彼女達の映像が削除とアップロードを繰り返しながら拡散されると同時に、各メディアは一斉に“女性の復讐”をキーワードに報道を始めた。
評論家や作家は、現代の女性に関する文章を新聞、雑誌に寄稿し、様々なメディアが女性を取り巻く環境を再検証する。
犯人達の行動について、“私はこう思う”という言葉がTwitterや各種のSNSで交わされ、“今こそ、男女共同参画社会を見直し、女性を家庭に帰せ”という思想や、“女性の社会進出は日本社会には合わない”“女性の社会進出は日本衰退の明確な徴《しるし》”といった声が大きくなる。一方で、“先進国の中でも低位にある女性の社会的地位について今こそ考慮すべきであり、諸外国と比べても遅すぎる取組みを抜本的に見直すべき”といった意見も盛んになる。
とにかく、これまで議論はされていたものの、あくまで現状の確認にとどまっていたものが、一連の事件を機に明確な対応が求められる喫緊の課題として語られるようになる。
だが、そこまでだった。
事件から一週間後に、テレビ局や新聞が実施した緊急のアンケートの結果は、一連の事件に対する否定的な意見で溢れていた。それは、女性のみを対象とした調査でも同様だった。
「彼女達の行動は責任転嫁に過ぎない」という回答が大半を占め、今の生活に大きな不満はない大多数の女性が、私たちは満足しているという支持を表明する。
その結果、変化を求める声は急速に勢いを失う。
これまで何度も繰り返されてきた構図だった。
少数意見だから――ただ、ほとんどの問題の発端は少数に起きる異常だ。その段階で手をつけず、後でもっと大きな問題になってから犯人捜しを始める。
大手メディアの、「騒ぐだけ」の報道姿勢に、由美は憤りを覚える。
事務所主催による玲のお別れの会が行われたのは、そんな時期だった。
非公開の会には、親交のあった国内外のデザイナーやアーティストが多数参加した。この会に参加するためだけに、世界的なアーティストが多数来日したことを、あるワイドショーは、“トータルセールス3億枚”と報じた。
お別れの会の翌日、玲の事務所は、世界の主要紙に全面広告で感謝のメッセージと、会で読み上げられた黒人女性シンガーの弔辞を掲載した。
今日、私はアーティストではなく、友人としてこの手紙を書きます。
あなたに初めて会ったのは、2005年に行われた“Crow in the darkness”のロサンゼルス公演でした。
当時の私は、所属していたグループが解散した直後で、これから始めるソロ活動の方向性について悩んでいました。
マネージャーだった父やレコード会社は、これまで通りのアイドル路線を望んでいましたが、私自身は、そういった路線にはうんざりしていて、もっとアーティスティックな活動をしたいと考えていました。
衣装デザインを担当していた母に誘われ、ロサンゼルスの劇場に足を運んだ時も、誰の公演かも知らない状態でした。
でも、あなたが舞い始めた瞬間、私はあなたから目を離すことができなくなりました。
公演を観た後、私の覚悟は決まっていました。
一人の黒人女性として、文化に深く根ざした活動をしていこうと。
Rei、あなたは“跳ぶ人”でした。
あなたは常に跳んでいました。その舞いのように力強く世界中を。
お互い忙しかった私たちが会う時は、いつも国が違うことが当たり前でした。けど、どんな時もあなたは疲れた様子を見せず、素敵な笑顔とともに抱きとめてくれました。
そんなあなたが世界中を飛び回りながら女性や子どものために活動していたこと――それらがはっきりとした結果として現れる前に、あなたはいなくなってしまいました。
Rei、あなたは“見る人”でもありましたね。
私はあなたの成層圏の空のように澄み切った眼差しが大好きでした。その眼差しに触れるだけで、私にどれだけの勇気を与えてくれたか。そして、その眼差しの先にあなたが見ていたビジョンは、いつも今より20年先を見据えたものでした。
今この瞬間生まれてくる子ども達が大人になる時の幸せのために自らの身を捧げる――あなたはそんな様子を微塵も感じさせませんでしたが、その苛酷さは想像に難くありません。
今のわたしは、あなたの無念に思いを馳せると同時に、あなたという素晴らしい女性の未来が奪われてしまったことに対する悲しみから、立ち直ることができずにいます。
最後に、あなたがいつも私にかけてくれていた言葉を送ります。
「Rei、良い眠りを」
そして、この言葉に、ロサンゼルスの楽屋であなたに伝えた言葉を添えます。
「Rei、あなたは世界から跳べる人なのね」
由美は、書籍の原稿を書くために篭もっていた自宅マンションで、全面広告を読んだ。
中山の記事と熟年離婚の記事を入稿した翌日から、取れていなかった休みをまとめて消化するローテーション休暇を取得して、原稿を書き続けている。
プライベートの携帯電話が鳴る。柏木からだった。
――ハロー。佐伯さん
――ハロー
――佐伯さんは今おうち?
