閉店も近づいた所で、プライベートの携帯電話が鳴る。

 画面を見る。柏木からだった。

――もしもし?

――ねえねえ佐伯さん、今どこ~?

 だいぶ酔っている様子だ。

――まだ新宿

――じゃあ一緒に帰ろ~、新宿のどこ?

 ここまで酔っている柏木は初めてかもしれない。

――アルタ裏のコーヒーショップ

――じゃあアルタ前広場のステージの所で。すぐ行くから~

 電話が切れる。

 荷物をまとめ、待ち合わせ場所に向かうと、男性二人に両脇を支えられた柏木がいた。

「佐伯さーん」
 由美に気づいた柏木が手を振る。

「今日ライブ来てくれたよね。だからまだ新宿にいるかな、って思って電話した」

 柏木の話を聞きながら、両脇の男性に視線を向ける。

「この二人はね、うちのドラムとベース」

 由美は二人に頭を下げる。

「智樹に『友達と帰るから連れてってくれ』と言われたので、連れてきたんですけど、女性だったとは」

 ドラムの男性が口を開く。ライブではわからなかったが、年齢は由美や柏木よりも一回り位上かもしれない。

「大丈夫大丈夫」と柏木が答えるが、
「あの、うちらが送っていくこともできるので、無理しないでくださいね」

「この状態だったら、そうしてもらった方が……」
 由美が言いかけた所で、「嫌だ。俺は佐伯さんと帰る」と柏木が呟く。

 諦めた由美は二人に、「すいませんが、タクシーまで運んでもらっていいですか?」と頼む。

 タクシー乗り場に向かう途中、由美はドラムの男性に話しかけられる。

「ライブ来てくれたんですね。ありがとうございます」

「いいライブでしたね」

「自分も今日のライブで、やっと満足のいく演奏ができました」

 そう話すドラムの男性は、ほっとした表情を浮かべていた。

 柏木をタクシーに押し込むと、由美は二人に「ありがとうございました」と頭を下げる。

 動き出してすぐ、新宿の大ガードの交差点まで来たところで、柏木がゆっくりと身体を起こす。

「酔ってたんじゃないの?」

 由美が訊ねる。

「少し飲んだけど、そこまでじゃないよ」

 柏木は車外を眺めながら、いつもと変わらない口調で返す。

「演技だったの?」

「そう」

「なんでまた?」

「それは……佐伯さんと帰りたかったからだよー」と、柏木は再びおどけた様子を見せてから、「今日は何の日かわかる?」と尋ねる。

 思い出して気づく。カツの命日だった。

「今日で丸5年。事務所のスタッフでも知らない人間が増えていく。今日のライブには“緊急煽動装置”のファンも何人か来てたけど、どれだけの人が気づいていただろう」

 柏木は再び窓の外を見る。

「いいライブがしたかったんだよ」

 この呟きはライブと同じくらい由美の胸に響いた。


 タクシーを降りた二人は、自然と身を寄せながら柏木の部屋に向かう。

「コーヒー淹れるよ」

 柏木が言うが、「大丈夫、すぐ帰る」と由美は答える。

「泊まっていかない?」

「明日も早いから」

「ねえ」

 先に靴を脱いだ柏木が呼ぶ。

「俺達いつまでこの関係なのかな?」

 由美は何も答えない。

「大学卒業する前からさ、ここまで一緒にいるのに、俺達キスもしていない……」

「それで?」

「それだけ……」

 リビングに入った柏木は二人掛けのソファに横になる。

 由美は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、グラスに注ぐ。

「ねえ」

 もう一度、柏木が呼ぶ。

「何?」

「まだダメなの?」

 この言葉が意味すること――それは少し前に柏木と交わした約束だった。

 一昨年の冬、ちょうど柏木が一回目のヨーロッパツアーを終えた頃だった。

 久々に会った由美と柏木は、この部屋でコーヒーを飲みながら、互いの近況報告をした。

 その最中、隙を見てキスしようとした柏木を由美は止めた。

 戸惑う柏木に「まだダメ」と言って、由美は自分の思いを伝えた。

「依存するような関係になりたくない」
「まだ自分は、自らの力で何も手にしていない」
「自分勝手で悪いけど、許されるのなら、納得して向き合えるようになるまで待って欲しい」

 由美の話に耳を傾けた柏木が、「わかった」と言ってから今日まで、そういう態度を取ることはなかった。

「うん。ごめんね」

 由美が答える。

 柏木は「そっか」と呟き、目を瞑る。

 由美がグラスを頬に当てる。

「ありがとう」と受け取った柏木だったが、口をつけない。

「今、とても大事な仕事があってね」

 柏木が見上げる。

「それが終われば、きちんと向き合えるようになると思う」

「そっか……」

 柏木は何度か小さく頷いた。

「じゃあ帰るね」

 いつもなら「大通りまで送っていくよ」と言うが、今日は「うん……」と答えるだけで、立ち上がる気配はない。

 大通りまで歩いた由美は、流しのタクシーを拾う。

 タクシーの中で柏木に電話をかけようかとも思ったが、迷った末止めた。

 翌朝、由美は柏木からの“昨日はごめん”というSMSで目を覚ました。

“こちらこそごめん”

 そう返信してから、由美はシャワーを浴びるため、寝室を出た。