次の女性を待つ間に由美は大きく伸びをした。

 朝から知り合いの弁護士事務所で離婚女性のインタビューを続けていたが、聞かされるのは、旦那に対する不満や財産分与に対する不満ばかりで、辟易していた。

 記事のテーマは「熟年離婚は旦那に対する女性の復讐か」だった。ただし、その内容が成立するには、「離婚女性がその後の生活に満足している」という事実が必要になる。

 だが、これまでの女性達の言葉は、「私はずっと苦しんできたし、今もずっと苦しんでいる」という歳を取り過ぎた悲劇のヒロインのそれだった。

 会議室のドアがノックされて、次の女性が入ってくる。

 由美は立ち上がって挨拶した後、席を勧め、事前アンケートの回答を見ながら質問を始める。

「ご主人とは一年前に離婚されたそうですね」

「はい」と答えた女性がこちらを見る。

 その眼差しに、由美はこれまでの女性達とは違うものを感じた。

「離婚の理由として、“親としての勤めを果たしたため”と書かれてますが、離婚までの経緯について、もう少し具体的にお話いただいてもよろしいですか?」

「あの人は仕事人間として外で定年まで目一杯働き、家のことは全て私がすることで、子ども達は立派に育ちました。その後、残り少ない余生を、自分が望んだものとするための答えが離婚でした」

「その答えに至るまでの部分について、詳しく伺いたいです」

「少し長くなりますが、よろしいですか?」

「どうぞ」

「主な理由は2つあります。一つは家庭、もう一つは友人。ですが、その二つは繋がっていて、結局の所は人生に対する後悔となります」

 由美は頷く。

「アンケートにも書いた通り、私は長女が小学校に通い始めた時からずっと、週四日、料理教室で料理を教えています。

 定年後、離婚するまでの間も、私は毎朝二人分の朝食を作り、掃除洗濯をして、旦那の昼食を準備してから、料理教室に向かいます。帰ってくると、旦那は食べたものの洗い物もしなければ、洗濯物も取り込まず、朝と変わらない体勢でテレビを見ています。私はそこから洗濯物を取り込み、風呂掃除をして、夕食の準備をします。テレビを見ながら、二人で夕食を食べた後、私が洗い物をしている間に、旦那はさっさと風呂に入り、寝てしまいます。私は洗い物が終わってから湯船に浸かり、次の料理教室で教えるレシピの勉強をします。それが終わってから、旦那のいびきが聞こえる寝室に向かい、布団に入ります。

 定年前はあまり気にならなかったことが、定年後は、些細なことでイライラする……そんな感じでした」

「仕事をお辞めになることは考えなかったのですか?」

「元々、料理は好きですし、外で人と会うのは楽しいことですから。個人的な印象ですが、料理好きな人は気持ちの良い人ばかりなんです。たぶんそれは、料理が材料を必要とすること、それから、自分の手を動かすことにあると思うのですが、そういった方々と交流するのは、とても楽しいことです」

「お話を遮ってしまってすいません。続きをお願いします」

「これが離婚前のわが家の状況だったのですが、その少し前に、私の大変親しかった友人が亡くなりました。その方とは、長男のクラスメイトの母親として知り合い、30年近く家族ぐるみでお付き合いしてきました。

 彼女は私より四つ下でしたが、総合商社に勤める旦那さんが定年退職したら、ずっと行きたかったヨーロッパ旅行に行く計画を何年も前から立てていました。ですが、その目前に膵臓がんであることがわかり、彼女は入院しました。時間を見つけては、私もお見舞いに行ってましたが、亡くなる少し前、私と二人きりだった時に、彼女は『私の人生に私の時間はどこにもなかった』と言いました。

 彼女は告知を受け、自分がステージⅣであることを知っていましたから、最後にそのようなことを言ったのでしょう。私には羨むくらい仲の良いご夫婦に見えましたが、実際の所は、他人にはわからないことだらけです。それでも、彼女がふと口にした後悔の言葉は、私に大変強い印象を与えました。

 葬儀の時、旦那さんは疲れ切った顔をしていました。立派に育った息子さんも、横に綺麗な奥様を連れておられました。その時、私は自分の人生の最後を見てしまった気がしたのです。

 献花の際に棺の中で死装束をまとった彼女を見た瞬間、それは涙こそありませんが泣いているように見え、私のようなおばあさんが口にするのは憚られる言葉ですが、はかなさを感じました。それ以降ですかね、私は自らの死期を意識するようになりました」

 そう話した女性は切ない表情を浮かべる。

「それが離婚の原因ですか?」

「ここで全てをお話することはできませんが、それ以外にも色々考えました。馴れ初めがあり、結婚、出産、育て上げた二人の子ども。その一方で、今の自分自身のこと。全てを考えた結果、残された人生を自らのために使いたいと強く思いました」

