない頼みだ」
晶は手を差し出す。握手の形ではない。手の甲を向けている。
白い陶器のようなすべらかな肌に、歪んだ影が落ちているのが見えた。
「お怪我ですか? それなら私でなく姉でしょう……と」
ぎくりと言葉を切る。
これは傷口ではない。
手の甲に亀裂が入っている。
しかも、ぱくりと菱形に開いたそれの断面は、きらきらとまばゆいばかりに瞬いているのだ。
これが人体にあるものでなければ、素直に美しいと称賛もできようものだが、脈打つ拍動に呼応してちらちらと魅せる色を変えるそれは、禍々しいとしか言いようがない。
「……これは」
「これが、久金家を五家の頂点に押し上げた源の祝福であり──呪いだ」
晶の語気が切羽詰まったように激しさを帯びる。
声にならない悲鳴が呼び覚ました光の明滅が勢いを増す。
「うあ……ッッ!」
光が乱反射する激しさに比例して顔を歪めていた晶は手首を抑えて項垂れ、椅子から床になだれ込んだ。咄嗟に梢は駆け寄る。
「大丈夫ですか!? 人を……さっきの秘書さんをお呼びします!」
ドアに目を遣った梢を引き止めんばかりに手首を掴まれた。ぎりりと音がしそうなほどに締め付けられて、梢の息も荒くなる。
「……きみなら、鎮め方を知っているな」
「鎮め方? そんな、私には──」
おろおろと惑う手首を掴まれ、乱雑に押し付けられた先にはまばゆい亀裂がある。
手のひらが光に触れた瞬間、瞼の裏に閃光が走った。
「きゃ、ああ!?」
梢の頭に直接、光の奔流が降ってくる。
瞬きごとに視界を埋め尽くす光の勢いに翻弄されていた梢だが、手首が軋むほどに掴まれる痛みでようやく我に返る。
土ノ都の封印、水波の浄化、火邑の調伏、そしてすべてを阻む久金の結界。
瞬きごとに光景が切り替わるのは、見ている主体が異なるからだ──と気づいた時にすべてを把握した。
これは、境界線を超えたあやかしが最期に捉えた視界だ。
封じられる直前の怨嗟。
浄化される寸前の執着。
調伏されまいとする足掻き。
そして、己の力が及ばずに弾かれる絶望。
押し寄せる記憶の渦に目がくらみそうになったが、掴まれているのとは逆の手でポケットから竹笛を取り出し、折る勢いで音を鳴らす。
切り裂くような高音が記憶の乱反射を薙ぎ払う。
「ふ…………う、ッ!」
息の吹き込み方を低いものに変えて、沈む光を履き清めるように掬い取る。
あとはいつもの流れだ。天を覆わんばかりに生い茂る葉をイメージし、そのひとひらひとひらで覆い隠していく。
ひと息ごとに伸びゆく枝葉のざわめきで、なおも暴れる光の記憶を押さえ込んだ。
「お、わり……ました」
はあっと大きく息をついて、床に倒れ込みかけた梢の肩を支えたのは、いまだ顔色の戻らぬ晶だった。
「…………間違っていなかった、やはり、きみが……」
呼吸を整えながら横目で晶の手の甲を見る。
ぎらぎらとした反射こそ落ち着いたものの、亀裂はくっきりと残っていた。
「そんな、まだ残って……」
もう一度触れようとする梢の手を避けて、晶は背に隠す。
「もういい。これ以上は負担が大きすぎる」
「でも」
なおも言い募る梢が身を乗り出すと、晶は片腕で抱き寄せる。
するりと頬を撫でられ、梢は目を丸くした。
「なっ」
「顔色が悪い」
先程まで痛みに呻いていたとは思えぬ力で、晶は梢を抱き上げてソファに座らせる。
その隣にぴたりと寄り添うように腰を下ろし、小声で「聞いてくれるか」と問うた。
「それは……ここまで来たら話してくれるんでしょう? 気になりますよ」
「そうか。これを見てどう思った」
もう一度手の甲を掲げる。脈打つきらめきが、色を変えた。
「……境界線を越えたあやかしの末路。いえ、最期に見た光景……ううん、最期に抱いた記憶そのもの?」
思い起こすのも躊躇われる中、考えを手繰るように口にした答えに、晶は無言で頷いた。
