エレベーターの扉が開く。

 カーペットの敷かれた内廊下を進む久保田に、「お疲れじゃないですか?」と訊ねる。

「まだ気が張っていますので。それに、玲が死んだからといって私たちの仕事が終わったわけではありませんから」

 淡々と答えた久保田がカードキーでドアを開ける。

 先に通された由美が玄関に入る。広い玄関ホール。右はウォークインのシュークローゼット、左には大きな姿見がある。玄関の先は曲がり角で、奥の様子はわからないようになっている。

 スリッパを履き、廊下を進む。すぐに感じたのは、広さだ。恐らく、複数戸をつなげて一戸にしたのだろう。一方で、広さの割に、扉の数は極端に少なく、一つ一つの部屋がかなりの大きさであると想像できた。

 廊下の突き当たりを右に曲がるとLDKだった。入ってすぐ右側にキッチン、正面に広がる日当たりの良いリビングには、一辺に5人は座れるソファがL字に置かれている。その右側に置かれたダイニングテーブルに、燕が一人で座っていた。

 不安げな面持ちでこちらに視線を向ける。三年ぶりに会った母は、昨日テレビで見た時よりも顔色が暗く見えた。

「どうしてここ数日は来ることができなかったの」

 燕が目に涙を浮かべながら詰め寄る。

「母さん、人前なんだから落ち着いて」

 由美が制すも、燕の気持ちは収まらない。

「どうして玲ちゃんの最後を見てあげなかったの」

「だから今日こうして時間を作ってきたんじゃない」

「もう最後は終わってしまった」

「母さんの考えだけで話さないで。最後の姿を見ることがそんなに大事なこと?」

 ヒートアップする二人に「何かお飲みになりますか?」と久保田が割って入る。

「いえ、私、午後には出社する必要があるので、さっさと始めましょう」

 由美が答えると、久保田は、壁際にいたもう一人のスタッフに「私が案内するから、あなたは少し休んでいて」と伝えた。

 久保田の後について廊下に戻る。

「他のスタッフはどうされてるの?」

 由美が訊ねる。

「今日からしばらくの間、私と彼女以外は休暇です。ここ数日の頑張りへの感謝と、今後の身の振り方を考える期間として。何より、現場に居合わせたスタッフの心的外傷も心配しています」

 久保田は玄関近くまで戻ると、ポケットから取り出したキーケースで解錠する。

「まずは寝室です」

 カーテンの閉じられた薄暗い室内。左側にはベッドメイキングされたダブルベッドが置かれ、右側はウォークインクローゼットに繋がっている。

 由美は窓際まで進むと、カーテンを開ける。

 眼下に見える小金井公園の位置から、この部屋が東向きであることがわかる。

 振り返る。燕がベッドスタンドの傍に立ち、羽毛の掛け布団を撫でていた。母の背後に立つ久保田に「どういったものであれば、お譲りいただけるのですか?」と訊ねる。

「そういえば、お伝えしてませんでした。失礼しました」

 久保田が頭を下げる。

「お渡しできない物としては、宝飾品、その他アクセサリー、衣類等があります。それから、CDやDVD、書籍等も、ライブラリーへの収蔵が決まっているため、お譲りできません」

「それじゃあ渡せる物なんて何もないんじゃ?」

 由美が口を挟む。

「現実的にはそうなります。ですが、もし気になる物があれば、お気軽にお尋ねください。できるだけ前向きに検討させていただきます」

 由美は部屋の反対側のウォークインクローゼットに向かうと、壁際のスイッチを押し、明かりを点ける。

 パウダールームも兼ねた空間は、壁一面の収納となっている。上の棚にはハットやバッグが並べられ、下のハンガースペースには、クリーニング済みのシャツとトレードマークであった白のスーツが掛かっている。

 最奥の鏡台には、様々なメイク道具が置かれ、その下の引き出しには、恐らくジュエリー等が収納されているのだろう。

「ここで提供できるものは何もありません」

 中に入ろうとする由美に声をかけた久保田が照明を消すと、二人に部屋の外に出るよう促す。

「今の場所に衣装はないの?」

「舞踊の衣装は別の倉庫で保管しています」

 久保田は寝室に鍵をかけると、次の部屋に案内する。

「こちらはスタジオです」

 解錠し、ドアを開けた久保田が明かりを点ける。

 左と正面の壁二面が鏡張りの本格的なスタジオだった
「広いですね」という由美の呟きに、「24畳です」と背後で久保田が説明する。

「二重床で防音完備になっていて、舞踊だけでなく、発声練習等にも使う部屋です。玲はどんなに忙しくても、朝晩欠かさずストレッチをして、身体を動かしてました」

 説明に頷きながら、由美と燕は、そこに生前の玲を思い浮かべようと室内を眺めた。

「申し訳ございませんが、この部屋にもお渡しできるものはありません」

 再度施錠し、次の部屋へ。

「全ての部屋に鍵がかかっているの?」

 次の部屋の前でも、当たり前のように鍵を挿す久保田に由美は訊ねる。

「元々は、玲のプライベートを守るためという配慮からですが、今となっては必要ないのかもしれませんね」

 苦笑しつつ、久保田はドアを開ける。

 そこは書斎も兼ねた執務室と言うべき部屋だった。部屋の中央に置かれた三つの大きな執務机を、正面の窓以外の壁面に据えられた書棚が取り囲んでいる。カーテンの開けられた窓から入る光が、恐らく玲が座っていたであろう一際大きな机を照らしている。