――そうだけど
――煮詰まってない?
柏木には、ローテーション休暇を取るタイミングで、書籍の話を伝えていた。
――気分転換でもどう?
――気分転換?
――いや、もちろん佐伯さんが絶好調なら構わないけど。女性の場合は外出するにも準備が大変だし……
由美は考える。
――どこかに行くの?
――少しの時間でも、佐伯さんを外に連れ出したくて
――あんまり長い時間は……
――もちろん。わかってる
――じゃあ行く。何時にどこ?
――18時に外苑駅前のA2出口で
由美はパソコンの時刻を見る。
――わかった
――やった。また後でね
シャワーを浴びた由美は、化粧をして着替える。ベージュのテーパードパンツに、白のカットソー、ゴールドの華奢なブレスレットを身につけ、革のハンドバッグを持つ。
外に出る。昼過ぎまで降っていた雨の後の快晴で、蒸した空気が街を覆っていた。由美は、汗ばみながら駅に向かい電車に乗る。
外苑前駅で降り、A2出口の階段を上ると、柏木がTシャツ、ハーフパンツにサンダルという格好で立っていた。
「いいね」
柏木が笑顔を見せる。
「素敵だよ」
「大げさ。普段の格好と、鞄とアクセサリーが違うだけ」
照れ隠しに答えたが、もちろん悪い気はしなかった。
「じゃあ行こうか」
柏木が外苑の方向に歩を向ける。
「どこに行くの?」
「電話で言ってなかったっけ?」
由美が頷く。
「ごめんごめん。神宮球場」
瞬間見せた表情の変化を、柏木は見逃さない。
「『どうして?』って思った?」
由美は首を横に振る。
「いや、思ったでしょ。まあ、行けばわかるかな」
歩き出した柏木の隣に由美がつく。
球場に向かう道では、近所の飲食店が、軽食や飲み物を販売している。
のどかな雰囲気だった。
柏木はそのうちの一つに立ち寄ると、缶ビール二本に、唐揚げとおにぎりのセット、枝豆を注文する。
「他に食べたいものある?」
「焼きそば」
「さすが佐伯さん。よくわかってる」
由美に向かって親指を立てた後、柏木が代金を支払う。
再び歩き出す。
「佐伯さんは生で野球見たことある?」
「ないかな。柏木君は?」
「たまにくるんだよ」
「知らなかった。スワローズのファンなの?」
「いや」
「じゃあ好きな選手でもいるの?」
「そういうわけでもないんだよね」
球場の入口に着く。
「外野の自由席でいい?」
由美に尋ねてから、柏木はチケットカウンターに並ぶ。
スーツ姿のサラリーマンの団体、小学生の男の子を連れた親子。由美の近くを、手を繋いだ老夫婦が一塁側に向かって歩いていく。席に急ぐ人はいても、不機嫌な様子の人はいない。娯楽の光景だった。
柏木が戻ってくる。買ってきた席はビジター側だった。
三塁側の入場ゲートでは手荷物検査が行われていた。一連の事件の影響か、警備員は念入りに鞄の中を調べている。缶ビールはそのままでは持ち込むことができないので、指定の紙コップに移す。
紙コップ片手にスタンドに入る。試合は既に始まっていた。
柏木は周りを見てから、内野寄りのスタンド後方の席に向かう。その辺りは、応援団とも離れていて、ほとんど空席だった。
柏木は腰を下ろすと、空いている前方の座席に買ってきた食べ物を広げる。
由美も隣に座り、柏木を手伝う。
「かんぱーい」
柏木の掛け声で紙コップを合わせる。
ビールを口に含み、グラウンドを眺める。
ピッチャーが投げる。この位置からでは、打者がスイングしない限り、ストライクなのかボールなのかわからない。
柏木は、枝豆を食べながら、ビールを飲んでいる。プレーを追うのでも、熱心に応援するでもなく、ただ眺めているといった様子だ。
柏木に倣う。セカンドゴロ、一塁送球、チェンジ。
「今、新しいアルバムのための物語を書いてるんだけどさ」
しばらくして、柏木が口を開く。
由美は柏木を見るが、柏木はグラウンドを眺めたままだ。
「煮詰まっててね。今回のテーマというか、コンセプトみたいなのはわかってるんだけど、それを言葉という明晰なものに落とし込めずにいる」
快音が響き、レフトスタンドが沸く。
由美はグラウンドを見る。
