この二年後、玲はRoom社のCMに出演し、更に二年後、和昌の後を継ぎ政治家になった。
この決断について、由美はずっと「なぜ」と思っていた。
人々の守護神として君臨していた玲が政治家になる――由美にはそれが凋落にしか思えなかった。
政治家という職業に対して由美が抱いていた嫌悪感――それは、父親が与党の大物政治家であることによって、幼い頃から被ってきた様々な出来事と関係していたが、大人になるにつれ、報道を通じて知る「政治家」という職業に対する世間のイメージの悪さが、その思いを一層深くしていた。
政治とカネの問題、政局論争、政治的混乱で、人々の政治家に対するイメージは冷ややかだ。かつてはあったかもしれない敬意はとうの昔に消え去り、投票は同情となり、最早、国民の僕《しもべ》しか意味しなくなった。
守護神は言葉を発してはならない。何も言わず君臨する姿に、人々は敬意を示すから。
守護神は公平でなければならない。人々にとって祈ることしかできない存在だから。
政治家になるということは、その両方を捨て、人々の前に姿を現すことだ。
政治家は言葉を発さなければならない。しかも、その言葉は人々に希望を感じさせる甘言でなければならない。
政治家は公平ではない。何かを選択し、何かを捨てるという判断をしなければならない。
その後に待つのは失望という怒り――聡明である玲が、そのことに気づいていないはずがなかった。
それなのに、どうして玲は人々の前に姿を現したのか。
彼女は政治家として何を成そうとしたのか。
由美はスクラップブックから顔を上げる。
玲の政治信条は、女性的視点の浸透による社会革新だった。
「20世紀のフェミニズム運動の成果は、経済成長の結果もたらされた男性側からの妥協の産物」
「リーマンショック以降続く日本経済の停滞は、男性中心の社会構造の限界を示している。今こそ、女性の視点から社会を再構成すべき」
“U-Society《ユー・ソサイエティ》”
そう呼んだ社会を実現する為、玲は世界中を飛び回った。自らの人脈をフル活用し、各国の政治家、経営者、活動家、思想家、セレブリティと対話を重ね、協力を求めた。
当初、メディアは、これらの活動を取り上げ、“自らの経歴を活かし精力的に活動する佐伯議員”“閉鎖的な日本政治に新しい風を吹き込む新世代《ニュージェネレーション》議員”と好意的に伝えていた。しかし、玲の所属する民貴党の幹事長が、玲に対して厳重注意を行っていたことがわかると、一気に批判に傾いた。
加えて、玲のメディア方針――基本的にマスコミの取材は受けない――が、一連の報道を加速させた。その矛先は、玲だけでなく、玲を支える女性スタッフにも向けられ、“海外の有名大卒の帰国子女お嬢様スタッフ”と人々の癇《かん》に障る見出しが紙面を飾ったかと思えば、週刊誌やネット上には、元スタッフや業界関係者といった怪しげな人物が登場し、“佐伯議員は逆差別者!”“佐伯議員はレズビアン”“美人スタッフ達は各国要人をもてなす喜び組!”といった下衆な記事が掲載された。
トドメは、政治資金収支報告書で明らかにされた玲の資産額の大きさと、Room社のキャンペーンで受け取ったとされる契約料――その額およそ1億ドル――に関する報道だった。
こうして、玲は“世間知らずのお嬢様議員”となった。
由美はスクラップブックを閉じる。
「こうなることはわかっていたのに」という気持ちと、何としてでも玲を跪《ひざまず》かせようとする報道、そして、それを求める人々の無意識的な執念に、思いを募らせる。
そして、今回の事件――このままでは、犯人が玲の輝かしい生き方に対して抱いていた嫉妬の暴発として片付けられてしまうことになる。
「犯人はなぜ玲を殺そうと思ったのか」
知りたい。
そう思うと同時に、由美はプライベートの携帯電話を手に取る。時刻は6時43分。母はもう起きているはずだ。
電話をかける。発信音が鳴り、四度目のコールで電話が取られる。
――佐伯です
いつもと変わらない田村さんの声。
――田村さん、おはよう
――由美様、おはようございます
数日前の電話の時といい、田村さんはいつも変わらない。
――母さんいる?
――少々お待ちくださいませ
保留音が流れる間、由美は、頭の中でこれから家を出るまでのシミュレーションをする。
――由美、あなたなの!
切羽詰まった声。
――そう
――どうして今までかけてくれなかったの、という母の問いを無視して、
――今日の整理って何時から? と訊ねる。
――あなた来てくれるの?
――うん。だから、何時に行けばいい?
