柏木のマンションに帰った由美は、シャワーを浴びてから、原稿を書く。

 0時過ぎに帰ってきた柏木は、いつもと変わらない様子で「ただいま」と声を掛けると、すぐにシャワーを浴びにいく。

 数分後、洗面所から出てきた柏木が、「まだ寝ない?」と由美に訊ねる。

「もうちょっと」

 由美はパソコンを見ながら答える。

「じゃあ先に寝る。おやすみ」

 普段ならもう少し甘えたりする所だが、あっさりとしていた。

 由美は30分ほど原稿を書いてから、ベッドに入る。

 すぐに柏木が身体を求めてきた。

 由美は疲れていたし、そんな気分でもなかったが、最初は抵抗せず、柏木のしたいようにさせていた。

 早々に柏木の手が下着にかかる。

「イヤ」

 由美が小さく声をあげる。

 それでも続けようとする柏木に「イヤなの! 止めて!」と、今度は鋭く声を放つ。

 柏木の手が止まり、由美から離れる。

 由美は太腿まで下げられた下着を戻し、衣服を整える。それから、天井を見つめ、何とか気持ちを落ち着かせようとする。

 信頼する相手に捌け口として扱われたことへのショックに言葉を失う。

「ごめん」
 柏木が謝る。

 由美は答えなかった。何も聞きたくなかった。

 寝息ではないお互いの呼吸が、静まりかえった室内に響く。

「水、飲む?」
 由美が声を掛ける。

「うん」

 由美はベッドを抜けリビングに向かう。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、グラスを手に寝室に戻る。

 ベッドライトを点けてから、グラスに注いだミネラルウォーターを何回かに分けてゆっくりと飲む。 

 柏木の分を入れ、「智樹」と呼ぶ。

 身体を起こした柏木は、受け取ったグラスには口をつけず、両手で持ったままだ。

「家族とは連絡取ってる?」
 由美が話題を変える。

「便りがないってことは、変わりないんじゃないかな」

「全然知らないの?」

「ここ数年は一度も会ってない。でも、電話番号もメアドも変えてないし、何かあったら連絡してくるでしょ」

「事業は? 順調なの?」

「借金取りから電話が掛かってこないから、倒産はしてないんじゃない?」

「それでも、仕事でこっちに来る機会なんていくらでもあるでしょう」

「あるだろうけど、まあ父親には嫌われているから」
 柏木はようやく水を口にする。

「たまには家族に会いたいって思わない?」

「ないかな。そもそも、この歳になった息子が家族に会いたいなんて気持ち悪くない?」

「そんなことないと思うけど」

「というより、それ以前の話で、うちは小さい頃から両親共働きで家にいなかったし、6つ上の兄は、大学からイギリスでもう15年近く会ってない。とうの昔にうちは家族ではないんだよ」

 柏木は淡々と説明する。

「そうなんだ」

「由美の所は?」

「うちも同じ感じ。母親だけはだいぶ違うけど」

 会話が途切れる。柏木はもう一度グラスに口をつける。

 喉の鳴る音が、由美にもはっきりと聞こえた。

「ねえ、智樹の家には教育方針みたいなものはあった?」

「教育方針?」
 柏木が首を傾げる。

「そう。『誠実な人間になりなさい』みたいな」

「由美の所は?」

「なかったけど、反面教師として『ああはなりたくない』みたいなのはあった」

 柏木が頷く。

「そうだなあ、強いて言うなら『自立しなさい』ってことかな」

「それって当たり前じゃないの?」

「当たり前のことだけど、『それが早いに越したことはない』『そのためには、自分で考えて、責任の範囲を決めて行動することを習慣にする』『だったら、早い段階で親なんていない方が良い』『自立できる能力があれば孤立しない』って感じ。すごい考えでしょ?」

「そうね」

「でも、今となっては感謝してる」

「どうして?」

「今の自分があるのは、その方針のおかげというのが少なからずあるから」

「そうなの?」

「だって、自分の能力が高くなれば、その分だけレベルの高い人と付き合えるでしょ? 『孤立しない』っていうのは、その通りだと思う」

「その点で言うと、うちは逆。過干渉で手放そうとしない」

「娘親ならそんなものじゃない?」

「常に背後からの視線を感じる。それも何かあったら、すぐに自らの傍に引き戻そうとする」

 柏木がグラスの水を飲み干し、ベッドテーブルに置く。

「リビングで寝ようか?」

「いいよ、ライブで疲れたでしょ」

 由美は明かりを消し、ベッドに入る。

 互いに背中を向ける。

 由美は柏木を許したわけではない。そのため、背後から規則正しい寝息が聞こえるまでは、身を強ばらせたままだった。

 初めて交わった日からおよそ一年、柏木とは何度も身体を交えてきた。だが、二回目から二人の間に、薄い膜のようなものを感じ始め、以降その膜は少しずつ厚いものとなっている。最近では、何度も舌を絡め、性器で深く繋がれても、互いを慰め合うような感覚しか覚えない。

 最近、由美は二人の関係について考えることがある。大学時代から大きく変わることなく続いてきた関係が、一年前を境に深いものになったことは間違いなかった。一方で、深くなるほど、二人の間に膿《うみ》のようなものが溜まっている気がする。

 由美は目を開け、横になったまま寝室を眺める。壁際の本棚に並ぶ書籍が柏木の呼吸に合わせてこちらの様子を窺っているように感じられた。

 目を瞑ったら最後、食いちぎられ、跡形も残らない。

 由美はその晩、一睡もできなかった。