バッターがライト前にヒットを打ち出塁する。
「ここ何ヶ月かずっと書いては消してを繰り返してさ、頭の中がぐしゃぐしゃになって、道化の彼が何を考えてるのか、よくわからなくなってて」
柏木がこちらに顔を向ける。
「そういう時って、何も考えたくなくなるんだよね。そんなことない?」
柏木の問いに答えようとした所で、再びスタンドが一瞬沸く。
グラウンドに目をやる。次のバッターがセンターフライに倒れて、チェンジになる。
「ないかな。私の仕事は週に一度必ず締め切りがあって、何があっても、それまでに形にしないといけないから」
「佐伯さんは大変な仕事をしてるね」
柏木はビールを飲む。
「でも性質が違うでしょ?」
「性質?」
柏木が首をひねる。
「そう。週刊誌の記事には、ある種の型があって、取材した内容をうまくその型に落とし込めば良いという流れ作業に近い所がある」
柏木が頷く。
「でも、作品はそうじゃない。特に、今柏木君がやっている音楽は、型を更新することにあるというか。そんな感じでしょ?」
「そんなカッコイイものじゃないと思うけど。でも、自分はさ、何も考えたくない時に来るんだよ、ここに」
「そうなの?」
「家にいると作品のことを考えるし、バーでの仕事中は仕事のこと。で、本当に何も考えたくない時って、音楽も聴きたくない、小説も読みたくない、映画とかも見たくないんだよね」
「どうして?」
「ジャンルは違えど、作品には、必ず論理《ロジック》がある。それがドラマを生んで、触れた人間にある種の感情移入を強制する。普段は気にならないけど、こんな気分の時は、作為的なものが見えすぎてしまって全く楽しめない」
「ふーん」
そう答えたものの、由美にはよくわからない感覚だった。
「でも、ここでは何も考えなくていい。サッカーは一瞬も目を離しちゃだめだけど、野球は一球一打席ごとに区切りがあってさ。ある選手にとっては、その一球に彼の人生が懸かっているのかもしれないけど、そういった事情を知らない自分には、正直どうでもよくて、どうでもいいから何も考えずぼんやりと眺められる。
ここからだと遠くて、今のボールがストライクだかなんてわからない。それでも、ピッチャーの投げるボールが速いことはわかるし、それを打ち返したり、打ち返されたボールに反応してキャッチして、一塁に正確に投げる選手を見るだけで、さすがプロって思う」
快音。強烈なライナーを、ショートがジャンピングキャッチする。
歓声とため息。そして、拍手。柏木も手を叩く。
柏木の言葉を聞いて、由美は改めて周囲を見まわす。
一生懸命に選手を応援するファンもいれば、ビールサーバーを背負った売り子が、声援に負けない声をあげながら、人々の間を歩き回っている。
風が吹く。スタンドの上段を抜ける風は穏やかで気持ちが良い。
柏木の話を振り返り、テレビで見る野球はドラマなのかもしれないと思う。常に複数のカメラで編集された映像に、実況と解説がつく。打席に入ると、選手と成績が紹介され、各プレーをスロー再生とリプレイで何度も振り返る。
でも、球場で見る野球は違う。情報が少ない。だから豊かだと思う。
快音を響かせ、ボールがレフト方向に飛ぶ。
スタンドが大きく沸くが、フェンス手前で外野手がキャッチする。
その瞬間、由美は周りの観客と一緒に溜め息をもらした。
評論家や作家は、現代の女性に関する文章を新聞、雑誌に寄稿し、様々なメディアが女性を取り巻く環境を再検証する。
犯人達の行動について、“私はこう思う”という言葉がTwitterや各種のSNSで交わされ、“今こそ、男女共同参画社会を見直し、女性を家庭に帰せ”という思想や、“女性の社会進出は日本社会には合わない”“女性の社会進出は日本衰退の明確な徴《しるし》”といった声が大きくなる。一方で、“先進国の中でも低位にある女性の社会的地位について今こそ考慮すべきであり、諸外国と比べても遅すぎる取組みを抜本的に見直すべき”といった意見も盛んになる。
とにかく、これまで議論はされていたものの、あくまで現状の確認にとどまっていたものが、一連の事件を機に明確な対応が求められる喫緊の課題として語られるようになる。