「そう。見た通りだ。あれは今まで俺達が、そして遙か昔から俺達の祖が成してきたこと。それが降り積もって澱となっている」
「そんな、だってあやかしは祓われているはず。どうしてその記憶が、あなたにだけ悪さをするの」
その問いに、晶は焦点の合わぬ瞳で応えた。
悲しむような、諦めたようなそのまなざしに見覚えがある。その記憶を手繰るより前に、晶は静かに口を開いた。
「それは久金家が負う力によるものだ。我が家は知っての通り、強固な結界を以ってあやかしから護る役割を持つ。しかし、鋼鉄の護りから弾かれたものはすべて消え去る訳では無い。相手が強ければ強いほど、硬ければ硬いほどに残滓が生まれる。水で浄化するほどでも、火で調伏するほどでもないそれらは、静かに積もって結界に浸透していく」
「それが──結界の使い手、あなたの内側に澱のように溜まっていくの?」
「そういうことだ」
晶は手の甲をかざす。
ちらちらときらめくそれは、これまで受けてきたあやかしの痛みを無言で主張しているように見えた。
「残滓といえどあやかしだ。集まるほどに力を増す。しかし外側にあるものなら弾けもしようが、ひとたび内側に──俺の中に入り込んだそれは、並外れた妖力で暴れ回る」
ぎらりと蠱惑的な光が晶の瞳を映しとる。はっと梢は口を覆った。
──突如、攻守一体の並外れた力を得た久金家。
──若き当主は何者も寄せ付けない力で久金家を五家の頂点に押し上げた。
「まさか、あなたの力の源って」
「察しがよくて助かるよ。まあ、そういうことだ。あやかしを祓う側があやかしの力に呑まれているなんて、恥晒しもいいところだろう?」
冷めた瞳で笑い飛ばした晶は、隣で口を噤む梢を見下ろす。
「だから、きみとの縁談を望んだ。記憶を覆い隠す斎樹家の娘。まさか生きてる人間の他に、式神の記憶まで関与できるとは思わなかった。期待以上だよ」
「式神……あの侍女さん達のこと? そうよ、お姉様こそ花嫁だとあの子達の記憶を書き換えたはずなのに、どうしてさっきは、はじめましてだなんて」
「記憶に関与されたらこちらでは直しようがないんだ。だから顕現を解いて初期化した。本体の石さえあれば何度でも作り直せるからな」
梢は彼女達のピアスに思い至る。色違いの石が核だったとは。
「姉を護るために俺を利用したそちらも無茶苦茶だとは思うが、自分本位では俺も人のことは言えないな」
晶の瞳が梢を捉える。
「どうせ元々家のための結婚だ。きみも腹は括っているだろう」
ぐいと背中を抱き寄せられる。互いの瞳に互いが映る。
「梢が欲しい。きみの力が必要なんだ」
「わ、わたしは……」
きつい命令口調なくせに、縋るまなざしで求められて、梢の中でざわざわと葉が騒ぐ。
助けられるものなら助けたい。
しかし、ここで梢が久金家の嫁になれば、斎樹の家に残された姉は──
「だめ!」
梢は晶の胸を突き飛ばす。勢いで立ち上がると駄々をこねるように首を横に振った。
「おい、ここまで打ち明けておいて──」
「協力しないわけじゃない!」
言い切った梢は、大きく息をついて呼吸を整えた。ゆっくりと晶を見据える。
「記憶の封印なら嫁がなくてもできるでしょう。お姉様がここに嫁げば自然と関係は近くなるもの。定期的に往診する形をとれば、周りから悟られることなく対処していけるはず」
「っだから……!」
「お姉様を見捨てるなんてできない! たったふたりの家族なの。あなたが誠実なのはよくわかった。できる限り協力する。だから、私の頼みも聞いて」
絞り出すような懇願に、晶はそれ以上の言葉を止めた。
しんと冷えきったふたりの間で、言葉がかつんと弾かれて落ちる。
「……いい加減、姉離れしろ」
「そんなこと、あなたに言われる筋合いはない」
「いいか、きみの姉は──」
コンコンとノック音が響く。
「お二方、どうかその辺りでお納めください」
藍玉だった。
廊下にまで言い合いが筒抜けになっていたのかと、恥ずかしくなった梢は唇を噛んだ。
