玲の殺された日、由美はヒルズ族妻による児童虐待死事件の取材を行っていた。その取材は、旦那が一時《いっとき》世間を騒がしたIT企業の副社長だったこともあり、他媒体が入り乱れての取材合戦の様を呈していた。

 由美もまた、夫婦の知人や友人といった取材対象を求め、夫婦の住んでいたマンションから、旦那の勤務先、容疑者の実家まで、その周囲を奔走していた。

 キーになるのは容疑者の両親の話。

 そう考えていた由美は、事件後すぐに実家の郵便受けに手紙を入れていた。

“もし娘さんと年齢《とし》の近い女性に話を聞いてもらいたいということがあれば、ご連絡ください”

 手紙に書いた番号に連絡が来たのは、翌日の昼過ぎで、その日の夕方には、父親の職場近くのファミリーレストランで会う約束を取りつけた。

 目の前に現れた父親は、事件後の混乱で疲れ切っていて、その様子は絞り上げられた雑巾を思わせた。席に着いてからも落ち着きがなく、他の席から少しでも大きな声が聞こえると、周囲を見まわしては、ここに来たことを早くも後悔しているようだった。

 取材の最初、父親は、こちらの質問になかなか答えようとしなかった。そのため、由美はまず、自分が今回の事件や川下南容疑者に対して抱いている印象を話した。その過程で出た事件とは無関係な質問に答えるうちに、ようやく父親の口からも、事件に関する言葉が出るようになった。

 父親は、自らの半生を振り返りつつ、今自らが置かれた状況に対する戸惑いと怒り、そして、恨みを口にした。

 この時点で、由美の携帯電話は、ジャケットの胸ポケットで何度も震えていた。けれども、今席を立つと、少しずつ流れ始めた取材を止めてしまうため、由美は無視して取材を続けた。

 一時間ほど経ち、一区切りついた所で、化粧室に入る。

 携帯電話には、編集長の富沢から数件連続しての着信履歴が残っており、SMSには、“佐伯玲が街頭演説中に刺された。至急連絡しろ”と書かれていた。

 その短い文章を目にしてから少しの間、由美にはその文章が一体何を意味するのかわからなかった。ディスプレイに表示された文字が文字の形をした断崖《だんがい》のように見え、感情だけが釘付けとなり、意味が追いついてこなかった。

 由美は携帯電話でYaーnetのトップページにアクセスする。ニュース欄の見出しの一番上には、

“佐伯玲議員 演説中に刺される NEW!”

 と表示されていた。

 由美は鞄からプライベートの携帯電話を取り出す。そこには、042で始まる実家からの着信履歴が数件残っていた。顔を上げる。鏡には、薄暗い洗面台に血の気の引いた表情で佇む姿が映っている。

 深呼吸する。消毒と汚れが混ざった衛生のにおいが肺を膨らます。由美自身、それで何かが変わるとは思っていなかった。ただ、動揺する自分を落ち着かせようと深呼吸する私、を自覚するためにそうした。

 実家にリダイヤルする。他の電話と変わらない呼び出し音なのに、随分遠くで鳴っている気がした。

――佐伯です

 お手伝いの田村さんの声が聞こえたが、由美はすぐに電話をかけたことを後悔し、

――もしもし、もしもし、と聞こえる中、電話を切る。

 由美は動転していた。右手に握りしめた携帯電話を左手に持ち替え、何度も手汗を拭ってから、再度電話をかける。

 呼び出し音の後、――佐伯です、という田村さんの声を遮って、

――田村さん、私、と呼びかける。

――由美様ですか?

――そう。母さんは?

――奥様は旦那様と一緒に玲様の搬送された病院に

――場所は? 容態はどうなの?

――場所は小金井中町病院になります。容態の方は……申し訳ございません。私にはわかりかねます

 その言葉を聞いた由美は、
――わかった、と言い、――ありがとう。切るわね、と答えた。

――由美様、この電話の件は……

――うん。伝えないでもらえると助かる

――かしこまりました

――ごめんなさい。それじゃあ

 由美は電話を切ると、再度Ya-netのトップページにアクセスする。

 更新されたニュース欄の一番上の見出しは、

“佐伯議員、病院にて死亡確認 NEW!”

 に変わっていた。

 由美は、化粧室の壁にもたれかかり目を瞑る。

 眼《まなこ》に焼き付いた“佐伯議員、病院にて死亡確認 NEW!”の文字。その中で、黄色で縁取られた“NEW!”の文字がぼんやりと浮かび上がった。

 目を開ける。鏡に映る姿は蒼白としていた。それでも、まだ取材中、と言い聞かせると、右手で自らの頬を軽く三度張った。

 席を外している間に、ジョッキビールを飲み終えていた父親は、由美が席につくとすぐ、「自分はだめな父親だ。自分がもっとしっかりしていれば、今回のようなことは起きなかったのかもしれない」と、口にした。

 父親は「そんなことないですよ」といった言葉で、少し気を許した女性に慰めてもらうことを期待していた。が、玲の事件で頭が一杯だった由美の「そうですね」という答えに、最初呆気にとられ、すぐに失望の表情を浮かべた。

 父親の表情の変化に気づいた由美は、すぐに「どんな事件も、誰か一人のせいで起きたなんてことはなくて、その裏には様々な要因が絡んでいるものです」と弁解したが、父親の眼は沈んだままだった。

 由美は取材のお礼を伝えると、伝票を手に席を立つ。父親の縋るような視線を背中に感じながら会計を済ませ、店を後にする。

 玲が死んだからといって、人々の日常が変わることはない。曇り空の下、目の前の道路を行き交う自動車は、青信号で進み、赤信号で止まる。左折してファミリーレストランの駐車場に入ろうとしている軽自動車は、歩道のおばあさんが通過するのを待つ。

 駅へと向かう道すがら、仕事用の携帯電話で、富沢に電話をかける。

 すぐに電話に出た富沢に、直帰する旨を伝える。富沢からは、実家に帰ることを勧められたが、由美にその気はなかった。自分が病院に行けば、また、実家に帰ればどうなるか――その先は容易に想像がついた。

 交差点で信号待ちをしながら、反対側の横断歩道に目をやる。何かが横たわっていた。

 目を凝らす。

 片翼を轢かれた鳩だ。

 由美は周囲を見まわす。気づいていないのか、気づかないふりをしているのか、由美以外に目を向ける人間はいない。

 信号が変わる。横断歩道を渡りながら、もう一度鳩を見る。

 ちょうどその時、反対側の横断歩道を渡る三歳くらいの女の子が気づいた。女の子は右手で鳩を指差しながら、母親と思われる女性に話しかけるが、女性は見ようともせず、女の子の手を引いていく。

 横断歩道を渡り終える。鳩はまだ生きていたが、その目に光はなかった。