マンションに帰るまでの間、由美は携帯電話で、新聞社・通信社のニュース速報を追いかけた。それによると、玲が刺されたのは、武蔵小金井駅北口での街頭演説後のことだった。演説を終え、支援者と談笑している時に、近づいてきた女性に刺された。女性はその場でスタッフに取り押さえられ、現行犯逮捕。玲は病院へと救急搬送されたが、搬送先の病院で死亡が確認された。

 部屋に入った由美は、リビングのテレビを点ける。

“アー・ユー・ハッピー?”という宝くじのCMが流れ、由美はチャンネルを変える。

 夕方のニュースは玲の事件一色だった。

“白昼のテロ! 佐伯議員刺殺!”

“佐伯議員 街頭演説中に刺され死亡!”

 そういったテロップを画面の右上に表示させながら、各局事件の詳細を伝えている。だが、ピンクやオレンジといった番組カラーの枠で囲まれたテロップからは、「テロ」や「死亡」といった言葉の持つ禍々《まがまが》しさが希釈されていて、その印象は、由美の抱いていた衝撃とはかけ離れたものだった。

 由美は肩にかけた鞄を下ろすこともせず、チャンネルを変え続ける。

 由美は何かを求めていた。けれども、自分が一体何を求めているのかはわからなかった。

「玲が死んだ」

 由美の中で深くなっていくのはそれだけだった。テレビでは事件の状況と玲の経歴を繰り返し伝えているが、求めていたのは、どちらでもなかった。

 ある局が、18時前から流し始めた映像に、由美は初めてチャンネルを止めた。そこには、支持者と談笑する玲が映っていた。

 玲は何人かの女性と握手した後、ふと目の前に現れた若い女性に、両手を広げながら近づいていく。女性も両手を広げ、二人はまるで再会を懐かしむかのように抱き合う。それから女性は顔を上げ、二人はそのまま口づけを交わす。

「マジかよ」という撮影者の声が聞こえると同時に、二人の身体が細かく震えた瞬間、周囲から悲鳴が上がり、カメラの前の人垣が割れる。

 血に染まった白のスーツ。モザイクに隠れているが背中に突き立てた刃物の柄を両手で掴んだまま、玲を抱きしめる女性。

 すぐにスタッフが二人に駆け寄り、犯人を引き離そうとする。

 混乱と悲鳴の中、スタッフのあげる「ダメ!」「抜いて!」という大声。

 スタッフが両手を犯人の手にかける。

「早く!」「早く!」という声と共に、更に三人のスタッフが玲と犯人を取り囲む。

 ようやく二人が引き離される。

 仰向けに押し倒された犯人のシャツは赤く染まり、鎖で繋がれた血濡れの刃物が足元に転がる。

 一方、玲は三人のスタッフに支えられ、車の近くまで運ばれる。

「救急車! 早く!」とスタッフが叫ぶ間にも、玲の腹から溢れる血が、アスファルトに染みを作っていく。

 再び聴衆からあがる悲鳴に、カメラが犯人を捉える。

 スタッフが二人がかりで犯人の口に丸めたハンカチを押し込んでいる。

 カメラが再び玲を映す。

 玲はぐったりとしたまま顔を上げない。

「タオルか何か! 早く!」という声に、スタッフの一人がジャケットを脱ぎ、それを玲の傷口に押し当てる。

 カメラがもう一度犯人を映す。

 二人のスタッフに腕を絡められ、立っている。犯人も腹から血を流しているが、特に苦しむ様子もなく、ただ無表情に玲を見つめている。

 カメラが女性の顔に寄る。

 目から零《こぼ》れた涙が頬を伝う。

 救急車のサイレンが近づいてくる。

 もう一度カメラが玲を映す。

 傷口に当てられたジャケットからは血が溢れ、必死に押さえ続けるスタッフの手の甲を流れ続けている。

 引いたカメラが聴衆を捉える。

 僅かに残った聴衆がその光景を呆然と見つめる一方で、何人かは携帯電話で現場を撮影している。

「撮影止めて!」という声と同時に、警察官の姿が映り、その手がレンズに覆い被さった直後、映像は途切れた。

 画面の切り替わったスタジオでは、女性アナウンサーが犯人の経歴を伝え始める。

 犯人は元AV女優月野ルカこと、本名高木瑠香。年齢は21歳。テレビにはプロフィール写真だろうか、幼い顔立ちをした女性の顔が映っている。

 由美の左手に握られていた携帯電話が震える。“公衆電話”と表示された画面から、「恐らく母だろう」と察し、電話を取る。

――もしもし……

 ほとんど聞こえないくらい小さな母の声。

――はい

 由美はできるだけ平静を装って答えたつもりだったが、その声は微かに震えていた。

――ニュースは……見た?

――うん

――じゃあ知ってるのね……玲ちゃんね……死んじゃった
 この言葉を聞いた瞬間、全身から力が抜け、由美はソファに腰を下ろす。

――街頭演説中に刺されて……病院に運ばれたんだけど……ダメだった……

――うん

――あなた今どこにいるの?

