翌日は、梅雨明けを告げるにふさわしい快晴だった。
由美は東京高等裁判所の傍聴席で、黒のワンピース姿で入廷する中山を見た。「上告はしません」と聞いていた由美の目には、その姿は修道女《シスター》のように映った。
裁判官が入廷する。判決を聞くため、中山が証言台の前に立つ。その背中は、全てを受け入れる覚悟ができていた。
閉廷後、由美は裁判所近くの喫茶店で本のあとがきを書いた。
七月二十日。東京高等裁判所で、中山優子の控訴審があった。彼女は修道女《シスター》を思わせる黒のワンピース姿で懲役5年の判決を聞いた。
数年後、彼女は社会に戻ってくる。その時、この社会に、彼女の「居場所」はあるだろうか。
誰もが自らの居場所を探している。
人々はどのようにして居場所を確保するのか――闘争だ。
安住の地などどこにもない。武器から手を放した瞬間、誰かに奪われても仕方ないと思うくらいでちょうど良い。
この本で取り上げた女性達は、一瞬の魔に囚われた結果、事件を起こした。
転落した彼女達が居場所を取り戻すのは、容易なことではない。
周囲の人間には、可能な限り救いの手を差し伸べて欲しいと願うが、ぶら下がるだけでは、すぐに見放されてしまうことになるだろう。
もう一度這い上がるという強い意思がない限り、過ちを起こした彼女達が生き残ることはできない。
私は、数年後、社会に戻ってきた彼女達が、魔に打ち克った存在として強く生きる姿を見たいと思う。
現代の魔女達の末路に、少しでも救済の光があらんことを。
金子のチェックを終えた原稿は印刷にまわり、一週間後、由美は冊子見本を受け取った。
表紙に印刷された“中川佳織”の名前を見て、由美はようやくここまで来たことを実感する。
シリーズ連載とはいえ、週刊誌という賞味期限の短い媒体では、果たして自分が前に進んでいるのかわからずにいた。
その成果が一冊の書籍になる。
自分の長財布よりも小さく薄い一冊が重かった。
由美は金子にお礼を伝えると、見本から三部をもらい、編集部に戻る。
一部を平井に渡す。
「よかったな」と言って、平井は仕事に戻る。
富沢の席に向かう。
今週号の校了を前に、富沢は広告のチェックに余念がない。それでも、由美に気づくと顔を上げてこちらを見た。
「どうした?」
「冊子見本ができました」
サンプルを渡す。
「できたか」
表紙を眺めた富沢は「いいタイトルじゃないか」と笑った。
その一言で十分だった。
「来週から現場復帰か?」
「はい」
「燃え尽きてないよな?」
「もちろんです」
「じゃあしっかり頼む」
富沢が再び広告に目を落とす。由美は慌ただしい編集部を後にして、柏木のアパートに向かう。
ドアホンを押す。ドアが開くと同時に、柏木の胸に飛び込む。
柏木は少し驚いた様子だったが、しっかりと抱きとめた。
抱き合いながら室内に進む。
リビングで柏木は、テーブルに手を伸ばし、由美に小箱を渡す。
「何?」
「プレゼント」
柏木は恥ずかしそうな表情で答える。
由美は腕の中で包装を解く。
一つはゴールドのネックレス。もう一つは、シャネルのルージュだった。
ネックレスは、華奢なタイプで、どんな服にも合わせられそうだった。ルージュは、かなり鮮やかな赤で、自分の顔には合わないかもしれないと思ったが、わざわざ自分のために買いに行ってくれたという気持ちだけで胸が一杯になる。
「ありがとう」
柏木の胸に顔を埋める。
背中にまわった柏木の腕に力が入る。
キスをした二人は寝室に向かう。
由美は柏木から離れると、背中を向け、シャツとスカートを脱ぐ。
露わになった背中を柏木がやさしく包み込む。
二人の肌が触れ、昂ぶりと共に貼りつき、一つとなった温もりが愛を宿す。
柏木が由美の肩を掴み、身体の向きを変える。
柏木の眼差しは、あたたかった。
そのあたたかさは、由美を「佐伯由美」という一人の女性として見るものだった。
思えば、出会った頃から、柏木はずっとこの眼差しを向けてくれていた。にも関わらず、素直に受け入れることができなかった。
でも、今は違う。
ようやく自分を「佐伯由美」として認めることができる。
柏木の顔が近づき、二人は長い口づけを交わす。
互いの寛容が邂逅した瞬間だった。
一瞬、唇が離れ、瞳を覗き合う。
二人の間では既に時も感情も溶けていた。
ベッドに倒れ込んだ由美に、柏木が覆い被さる。
舌を絡ませながら、右手を柏木の背中に這わせる。左手は、柏木の右手を強く握り離さない。
口から溢れた唾液が頬を伝う。
由美は、長い間自分の中で張りつめていたものが流れ出していき、代わりに別の何かが満ちていくのを感じた。
由美は瞼《まぶた》に力をこめる。
何かが零れようとしている。
瞳の中で闇が閃光を発して弾けた瞬間、由美は自我が溢れるのを感じた。