「梢様を慮るなら、今宵はここまでと致しましょう。もう夜も遅うございます」
どこまでも淡々と告げられた内容に、晶は俯きがちに了承した。
「そうだな。もう休め」
それ以上の会話を続けるつもりはないとばかりに背を向けられる。
藍玉が導いた先の廊下には翠玉が待っていた。
「すみません、助かりました」
「いいえ、仕事ですので……梢様」
藍玉が深く頭を下げた。
「えっ、ちょ」
「お願いがございます」
うろたえる梢に構わず藍玉は言葉を重ねる。こういうところが主従そっくりだと場違いにも思った。
「私の意思で申し上げます。晶様の伴侶となってください」
しんと静まり返った廊下で藍玉に頭を下げられ、翠玉にそのままの姿勢を保ったまま見つめられている。
居心地の悪さを破ってくれるものは誰ひとりいない。
「どうして、私なの。姉じゃだめなんですか」
「これ以上は申し上げられません。ですが、晶様がお望みなのは梢様ただおひとり。それをわかって頂きたかったのです」
すうと折り目正しく背筋を伸ばした藍玉は、眼鏡のアンダーリムに指を添えて位置を直す。
耳を覆っていた髪が少しだけ揺れて、藍色のピアスが見えた。
彼も式神なのだ。ここまで意志を持った式神を複数操れる晶の能力に、底知れないものを感じて梢の背筋が粟立った。
翠玉に案内されて戻った客間では、扉を開けるなりつぼみが不安げに抱きついてきた。
「何か……されたの?」
黙って首を横に振る。晶の力の源について、姉に話そうとは思えなかった。
晶が別れ際に言いそびれた言葉が耳に残っている。
姉は、何か隠している。
「ねえ、お姉様」
「なあに」
つぼみのつぶらな瞳が揺らいでいる。
ここで隠し事をしていないかと問い詰めることは簡単だ。
しかし──
「……疲れちゃった。お姉様も知らないところでひとり待たされて緊張したでしょ。休もうか」
「……ええ。あのね、侍女さんから伺ったんだけど、しばらく私たち、このお屋敷に留まることになったみたいよ」
「えっ、学校は? 新学期からどうするの?」
「荷物は取りに行ってくれるから、ここから通えるって」
「そう……」
叔父の住む家に戻らなくていいのは正直有難かった。姉とも離れずに済む。
「どうして、晶様はこんなにも良くしてくれるんだろう」
ベッドに潜り込んだ梢の呟きにつぼみはぷっと吹き出した。
「なあに突然。あなた、仮嫁入りで本当はいい方なのよってあんなに力説していたじゃない」
「それは直接会ってなかったからで……」
ふっと灯りが消える。
つぼみが寝支度を整えて、隣のベッドに寝転んだのが気配でわかった。
そっと手を差し伸べる。
「こおら、梢ちゃんの甘えん坊」
「……じゃあいい」
すっと布団に引き戻そうとした手が柔らかく握られる。なめらかな、あたたかい姉の手。
「どうして、が続くのは相手を知りたいからよ」
「……当たり前じゃない。お姉様の旦那様になる予定のひとよ」
暗闇で姉の輪郭がほのかに揺らぐ。
「いい加減、素直になりなさい。梢ちゃんの心はあなただけのものなのよ」
その言い回しに、晶に言われたものと似たようなものを感じ取って、梢は閉じかけていた瞼に力を入れる。
しかし、結局瞳は開くことなく思考は夜に沈んだ。
しばらくの間、高校には久金家から通うことになった。制服も勉強道具も斎樹家から速やかに引き取られ、客間に運び込まれた。
見慣れた自分の書き込みが残る辞書を開くことができる幸運を喜ぶと同時に、梢はやはり疑問を消すことができずにいる。
「……少なくとも、お礼はきちんと言うべきよね」
正直、晶が自分と結婚するかどうかの答えは出せずにいる。しかし、このまま避け続けてもいい方向に向かわないことだけは確かだ。
「晶様ですか? このお時間ですと気晴らしにお庭に出ることもございますよ」
