武蔵小金井駅に着いたのは9時過ぎだった。三日前、この場所で玲は刺された。
駅前の広場に設置された献花台には花束が折り重なっていたが、由美が着いた時に献花する人はいなかった。
タクシーに乗り、マンションの名前を告げる。
運転手は、バックミラーでこちらの様子を確認すると、ドアを閉め、車を急発進させる。
由美は携帯電話でニュースを読んでいたが、赤信号で停まるたび、顔を上げる。
小金井街道と交わる交差点の手前で停車したタクシーの窓から、玲のポスターが見えた。
白いスーツを着た横顔のアップに、黒のゴシック体で書かれた“衆議院議員 佐伯レイ”という文字。
月極駐車場の金網フェンスに貼られ、色褪せたそれは、安い花瓶に挿さった薔薇のようだった。
由美には、この光景が、近年の玲を象徴しているように感じられた。
かつて玲の写真は、人々を圧倒するような大きさに引き伸ばされ、世界中で掲げられた。そこに必要なのは、玲の美しさだけであり、名前など無用であった。
それが今では、都下の駐車場に貼られたポスターとなり、その全てに“佐伯レイ”の名を刻まなければならない。ポーズは偽善と同一視され、もはや人々に何の感興ももたらさない。
人々に媚び、同情を求める英雄――これほど醜いものはない。
タクシーが動き出し、視界から消える。それなのに、由美の胸の奥に生じた疼《うず》きが消えることはなかった。
エントランス正面でタクシーを降りた由美は、風除室を抜け、フロントに声をかける。
コンシェルジュの女性が連絡を取る間に、室内を見まわす。ロビーには、何組かのソファとテーブルが置かれ、大きな窓の向こうには芝生の庭園が広がる。
「お客様はマスコミの方ですか?」
由美が振り返る。
「『マスコミの方であればお引き取り願いたい』と仰っているのですが」
コンシェルジュも困惑した様子だ。
「呼ばれて来たのですが」
由美が伝える。
コンシェルジュは、電話で二三言葉を交わすと、「こちらに降りてくるそうなので、お掛けになってお待ちください」と案内した。
ソファに座る。すぐに、「ポーン」というエレベーターの到着音と、足音が聞こえる。
白のカットソーにグレーのパンツのジャケットを着た女性が、美しい姿勢で歩いてくる。
年齢は玲と変わらない位だろうか。フロントに一声かけてから、こちらに向かってくる。
「佐伯由美様ですね」
芯の通った声だった。
「秘書の久保田です」
丁寧なお辞儀と共に名刺を差し出す。
由美も、名刺を取り出すと、「週刊プレスの中川です」と挨拶する。
「記事は時々拝見しております」
受け取った名刺からすぐに顔を上げた久保田は、
「たとえ妹様であっても、週刊誌の記者である以上、部屋への立ち入りはご遠慮いただきたいというのがこちらの希望です」と意思のこもった口調で伝える。
「私は母に頼まれて来たのですが、何も聞いていませんか?」
「お母様ですか? 昨晩、連絡した際には特に何も仰っていませんでしたが……確認いたしますので、少々お待ちください」
背を向けた久保田は、ジャケットから携帯電話を取り出し、電話をかける。
「久保田だけど、お母様は近くにいる?」
「妹さんをお呼びになったか訊いてもらえる?」
「わかった。もう着いた?」
「じゃあそのまま上にお通しして」
電話を切った久保田が、「失礼しました」と頭を下げる。
「お母様がお呼びになっていたのですね。申し訳ございません」
「いえ。恐らく母が伝えていなかったのだと思います。気が回らない人なので」
「それでも、ご入室いただく場合には、書類へのサインをお願いします」と、久保田は先程と同じ口調で伝える。
「母が認めていても、サインが必要ですか?」
「はい。そちらはご家族のことですが、こちらは仕事のことですので」
「どんな書類ですか?」
「簡単に言えば、『室内ではこちらの指示に従う』『その場で見た一切を公表しない』という内容の書かれた誓約書です。また、入室前にボディチェックと手荷物検査を受けていただきます」
「そこまですることですか?」
「こちらができる最大限の譲歩です。選挙事務所は別として、玲の住居、アトリエ、オフィスを兼ねた場所で、国内のメディア関係者が入るのは勿論、海外メディアにも公開したことはありません」
「わかりました」
由美は少し間を置いてから答える。
「ではこちらに」
すぐに書類とペンが差し出される。
誓約書はA4一枚のものだった。さっと目を通し、すぐにサインしようとする由美に、「ちゃんとお読みになった上で、ご署名をお願いします」と、久保田が釘を刺す。
改めて書類を読む間に、久保田は由美の鞄から荷物を一つずつ取り出し、確かめていく。
署名を終えた由美は両手両足を広げる。
「失礼します」と、久保田は上半身からチェックを始める。
下半身に移る。
「本当にここまで必要なの?」
思わず言葉がこぼれる。
「本来は、玲と一部のスタッフ以外は絶対に立ち入れない場所ですので――OKです。ご協力いただきありがとうございます」
立ち上がった久保田は、鞄とセキュリティカードを由美に渡すと、エレベーターホールに向かう。
久保田が上階のボタンを押す。すぐにやってきたエレベーターに乗ると、カードをかざし、行き先階のボタンを押す。
扉が閉まり、エレベーターが上がっていく。
「気分を害されるかもしれませんが、お渡ししたカードは、お帰りの時だけに使う専用のカードです」
由美は驚かなかった。これまでのやりとりから、むしろダミーではないかと思っていた。
