取材メモを読み直し、中山への質問内容をまとめた由美は、鞄からプライベートの携帯電話を取り出す。

 ここ30分のうちに実家からの不在着信が3件。

 嫌な予感しかなかった。

 電話をかけても碌《ろく》なことはない。ただ、かけなければもっと酷いことが起きる気がする。

 由美は財布と携帯電話を手に編集部を出て、廊下の端の非常階段まで歩く。

 先客がいないことを確認した所で、再度着信があり、由美は慌てて携帯電話を耳に当てる。

――何度も何?

――由美? ようやく出てくれた

 のっぺりとした母の声に、今すぐ電話を切りたくなる。

――で、用は?

――お父さんが、あなたに話があるそうよ

 概ねそんなことだろうと思っていた。

――なんで?

――そんなこと、私が知るわけないじゃない

 恐らく母は和昌に、ただ「電話しろ」と言われただけなのだろう。

――父さんそこにいるんでしょ? 代わって

 由美が訊ねるも、今は近くにいないという。

――電話じゃなくて、こっちに来いってこと?

――そういうことみたい

――いつ?

――何も言ってなかったけど、できるだけ早くだと思う

 まるっきりこちらの都合を無視した態度にうんざりする。

 こうなったら、何を言っても無駄なことはわかっていた。例え東京にいなかったとしても、和昌は今日私に会うつもりなのだろう。 

――わかった。じゃあ今晩行く

――そう。お父さんに伝えておく

 母からはそれだけで、感謝の一言もなかった。

 ため息をついた由美は、携帯電話を持った右手を勢いよく振り上げる。だが、下ろしどころのないそれは、そのままゆっくりと元の位置に戻される。


 最寄駅に着いたのは夜9時前だった。

 由美はタクシー乗り場に向かいかけた足を止め、バス通りを歩くことにする。

 中学、高校、大学と10年間歩き慣れた道も、3年の間に大きく様変わりしていた。かつては歩道もほとんどなく、狭い車道に路側帯があるだけだった道路は拡張され、路肩で遮られた歩道と街灯も整備されている。

 しばらくバス通りを進んだ由美は、途中で住宅街の道に入る。この道は、昔から家への近道だったが、一方で、並行して走る街道の抜け道としても知られていて、バス通りよりも狭い上にスピードを出す車も多く、母からは「この道は通らず、遠回りでも、できるだけ明るい道を通りなさい」と言われていた。