だが、そこまでだった。
事件から一週間後に、テレビ局や新聞が実施した緊急のアンケートの結果は、一連の事件に対する否定的な意見で溢れていた。それは、女性のみを対象とした調査でも同様だった。
「彼女達の行動は責任転嫁に過ぎない」という回答が大半を占め、今の生活に大きな不満はない大多数の女性が、私たちは満足しているという支持を表明する。
その結果、変化を求める声は急速に勢いを失う。
これまで何度も繰り返されてきた構図だった。
少数意見だから――ただ、ほとんどの問題の発端は少数に起きる異常だ。その段階で手をつけず、後でもっと大きな問題になってから犯人捜しを始める。
大手メディアの、「騒ぐだけ」の報道姿勢に、由美は憤りを覚える。
事務所主催による玲のお別れの会が行われたのは、そんな時期だった。
非公開の会には、親交のあった国内外のデザイナーやアーティストが多数参加した。この会に参加するためだけに、世界的なアーティストが多数来日したことを、あるワイドショーは、“トータルセールス3億枚”と報じた。
お別れの会の翌日、玲の事務所は、世界の主要紙に全面広告で感謝のメッセージと、会で読み上げられた黒人女性シンガーの弔辞を掲載した。
今日、私はアーティストではなく、友人としてこの手紙を書きます。
あなたに初めて会ったのは、2005年に行われた“Crow in the darkness”のロサンゼルス公演でした。
当時の私は、所属していたグループが解散した直後で、これから始めるソロ活動の方向性について悩んでいました。
マネージャーだった父やレコード会社は、これまで通りのアイドル路線を望んでいましたが、私自身は、そういった路線にはうんざりしていて、もっとアーティスティックな活動をしたいと考えていました。
衣装デザインを担当していた母に誘われ、ロサンゼルスの劇場に足を運んだ時も、誰の公演かも知らない状態でした。
でも、あなたが舞い始めた瞬間、私はあなたから目を離すことができなくなりました。
公演を観た後、私の覚悟は決まっていました。
一人の黒人女性として、文化に深く根ざした活動をしていこうと。
Rei、あなたは“跳ぶ人”でした。
あなたは常に跳んでいました。その舞いのように力強く世界中を。
お互い忙しかった私たちが会う時は、いつも国が違うことが当たり前でした。けど、どんな時もあなたは疲れた様子を見せず、素敵な笑顔とともに抱きとめてくれました。
そんなあなたが世界中を飛び回りながら女性や子どものために活動していたこと――それらがはっきりとした結果として現れる前に、あなたはいなくなってしまいました。
Rei、あなたは“見る人”でもありましたね。
私はあなたの成層圏の空のように澄み切った眼差しが大好きでした。その眼差しに触れるだけで、私にどれだけの勇気を与えてくれたか。そして、その眼差しの先にあなたが見ていたビジョンは、いつも今より20年先を見据えたものでした。
今この瞬間生まれてくる子ども達が大人になる時の幸せのために自らの身を捧げる――あなたはそんな様子を微塵も感じさせませんでしたが、その苛酷さは想像に難くありません。
今のわたしは、あなたの無念に思いを馳せると同時に、あなたという素晴らしい女性の未来が奪われてしまったことに対する悲しみから、立ち直ることができずにいます。
最後に、あなたがいつも私にかけてくれていた言葉を送ります。
「Rei、良い眠りを」
そして、この言葉に、ロサンゼルスの楽屋であなたに伝えた言葉を添えます。
「Rei、あなたは世界から跳べる人なのね」
由美は、書籍の原稿を書くために篭もっていた自宅マンションで、全面広告を読んだ。
中山の記事と熟年離婚の記事を入稿した翌日から、取れていなかった休みをまとめて消化するローテーション休暇を取得して、原稿を書き続けている。
プライベートの携帯電話が鳴る。柏木からだった。
――ハロー。佐伯さん
――ハロー
――佐伯さんは今おうち?