お茶を淹れてくれた黄玉に尋ねれば、笑顔で返答してくれた。自然な笑顔にそつの無い応対。式神だと忘れそうになる。
ひと月過ごしていたおかげで、広い屋敷と言えどおおよその目安はつく。
洋風な屋敷ではあるものの、古くからある木を活かした庭は和風の趣きを備えている。大ぶりな松が目に止まった。
「あの時の……」
姉の夫として合格だと決めたあの日にも見た松だ。こうして再び見ることになるとは思わなかった。
感慨に浸りながらそっと幹に触れる。自然と呼吸が深くなる。
「……ですか、……に」
「ああ……と、ほら」
葉のそよぐ音に混じって聞き慣れた声が耳に届く。
つぼみの声だ。
松を迂回してそちらの方向へ向かう。会話の相手は晶だろうか。
「……夢みたいで、わたし、まだ実感がわかなくて」
「これから嫌でも噛み締めることになるだろうさ」
「もう、晶様は意地悪なことを仰るのですね。嫌だなんて……あるわけございませんもの」
涙まじりの声。しかし、悲しくて泣いているわけではないことは、話の内容から察しはつく。
おっとりした声音が弾んでいる。
余程いいことがあったのだろう。
しかし、梢にはそこから先の内容が上手く頭に入ってこない。
鼓動が胸から飛び出しそうに暴れ回っている。
そっと木々の合間から垣間見たつぼみは、涙を指先で拭いつつも晴れやかな顔をしている。
あのように頬を上気させている姉を見るのは久しぶりだ。
晶も表情こそ見えないものの、彼女に寄り添うように立ち、幾度か頷き返す後ろ姿からは伴侶に相応しい包容力を感じさせる。
元々、こうなることを望んでいたはずだ。
優秀で、誠実な久金晶を姉の夫とする。
それが姉の幸せを願う、梢の目的だった。
それならば、なぜ、こんなにも、息が詰まるのだ。
「……梢さんには、もう?」
晶の口からまろびでた自分の名前に、梢の心臓がひときわ激しく胸を叩く。喉の辺りがどくどくと熱い。
「まだなんです。あの子、きっと驚くわ。けれど、きっと祝福してくれるって……信じてますから」
祈るように手を組み、染み入る幸せに浸るつぼみに、晶は肩の力を抜いて笑いかける。
「姉妹だというのに嫉妬してしまいますよ。おかしな話でしょう」
「あら、笑いませんよ。わたし、存じてますもの」
慈愛に満ちたまなざしを送るつぼみを、彼女に困ったように笑いかける晶を、梢はもう見ていられない。
何のために晶を探していたのかも忘れて立ち去ろうとした時──ざあっと風が吹いた。
巻き上がる葉が、散る花びらが、しなやかに揺れる枝が──
晶の視線を、梢に導いた。
「……梢?」
「あら、梢ちゃん。学校は終わったの? おかえりなさい。そうだ、あのね、お話が」
「……あ、あとで聞くね。今は……ごめんなさい」
つぼみの顔がうまく見られなかった。
こんなあからさまな反応を見せたら心配をかけるのはわかっている。しかし、ふたりの方を向きながら、焦点だけをぼかすのが精一杯だった。
逃げるように踵を返して庭木の中に身を滑り込ませる。
妙に急く呼吸が落ち着かない。
「大丈夫、これで予定通り。お姉様と晶様が結婚すれば、お姉様を幸せにできる」
言い聞かせるように繰り返す。
歩を緩めて、母屋に向かう梢の腕を──
「きみの幸せはどこにあるんだ」
晶が、掴んでいた。
「な、んで」
「誤解しているだろうから、説明しに」
「何を、誤解するっていうの。大丈夫よ、ちゃんと理解してる。順調にお姉様と仲良くなっているみたいだから、邪魔しちゃ悪いなって気を利かせたの。確かにお姉様に恋人がいるのは初めてだから、どうすればいいかわからなくて挙動不審だったかもしれないけど、そのうち慣れるから大丈夫」
浅い呼吸の中、言い訳ばかりが次から次へと口をつく。
喋り続けていることで、余計に息を吸うタイミングを掴めずに苦しさは増す一方だ。けれど、自分の声で頭を溢れさせれば晶の言葉を聞かずに済む。
ただその一心だった。