 由美は中学に入学した頃までは、母の言いつけに従っていたが、そのうち関係なく通るようになった。

 そんなことを思い出しながら、実家の門前に着く。インターホンを押すと同時に、照明が由美の姿を照らし、通用門のロックが解除される。

 中に入る。庭園灯に照らされた石畳を進むと、二階建ての和風建築が目の前に現れる。由美は相変わらずよく手入れされた庭を眺めながら、玄関まで歩く。

 引き戸を開ける。

「お帰りなさいませ、由美様」

 昔と変わらず、田村さんが頭を下げて由美を迎える。

「ただいま、田村さん」

 由美の声に田村さんが顔を上げる。

 三年ぶりだったが、田村さんは最後に会った時と全く変わることなく、つややかな黒髪を後ろで束ね、こちらに優しい眼差しを向けている。

 靴を脱ぎ、用意されていたスリッパに履き替えるのを待ってから、田村さんは、由美を応接間まで案内する。

「由美様は、最後にお目にかかった時よりも、一段と大人っぽくなられましたね」

 田村さんが前を向いたまま話す。

「ありがとう。でも、田村さんも変わらない。本当にいつまで経っても若いまま」

「いえいえ、私など。もうこの歳ですから」

 由美は前を歩く背中を見るが、身体のラインが丸くなることもなく、しゃんと伸びた背中を見るにつけ、もう50近くとは思えなかった。

「父さんと母さんは?」

「旦那様は自室です。奥様は既に中に」

 田村さんが応接室の扉をノックする。

「どうぞ」という声が聞こえ、田村さんは由美を中へと案内した。

 由美の目に入ってきたのは、今にも泣き出しそうな表情《かお》でソファに座る母の姿だった。

「ようやく帰ってきてくれた」

 昨日も会っているのに、まるで死地から生還したような口ぶりだ。

「父さんに呼ばれたから」

 由美は冷たく返す。

「そんな顔しないで。母さんとは昨日も会ったでしょ」

「いいえ、今回のことでわかった。人間いつ死ぬかなんて、本当にわからない」

 由美は向かいのソファに腰を下ろすが、すぐに、「でも、せっかく来たんだからお線香でもあげないと。骨は仏壇にあるの?」と尋ねる。

「骨も写真もここにはない」

 眉を寄せた母が、目に涙を浮かべている。

「玲ちゃんの遺言で、無宗教方式で火葬のみ。その火葬も、骨も残さず全てを灰にするようにって」

「写真は?」

「写真もよ。最近の玲ちゃんの写真は渡せないって」

「うーん。まあ、玲の場合は、色々権利関係があるんじゃない?」

「だとしてもあんまりじゃない。それに、昨日『遺品の整理をするから』って言うから行ってみれば、渡す気がほとんどないような対応でしょ? 玲ちゃんは騙されてたの」

 母は取り出したハンカチを目元に当てる。

「父さんは何も言わなかったの?」

「父さんも驚いていたけど。あの時は私以上に憔悴《しょうすい》していて……それなのに、今日の夕方、久しぶりに居間に顔を出したかと思えば、『由美を呼べ』でしょ。議員だった時のように眼をギラつかせて、すごい迫力だったわ」
「それで、わざわざ勘当した娘を呼び出したと」