――そうだけど
――煮詰まってない?
柏木には、ローテーション休暇を取るタイミングで、書籍の話を伝えていた。
――気分転換でもどう?
――気分転換?
――いや、もちろん佐伯さんが絶好調なら構わないけど。女性の場合は外出するにも準備が大変だし……
由美は考える。
――どこかに行くの?
――少しの時間でも、佐伯さんを外に連れ出したくて
――あんまり長い時間は……
――もちろん。わかってる
――じゃあ行く。何時にどこ?
――18時に外苑駅前のA2出口で
由美はパソコンの時刻を見る。
――わかった
――やった。また後でね
シャワーを浴びた由美は、化粧をして着替える。ベージュのテーパードパンツに、白のカットソー、ゴールドの華奢なブレスレットを身につけ、革のハンドバッグを持つ。
外に出る。昼過ぎまで降っていた雨の後の快晴で、蒸した空気が街を覆っていた。由美は、汗ばみながら駅に向かい電車に乗る。
外苑前駅で降り、A2出口の階段を上ると、柏木がTシャツ、ハーフパンツにサンダルという格好で立っていた。
「いいね」
柏木が笑顔を見せる。
「素敵だよ」
「大げさ。普段の格好と、鞄とアクセサリーが違うだけ」
照れ隠しに答えたが、もちろん悪い気はしなかった。
「じゃあ行こうか」
柏木が外苑の方向に歩を向ける。
「どこに行くの?」
「電話で言ってなかったっけ?」
由美が頷く。
「ごめんごめん。神宮球場」
瞬間見せた表情の変化を、柏木は見逃さない。
「『どうして?』って思った?」
由美は首を横に振る。
「いや、思ったでしょ。まあ、行けばわかるかな」
歩き出した柏木の隣に由美がつく。
球場に向かう道では、近所の飲食店が、軽食や飲み物を販売している。
のどかな雰囲気だった。
柏木はそのうちの一つに立ち寄ると、缶ビール二本に、唐揚げとおにぎりのセット、枝豆を注文する。
「他に食べたいものある?」
「焼きそば」
「さすが佐伯さん。よくわかってる」
由美に向かって親指を立てた後、柏木が代金を支払う。
再び歩き出す。
「佐伯さんは生で野球見たことある?」
「ないかな。柏木君は?」
「たまにくるんだよ」
「知らなかった。スワローズのファンなの?」
「いや」
「じゃあ好きな選手でもいるの?」
「そういうわけでもないんだよね」
球場の入口に着く。
「外野の自由席でいい?」
由美に尋ねてから、柏木はチケットカウンターに並ぶ。
スーツ姿のサラリーマンの団体、小学生の男の子を連れた親子。由美の近くを、手を繋いだ老夫婦が一塁側に向かって歩いていく。席に急ぐ人はいても、不機嫌な様子の人はいない。娯楽の光景だった。
柏木が戻ってくる。買ってきた席はビジター側だった。
三塁側の入場ゲートでは手荷物検査が行われていた。一連の事件の影響か、警備員は念入りに鞄の中を調べている。缶ビールはそのままでは持ち込むことができないので、指定の紙コップに移す。
紙コップ片手にスタンドに入る。試合は既に始まっていた。
柏木は周りを見てから、内野寄りのスタンド後方の席に向かう。その辺りは、応援団とも離れていて、ほとんど空席だった。
柏木は腰を下ろすと、空いている前方の座席に買ってきた食べ物を広げる。
由美も隣に座り、柏木を手伝う。
「かんぱーい」
柏木の掛け声で紙コップを合わせる。
ビールを口に含み、グラウンドを眺める。
ピッチャーが投げる。この位置からでは、打者がスイングしない限り、ストライクなのかボールなのかわからない。
柏木は、枝豆を食べながら、ビールを飲んでいる。プレーを追うのでも、熱心に応援するでもなく、ただ眺めているといった様子だ。
柏木に倣う。セカンドゴロ、一塁送球、チェンジ。