「新婚家庭に花嫁の妹がいたらやっぱり窮屈でしょう。制服とか教科書まで持ってきて貰って申し訳ないけれど、私、斎樹の家に戻ることにします。だから、晶様も花嫁のところに、戻って──」
浅いばかりの呼吸が封じられた。
忙しなく動かされていた唇が、ようやく休むことを許される。
酸素を求めて開いた唇に押し当てられているのが晶のそれだと気づいた頃には、晶の腕が背中に回されていた。
「っ、ん」
焦って突っぱねようとしたが晶はびくともしない。
重なる唇のあたたかさと背を包む腕のたくましさに、強ばっていた身がゆるゆるとほどかれていく。
拒むつもりだった手が彼の肘辺りをそっと握るようになった頃、力の抜けた梢は後ろの樫の木にもたれかかっていた。
「なんで……」
「おかしなことを言う。花嫁のところに戻ったまでだ」
「花嫁は、お姉様でしょ、どうしよう、こんな、顔向けできな……」
無理やりされたとはいえ、キスを拒めなかったのは事実だ。
姉に対する重大な裏切りだ。
じわじわと押し寄せるのは焦燥か、後悔か。梢の顔が青ざめる。
反省や贖罪だけが胸を占めるならまだいい。しかし、唇を重ねた時の記憶は心の片隅に甘美なものとして刻まれてしまった。しっかりと脈打つそれは、どんなに葉を重ねようと覆い隠すことが適わない。
寒くもないので震えながら己の腕を抱き「どうしよう」とうわ言のように繰り返す梢の手首を掴み、晶は身をかがめる。
キスを恐れて顔を背けた梢だが、露わになった耳元に唇が寄せられた。
「よく聞け。姉は火邑家の次男を婿にとる。そして、きみは、俺と結婚して久金に入る。これがすべてだ」
睫毛に留まって視界を覆っていた涙の粒が、弾けて消えた。
「…………え?」
恐る恐る顔を上げると、勢いよくデコピンされて悲鳴をあげた。
「な、にするのよ!」
反射的に噛みつく梢だが、晶は目を醒まさせてやったとでも言わんばかりに得意げな顔で顎をさする。
「シスコンなら姉のことをしっかり見ておくんだな」
差し出されたのは封筒だった。宛名は久金晶。差出人は斎樹つぼみである。
「ら、ラブレター?」
「今の話の流れでどうしてそうなる。つぼみさんの了解は貰ってあるから読んでいい」
恐る恐る封を開けて中身に目を通す。見慣れた姉の筆跡だった。
「……つきましてはかねてよりお付き合いのありました火邑家次男、燎さんとの婚姻を認めて頂きたく……次の総会で五家当主の方々にお話を差し上げる予定です…………え?」
何度読み直そうと、ひと文字たりとも揺らがない事実がそこにある。
「まさかきみが自分の身代わりとして久金に嫁入りしたなんて、彼女は予想してなかったみたいでな。どう打ち明けて説得すればいいか、手紙で相談を受けてた」
──手紙。
はっと遡った記憶が弾ける。
久金家から帰ってきたあの日、座布団の下に隠すように敷かれていた封筒は、もしや。
「知っての通り、火邑家の当主は俺と五家筆頭を張り合う血の気の多いやつだが、次男坊は穏健派だ。だからといって舐めてかかると火傷するだろうが……そのあたりは、きみの叔父が身をもって知ることになるだろうよ」
「そんな……」
知らずのうちに握りしめていた便箋がくしゃりと歪む。
「お姉様が私の知らない男と結婚……!?」
「そこか。もう根回しは済んでるから、次の総会でふたりの婚姻は正式に通達される。さっき伝えていたのはそれだよ。あんなに喜んでいたんだから、妹なら祝福してやれ」
シスコンもここまで来ると重症だな、と呆れた晶は梢の手から手紙を抜き取った。このままでは蛇腹折りにされかねない。丁寧に折り畳んで封筒にしまっていると、梢が腕にしがみついてきた。
「火邑燎に決闘を申し込みたいのでそれも総会で諮って頂けますか、私より弱かったら斎樹家に婿入りなど認めません」
「……却下する」
息継ぎなしに言い切る梢に若干引きつつも、晶は梢を振り払おうとはしなかった。
