ある日の午後、由美は富沢と会議室にいた。

 由美の書き下ろし本の原稿に軽く目を通した富沢は、すぐに事情を察したようで、「これでいくのか?」と正面に座る由美に尋ねた。

「そのつもりですけど、どう思いますか?」

「相談するってことは、迷いがあるんだろ?」

「金子さんには『そこまで求めていない』と言われました」

「そうだな、たしかに」
 富沢はもう一度原稿に目を落とす。

「でも、本人としては変えたくないと……」

「はい」

「なら、『それでいいじゃないか』と俺は思うが、中川はこれを書くことで何を望んでるんだ?」

「望みですか?」

「『金を稼ぎたい』とか『記者として尊敬されたい』とか、この本を書くことで、中川が手にしたいことだ」

「少し違うかもしれませんが、私は自分が恥ずかしいと思うような本は書きたくないんです。それは、結局の所、尊敬される記者になりたいということなのかもしれませんが」

「なら簡単だ。あとは、そのためにしなきゃいけないことをすればいい」

 それくらいのことはわかっていた。由美の表情からそのことを読み取ったのか、富沢が続ける。

「編集長として、俺は毎週記者の原稿を読む。そうすると、思う事なんていっぱいある。『ここの部分を掘り下げて書けば、もっと良くなるのにな』とか『なぜこの観点から書いたんだろう』とか。でも、それは記者本人には言わない。なぜだかわかるか?」

 由美は富沢の目を見る。

「結局、俺が書いているわけじゃないからだ。何をどう書くかっていうのは、書く人間の特権だ。だから、好きにすればいい」

 そう言って席を立ち、会議室を出て行こうとする富沢を呼び止める。

「編集長が『篤信の証明』を書いた時は、何が望みだったんですか?」

 富沢はその場で腰を左右に捻り、腰骨を鳴らしてから振り返る。

「さっきの話を聞いて、俺が『ただ純粋に書きたかった』と言っても信用しないだろうからな」

 言葉を待つ。

「まあ金と名誉よ。あの頃は誰も彼もカナリアの翼を叩く記事を書いていた。人々は自分が安心できるような情報を求めて、新聞や雑誌を買う。にも関わらず、そこに載っているのは、不安を煽る記事ばかりで、人々はますます不安になっていく、そんな状況だった。それでも、まあ売れていたからな、わざわざ違う視点から記事を書こうという空気はなかった。ただ、個人的には面白くなかった。さっきの話で言うと、書く特権がない。だから、違う視点から書けば評価されるんじゃないかと思った。実際は、ほとんど売れなかったし、評価どころか、記者仲間は自分に火の粉が降りかからないように離れていくばかりだったけどな」

 十分な励ましだった。

 会議室を出て行く富沢の後ろ姿に、由美は心の中で頭を下げた。