「ここは入っても?」
 由美が尋ねる。

「ご提供できる物はないと思いますが、興味がおありでしたらどうぞ」

 由美と燕は中に進む。壁面の棚に並べられたCDと書籍。面白いのは、CDと書籍を別々に管理するのではなく、混ぜて並べていることだった。

 由美は壁沿いを歩きながら、タイトルを目で追っていく。
 よく見ると、それらは全て著者・ミュージシャンのアルファベット順となっていた。書籍は、様々な分野の学術書が洋書・和書問わず並べられ、CDも、クラシックにジャズ、エレクトロニカやロック、ワールドミュージックまで揃っている。

 由美が書棚を眺めている間に、久保田と燕は中央のデスクに近づいていく。

 三つ机の内、向かい合った二つには、ノートPCが置かれているが、玲のデスクとして示された机には、筆記用具と大量のコピー用紙があるだけだった。

「あの娘はパソコンを使わないの?」

「玲も一通りのことができますが、基本的に彼女はパソコンには触りません」

 部屋を一周した由美が、二人の会話に参加する。

「どうして?」

「玲がパソコンを使うのは、調べ物や手紙・メールへの返信となりますが、基本はスタッフが代行します。メールや手紙の返事は全て口述筆記でした」

「じゃあこの紙は?」

「これはメモ用紙です。玲は概念を文章で整理するのではなく、図で捉える人ですから」

「じゃああれは?」

 由美が示したのは、スタッフの机の端に置かれた紙の束だった。

「あれは書籍の原稿ですね」

「本を出す予定があったの?」

 由美が興味を示す。

「はい。“U-Society”に関する本を海外の出版社から出す予定でした」

 久保田は隠す様子もなく答える。

「どうして海外で?」

「影響力の違いです。日本語で出版した後、翻訳して海外へという流れよりは、最初から英語で書いて出版した方が早く広まるという、それだけの理由です」

「原稿はどうなるの?」

「まだ出版社と話をしていないので、何とも」

 由美は質問を続けようとしたが、「あの娘はそんなこともしていたのね」という燕の感嘆で遮られた。

「よろしいですか?」

 久保田に促され、部屋の外に出る。

「あとはトイレと浴室になります」

 廊下を進む。途中にあった白い木枠の姿見が、由美の目に留まった。

 トイレと浴室を確認し、リビングに戻った三人はダイニングの椅子に腰掛ける。

「申し訳ございませんが、ご覧いただいたものが全てです」

 二人の正面に座った久保田が口を開く。

「気になる物はありましたか?」

 由美は隣に座る母を見る。すっかり消沈して、下を向いている。

「少し話を変えてもいいですか?」

 由美が訊ねる。

「どうぞ」

「恐らく自分が訊ねるのが良いと思ったので。玲の遺産はどうなりますか?」

 顔を上げた燕が「由美、今その話は」と口にするが、由美は語気を強めて続ける。

「勘違いしないで。私は財産分与を要求するつもりはこれっぽっちもない。ただ、収支報告書や報道で見聞きしている額が額なだけにどうなっているか確認しときたいだけ」

 由美の言葉に、燕は再度うつむく。

「もう一点。皆さんには玲から何かしらの指示が出てますか?」

 背筋の伸びた姿勢で由美を見ながら、一つ一つの言葉に相槌を打っていた久保田が、ゆっくりと口を開く。

「お話いただき、ありがとうございます。今の質問は、遺族として当然のものと思います」

 一呼吸置いた久保田は、由美と燕、それぞれに目を合わせてから続ける。

「まず、玲の事務所は存続します。同時に、玲の資産を用いた“U-Socks基金”という名の基金を設立する予定です。希望するスタッフは、引き続き、そちらの運営に携わります」

「それは誰が決めたの?」

「こちらは、玲の遺言書に書かれています」

「ちょっと待って、遺言があったの?」

「はい、そうです」

 燕が驚かないことから、知らないのは私だけなのだろう。

「遺言書を今見ることはできますか?」

「申し訳ございません。そちらは現在、海外の顧問弁護士の事務所に保管されています。また、秘密証書遺言となっておりますので、家庭裁判所での検認を済ませない限りお見せすることはできません」