「……それより、俺はきみを嫁にするつもりなんだが、それについて異論が出ないのは何よりだな?」
「はっ」
勢いよく飛びすさった梢の真顔に笑いつつ、晶は必要以上にゆっくりと近づき、顔を寄せる。
「つぼみさんと話していただけであんなに嫉妬してくれたとは、予想外だよ」
「あ、あれは、あなたがお姉様に不埒なことをしないか心配だっただけで」
「不埒なことって?」
ふ、と吐息が耳にかかる。それだけで頬を赤くした梢を満足そうに見つめた晶は、さりげなく木の幹に追い詰める。
「……っ、そ、それより、あなたこそ、どうして私と、その、結婚するって……その、あやかしの記憶を鎮めるだけなら、わざわざ結婚しなくてもいいのに」
「知りたいか?」
静かに手を取られる。
「一回だけだ」
静かに脈打つ手の甲に触れさせられる。途端に記憶の断片が溢れ出す。
しかし、知らない風景ではない。
角隠し、紋付袴。
波の踊る水波の家紋と一直線に揺らがぬ土ノ都の家紋が目に入る。
そうだ、これはずっと昔、まだ政略結婚の意味も知らなかった頃に出た結婚式だ。
式に参加できたのは力を発現したつぼみだけだった。
己のうちに眠るものの自覚のなかった梢は、庭で遊んでおいでと放り出されて──
弾けるように景色が変わる。
サスペンダーを付けた男の子がうずくまって泣いている。
そうだ、あの子は手の甲をごしごしと擦っていたっけ。
“ころんだの? バイキン入るとお熱でるって、おねえちゃん言ってたよ”
“ころんでない。はなせよ”
“水道、あっち。ちゃんと洗わなきゃ”
ばしゃんと水飛沫が上がる。
蛇口からの水を跳ね返すように、ぎらぎらと噛みつくようなフラッシュ。目の中に星が弾けて痛いくらいだ。
だからあの時、梢は──
“えいっ”
“おい、手なんかにぎんな! きたないってしかられるぞ”
“あばれちゃだめ。このパチパチしてるの、ちゃんと、おとなしくしてたら治るから”
傷口を直接握るなんて、今思えばとんでもないことだ。
けれどあの時は、手を洗う水ごと押さえ込んでしまえば綺麗になって治ると信じていた。子どもの考えなんてそんなものだ。
そうだ、あの後、お姉様が迎えに来た。力の発現の気配に驚いた大人達に抱えられて連れていかれて、何やらお説教を受けて、それで、男の子は──
ぱちん、と視界が弾けた。
梢の目の前には、サスペンダーをつけた男の子が──成長した久金晶が立っている。
「綺麗なくせに不気味で、痛くて、妙なものを見せる。誰も触れたがらなくて当然だ」
その手の甲には変わらず深い亀裂が刻まれ、歪でうつくしい深淵が覗いている。
「あんな風に触れられたのは初めてだった。きみが姉に連れられて行った後、確かに一旦痛みは鎮まったんだ」
「……だから、私を?」
「もう一度会いたかった。どうか久金家以外の四家に居ればと調べ回って……隠れるのが得意だな、流石は斎樹家だ」
「別に隠れていたわけじゃ……」
「ようやく見つけたかと思えば、式神の記憶まで隠して雲隠れだ。おかげで確信が持てたけどな」
晶の腕が梢の背に回る。抱きしめる手があまりに力強いのは、痛みを堪えるためなのか。
「ね、ねえ、痛むんですか? なら治療を」
梢が腕の中で身じろぐと、晶は抱擁を緩めて梢にされるがままに手を預ける。しかし、亀裂は痛いほどの光を放っていなかった。
「あれ、今はそんなに……」
「……初めてこの手に感謝する気になったな」
「え?」
「梢に触れてもらえる」
一拍遅れて意味を飲み込んだ梢の頬が、ぶわりと赤く染まる。彷徨う視線は亀裂を覆い隠す自分の手を撫でていくだけだ。
「……私、まだ、あなたのことよく知らない」
「ああ」
「結婚って言われても実感湧かないし、久金家の嫁が務まる自信もない」
「そうか」
「……今、お姉様と天秤にかけたら確実にあなたが負ける」
「…………善処する」
