アラームの鳴る5分前、7時55分に由美は目覚めた。

「よく眠れた」

 目覚めた瞬間感じたのは、そのことだった。

 昨晩、マンションに帰った後は、いつも通り化粧を落とすと、すぐにシャワーを浴び、ベッドに入った。

 疲れているのはいつものこと。それでも、ここ数日の不眠が嘘のように、朝までぐっすり眠ることができた。

 ベッドから降りて大きく伸びをする。

 身体が軽い。

 リビングのテレビを点け、チャンネルを民放に合わせる。

 天気予報が終わり、ペットコーナーが始まる音声を聞きながら、冷蔵庫を開ける。

 8時からのワイドショー番組が始まる。

 トップニュースは、昨日の瀧川氏の事件だと思ったが、違った。

「こちらが、人気占い師、響永聡《ひびき・えいそう》さんの刺された現場です」

 画面から聞こえる音声に、ミネラルウォーターに伸ばしかけた手を止め、振り返る。

 男性レポーターが警察の規制線の近くから状況を伝えている。画面奥に見える警察の現場検証の様子に引き寄せられるかのように、由美はテレビの前に戻り、音量を上げる。

「……響さんは、毎朝5時頃こちらの公園内のランニングコースをウォーキングするのが日課だったそうです。犯人の女性は、背後から刃物で響さんに襲いかかりました」

 スタジオでは、司会の男性アナウンサーが、今回事件に遭った占い師の経歴を紹介している。

 数年前まではテレビで芸能人を占うレギュラー番組を持っていて、著作の累計発行部数は1000万部以上、現在は大学で教鞭も取る人気占い師。

「また新しい情報が入り次第、お伝えします」

 次に始まったのが、昨日の事件だった。

 事件の状況が伝えられると、すぐに内容は犯人に関するものとなる。

 犯人は都内の大学に通う21歳の大学生だった。

 彼女のブログも紹介されたが、文章はかなり編集されており、これでは彼女が伝えたかった内容の半分も伝わることはないだろう。

 大学の成績は、学部の特別奨学生に選ばれるくらい優秀。だが、就職活動では、自分よりも明らかに成績の悪い同級生が次々と内定を得ていくことに不満を持っていた。

 事件の報道が終わると、ここ数日頻発している若い女性の単独犯による著名人を狙った連続傷害事件について、コメンテーターの精神科医に意見を求める。

「これらの犯行はあくまで一部の特殊な例だと思いますが……」

 若者論の著作も多い精神科医はそう前置きした上で、「男女平等が進み、女性の社会進出が当たり前になる中で、同性内での格差が、はっきりと表れてきているのだと思います」と続ける。

「具体的に言うと?」

「四年制の大学に進む女性が増え、企業でも、総合職として同じ内容の仕事を性別に関係なくこなすことが当たり前になり、男女間にあった壁のようなものは薄くなってきました。そうなると、今度はこういった時流にうまく乗れる女性とそうではない女性との間で、経済面だけでなく、精神面での格差も広がっていきます」

「そういった格差と、ここ数日の事件との間には、どういったつながりがあるのでしょうか?」

「男女平等、機会均等が語られるほど、それが適わない人にとって、現代は地獄でしょうね。今回の事件は、その一部が表出したものとも言えます」

 そこまで聞くと、由美はキッチンに戻り、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。グラスに注ぎ、サプリメントと共に飲み下す。

 歯磨きをした後、熱いシャワーで、眠りの澱《おり》を霧散させる。鏡に映るうっすらと紅みを帯びた顔は始まりの徴《しるし》だ。

 由美はバスタオルで身体の水気を拭う。肌に化粧水と乳液を当ててから、バスタオルを髪に巻き寝室へ。

 下着を身につけ、服を選ぶ。

 グレーのパンツスーツに、サマージャケット、インナーは白のVネックTシャツ。

 Tシャツを着る。鏡と向き合い、コンシーラー、ファンデーション、アイライナー、アイシャドウ、アイブロウにチークとメイクを進めてから、ドライヤーで髪を乾かす。

 ストッキングを履き、パンツスーツを穿き、ベルトを巻く。最後に、リキッドルージュを塗り、ネックレスをつけた所で、インターホンが鳴る。

 玄関で荷物を受け取る。

 玲の事務所からだった。

 梱包を解くと、姿見をリビングの壁に立て掛ける。

 悪くない、と思う。

 テレビを消し、カバンを手に家を出る。

 梅雨の雲間から差し込む太陽に照らされながら、5分ほど歩いて駅に向かう。電車に乗り、空いている席に座ると、各紙のニュースをスマートフォンでチェックする。

 昨日の事件について書かれていることは、今朝のニュースと大差ない。

 由美は携帯電話の画面を見ながら、犯人の女性について思いを巡らせる。

 彼女が書いていたように、彼女の行動は醜からの一撃だった。ただ、その行動に対して、世間からは「自業自得」「自己責任」といった言葉を浴びせられる。

 彼女には絶望した人間しか持つことのできない、自棄糞《やけくそ》とも言える決意があった。そして、不幸にもそれを可能にしたのは、彼女が学問という分野で負けず劣らず勝ち抜いてきた強い意思であったのかもしれない。

 Twitterや匿名掲示板で犯罪予告を行った人間が、逮捕後「そんなつもりはなかった」と供述する――そういった輩《やから》と違い、彼女は計画を実行した。その行動を可能にしたのが、社会の期待に適う人間になろうとした思いと、社会から受けた拒絶の結果とするなら、何と残酷なことか。

 由美は自分でもよくわからない、複雑な感情を覚えた。

 朝の上機嫌が一気に萎《しぼ》んでいく。

 電車が地下に入っていく。

「もし、彼女が男性だったら……」

 そう考えずにはいられない。

 由美は携帯電話をジャケットのポケットにしまい、目を瞑る。電車のブレーキ音が耳に刺さった。