由美が編集部に入ると、テレビの前に記者達が集まっていた。

 自席に鞄を置いてから由美も加わる。見やすいように、笹塚が少し横にずれてくれる。

 テレビでは昼前のワイドショー番組が始まっていた。男性アナウンサーが、今朝の事件の犯人が都内の高校に通う女子高生であったことを伝える。同時に、逮捕されるまでの間に少女が投稿したとされるツイートを紹介する。


“これは明確な意思を持った少女犯罪である”

“私は絵に描いた餅のような運命を否定する”

“占いとは人のナルシシズムを慰撫する生の愚弄”

“巫女のように修行を積んだわけでもなく、養成学校で金を払い、占い師になった人間が、バーナム効果を利用して人々をたぶらかす”

“そんな言葉を何の覚悟もなく口にする人間は狂っているし、その言葉に縋《すが》るような人間も狂っている。そして、そういった人々に怒る私も狂っている”

“「あなたは今日死ぬかもしれない」この言葉の方がよほど現実的だ。それなのに、誰も信じようとしないのはどうしてか”

“結局、自分は特別と考えている。もしくは、特別な自分を普通と考えている”

“人々は絵に描いた餅のような運命を信じている。ならば、私はそれを切り裂こうと思う”

“占い師という絵描きを殺害することによって”


 元お笑い芸人の男性司会者は、アナウンサーの読み上げる言葉に険しい表情で頷いてから、特別ゲストとして席に座る、女性学の権威として知られる大学教授に意見を求める。

「今週に入ってから頻発している、一連の殺傷事件は、女性による復讐なのでしょうか?」

「女性による復讐ときましたか」

 大学教授は司会者の言葉をゆっくりと繰り返してから、言葉を続ける。

「たしかに、私たちは男女間における社会的平等を求めてきました。ですが、その動機は、ルサンチマンと呼ばれる恨みや嫉妬ではありません。男性優位の社会構造に対して、女性にも対等な権利を求めてきただけです。先程あなたは『女性による復讐ですか?』と仰いました。その発想自体が、男性優位の構造を前提にしたもので、『俺達は女性の要求に応じて権利を渡してきた。そんな自分達に対して刃を向けるのは何事だ』という優越意識そのものです。社会は男性だけのものではありませんし、もちろん、女性だけのものでもない。真に対等であれば、その問いかけ自体生まれないはずです」

 教授の毅然とした態度に「さすが女帝」と、彼女をよく知る記者の一人が揶揄し、周囲の笑いを誘う。

 司会者は、教授の迫力によってか、もしくは視聴者の顔を想像してか、「では、今回の事件をどのようにお考えになりますか?」と、先程よりも慎重なトーンで質問する。

「佐伯議員を狙った犯人以外の女性達について言いますと、彼女達はアクティビストであったと言えるでしょう。私自身は暴力的手法ではなく、言論を通じて男性と対等な権利を求めてきたアクティビストであると自負していますが、彼女達もある種の思想を持ち、行動を起こした人物であると言えます」

「その思想とは?」

「彼女達の声明を読む限り、昨日の事件では『美の否定』を、今朝の事件では『運命の否定』を主張していますが、その真意を説明するには、あまりにも時期尚早です。それよりも、立て続けに起きた事件を関連付けて、『女性の復讐』などと語ることこそ、ただの異例・偶然に過ぎない出来事をある種の潮流とみなし、男性中心の社会が望む世界の見方を再固定させてしまうのではないか。その結果、これまで多くの先人が取り組んできた権利や取り組みが水泡に帰してしまうのではないか。私が危惧するのはそのことです」

 由美は、手遅れだと思った。既に狂騒は始まっており、大学教授が出ているこの番組もその一部であるからだ。

 記者、タレント、アナウンサー、社会学者、哲学者、精神科医、教育関係者、その他様々な専門家、市民団体、市井の人々――有象無象を問わず「男」と「女」という誰にでも語ることのできるテーマに対して、次の祭りが始まるまで語られ続ける。

 この動きは止まらない。誰にとっても格好のネタになる。そして、近年「○○女子」「XXガール」などで、女性特有の価値を拡げ続けてきたマスコミが、このネタに食いつかないわけがない。今、編集長とデスクが行っている編集会議でも、この流れを組んだ特集を組むことになるだろう。

 テレビには、もう一人金髪リーゼント姿の男性が映っている。

 様々な社会問題を斬新な視点から再編集して提示できると評判の、新進気鋭の社会学者だ。先月、他社から刊行された教育格差とポップカルチャーの関係性を論じた著作も、異例のベストセラーとなっていた。

「今回の事件には、どんな社会的背景が関係していますか?」

「まず、これらの事件を一連の事件として語るのは間違いです」

 文章同様、歯切れ良く言い切る話し方が心地よい。

「その上で、現代の若い人達を覆う空気についてお話しします。『失われた20年』として説明される閉塞感。2000年に村上龍さんが発表された『希望の国のエクソダス』という小説で登場人物の一人がこう言います。『この国には何でもある。ただ希望だけがない』この言葉を現在に合わせて言い換えるとこうなります。『この国には何もない』」

 司会者が口を開こうとするが、社会学者はそのまま話を続ける。

「もう一度言います。『この国には何もない』これが若者の大部分を占める現実です。年金、福祉、雇用、全てを中高年や高齢者のために制度設計し、そのツケを若者達に押しつける。貧困は自己責任と一蹴し、隙あらばもっと奉仕させようとする。この番組を見ているような人達には、想像もできない厳しい現実が、既にそこら中で溢れています。想像できますか? 親からの十分な援助もなく、奨学金を借りても、生活費が足りず、週に一度風俗で働かなければやっていけない女子大生がたくさんいる。そんな彼女達にお金を払うのは、自己責任と叫ぶ中高年の男性達。それがこの国の現実です」

「今のお話と今回の事件がどう繋がるのですか?」

「そんな中でも、何とかして『私の物語を手に入れよう』と努力する彼女達に、『物語に対する絶望』と言うべき状況が立ちはだかっています。二人の主張は、対象こそ違いますが、『物語はどこへ消えた!』と叫んでいる点で共通しているのかもしれません」

 由美は社会学者の口にした「私の物語」という言葉から、自身の連載記事に『オンナの末路』というタイトルをつけた時のことを思い出した。

 デスクの平井に企画を持って行った所、「この企画だけはどうしても」という由美と平井との間で大揉めとなった。最後は、編集長に直訴して連載が決まった際、掲載の条件として挙げられたのが、企画名の変更だった。

 企画書でのタイトルは『躓《つまず》いた女性』だったが、富沢は「明日までに、俺を説得できるものにつけ直せ」と指示を出した。

 その晩、由美は、思いつく言葉をひたすらノートに書き続けた。ある程度書いては、読み直し、惹かれるものがなければ、また書き始める。

 朝の5時前だったと思う、“女の末路”という言葉を書いた時、由美はこれだと直感した。それから、ニュアンスの点で“女”を“オンナ”に変えて、今のシリーズ名になった。

 翌日、このタイトルを見た富沢は意味も聞かず、即断でOKした。

 由美が見出していた意味――“末路”という言葉の裏にある悲劇性と、その言葉に、“オンナ”をつけることで感じる意外性。そこにあるのは、「女性の一生にドラマなどない」「結婚して、家庭に入り、子どもを産んで育てるのが女性の一生だ」という社会の声だ。

 そこから、ふとしたキッカケではみ出してしまったオンナ達。その物語から女性の生き方を捉え直すこと。

 由美は初めて、自分が書き続けてきた記事の社会的意味を理解した気がした。