翌日、昼前に出社した由美は、アルバイトから昨日の対談の文字起こしを受け取る。由美は「いつもありがとう」と伝えると、記事の体裁に整え、担当編集と脳科学者にメールで送付する。

 続いて、デスクの平井に、昨日書いた『性の黄昏』の原稿を渡す。内容を確認した平井がOKを出す。由美は、原稿を漫画担当の精神科医に送付してから、新書編集部に向かう。

 担当の金子と書き下ろし本に関する打ち合わせだった。

 打ち合わせ前の雑談で、金子は『性の黄昏』の連載を褒めてくれた。だが、本題に入り、由美の書いてきた原稿を読み始めた途端、表情が曇る。

 犯人達は、社会が女性に課す見えない枠組みを拒絶した。だとすれば、彼女達が拒絶したものを追究すれば、「女性の成熟」を妨げる要素を明らかにできるのではないか。

 こういった考えを説明するも、金子の反応は冷ややかだった。

「それは中川さんの仕事なのかな?」

「こちらが求めているのは、そこまでの内容じゃないんだよね」

 その口調には「このままだと売れない」ということが表れていた。

「次の打ち合わせまでに、もう一度考えてみてください」

 この一言で、打ち合わせは終わった。

 編集部に戻った由美はメールを確認する。脳科学者から原稿のチェックが返ってきていた。

 由美は電話を入れ、指摘を受けた内容を直接確認しながら原稿を修正して、再送する。すぐにOKの返信を受け取り、平井に提出する。

 17時を過ぎ、ようやく一息つくことができた由美はインターネットを開く。

 Ya-netのニュース欄に、“Room社新製品発表か”と表示されている。

 由美がクリックする。

 玲がいた。

 記事によると、アメリカ西部時間の午前0時に、Room社の製品サイトのトップページが一つの動画に変更されたという。

 由美は心臓の音が早くなるのを感じた。それ以上、詳細は読まず、記事に貼られたRoom社のリンクをクリックする。

 世界中からアクセスが殺到しているのか、なかなか画面が開かない。

 編集部のテレビでも、同じ情報を伝えるニュースが始まる。

 由美は画面に近づく。


 深紅の衣装を身に纏った玲が舞い始める。

 最初は静かに。だが、すぐにその動きは激しくなる。

 音楽はない。

 雨が降り始める。赤い雨だ。

 跳躍。かと思えば、立ち止まり、両手を広げ小刻みに震えながら身をくゆらす。

 由美は高鳴る鼓動と共に、その姿を追い続ける。

 赤い雨に濡れても、玲の肉体は決してその主張を失わない。雨を伝う肌には繊細と躍動が同居し、一瞬一瞬に精があり、30秒に生命がある。

 これが玲の舞いだ。

 人々の無意識下に埋没した肉体の存在を思い出させる。

 本能と意識が混淆し、肉体への服従と自由への奉仕がある。

 映像が終わり、画面がスタジオに戻る。

 キャスターは一呼吸置いてから、「映像の発表により、ここ数日の内に新製品が発表されるのではと市場の期待が高まっている」と伝えた。

 由美は荷物をまとめると、新木場に向かう。

 今日は新木場のライブハウスで“the Yellow Clowns”が出演するライブイベントがあった。

 バンドは今年1月に二枚目のアルバム『パンと音楽』をリリースした後、4月5月とオーストラリアを含むアジアツアーに出ていた。

 アルバムのタイトルは、ローマの詩人ユウェナリスが、当時のローマ社会を風刺した言葉「パンとサーカス」から取られていた。

 元々の言葉は、人々はパンとサーカスという施しがあれば、その他には一切関心を持たないという意味だが、アルバム全体を貫く緊張感は変わらずも、サウンドは前作よりもポップで、海外音楽サイトのレビューも好評だった。 


 今作でこの黄色いピエロ達が作り出した音楽は、「パンと音楽があれば人々は生きていくことができる」というメッセージのこめられた極めてポジティブなものだ。

 けれども、このバンドのバランス感覚の良さは、そこにきちんと現実を潜ませている点にある。

 どれだけ声高な理想を唱えても、パンがなければ腹は減る。そして当然のことながら、空腹は活力を奪う。そのいかんともしがたい現実を踏まえた上で、人々はパンを求め、そして音楽を求める。

 この変化は、前作『本日は気狂いなり』で聴かれた、その音の全てを狂気へと向かわせた極北のノイズとは対照的で、今作で聴かれるそれは、人々を巻き込みながら上昇していく賛歌のノイズだ。

 アルバムの最後に5分近く続くノイズはその象徴で、現実が胚胎する閉塞感を突き破った後、静かに奏でられるピアノは、現実と希望の境目を綱渡りするような危うさと共に鳴り響く。


 だが、柏木が今作のために書いた物語を知っていた由美は、レビューと物語の落差に驚いた。


 街を離れた道化は、施しを受けながら、遠い異国の地に辿り着く。道化は、そこで出会った障害者達で構成されたサーカス団に入団した。

 ピエロとして、たちまち人気者となった道化は恋をする。

 相手はいつもショーの最前列で手を叩いて喜んでくれる女性だった。

 気持ちを抑えられなくなった道化は、手紙を渡し、愛を告げる。彼女も気持ちを受け入れ、二人は結ばれる。

 道化は彼女のことが大好きだった。それゆえ、道化は自己の全てを捧げる。喜んでくれる彼女を見るたび、夢心地になる。

 けれども、彼女のそれは友人間での遊びだった。

 彼女は道化に対し、不機嫌な態度を取ったり、無理難題を押しつけるようになり、最後は、執拗につきまとわれていると被害を訴える。

 直ちに、人々は道化を罵倒し攻撃する。

 だが、身を窶《やつ》す程に彼女を愛し、躁状態となっていた道化には、それが人々による嫉妬、愛の障壁にしか映らない。

 どれだけ非難されても引き下がらない道化に対し、人々の攻撃は一層激しいものとなる。

 庇いきれなくなったサーカス団は道化を解雇する。同時に、かつて異国で犯した殺人が人々に知られることとなり、道化は逮捕される。

 両手両足を繋がれた道化は、街の広場で晒し者になる。

 誰一人として、道化に彼を取り巻く状況を教えない。人々は繋がれた道化を獣のように眺め、罵倒と嘲笑を浴びせかける。

 サーカス団の仲間がやってきた。道化は、彼らだけは、自分に同情してくれるものと思っていた。けれども、集団で取り囲んだかつての仲間は、暴力を加え去って行く。

 翌日、道化は人々の見守る中、広場の中央で火刑を受ける。

 薪に火が放たれる。燃え上がる炎。

 熱さの中、道化は自らの生涯を振り返る。

「周囲に翻弄された人生だった」

「短い人生の中で、自分という存在を受け入れたことは一度もなかった」

 その瞬間、道化の心は真空になる。もはや熱さは感じなかった。

 火刑が終わり、人々は帰路につく。広場は片付けられ、何も残らない。