再度、編集部に戻った由美は、気持ちを切り替え、現在連載中の『性の黄昏』の原稿を書く。この企画では、精神科医であり漫画家でもある医師とタッグを組み、性的倒錯の絡んだ事件を文章と漫画で解説していた。

 描こうとしていたのは、性の光と闇だ。ある者は芸術に昇華し、ある者は犯罪を起こす。

 目眩《めまい》のするようなエネルギーをいかに読者に伝えるかがテーマだった。

 校了日翌日のほとんど人のいない編集部で、終電間際まで原稿を書いてから、三日ぶりに自分のマンションに帰る。

 靴を脱いで明かりを点ける。空気が淀んでいた。

 リビングの窓を少し開けてから、クローゼットの前で、ジャケットとスカートを脱ぎ、ハンガーに掛ける。外したピアスをチェストに置く。近くには、柏木からプレゼントされたルージュがある。由美はそれを一瞥してから洗面台に向かう。

 化粧を落とし、部屋着に着替えると、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、リビングのテーブルに座る。

 鞄から取り出したパソコンを開き、デスクトップにある“高木瑠香”のフォルダをクリックする。

 先月行われた高木瑠香の裁判は、その全体が奇妙なものだった。

 黒のニットとジーンズ姿で入廷した時から高木瑠香の眼はすわり、口元には奇妙な笑みを浮かべていた。

 人定質問のため、裁判官に呼ばれても、なかなか席を立たない。隣にいた警備担当裁判所事務官に促されて、証言台に立った後も、裁判官の方を見たまま質問に「はい」と答えるのみだった。

 検察官が起訴状を読み上げ、裁判官が黙秘権の説明をする途中で、スッと背筋を伸ばした高木瑠香が口を開く。

「そんなに長々とお話いただかなくても、自分のやったことについては理解しています。2012年6月、私は明確な意思を持って、佐伯玲さんを殺しました」

 先ほどの様子とは打って変わって、はっきりとした口調だった。

「それ以外に何かありますか?」

 裁判官が訊ねる。

「判決を出す上で、この事実以上に必要なことがありますか?」

 一変した高木瑠香の言葉に、裁判官は戸惑った様子だった。

「それは……起訴状で言及された殺意であったり、動機の点で、違うと思う点があればお話しくださいということです」

 高木瑠香の笑い声が法廷に響く。長い笑いだった。

 一向に止む気配のない様子に、裁判官が口を開こうとした瞬間、彼女は笑いを止め「ありません」と答える。

 この笑いによって、法廷の威厳《いげん》は粉砕され、午前の休憩を挟むまでの間、ギクシャクとした雰囲気で裁判は進行した。

 以降、高木瑠香は証拠調べ手続、弁論手続において、黙秘を続けた。

 口を開いたのは、公判最終日、検察から懲役二十年が求刑された後の最終陳述での「皆様、四日間お疲れ様でした」だけだった。

 まるで他人事のような一言は、その場にいた人間には愚弄にしか聞こえなかった。傍聴席からも、何名かの裁判員の顔が怒りに震えるのがわかった。

 そして十日後の判決――高木瑠香は懲役十三年を言い渡されたが、即日控訴した。

 この日は、久保田も傍聴席に姿を見せていたが、主文が述べられると同時に、席を立った。

 和昌と燕が一度も傍聴に訪れなかったこともあり、公判中、由美は何度もコメントを求められたが、基本的に「全て司法に任せる」というスタンスだったので、一言も話すことはなかった。


 それが佐伯由美としての態度。一方、中川佳織としては、高木瑠香に手紙を書き続けていた。

 由美は、まだ一度もこの事件を書いていなかった。また、インタビューや対談でも家族に関することは語ってこなかった。

 だが、裁判を傍聴して、由美は改めてこの事件について書かなければならないと感じていた。今進めている書き下ろしとは別で、小さな記事でもよかった。

 拘置所で何度面会を希望しても断られ、送り続ける手紙の返事は来ない。

 それならば、頭を下げて、足で探すしかない。
 由美は、新しいファイルを開いて、書き出す。


 私の姉である佐伯玲が殺されてから一年、高木瑠香宛に送り続けた手紙の返事は一通もない。そして、第一審を終えた後でも、彼女の動機は謎のままだ。

 彼女には語るつもりがないらしい。ならば、私は取材を通じてこの事件に近づこうと思う。

 佐伯玲と高木瑠香という女性がどのように生きた結果、二人は出会い、そして別れたのか。

 佐伯玲という“女性”と、高木瑠香という“オンナ”が邂逅するまでの軌跡を紡いでみようと思う。


 由美はグラスに入ったミネラルウォーターを飲み干した。ぬるくなったミネラルウォーターが喉を伝い、ゆっくりと腹の底まで落ちていく。