最後は流石に堪えたらしく、言葉に詰まったのが明らかだったが晶は梢を見つめたままだ。
「こんな私でも良いなら──」
「梢じゃなきゃ意味が無い、そう言っただろ」
覆い被さるような返答と共に、晶はそれ以上の言葉を梢から奪った。
「お姉様、いろいろ突っ走ってごめんなさいっっ!!」
ぱあんと勢いよく手のひらを合わせて頭を下げた妹に、つぼみは鷹揚に微笑んだ。
「いいのよ。夫が他の女性と親しげに話していたんですもの。怒るのが当たり前でしょう」
「え、ええと、夫ではない、かなー? と」
土下座する勢いだった上体をそろそろと上げて首を傾げた梢に、つぼみは白い指を頬に当てて花のように笑う。
「何言ってるの。あの時のふたりは正式に離縁してなかったんだから、夫婦に決まってるじゃない。夫の裏切りにはそれ相応の報いを受けさせないといけないわ。もう済ませた?」
食後の薬は飲んだ? のノリで尋ねられて、姉妹喧嘩の見物に来ていた晶がむせこんだ。
「もう! そんなこと言われたって夫婦だとかそういう自覚、ないし……」
もじもじと視線を泳がせた先には左手の薬指。そこには何も嵌っていない。
一度はつぼみに譲ろうとしたそれは晶の手で処分された。梢が高校を卒業してから改めて贈られることになっている。
「そう? 梢ちゃんがいいならそれ以上口は出さないけど……晶さん」
「はい」
「梢ちゃんを泣かせたら……わたし、少し困ったことになると思うから。お願い、ね?」
にこやかに凄まれて、晶は背筋に薄ら寒いものを感じながら姿勢を正して顎を引いた。
この妹にしてこの姉ありである。
「私だって、お姉様を泣かせたら火邑燎を灰にする覚悟はできてる……」
「もう、まだ会ってない相手を燃やさないで。わたしのお婿さんになる人なのよ」
結婚前の姉妹がする会話か、というツッコミをなんとか胸におさめた晶のポケットがヴヴと唸り、スマホの着信を告げる。目を通せば藍玉から仕事の用件だった。
「すまない、少し外す。しばらく姉妹水入らずにしてやるから、思い出を作っておけ」
「いいの? ありがとう!」
ぱあっときらめく、雨上がりの空より晴れた笑顔を向けられ、晶の頬が戸惑いと照れ臭さの境界で引き攣った。
「……人の気も知らないで」
「え?」
無防備な笑顔を向けたままの頬を包む。
寄せた唇を触れるだけに留めたのは、物足りなさに梢を焦らすためであり、姉に遠慮したわけではない……と晶は自分で自分を納得させた。
「夫婦の自覚くらい、しておけ」
捨て台詞のように言い残して、すぐに離れようとした袖がくんと引かれる。
見下ろせば、目元まで朱に染まった梢が何か言おうと口を開いては閉じ、終いには目を伏せてしまった。
断りもなしにキスしたことへの抗議だろうと見越した晶は、首をわずかに傾けて言葉の続きを待った。
「…………行ってらっしゃい、だ、旦那、様」
晶が言葉の意味を飲み込んでから、次の行動までにどれ程の空白があったのか、梢にも晶にも意識する余裕はなかった。
「もう一度呼べ」
「え? だ、旦那様」
「もう一度」
「旦那、様」
「やっぱり名前で呼べ」
「へ? あ、晶様? 晶さん?」
「さんなんかいらない」
「あ、あき……んうッ」
一言ごとに距離を詰められ、遂にはゼロになったふたりを横目で見ながら、つぼみはおもむろにスマホを取り出すと電話をかけ始めた。
繋がったタイミングで席を立ってドアへと歩き出す。
「……もしもし、燎さん? なんだかお会いしたくてたまらないの。今からお伺いしてもよろしいかしら」
ドアを静かに押しつけるようにして閉めると、晶を迎えにきた藍玉と鉢合わせした。
通話を終えたつぼみは、人さし指をぴんと立てて唇に寄せる。
「夫婦水入らずにしてあげましょう」
「…………かしこまりました」
慇懃に頭を下げた藍玉は、つぼみの後ろについて歩き出す。
ドアの向こうでは、新婚夫婦がぎこちなくも互いを求め始めた頃合だった。