「お初にお目にかかります。侍女の紅玉でございます」
「黄玉でございます。まあ、可愛らしい姉妹様」
「翠玉と申します。旦那様がお待ちでいらっしゃいますわ」

「私共、誠心誠意、奥方様にお仕え致します」

昨日と変わらぬ綺麗なユニゾンで出迎えたのは侍女の三人娘だった。
梢は唖然としながら、その作りもののようなかんばせを見つめる。

「どうして」

梢の術が、少しばかり歪んでいる。
意図した上書きではない。
これでは初期化だ。
戸惑いを隠せない梢の脇腹を、つぼみがつんとつついた。

「どういうこと」

静かに問われて梢は首を横に振った。
それだけで言いたいことを察したつぼみは、それ以上追求せずに前を向く。
侍女のひとり──紅色のピアスを着けた紅玉が先導する廊下をふたり並んで進む。
長い長い廊下。
母屋のそのまた突き当たり。
触れることをためらうほどに艶々と磨かれた手摺りを伝って階段を上る。
上り終えた頃には太ももがうっすらとだるくなっていた。

「これ、結構、太ももにくる、ね。お姉様、大丈夫……?」
「そう、ね……いい運動になる、わよ」

はあっと深く息をついたつぼみが上気した頬で笑う。

「ここの往復してるだけで、お姉様どんどん筋肉つくわよ。一年後に会いに来たらカモシカみたいな足かも」
「まあ、一年も会いに来ないつもりなの」

姉不孝よ、と抗議される。
梢としてはカモシカのくだりをつっこまれると思っていたので、微妙にずれたやりとりに乾いた笑みをこぼした。

「こちらで、旦那様がお待ちです」

案内してくれた侍女が深々と礼をする。

「ありがとうございます、紅玉さん」

昨日術をかけた本人かと確認の意味もこめて名前を呼べば、紅玉はぱっと顔を上げる。にこやかに微笑む頬がほのかに染まっていた。
古めかしい風合いのドアノブを見ながらノックをする。

「斎樹つぼみ」
「斎樹梢」

「ただいま馳せ参じました」

声を揃えて言い終わる前に錠の開く音がした。

「待っていた。お初にお目にかかる。俺の花嫁──斎樹、梢さん」

キン、と冴えた声音。どこか作り物のような抑揚で呼ばれた名前に、梢の胸の内がざわめいた。それを抑え込むように一礼する。

「“はじめまして”、久金晶様」

ついぞ旦那様と呼ぶことはなかったな、と梢はどこか苦い気持ちで顔を上げて眼前の男を見つめる。
真正面から見るのは初めてだが、やはり噂通りの雰囲気が肌に刺さる。
水晶のような薄い水色の瞳。
陶器に似たキメの細かい肌。
包み込む柔らかさよりも、すべてを跳ね返す、圧倒的な鋼が似合う男。
手紙で感じた温厚さを見出すには時間がかかりそうだ。
一瞬、見誤ったかという予測が過ぎる。
しかし、ここで暮らしたひと月の間では屋敷の雰囲気も使用人も、余所者を蔑ろにするような人柄に見えなかった。
梢は己の直感を信じたかった。

「……梢さん?」

もう一度、呼びかけられて気がついた。

なぜ彼は梢の名を呼ぶ?
「斎樹家息女」と婚姻するつもりでこの縁談を持ちかけたはずではないのか。
これではまるで──

「ふたりとも、そこにいては冷える。中へ」

晶がすたすたと中へ進む。恐る恐る足を踏み入れると、端に控えていた男性が折り目正しく礼をした。
秘書だろうか。眼鏡の似合う整った顔立ちだ。晶とよく似ている。

「さて、聞かせてもらおうか」

設えられた革張りのソファにふたりが腰を下ろしたことを確認し、晶は口火を切った。

「何を、でしょうか。こちらこそ、妹の私までがお呼び出しを受ける意図が掴めませんが」
「おや、今日は妹と名乗るのか。そちらは日によって長幼が入れ替わるようだな」

切り出したつもりが墓穴になっていた。とっさの返しができずに梢は固まる。
この男、どこまで知っている?

見定めるつもりだったのは向こうも同じらしい。

「そういえば──“姉”のつぼみさん」

ふいと話の矛先が変わる。
姉に何か酷いことを言おうものならただでは済ませない。眉間に力を込める。

「具合が芳しくないと聞いていたが、顔色は良いようで何より」
「……あら」
「家を背負う重責、重々承知している。同じく当主の座にあるものとして、援助は惜しまん。遠慮なく申し付けるように」
「……もったいないことでございます」