「その内容をどうしてあなたが?」

「遺言書はもちろん玲が作成したものですが、内容については顧問弁護士を交え、相談して作りましたから」

 久保田の答えに由美は納得したが、隣に座る燕が何か言いたそうにしていた。

「母さん、何かあるんだったら、今言っておいた方が良いと思う」

 由美の助け船に、「いや……あの……」と言った後、燕はゆっくりと口を開く。

「玲ちゃんの色々を管理するのって私たち家族でもできないかしら、と思ってね」

 あまりにも世間知らずな母の言葉にうんざりする由美とは対照的に、久保田は「燕様」と呼びかけると、「お気持ちはわかりますが、ご家族での管理は不可能と思います」と言って、続ける。

「管理というのは、ただ保管しておけばいいというものではなく、価値を最大化するための運用が求められます。それには専門的な知識が必要です」

「気持ちはわからなくもないけど、うちの家族では無理だと思う」

 由美が言葉を足すと、燕はすっかりしょげかえってしまった。

「だから早い段階で、こうした機会を提供してくれてるんじゃない」

 由美は慰めたつもりだったが、逆効果だったようで、「あなた一体どっちの味方なの」と非難される。

「どうしてそんな話になるの。味方とかそういった問題じゃないでしょ。現実的な話をしているだけじゃない」

「その言葉よ。まるで他人事のような言葉ばかりで」

 由美はこれ以上、燕に口を開かせたくなかった。

「その話はまた今度聞くから」

「でもこれでは私たち家族に何も残らない」

 由美の言葉と燕の言葉が重なり、リビングは、一瞬静まりかえった。

「そんなものよ」

 由美が口を開く。

「家族でも想像できないくらい遠くに行くことができるから、他人を感嘆させることができる」

 そう続けた後、「廊下にあった姿見をいただいてもいいですか?」と、由美は久保田に訊ねる。

「姿見ですか?」

「ええ。あれなら私の部屋に置けるかなと思いまして」

 久保田は少し考えてから「大丈夫だと思います」と答えた。

 由美は、鞄から取り出したメモ帳に住所と名前を書くと、「では、確認が取れたら、こちらに着払いでお送りください」と言って、ページを破る。

 久保田が受け取ると同時に、由美は立ち上がる。

「母さんはどうする?」

 不安げな表情でこちらを見上げる燕に訊ねる。

「正直、いきなり正面切って『何が欲しいですか』と尋ねられても、私にはよくわからない。必要な物はないし、欲しい物もない」

 由美はわからなくもないと頷くが、「でも、もらえるならその全てが欲しい」という言葉には、呆れて何も言えなかった。

「駅まで送らせましょうか?」

「私は構いませんので、母をお願いします」

「ではエレベーターまでご一緒します」

「母さん、また連絡するから」

 由美はそう言うと、久保田について玄関まで向かう。

「この姿見ですね?」

 途中で声をかけられる。

「やはり鏡なのですね」

 久保田の言葉に由美は首を傾ける。

「玲はいつも鏡に相談していました。舞踊だけでなく、普段から。鏡に映る自分との対話をとても大切にしていました」

「それはナルシシズムではなく?」

「違います。そこに現れるもう一人の自分と競うことでより高みに近づこうとしていたのです」

 靴を履き、エレベーターホールに向かう。久保田がカードをかざしボタンを押すと、すぐに扉が開く。

 乗り込んだ由美が、カードをかざす。自動で1Fが点灯した。

「ではこちらで失礼します」

 久保田がお辞儀する。

 由美も「今後とも玲をよろしくお願いします」と言って頭を下げる。

 扉が閉まる。由美は顔を上げ、先程までの出来事を振り返る。

 自らの天賦《てんぷ》と修練の結果、玲が若くして手に入れた環境はベストに近かったと思う。彼女が手に入れたものを目の当たりにすると、世間がどれだけ玲を非難しようとも、その言葉はただの嫉妬にしか映らない。

 それでも疑問は残る。

「果たして玲は幸せだったのか」

 玲の対抗馬と噂されていたフリーの女性アナウンサーは、玲について、自身が司会を務める平日昼のワイドショー番組で「国会議員の家庭で温々《ぬくぬく》と育ち、道楽として芸能の世界を渡り歩いた後、世襲で国会議員となり、結婚・出産を経験していないにも関わらず、女性の活躍する社会を訴えている」と語っていた。

 その言葉に、喝采を送った新聞社の論説委員は、数年前に「女性は産む機械」と発言した当時の厚生労働大臣を大々的に非難するキャンペーンを組んでいた。

 1Fに着き、由美はエレベーターを降りる。

 私たち雑誌メディアは書こうと思えば、この女性アナウンサーの父親が日本を代表する旧財閥系商社の重役であることや、論説委員の息子が大学を中退して家で何十年も引きこもり生活をしていることを書くことができる。ただ、それを書くことはしない。

 コンシェルジュにカードキーを返却し、エントランスに向かう。

 人々が求めていない記事を書いても仕方がない。注目されない人間の記事を書いても雑誌は売れない。一方、玲は日本中から嫉妬されるほど有名であった。

 《《だから玲は殺されたのか?》》

 外に出た時、由美は、この事件の記事を書こうと思った。