――9時30分からだから、その少し前に来てくれればいい
――わかった。じゃあ準備するから
そのまま電話を切ろうとする由美に、
――ねえ。その後はこっちに寄れないの? と母が訊ねる。
――昼過ぎには、会社に一度顔を出さなきゃいけないから
そう言うと、――じゃあまた後でね、と続け、電話を切る。
由美は携帯電話を置くと、シャワーを浴びるため浴室に向かう。
この決断について、由美はずっと「なぜ」と思っていた。
人々の守護神として君臨していた玲が政治家になる――由美にはそれが凋落にしか思えなかった。
政治家という職業に対して由美が抱いていた嫌悪感――それは、父親が与党の大物政治家であることによって、幼い頃から被ってきた様々な出来事と関係していたが、大人になるにつれ、報道を通じて知る「政治家」という職業に対する世間のイメージの悪さが、その思いを一層深くしていた。
政治とカネの問題、政局論争、政治的混乱で、人々の政治家に対するイメージは冷ややかだ。かつてはあったかもしれない敬意はとうの昔に消え去り、投票は同情となり、最早、国民の僕《しもべ》しか意味しなくなった。
守護神は言葉を発してはならない。何も言わず君臨する姿に、人々は敬意を示すから。
守護神は公平でなければならない。人々にとって祈ることしかできない存在だから。
政治家になるということは、その両方を捨て、人々の前に姿を現すことだ。
政治家は言葉を発さなければならない。しかも、その言葉は人々に希望を感じさせる甘言でなければならない。
政治家は公平ではない。何かを選択し、何かを捨てるという判断をしなければならない。
その後に待つのは失望という怒り――聡明である玲が、そのことに気づいていないはずがなかった。
それなのに、どうして玲は人々の前に姿を現したのか。
彼女は政治家として何を成そうとしたのか。
由美はスクラップブックから顔を上げる。
玲の政治信条は、女性的視点の浸透による社会革新だった。
「20世紀のフェミニズム運動の成果は、経済成長の結果もたらされた男性側からの妥協の産物」
「リーマンショック以降続く日本経済の停滞は、男性中心の社会構造の限界を示している。今こそ、女性の視点から社会を再構成すべき」
“U-Society《ユー・ソサイエティ》”
そう呼んだ社会を実現する為、玲は世界中を飛び回った。自らの人脈をフル活用し、各国の政治家、経営者、活動家、思想家、セレブリティと対話を重ね、協力を求めた。
当初、メディアは、これらの活動を取り上げ、“自らの経歴を活かし精力的に活動する佐伯議員”“閉鎖的な日本政治に新しい風を吹き込む新世代《ニュージェネレーション》議員”と好意的に伝えていた。しかし、玲の所属する民貴党の幹事長が、玲に対して厳重注意を行っていたことがわかると、一気に批判に傾いた。
加えて、玲のメディア方針――基本的にマスコミの取材は受けない――が、一連の報道を加速させた。その矛先は、玲だけでなく、玲を支える女性スタッフにも向けられ、“海外の有名大卒の帰国子女お嬢様スタッフ”と人々の癇《かん》に障る見出しが紙面を飾ったかと思えば、週刊誌やネット上には、元スタッフや業界関係者といった怪しげな人物が登場し、“佐伯議員は逆差別者!”“佐伯議員はレズビアン”“美人スタッフ達は各国要人をもてなす喜び組!”といった下衆な記事が掲載された。
トドメは、政治資金収支報告書で明らかにされた玲の資産額の大きさと、Room社のキャンペーンで受け取ったとされる契約料――その額およそ1億ドル――に関する報道だった。
こうして、玲は“世間知らずのお嬢様議員”となった。
由美はスクラップブックを閉じる。
「こうなることはわかっていたのに」という気持ちと、何としてでも玲を跪《ひざまず》かせようとする報道、そして、それを求める人々の無意識的な執念に、思いを募らせる。
そして、今回の事件――このままでは、犯人が玲の輝かしい生き方に対して抱いていた嫉妬の暴発として片付けられてしまうことになる。
「犯人はなぜ玲を殺そうと思ったのか」
知りたい。
そう思うと同時に、由美はプライベートの携帯電話を手に取る。時刻は6時43分。母はもう起きているはずだ。
電話をかける。発信音が鳴り、四度目のコールで電話が取られる。
――佐伯です
いつもと変わらない田村さんの声。
――田村さん、おはよう
――由美様、おはようございます
数日前の電話の時といい、田村さんはいつも変わらない。
――母さんいる?
――少々お待ちくださいませ
保留音が流れる間、由美は、頭の中でこれから家を出るまでのシミュレーションをする。
――由美、あなたなの!
切羽詰まった声。
――そう
――どうして今までかけてくれなかったの、という母の問いを無視して、
――今日の整理って何時から? と訊ねる。
――あなた来てくれるの?
――うん。だから、何時に行けばいい?
――9時30分からだから、その少し前に来てくれればいい
――わかった。じゃあ準備するから
そのまま電話を切ろうとする由美に、
――ねえ。その後はこっちに寄れないの? と母が訊ねる。
――昼過ぎには、会社に一度顔を出さなきゃいけないから
そう言うと、――じゃあまた後でね、と続け、電話を切る。
由美は携帯電話を置くと、シャワーを浴びるため浴室に向かう。