 由美が頷く。

「思えば、私も彼女と同じでした。短大を出て会社に勤め、旦那との交際、結婚、長男長女の出産。それから、再度勤めに出て、社会というものを少し知り、自分の頭で物事を考えられるようになってからも、親として育て上げねばならない子ども達がいる。それも終わり、ようやくできた自分の時間。言うならば、これは私の人生における最初で最後の自由時間です。それをどう過ごすか考えた結果、離婚という選択になった、ということです」

「つまり、旦那さんとの結婚生活に自由はなかったと?」

「旦那のこともありますが、母親というのは、子どもを含めた家庭が全てになってしまうものです。もちろんたくさんの喜びを与えてくれましたし、後悔はありません。ですが、子ども達が巣立ち、自らの家庭を持ち、燃え尽きてしまったと言いますか、今度は自分自身について色々と考えるようになります。

 その際に必ず頭をよぎるのは、若い時のことです。何かある度、昔は疲れにくかった、身体も思うように動いたことを思い出し、次いで、今新しく何かを始めようにも、遅すぎるという現実に至るわけです」

「それが最初におっしゃった人生に対する後悔ですか?」

 由美の質問に、女性は頷いた。

「旦那様との離婚を決めた、決定的な出来事というのはありましたか?」

「ありました」

「教えていただけますか?」

「ある日、家に帰ると旦那は書き置きもなく出かけていました。携帯電話に連絡しても何の反応もなく、息子と娘に連絡を入れても、二人とも何も知りませんでした。

 私は食事も摂らず、22時過ぎまで待っていましたが、いよいよ警察に連絡しようと考えた所で、インターホンが鳴りました。

 玄関のドアを開けると、酔い潰れた旦那が、タクシーの運転手と会社の同僚だった人に支えられていました。話を聞くと、近くまで来たので、旦那を飲みに誘ったそうです。久々の外食に浮かれていたのか、何度も止めたにも関わらず『大丈夫』と言って飲み続けた結果、酔い潰れてしまいました。

 私は平謝りでした。また、私一人だと運べないので、お二人に主人を寝室まで運んでいただきました。私は飲食とタクシーのお代をお支払いしようとしたのですが、その方は『飲ませてしまったのはこちらですから』と固辞して、帰って行きました。

 私はもう恥ずかしくて情けなくて……。いびきをかいたまま、どうせ明日になれば何も覚えていないこの人に対して、愛想が尽きてしまったのです。

 私は子ども達に連絡を入れた後、入浴し、布団に入りましたが、一睡もできませんでした。

 翌朝、私は昨日と同じ服装のまま布団で眠る旦那を残し、いつも通りの家事をして出かけました。家に帰ると、あの人はいつも通りソファに横になってテレビを見ていました。そして、二人で夕食を摂っても、テレビのニュースを見ながらぶつぶつと文句を言うだけで、昨日の事は一言も話そうとしません。

 その瞬間、私の覚悟は決まりました。その場で『離婚しましょう』と伝えました」

「ご主人の反応は?」

「最初、こっちを見た時は『冗談だろ』といった様子で、半笑いでした。ですが、私の表情を見て本気だとわかると、威圧するようにこちらを見ました。私が『もう限界です』と答えたことで、ようやく現実感をもった様子で、困惑してましたよ。その態度からも、この人がどれだけ変化に鈍感かよくわかりました。何も起きないことが当たり前と思っていて、その当たり前を維持するために、私がどれだけやりくりしてきたか想像もしてなかったのでしょう」

「それから?」

「『他に男ができたのか』『俺を捨てるのか』と言われました。なんて想像力のない言葉でしょう。それらを全て否定して、私はこの家を出て行くと伝えました。主人は浮気をしていなくても、とにかく離婚を言い出した側から慰謝料を取れると思っていたので、先生に間に入っていただき、財産分与を行って離婚が成立しました」

「息子さんや娘さんの反応はいかがでした?」

「それはもう、二人とも大反対でした。『親の恥は子の恥』といった感じで……。ですが、私としては子ども達に理解してもらおうとは思っていませんでした。あくまで、家族として報告したに過ぎません」

 由美が頷く。

「私の頑固さは子ども達も知っているので、強引に説得しようとはしませんでした。息子は市役所で働き、お嫁さんも産休後、仕事に復帰して夫婦で共働きしています。娘も、出産後、旦那さんと協力して、仕事を続けています。娘一家は、近くに住んでましたが、子どもを預けるのは、もっぱら旦那さんの実家です。あちらのお家には、お母様がいますからね」

