由美は真っ白な世界で横になっていた。

 その場所は、心地よい陽気に包まれた麗《うら》らかな空間で、いつまでも横になっていられる気がした。

 真っ白な絹のシーツを引き延ばしたような静かな世界。翳《かげ》りのないやわらかな海をたゆたい、蕩《とろ》けていく。

 突然、視界が傾き、身体が沈んでいく。

 由美は何とか浮かび上がろうとするが、飲み込まれ、目の前は真っ白になる……

 携帯電話のアラームを止める。

 不思議な夢だった。

 まばたきを繰り返した後、身体を起こし、両手で自分の身体を撫でる。

 裸のままベッドを出て、下着を拾いながら浴室に向かう。

 湯気で満ちる前の乾いた空気と冷たいタイル。

 眠りの世界との境界は、蛇口を捻ることで破られる。

 シャワー口から流れる湯が由美を象《かたど》る。ボディソープとシャンプーの泡で身体を覆い、休息から活動へと自己を清める。

 洗面所で化粧水と乳液を当てる。下着をつけ、ドライヤーで髪を乾かし、メイクを済ませてから、寝室に向かう。

 ブルーのワイシャツ、黒のスカートを着て、ピアスをつける。折ったジャケットを左腕に掛け、右手に携帯電話と鞄を持ってから、ベッドの端で身体を丸めて眠る柏木に目をやる。

 明け方、作業部屋から帰ってきた柏木は、由美と交わった後、きちんと下着とTシャツを着て眠っていた。

 由美は、一度鞄を置いてから、顔に掛かった前髪を手でよけ、キスをする。

 薄く目を開けた柏木が「行くの?」と口を動かす。

 由美が頷く。

 身体を起こした柏木は、由美を軽く抱きしめる。

「いってらっしゃい」

 やさしい言葉だ。

 由美は鞄を肩に掛け玄関に向かう。三和土に置かれたヒールに足を滑り込ませ、ドアを開ける。

 ヒールの音を響かせながら、マンションの階段を降りる。梅雨前の空気は爽やかだ。

 地下鉄の駅の売店で、新聞を買う。

 九時を過ぎた電車は空いていた。由美は座席に座ると、見出しを目で追い、“河川敷でホームレス女性二人の変死体見つかる”という記事を詳細に読み込む。その後、鞄から対談用の資料を取り出し、再度チェックする。

『オンナ達の末路――囚われた魔女』は、編集の金子を中心に社としても積極的に動いてくれたこともあり、20万部を超えるベストセラーとなった。

“女性が起こした事件を切り口に、現代の女性を取り巻く環境をわかりやすく提示”

“これからの女性の生き方を考える入門書として最適な一冊”

 そんな書評が全国紙に載った後、他誌が取り上げた“『オンナ達の末路』の著者、中川佳織は、佐伯和昌の次女であり、佐伯玲の妹である”という記事が、Ya-netのトップページのニュース欄に掲載されたことも、部数を伸ばす一因となった。

 一躍注目の女性ジャーナリストになった由美は、シンポジウムに招かれ、複数の大学からメディア講座の特別講義を依頼され、取材ができなくなるからといった理由で断ったが、テレビ局から朝のワイドショーのコメンテーターの話まで出た。

 他社も二匹目のドジョウを狙い、新聞や週刊誌でスクープを取っていた若手女性記者に本を書かせ、またそれらが立て続けにベストセラーになったこともあり、“女子アナ”ならぬ“女子記者”という言葉が広く世間に浸透した。

 由美は変わらず、『週刊プレス』の平井の班に所属していたが、単発の事件の現場に出る機会は減っていた。代わりに、誌面でシリーズ連載と対談コーナーを持ち、更に外部の仕事を加えると、以前よりも忙しい日々を過ごしていた。

 特別扱いに対する、他の記者からのやっかみは感じていた。けれども、由美は会社を辞めてフリーになることは考えていなかった。

 先述の記事が出てすぐ、富沢に呼び出された由美は、この先の仕事について話をした。

 まず、富沢から『週刊プレス』内に対談のコーナーを設けることが告げられた。

「それ以外の仕事については、平井と相談して決めれば良いが、これまで通り企画を出してもらうことは変わらない」

「外部からの仕事も増えると思うが、対応は中川に任せる」

 以上が富沢の方針だった。

 意見交換後、富沢は「今後、フリーになるつもりはあるか?」と由美に訊ねた。

「『全くない』とは言えませんが、よほどの機会がない限りは考えていません」

「好きにしたらいい。だが、配属時に話したように全てを一人で背負うのは大変だ。うちにいれば、少なくとも会社という盾がある。誌面で何を書いても、最終的な責任は、掲載した雑誌にあり、ひいては俺の責任にすることができる。書きたい記事があれば、企画を出せばいいし、OKであれば経費は会社持ち……って、まあメリットばかり挙げればキリがないな」

 富沢の言葉を聞くまでもなく、由美には、今の状況が、一時的なものに過ぎないという冷静な判断があった。

 ジャーナリストであれ、作家であれ、文筆だけで大手出版社の正社員以上の収入を得ることができるのは一握りの人間だ。紛争地帯に飛び込み、危険と隣り合わせで書いたルポルタージュも、自らの人生をかけて書き上げた大長編小説も、話題にならない限りは、過去の偉大な先人達によって培われた「ジャーナリスト」や「作家」という肩書きを名乗れるというのが、対価の大半だ。

 今、由美は、昨年立て続けに起きた女性による刺傷事件を題材にした書き下ろし本の原稿を書いている。

 その取材を通じて、由美が痛感したのは、多くの女性はいまだ常識の奴隷であるということだった。しかもそこには、社会の常識とは別に「女性の常識」と呼ぶべきものがあり、その存在が「女性の成熟」を妨げていた。

“社会によって形成された女性像を甘受することで、多くの女性は思考停止している”

“女性が何か新しい事を成すには、二つの常識を突破しなければならない。一つは社会の常識。もう一つは、女性の常識。その付き合いは突破した後も続いていく”

 このことは、由美自身が『オンナ達の末路』出版後に感じていたことでもあった。

 メディアが宣伝のために付けた“女子記者”という言葉に対して寄せられる否定的な反応。

“報道というのは本質的に男性の仕事であり、女性には向いていない。これは報道のファッション化として危惧すべき状況”

“積極的に顔を出して取材する記者には極秘取材すらできないし、結局、結婚までの腰掛け程度でしかない軽薄な輩”

 挙げ句、“最初にこのブームを作った人間は、政治家の娘だ”という暴論まで―― “女子記者”という言葉が、偏見と嫉妬の混じった幼稚な言説を生み、社会の常識を上塗りしている。一方で、こういった風潮に、少しでも触れようとすれば、即座に“フェミニスト”というレッテルを貼り、議論を拒絶する。

 実際、『オンナ達の末路』発表後の由美には、好意的な手紙よりも脅迫に近い文章の方が多く送られてきた。それに近しい電話もかかってきたし、未だにそれは無くならない。

 結局書くしかないのだ、二つの常識を相手にして――そのような思いで、忙しい合間を縫って原稿を書き進めている。