「今、新しいアルバムのための物語を書いてるんだけどさ」
しばらくして、柏木が口を開く。
由美は柏木を見るが、柏木はグラウンドを眺めたままだ。
「煮詰まっててね。今回のテーマというか、コンセプトみたいなのはわかってるんだけど、それを言葉という明晰なものに落とし込めずにいる」
快音が響き、レフトスタンドが沸く。
由美はグラウンドを見る。
バッターがライト前にヒットを打ち出塁する。
「ここ何ヶ月かずっと書いては消してを繰り返してさ、頭の中がぐしゃぐしゃになって、道化の彼が何を考えてるのか、よくわからなくなってて」
柏木がこちらに顔を向ける。
「そういう時って、何も考えたくなくなるんだよね。そんなことない?」
柏木の問いに答えようとした所で、再びスタンドが一瞬沸く。
グラウンドに目をやる。次のバッターがセンターフライに倒れて、チェンジになる。
「ないかな。私の仕事は週に一度必ず締め切りがあって、何があっても、それまでに形にしないといけないから」
「佐伯さんは大変な仕事をしてるね」
柏木はビールを飲む。
「でも性質が違うでしょ?」
「性質?」
柏木が首をひねる。
「そう。週刊誌の記事には、ある種の型があって、取材した内容をうまくその型に落とし込めば良いという流れ作業に近い所がある」
柏木が頷く。
「でも、作品はそうじゃない。特に、今柏木君がやっている音楽は、型を更新することにあるというか。そんな感じでしょ?」
「そんなカッコイイものじゃないと思うけど。でも、自分はさ、何も考えたくない時に来るんだよ、ここに」
「そうなの?」
「家にいると作品のことを考えるし、バーでの仕事中は仕事のこと。で、本当に何も考えたくない時って、音楽も聴きたくない、小説も読みたくない、映画とかも見たくないんだよね」
「どうして?」
「ジャンルは違えど、作品には、必ず論理《ロジック》がある。それがドラマを生んで、触れた人間にある種の感情移入を強制する。普段は気にならないけど、こんな気分の時は、作為的なものが見えすぎてしまって全く楽しめない」
「ふーん」
そう答えたものの、由美にはよくわからない感覚だった。
「でも、ここでは何も考えなくていい。サッカーは一瞬も目を離しちゃだめだけど、野球は一球一打席ごとに区切りがあってさ。ある選手にとっては、その一球に彼の人生が懸かっているのかもしれないけど、そういった事情を知らない自分には、正直どうでもよくて、どうでもいいから何も考えずぼんやりと眺められる。
ここからだと遠くて、今のボールがストライクだかなんてわからない。それでも、ピッチャーの投げるボールが速いことはわかるし、それを打ち返したり、打ち返されたボールに反応してキャッチして、一塁に正確に投げる選手を見るだけで、さすがプロって思う」
快音。強烈なライナーを、ショートがジャンピングキャッチする。
歓声とため息。そして、拍手。柏木も手を叩く。
柏木の言葉を聞いて、由美は改めて周囲を見まわす。
一生懸命に選手を応援するファンもいれば、ビールサーバーを背負った売り子が、声援に負けない声をあげながら、人々の間を歩き回っている。
風が吹く。スタンドの上段を抜ける風は穏やかで気持ちが良い。
柏木の話を振り返り、テレビで見る野球はドラマなのかもしれないと思う。常に複数のカメラで編集された映像に、実況と解説がつく。打席に入ると、選手と成績が紹介され、各プレーをスロー再生とリプレイで何度も振り返る。
でも、球場で見る野球は違う。情報が少ない。だから豊かだと思う。
快音を響かせ、ボールがレフト方向に飛ぶ。
スタンドが大きく沸くが、フェンス手前で外野手がキャッチする。
その瞬間、由美は周りの観客と一緒に溜め息をもらした。