瞬きを二、三度繰り返したつぼみが静かに頭を下げる。
拍子抜けした梢に、再び晶の視線が向けられた。ぴんと立てた長い人差し指で軽く宙を叩く。

「初めに、情報を共有しておこう。まず、姉のつぼみさんの力は知られている通り、異常を覆い隠す──すなわち治癒」

こくりとつぼみは頷く。
久金は人差し指の隣に中指を添えた。はじめに出でたものよりも背の高い指。姉よりも我を張る自分自身を思い起こさせて、直視できずに目を伏せる。

「そして次女、梢さん。きみこそが斎樹家の影なるお役目──記憶の隠蔽、覆い隠す力の継承者だな」

弾かれたように瞼を開いた梢だが、言葉の一太刀で声を刈り取られたようだった。
久金晶は、すべて知っている。

「我々の領域に入り込んではならぬものが、見てはならないものを見てしまう。どんなに久金の結界が頑強だろうと、ほころびはある。その隙間を縫うのが斎樹の役目だ」

その通りだ。
この世ならざるものと接触したものの魂は乱れる。荒々しい力と感応して均衡を失う。自己を、他者を傷つける。
そういったことへの対処こそが、本来の斎樹の役目──記憶を覆い隠す。すなわち記憶を隠蔽し、工作する。

使い方を間違えれば人倫に悖る力だ。それゆえ斎樹は長い間、家の中で秘してきた。
梢が力を発現したのは小学校に上がる前だ。それを知らぬうちに力を行使して、こっぴどく叱られたことが一度だけある。
それを久金家の人間が知っているとは。

「斎樹は当主を──きみたちの父を失い、不安定になっている。分家筋がしゃしゃりでてきたようだが不穏な動きをしているな。だからこそ建て直しには外部の力が必要と思い、婚姻を申し入れた──が、なぜ長女を手放そうとする?」

晶の視線はまっすぐ梢に向けられていた。
つぼみの意思ではなく、梢の意思だと知っている。そんな目付きだ。
誤魔化すことはできそうにない。
はあ、と深くため息をついた。
こうなれば、承知の上で晶に乗ってもらうしかない。

「おっしゃる通り、これは私の一存。姉をそちらに嫁がせるつもりでございます」

晶は押し黙っている。続けろということだろう。

「お察しの通り、原因は分家筋の叔父。あれは姉を邪な目で見ている。はっきり言って目障りです」

あまりに率直な物言いに、晶は唇を緩めた。つぼみは口を覆ったものの、どう言い繕うべきか考えあぐねて、結局小さく首を横に振った。

「残念ながら私では姉を守りきれない。だからこの縁談は渡りに船でした。けれど、せっかく嫁いだ先が地獄では、守ったことにならない」

「だからきみが斥候役となったわけか」

さらりとまとめられ、梢は頷いた。彼の慧眼を密かに称賛する。

「舐められたものだな」

しかし──やはりと言うべきか、梢の計画は、晶の自尊心をいたく傷つけたらしい。
整った笑みには凄みすら感じられる。
しかしここで臆しては負けだと踏みとどまる。

「舐めてなど。むしろ感謝したほどです。顔を合わせぬ相手にあれほどの気遣い。侍女の方々にも大変よくしていただきました。従者は主の鏡。久金様の器量あってこその久金家でしょう。ですので確信したのです。姉を幸せにしてくれるのは、晶様しかいないと」

本音と追従のブレンドを装填してひたすら連射。息継ぎに殊勝さの演出として頭を下げて一呼吸。
顔を上げ、口の端を上げた。

「このようにお優しい方ならば、姉も幸せな家庭を築いていけるのでは、と期待しています。幸い、長女と次女どちらが嫁いだのかは対外的には明らかになっていませんので、これがラストチャンスです。姉を、大切にしてくださいませ」

譲れないのだ。これだけは。
とどめは目力。真正面から睨みつけんばかりに見つめると、満更でも無さそうに晶は目を細めた。

「……人の気も知らないで」

意図がつかめず生まれた空隙。
それを操れるのは生み出した本人の晶のみだ。

「いいだろう。事情は把握した。つぼみさんはこちらで引き取る。きみもだ」
「はあ? 花嫁を二人も? さすがの久金家といえどそれは法律に引っかかるでしょう」
「花嫁ではない。今の話を聞いてその叔父がいる家に返せると思うか」
「えっ」

姉妹そろって口を開ける。

「必要なものは用意させる。藍玉!」
「かしこまりました」

控えていた眼鏡の美青年は、それだけですべてを把握したらしい。りん、と傍らの机から手に取った呼び鈴を鳴らすと待ち構えていたように侍女三人娘が現れた。そのタイミングに驚きつつ、梢とつぼみは流されるように客間に連れられて行った。

初顔合わせという名の対決を制した晶の後ろで、藍玉は眼鏡の位置をくいと直す。

「流石は晶様。ご婦人にお優しいことですね」
「うるさい」
「それより、肝心な話をしていませんね? 少なくとも梢様には包み隠さずお話して、協力を仰がねばなりません。花嫁などどちらでも構わないこと……っと失礼致しました」

花嫁の話題を持ち出した途端に、晶の纏う空気が剣呑になる。藍玉は慇懃に頭を垂れた。

「花嫁は梢だ」

朗々と言い放った決定事項を知らぬは梢ばかりのようである。