第一部 完
由美は東京高等裁判所の傍聴席で、黒のワンピース姿で入廷する中山を見た。「上告はしません」と聞いていた由美の目には、その姿は修道女《シスター》のように映った。
裁判官が入廷する。判決を聞くため、中山が証言台の前に立つ。その背中は、全てを受け入れる覚悟ができていた。
閉廷後、由美は裁判所近くの喫茶店で本のあとがきを書いた。
七月二十日。東京高等裁判所で、中山優子の控訴審があった。彼女は修道女《シスター》を思わせる黒のワンピース姿で懲役5年の判決を聞いた。
数年後、彼女は社会に戻ってくる。その時、この社会に、彼女の「居場所」はあるだろうか。
誰もが自らの居場所を探している。
人々はどのようにして居場所を確保するのか――闘争だ。
安住の地などどこにもない。武器から手を放した瞬間、誰かに奪われても仕方ないと思うくらいでちょうど良い。
この本で取り上げた女性達は、一瞬の魔に囚われた結果、事件を起こした。
転落した彼女達が居場所を取り戻すのは、容易なことではない。
周囲の人間には、可能な限り救いの手を差し伸べて欲しいと願うが、ぶら下がるだけでは、すぐに見放されてしまうことになるだろう。
もう一度這い上がるという強い意思がない限り、過ちを起こした彼女達が生き残ることはできない。
私は、数年後、社会に戻ってきた彼女達が、魔に打ち克った存在として強く生きる姿を見たいと思う。
現代の魔女達の末路に、少しでも救済の光があらんことを。
金子のチェックを終えた原稿は印刷にまわり、一週間後、由美は冊子見本を受け取った。
表紙に印刷された“中川佳織”の名前を見て、由美はようやくここまで来たことを実感する。
シリーズ連載とはいえ、週刊誌という賞味期限の短い媒体では、果たして自分が前に進んでいるのかわからずにいた。
その成果が一冊の書籍になる。
自分の長財布よりも小さく薄い一冊が重かった。
由美は金子にお礼を伝えると、見本から三部をもらい、編集部に戻る。
一部を平井に渡す。
「よかったな」と言って、平井は仕事に戻る。
富沢の席に向かう。
今週号の校了を前に、富沢は広告のチェックに余念がない。それでも、由美に気づくと顔を上げてこちらを見た。
「どうした?」
「冊子見本ができました」
サンプルを渡す。
「できたか」
表紙を眺めた富沢は「いいタイトルじゃないか」と笑った。
その一言で十分だった。
「来週から現場復帰か?」
「はい」
「燃え尽きてないよな?」
「もちろんです」
「じゃあしっかり頼む」
富沢が再び広告に目を落とす。由美は慌ただしい編集部を後にして、柏木のアパートに向かう。
ドアホンを押す。ドアが開くと同時に、柏木の胸に飛び込む。
柏木は少し驚いた様子だったが、しっかりと抱きとめた。
抱き合いながら室内に進む。
リビングで柏木は、テーブルに手を伸ばし、由美に小箱を渡す。
「何?」
「プレゼント」
柏木は恥ずかしそうな表情で答える。
由美は腕の中で包装を解く。
一つはゴールドのネックレス。もう一つは、シャネルのルージュだった。
ネックレスは、華奢なタイプで、どんな服にも合わせられそうだった。ルージュは、かなり鮮やかな赤で、自分の顔には合わないかもしれないと思ったが、わざわざ自分のために買いに行ってくれたという気持ちだけで胸が一杯になる。
「ありがとう」
柏木の胸に顔を埋める。
背中にまわった柏木の腕に力が入る。
キスをした二人は寝室に向かう。
由美は柏木から離れると、背中を向け、シャツとスカートを脱ぐ。
露わになった背中を柏木がやさしく包み込む。
二人の肌が触れ、昂ぶりと共に貼りつき、一つとなった温もりが愛を宿す。
柏木が由美の肩を掴み、身体の向きを変える。
柏木の眼差しは、あたたかった。
そのあたたかさは、由美を「佐伯由美」という一人の女性として見るものだった。
思えば、出会った頃から、柏木はずっとこの眼差しを向けてくれていた。にも関わらず、素直に受け入れることができなかった。
でも、今は違う。
ようやく自分を「佐伯由美」として認めることができる。
柏木の顔が近づき、二人は長い口づけを交わす。
互いの寛容が邂逅した瞬間だった。
一瞬、唇が離れ、瞳を覗き合う。
二人の間では既に時も感情も溶けていた。
ベッドに倒れ込んだ由美に、柏木が覆い被さる。
舌を絡ませながら、右手を柏木の背中に這わせる。左手は、柏木の右手を強く握り離さない。
口から溢れた唾液が頬を伝う。
由美は、長い間自分の中で張りつめていたものが流れ出していき、代わりに別の何かが満ちていくのを感じた。
由美は瞼《まぶた》に力をこめる。
何かが零れようとしている。
瞳の中で闇が閃光を発して弾けた瞬間、由美は自我が溢れるのを感じた。
第一部 完