「鈴花ー、直樹くんが来てるわよ」
「はぁい」
わたしは内心ため息をつきながら玄関へ向かった。
お母さんとべらべら喋っているこの生意気な男子─土屋直樹は、幼稚園から小学三年生の今までずっと同じクラスの腐れ縁。
「おっ、来たか鈴花!相変わらず暇そうだな。そんな鈴花の為に、今日もとっておきの遊びを考えてきたぞ!」
「そんな暇じゃないんですけどー、まあいいや。で、何なのさ」
「ふっふっふっ、行ってからのお楽しみだ!」
「うわっ!」
靴を履いた瞬間に手を引っ張られて、強引につれていかれる。
「気を付けてねー」
後ろから追ってきたお母さんの声も、蝉の大合唱にかき消される。
8月12日。夏休み真っ只中のわたしたちは、ほぼ毎日ふたりで出かけている。
昨日は公園で、一昨日は直樹の家でゲーム。
毎回直樹がわたしをつれだして、なにか問題を起こして、わたしがフォローする。
そんな構図も、もう慣れた。結局、わたしはずっと直樹のお世話係なんだろう。頭の痛くなる話だ…。
「ねえ、遠くない?どこ行くの?」
「だからそれは、行ってからのお楽しみだって。大丈夫!俺に任せろ!」
「はぁ、結局、最後になんとかするのはわたしなんだから、変なことしないでよねー」
溶けそうなほど眩い太陽の下、わたしたちはどんどん街の外れの方へ歩いていった。
「もう結構歩いてるよね?疲れたんだけど─」
「着いた!」
突然ぱっと手が離される。
駆けていく背中が、くるっと反転して涼風が吹いた。
「じゃーん!俺らの秘密基地!」
両手を大きく広げて、見せびらかすように笑う。
そこは、大きな雑木林の中の小さな池だった。
この空間だけぽっかりと穴が空いたかのように、水面のステージが鎮座している。
光の遮られた真っ直ぐな樹の下は涼風が吹いて、池だけがゆらゆらときらめいていた。
「こんなとこあったの?初めて来た」
「探検してたら見つけたんだ!ここなら、最適だと思ってな」
「最適って、なにに…あっ、まさか」
嫌な予感。
バシャーン、と唐突に涼し気な音がなる。
「ああっ、直樹、あんたって人はほんとに面倒ばっかり起こすんだから!」
「あはは!鈴花、楽しいぞ、一緒に泳ごう」
「は、はぁ?そんなことする訳」
ばしゃ、と2回目の嫌な予感。
体が一気に冷えたのは、きっと水のせいだけじゃない。血液が全部干上がってしまったみたいに、背筋から冷たくなっていく。
怖くて、そんなに深い訳じゃない、足をついても胸くらいの池なのに、何故か立てなくて。
目を閉じて、瞼が急に明るくなった。
「…花!大丈夫か?鈴花!」
目を開くと、目の前に憎きあいつの顔。
「な、直樹」
「鈴花、よかった」
言葉とは裏腹に少しも安心していない表情でこちらを見つめている。
なんだ、そんな真剣な顔もできるんじゃん。
でも。なにかが違う。
ふざけてないで真面目になってくれればわたしの苦労も減るのに、なんて思っていた筈なのに。
わたしが一緒にいたい直樹は、こういう直樹じゃない。
そう。
「ちょっと。いい加減にしてよね。女の子を落とすなんて、最低!」
「ご、ごめん。強く手を引きすぎた…」
外していた目線をわたしに合わせた直樹は、目を丸くする。
わたしは満面の笑みで、その視線を受け止めた。
「だから、なんかお詫びしてよね」
流れるようにおねだりすると、彼はぱちぱち瞬きして。
一瞬でいつもの笑顔になった。
「そういうと思って、持ってきたんだ。ほら、な!」
そう言って池に飛び込んだときに投げ出していたらしいコンビニのビニール袋を掲げる。
3度目の嫌な予感。
「じゃじゃーん。アイス!」
「だと思った…」
はぁ、どうしてこの子は、こんな暑い日にアイスをもち歩いていたら溶けてもはや原型を留められないことに気づかないのだろう。
「うわ、水じゃないか!」
「当たり前!」
ソーダ味の、溶けたアイスで服を濡らす。
日はまだまだ沈まない。

「ここ、昔遊んだ池に似てるね」
「ああ、あの時は服をべちゃべちゃにして母さんにこっぴどく叱られたな…」
「自業自得だよ。なんで、アイスは溶けるってわからないかなー」
「返す言葉もない…」
がっくりと肩を落とした直樹に笑う。
わたしも、人のことは言えないかもしれない。
だってあの時まで、わたしの心がこうも簡単に溶けてしまうなんて思ってもいなかったんだから。
君に落とされて、わたしの心はあのアイスみたいにこの熱さに溶けている。あの時から、高校生の今でもずっと。
そのことは、ここだけの話。