翌朝、由美は東京拘置所の面会室で、中山が来るのを待っていた。

 これまで何度も来ているが、冷暖房完備で全てが管理された空間に漂う重苦しい空気には、いつまで経っても慣れることはない。

 アクリル板の向こうのドアが開く。職員に連れられて、入ってきた中山に頭を下げる。

「今日はありがとうございます」
 由美の挨拶に顔を上げる。無地のスウェット姿で、化粧をしていない顔にはシミと皺が目立ち、手入れのされていない白髪と合わせて、世俗的な雰囲気は抜け落ちている。

「控訴審もまもなく判決ですね」

「ええ。でも、待つだけです。一審でもそうでしたが、こちらから上告するつもりはありません」
 中山は小さな声で、しかし、はっきりとした口調で話した。

「そうですか。今日は少し拘置所での生活を踏まえた上でのお話をしたいと思っています。手紙は届いてますか?」

「はい」

「では早速。ここでの暮らしはどうですか?」

「以前にもお話した通り、私は四男二女の次女として生まれました。両親は二人とも働きに出ていて、私は長女を手伝う形で兄弟達の世話をする。服は長女のお下がりで、部屋は下の子達と一緒で、ふすま一枚で仕切られた生活。それは中学生になるまでの私にとって当たり前のことでした。

 ですが、中学に入り、周りの子達は自分の部屋というものを持ち始めました。部屋に入る前には、ドアをノックしてもらうという話を聞く度に、羨ましいと思ったものです。

 高校卒業後、私はすぐに見合い結婚をし、その後、約10年を公営団地で過ごしました。ただそこも、リビングと寝室をつなぐ部屋の境は引き戸で、自室と呼べるものはありませんでした。郊外にマイホームを購入して、ようやく私はドアのある寝室を手に入れましたが、ノックしてくれる人は誰もいませんでした。

 今の雑居房の生活について言うと、『戻ってきた』と思います。様々な女性と布団を並べて眠る。性別こそ違いますが、それは生家での生活そのままです。いや、当時よりも恵まれているかもしれません。三食付きで暖かくして眠ることができますし、支援の方々が様々な差し入れをしてくれますから」

「外の世界でもう一度暮らしたいとは思いませんか?」

 中山は首を横に振る。
「私の終の住処はここでありたい、というのが正直な所です」

「そうですか?」

「ええ。同室の方にも聞きましたが、出所後、お金も行き場もなく、刑務所に戻るために、再度罪を犯す人も数多くいるそうです。生活保護を受けるにせよ、世間様に対する申し訳ない気持ちと、孤独死への恐怖は消えません。そう考えると、もう一度外で暮らそうという気持ちにはなかなか……」

「でも、中山さんには、支援してくれる団体やご姉弟がいます」

「そうですね。中川さんの記事のおかげで、私のような者にも、幾つかの団体が手を差し伸べてくれます。本当にありがたいことです。ですが、姉弟達には迷惑をかけられません。中川さんの記事の後、他のメディアからもかなりの数の取材申し込みがあったようで、面会に来た姉からは『近所で噂になっている』と聞きましたし、小さい頃よく面倒を見た弟からも『なんで取材なんか受けたんだ』と言われました。他の姉弟も同じような状況でしょうから、出所したところで私の行き場はありません」

 中山の口調からは、出所後も姉弟の世話になるつもりはないという強い意思が感じられた。

「ありがとうございます。ここから先は、事件に関する質問をさせていただきたいのですが、よろしいですか?」

 中山が頷くのを確認してから、由美は訊ねる。
「裁判を通じ、旦那様への気持ちに何か変化はありましたか?」

「私は、自分が殺人を犯したという自覚はありますが、事件を起こしたという意識はないのです」

「と言いますと?」

「あの人を殺した時のことははっきりと覚えています。私の手を濡らした血の滴《したた》り、あの人の驚愕の表情《かお》と、虚空を見つめ動かなくなった肉体……それらを忘れることはできません。ですが、その行為に、事件と呼ぶにふさわしい社会性を見出すことができずにいます。双方の両親は亡くなっていて、子どももいない。あくまで、あの人と私、二人だけの出来事という認識です」

 由美は相槌を打ちながら、中山の話に耳を傾ける。

「もちろん罪の意識はあります。また、罰について言えば、受けなければならないと思っているくらいです」

「受けなければならない、ですか?」

 中山は頷く。
「そう思います。そうすることで、初めて私は長年の罪の意識から解放される気がします」

「それは、以前仰っていた子どもができなかったことについてですか?」

「はい。『乙女は結婚によって妻に、妻は子を産み母となり、初めて女性になる』今はどうかわかりませんが、私たちの時代ではそういう見方しかされませんでした。『石女《うまずめ》は、旦那に浮気されても離婚されても文句は言えない』そんな言葉を、あちらの両親や親戚からも言われたものです」

「そういった考え方は、年齢が上になる人ほど根深く残っていますね」

「近しい人からは『お前のせいだ』と言われ、周りからは『かわいそうな人』『ズルい人』と見られたり……今、罪を犯したことで、私はようやく『普通じゃない』ことを受け入れることができました。普通じゃないから罰を受ける――とても自分勝手な考えだと思いますが、今はそんな気持ちです」

 この言葉を聞いた由美は、以前中山に「どうして旦那さんと結婚されたのですか?」と尋ねた時のことを思い出した。

「そうするしかなかったからです」と答えた中山は、一呼吸置いてから、「中川さんのような若い方にはわからないかもしれませんが、恋愛結婚が当たり前となったのはごく最近のことです。高度成長期に恋愛結婚をした世代が親となり、その子ども達が恋愛結婚を当然と認めるようになって、ようやくそれは普通になったのです」と続けた。

「時間です」

 男性職員の声で、由美は現実に引き戻される。
「帰りに差し入れをしておきますが、何か必要なものありますか?」

 中山は「いつもありがとうございます」と言うと、靴下と歯ブラシを由美に依頼した。

 部屋を出ていく中山に、「判決の傍聴には必ず行きます。今日はありがとうございました」と声を掛けた。

 謝礼と一緒に差し入れを済ませ、由美は拘置所を後にする。

 面会の間に、朝から降っていた雨は止み、空気は少しひんやりとしている。

 由美は駅に向かいながら、記事の見出しを考える。

“「普通」という呪い”“「普通」の犠牲者”――違う。インパクトがない。

 電車に乗り、つり革に掴まる。昨日メモした“脱色していく女性たち”という言葉を、もっと人々を惹きつける言葉へと換えることはできないか。

 美しくありたい――美の探求
 占いで元気が出る――不安からの気休め
 かわいいマスコット――丸みによる癒やし

 常識では、魅力として映ることの多い「美」「気休め」「癒やし」――それらが彼女達を罪へと走らせたとするならば……。
 由美の中を閃きが駆ける。

「魔女」「現代の魔女」―――「魔」に取り憑かれた女性達。その妖しげな力は、時に理性の境界を越えさせる。

 由美は、何度も頷きたくなるのを抑える。日比谷線に入り、地下の車窓に映る自分の顔を見て確信する。

 これしかない気がした。