「あれは、あなたがお父さんの言うことを聞かずに出て行ったからでしょう」

 由美は母を見る。

 そうだった。この人はこういう人だった。

 思い出した由美は、それ以上、何も言わず和昌を待つ。

 ノックもなしに応接間のドアが開く。振り返ると、和昌が杖を突いて立っていた。

 一人掛けのソファに向かう和昌のおぼつかない足どり、杖を突くためにまるくなった背中に、衰えを感じる。

 ゆっくりと腰を下ろし、三人は正三角形の形で向かい合う。

 和昌が睨みつけるようにして由美を見る。由美もまた目線を逸らさずに向き合う。

 お互い一言も発さない様子に不安を感じてか、燕は二人の顔を交互に見ている。

「仕事はどうだ? 忙しいのか?」

 先に口を開いたのは和昌だった。

 由美はそれには答えず、「で、話って何?」と尋ねる。

 和昌がこちらをじっと見る。

「誰かと結婚する気はないか」

「はあ?」
 全く予想していなかった言葉に、素っ頓狂な声を出してしまう。

「お前にふさわしい男を見つけてやるから、そいつと結婚する気はないか」

「ありえない。父さんの息のかかった男となんて」

「それが佐伯家の血を途絶えさせないために必要なことなんだ」

 和昌が頭を下げる。

「そんなことをお願いするために呼んだの? 私がこの話を受けると思った?」

「だから今こうして頭を下げている」

「玲が死んだから、代わりが必要になったんでしょ?」

 和昌が顔を上げる。

「違う。玲は自分から議員になると言った。私がどうしろとは一言も言っていない」

「それでも議員になることには反対しなかった。なのに、私には最初から旦那ありき、結婚ありきの話をする」

「由美、わかってくれ。私は親として娘を自分より先に失うのはもう嫌なんだ」

「代わりに、自分の息のかかった男と一緒になって議員の妻になることが、娘の幸せと思ってる。時代錯誤もいいとこよ」

 由美の言葉に、和昌の表情が変わる。“政界の渡世人”と言われていた当時のぎらついた眼光。

「そうだ。だから言うことをきけと言っている」

「絶対に嫌」

「あのバンドを組んでいる男と結婚する気か?」

 由美は頭に血が上るのを感じる。

 柏木とはまだそこまでの関係ではないが、誰かに調べさせた上で「結婚しないか」と口にしていたと思うと、神経を疑いたくなる。

「止めとけ。そんな男より、もっとふさわしい男を見つけてやる」

 勝ち誇ったような表情を浮かべる和昌を見た瞬間、由美は冷静になる。

「父さんが彼の何を知っているの?」

「音楽をやりながら定職にも就かず新宿のバーで働いてるんだろ。それだけで十分だ」

「私にふさわしいかどうかではなく、佐伯家にふさわしくないんでしょ?」

「由美もあなたももう止めて」

 たまらず母が割って入るが、二人とも一瞥《いちべつ》すらしない。

「たとえ勘当しようが、お前は俺の娘であり、佐伯家の人間だ」

「意味がわからない。言ってることが滅茶苦茶よ」

「佐伯家にはもうお前しかいないんだ」

「そう思うようになったのも、玲がいなくなったから」

「そうだ。玲がいなくなったからだ。こう言えば満足か?」

 話にならなかった。

「帰る」

 立ち上がり、扉に向かう。

「待て」和昌が呼ぶ。「まだ話は終わっていない」

「老人の独り言が終わってないだけ」

 そう答えると、由美はゆっくりと扉を閉める。

 玄関を出た由美は、石畳の途中で後ろを振り返る。

 2階の窓。そこから伸びる屋根を見て蘇る、鮮やかな記憶。

 よく晴れた日だった。

 由美は田村さんと庭でお人形ごっこをしていた。芝の青さ、田村さんが半袖のブラウスを着ていたことから、夏に近い季節だったと思う。

「待ちなさい」という母の声が聞こえたかと思えば、田村さんが立ち上がり「玲様危ない」と声をかけている。

 由美は2階を見上げる。

「戻ってきなさい」と繰り返す母の視線の先には、屋根の縁に立つ玲がいた。

 玲が屋根を蹴る。

 飛んだ。

 肉体を伴った確かな軽やかさを感じさせながら、由美の眼前に降り立つ。

 半ズボンから伸びる足が眩しかった。

「お怪我はありませんか?」と尋ねる田村さんを無視して、玲は玄関を見る。玄関の戸が勢いよく開き、つっかけを履いた母が「怪我はない?」と駆け寄る。

 玲は無言で母を見上げていた。

「わかった。そこまで着たくないというなら、着なくていい」

 母がため息とともに答えると、玲は何も言わずに玄関へと歩いて行く。

 その鮮やかさは色褪せることがなく、由美の最初の記憶として深く残っている。

 玲は昔からこうだった。

 自分で決めたことは決して変えない。

 周りから何を言われようと、自らの信念に従い行動する。
 そして、玲は失敗しなかった。

 そのような生き方をする以上、一度の失敗が大きな非難に変わることを理解していないわけがなかった。

 それでも、玲は自分が納得できないことは絶対に受け入れなかった。

 たった一度の妥協が、その人を一生跪《ひざまず》かせる可能性があることを生来的に知っていた。

 それが玲だった。だから玲だった。

 由美も玲と変わらない年齢の時、屋根の上に立ったことがある。しかし、屋根の端に着いた時、由美の足はそこで止まった。

 屋根の上から見える芝生は、やわらかさよりも、その下に隠れた地面の固さの想像の方が大きかった。また、スカートから伸びる自分の足では、着地した自らを支えきれずに転倒する。そんなイメージが頭の中を占めた。

 そして、もし無事に着地できたとしても、母の言葉は玲の時とは違う。

「危ないじゃない」「一体何を考えているの」

 その想像と、後ろから聞こえる「戻ってきなさい」という母の声に、由美は引き返した。

 この決断について、由美はこれまで何度も振り返ってきた。

 玲は躊躇《ためら》うことなく飛び、その後、自らの意思で世界に飛び出した。

 私は飛ぶことができなかった。だから、その後、自分で考え、選択したと思うことに対しても、ただ佐伯家に反抗しているだけではないかと考えてしまう。

 門を出る前にもう一度、闇の中の実家を見上げる。

 私に足りないもの。それは結果だった。

 周囲を納得させる結果。

 この家から本当の意味で自由になる。そのための第一歩が、『オンナ達の末路』を書き上げることだ。

 由美は決意と共に門をくぐる。通用門の扉が閉まると同時に、機械音と共に自動で施錠される。

 由美は駅に向かう。頭の中からは、和昌のことも、母のことも、玲のことも消えていた。

「前へ、前へ」

 由美の中にあったのは、その気持ちだけだった。