 由美は女性の顔を見つめる。

「息子は、介護のことを考えていました。娘が気にしていたのは世間体ですね、『向こうのご両親に何て説明すればいいの』と」

「家族以外の方は?」

「色々思っていたようですし、陰で言われていることも知ってます。だけど、気にしないようにしてます」

「どうしてですか?」

「私は、私の時間を過ごすために選択したのですから。今更周りの声を気にするなんておかしなことです」

 決然とした言葉だった。

 由美は彼女の心持ちに、心の中で拍手を送る。

「ここからは現在の生活について質問させていただきますが、休憩などは必要ないですか?」

「大丈夫です」

「では、あと少しなので、このまま続けさせていただきます。アンケートによると、現在の収入は、料理教室の仕事で年間300万円、国民年金で年間80万円程度。お住まいは、都下にある家賃4万円のアパートとのことですが、生活はどうですか?」

「まずは掃除洗濯が楽ですね。仕事の時間以外は、とにかく全て自分のために使うことができ、本当にゆったりとした時間が流れています」

「寂しさはありませんか?」

「その点で言うと、子ども達が家を出た時の方が寂しかったかもしれません」

「ですが、お一人でお住まいですし、もし、自分の身に何かあったら……とは、お考えになりませんか?」

「もし、とかではなく、それが当たり前になるのですよ」

「と言いますと?」

「死期を意識して生きるとはそういうことです。ですので、できるだけ世間様に迷惑をかけないよう、離婚の際に身辺を整理しました」

「すごい覚悟ですね」

「いえ、そんな大層なものじゃありません。必要に迫られてです」

 女性はさらりと口にしたが、由美は「もし自分が同じ立場だったら」と考えた。自分に彼女と同じような決断ができるだろうか。

「ご家族との関係は?」

「旦那とは一切連絡を取っていません。子ども達は心配なのか、時々連絡をくれます。でも、孫達を私の狭いアパートに連れてくるわけにもいきませんから」

「旦那様は今どのような生活を?」

「娘から聞いた限りでは、あの家で一人暮らしをしているそうです」

「気になりませんか?」

「気にしても仕方ありませんし、あの人も年端のいかない子どもじゃありませんから。自らの置かれた環境で、するべきことをしていると思っています」

 女性は由美の目を見て答える。彼女の背筋のようにしゃんとした眼差しだった。

「ここまでの話を聞いていると、だいたいの答えは想像がつくのですが、他の皆様にも同様にさせていただいている質問なのでお答えください」

 由美は一呼吸置く。

「離婚されて今幸せですか?」

 女性はすぐに答える。

「恐らく、私だけが今幸せなのでしょう」

「他の人はそうではないと?」

「はい。家族という当たり前のものを失うことになった旦那や子ども達にとっては」

「ありがとうございます」と頭を下げた後、由美は「少々お待ちいただけますか?」と続け、ノートを見ながら聞き忘れたことがないか確認する。

 女性は、これまで一口も飲んでいなかったお茶にようやく口をつける。

「あと2つだけお尋ねしてもいいですか?」

 女性が湯呑みを置いたタイミングで声をかける。

「どうぞ」

 質問を前に、女性は再び背筋を伸ばす。

「一つ目です。もし『あなたは家族を捨てた』と非難する人がいたら、何と答えますか?」

「その質問への答えは、旦那か子どもかで内容が変わりますね。まず旦那に対しては、ある面では当てはまると思います。私たちはパートナーでしたから。でも、子ども達には当てはまらないと思ってます」

「どうしてですか?」

「大人になった子ども達が家を出る、就職する、結婚する。そういった節目を通じて、子ども達は、自らの選択で生きていきます。その時に、母親としてしなければならないことは、子どもに敬意を抱きつつ突き放すこと、と思ってます。ですので、とうの昔にそれはされていたことですし、もし子ども達に何か言うとすれば、『余生を過ごす老人にかまう暇があるなら、自分の家族のために使いなさい』ということですね」

「二つ目です。もし今旦那様に何か言葉をかけるとしたら?」

「『あなたは立派に父親としての役割を果たしたと思います。ですので、薄情な妻のことなどお忘れになって、その余生を自分の好きなように過ごしてください』ですかね」

「インタビューは以上となります。ありがとうございました」

 由美が頭を下げる。

「こちらこそ。こんなつまらない話に付き合っていただいて、ごめんなさい」

 女性が席を立つ。由美も立ち上がり、ドアの所まで付き添う。

「しっかりしたお嬢さんね」

「いえいえ。ありがとうございました。もしかしたら、またお声がけさせていただくかもしれません」

 会議室のドアを開けながら、由美が答える。

「ではこちらで失礼します」

 ドアを閉める前、廊下を進む女性の後ろ姿を眺める。

 まっすぐに伸びた背中だった。