 由美は一瞬答えることを躊躇したが、

――家……と答え、それから――自分のマンション、と言い直す。

――今、小金井中町病院だけど……来れる?

 縋るような声。が、――行けない、と由美は突き放す。

 電話の向こうからは何も聞こえなかった。それでも、由美には、病院のロビーで立ち尽くす母の姿が浮かび、沈黙が聞こえる気がした。

――どうして……父さんがいるから?

 再び聞こえてきた声は涙交じりだった。

――違う

――じゃあどうして……と続ける母の声に、由美は何も応えなかった。

――あなたの姉が亡くなったのよ

 母の声が大きくなる。

――あなたにとって、たった一人の姉

 わかっていた。

――もう会えないのよ……玲ちゃんにはもう会えないの

 そんなことはわかっていた。 

――どうして会いに来てあげないの……玲ちゃんにお別れを言いに来てあげないの

 母の声はますます大きくなる。

――どうして……どうして……あなた小さい時は、あんなに玲ちゃんについてまわっていたじゃない

 その言葉を聞いた一瞬、小さい頃の玲の姿が由美の脳裏を駆け巡った。

――そうね

――じゃあどうして?

 由美は答えない。

――お願いだから変な意地を張らないで、最後のお別れを言いに来てあげて……お母さんのためにも、佐伯家のためにも……

 由美は、これ以上母の声を聞きたくなかった。これ以上聞くと、そのまま、自分の胸に溜まったマグマのような言葉をぶつけてしまいそうだった。

――通夜と葬儀はいつ?

 堪らず話題を変える。

――わからないけど、明日が通夜で、明後日が葬儀になると思う

 少しだけ元気になった母の声。由美は、――わかった、と答える。

――お願い……必ず来てね

 最後の呼びかけには返事をせず、電話を切る。

 由美は携帯電話から手を離す。ソファに落ちた携帯電話を見つめながら、玲のこと、母のこと、自分のことを考えた。だが、漠たる思いが確たる考えに至らぬまま、再びテレビに目を向ける。

 画面には小金井中町病院の玄関前が映っている。

 照明で照らされた正門をバックに、女性レポーターが事件から死亡に至るまでの経過を伝えている。

 その様子を見るにつけ、ここに行くことなんてできるわけがない、と思う。

 恐らく実家にもマスコミが大挙して押し寄せている。彼らはそこに出入りする人間を全てチェックし、コメントを求め、自宅から職場まで追いかける。

 普段、仕事としてやっているからこそ、自分が今佐伯家の周辺に顔を出すことがどういうことかわかる。ここに自分が行く――それはようやく手に入れた居場所を失うということだった。

 顔を下げ、大きな溜め息をつく。「玲が死んだ」という思いは、由美の中でさらに大きなものになっていた。だがそれは深まっていくのではなく、膨らんでいく、そんな感じだった。

 由美は、寝室でジャケットをハンガーにかけると、ピアスを外す。浴室でバスタブに湯を張る間に、洗面台で化粧を落とす。寝室に戻り、パンツスーツとストッキングを脱ぎ、着替えを手に再度洗面所に向かう。裸になり、浴室でシャワーを頭からかぶる。

 普段であれば、その日自分の身に降り掛かった一切を洗い流すことができる時間だが、今日は、母との会話、事件を伝える文字や映像が、脈絡なく何度も頭の中で再生された。

 シャワーを止めて、浴槽に浸かる。両手で何度も湯を掬《すく》いながら、さっき見た事件の映像を思い出す。

 女性に近づいていく。抱きしめ、キスを交わし、刺される。

 そのどれもが自分の知る玲ではなかった。だからこそ、どうして玲がそのような行動を取ったのか、考えを巡らす。

 そして、行動を記録した映像が残されたということ。仮にテレビで二度と放送されなかったとしても、一度流れた映像は、インターネット上にアップされ続け、永久に消えない。

 元々玲には、フェミニズム寄りの政治方針然り、スタッフ全員が女性であることから、「同性愛者なのでは?」という一部報道があった。そういったゴシップに対して、玲は肯定も否定もしてこなかったが、玲の死と今回の映像を根拠に、玲が同性愛者だったという認識は広まっていくことになるだろう。未だ同性愛者であるということが万人に受け入れられているとは言えない現代において、それは、玲の輝かしい経歴にできた消えない疵《きず》になるのではないか。

 そんなことを考えながら、左手で掬った湯を、水面に落とす。指の股を伝った雫《しずく》の作る水紋が幾重にも広がった。

「お客さん」という運転手の声で、由美の回想の繭《まゆ》は破られる。

「はい」

「もうすぐ新宿ですけど、どこに停めますか?」

「ピカデリーの前で」

 由美はそう言うと、鞄から財布を取り出す。

 タクシーを降り、新宿区役所前の信号まで歩いていく。さすがにこの時間になると人の数もぐっと減り、人通りによるむせ返るような熱気も収まっている。

 由美は靖国通りを横切ると、そのまま区役所通りを進んでいく。