由美は、ただ一言「厳重ですね」と口にした。
駅前の広場に設置された献花台には花束が折り重なっていたが、由美が着いた時に献花する人はいなかった。
タクシーに乗り、マンションの名前を告げる。
運転手は、バックミラーでこちらの様子を確認すると、ドアを閉め、車を急発進させる。
由美は携帯電話でニュースを読んでいたが、赤信号で停まるたび、顔を上げる。
小金井街道と交わる交差点の手前で停車したタクシーの窓から、玲のポスターが見えた。
白いスーツを着た横顔のアップに、黒のゴシック体で書かれた“衆議院議員 佐伯レイ”という文字。
月極駐車場の金網フェンスに貼られ、色褪せたそれは、安い花瓶に挿さった薔薇のようだった。
由美には、この光景が、近年の玲を象徴しているように感じられた。
かつて玲の写真は、人々を圧倒するような大きさに引き伸ばされ、世界中で掲げられた。そこに必要なのは、玲の美しさだけであり、名前など無用であった。
それが今では、都下の駐車場に貼られたポスターとなり、その全てに“佐伯レイ”の名を刻まなければならない。ポーズは偽善と同一視され、もはや人々に何の感興ももたらさない。
人々に媚び、同情を求める英雄――これほど醜いものはない。
タクシーが動き出し、視界から消える。それなのに、由美の胸の奥に生じた疼《うず》きが消えることはなかった。
エントランス正面でタクシーを降りた由美は、風除室を抜け、フロントに声をかける。
コンシェルジュの女性が連絡を取る間に、室内を見まわす。ロビーには、何組かのソファとテーブルが置かれ、大きな窓の向こうには芝生の庭園が広がる。
「お客様はマスコミの方ですか?」
由美が振り返る。
「『マスコミの方であればお引き取り願いたい』と仰っているのですが」
コンシェルジュも困惑した様子だ。
「呼ばれて来たのですが」
由美が伝える。
コンシェルジュは、電話で二三言葉を交わすと、「こちらに降りてくるそうなので、お掛けになってお待ちください」と案内した。
ソファに座る。すぐに、「ポーン」というエレベーターの到着音と、足音が聞こえる。
白のカットソーにグレーのパンツのジャケットを着た女性が、美しい姿勢で歩いてくる。
年齢は玲と変わらない位だろうか。フロントに一声かけてから、こちらに向かってくる。
「佐伯由美様ですね」
芯の通った声だった。
「秘書の久保田です」
丁寧なお辞儀と共に名刺を差し出す。
由美も、名刺を取り出すと、「週刊プレスの中川です」と挨拶する。
「記事は時々拝見しております」
受け取った名刺からすぐに顔を上げた久保田は、
「たとえ妹様であっても、週刊誌の記者である以上、部屋への立ち入りはご遠慮いただきたいというのがこちらの希望です」と意思のこもった口調で伝える。
「私は母に頼まれて来たのですが、何も聞いていませんか?」
「お母様ですか? 昨晩、連絡した際には特に何も仰っていませんでしたが……確認いたしますので、少々お待ちください」
背を向けた久保田は、ジャケットから携帯電話を取り出し、電話をかける。
「久保田だけど、お母様は近くにいる?」
「妹さんをお呼びになったか訊いてもらえる?」
「わかった。もう着いた?」
「じゃあそのまま上にお通しして」
電話を切った久保田が、「失礼しました」と頭を下げる。
「お母様がお呼びになっていたのですね。申し訳ございません」
「いえ。恐らく母が伝えていなかったのだと思います。気が回らない人なので」
「それでも、ご入室いただく場合には、書類へのサインをお願いします」と、久保田は先程と同じ口調で伝える。
「母が認めていても、サインが必要ですか?」
「はい。そちらはご家族のことですが、こちらは仕事のことですので」
「どんな書類ですか?」
「簡単に言えば、『室内ではこちらの指示に従う』『その場で見た一切を公表しない』という内容の書かれた誓約書です。また、入室前にボディチェックと手荷物検査を受けていただきます」
「そこまですることですか?」
「こちらができる最大限の譲歩です。選挙事務所は別として、玲の住居、アトリエ、オフィスを兼ねた場所で、国内のメディア関係者が入るのは勿論、海外メディアにも公開したことはありません」
「わかりました」
由美は少し間を置いてから答える。
「ではこちらに」
すぐに書類とペンが差し出される。
誓約書はA4一枚のものだった。さっと目を通し、すぐにサインしようとする由美に、「ちゃんとお読みになった上で、ご署名をお願いします」と、久保田が釘を刺す。
改めて書類を読む間に、久保田は由美の鞄から荷物を一つずつ取り出し、確かめていく。
署名を終えた由美は両手両足を広げる。
「失礼します」と、久保田は上半身からチェックを始める。
下半身に移る。
「本当にここまで必要なの?」
思わず言葉がこぼれる。
「本来は、玲と一部のスタッフ以外は絶対に立ち入れない場所ですので――OKです。ご協力いただきありがとうございます」
立ち上がった久保田は、鞄とセキュリティカードを由美に渡すと、エレベーターホールに向かう。
久保田が上階のボタンを押す。すぐにやってきたエレベーターに乗ると、カードをかざし、行き先階のボタンを押す。
扉が閉まり、エレベーターが上がっていく。
「気分を害されるかもしれませんが、お渡ししたカードは、お帰りの時だけに使う専用のカードです」
由美は驚かなかった。これまでのやりとりから、むしろダミーではないかと思っていた。
由美は、ただ一言「厳重ですね」と口にした。