「わ、すごい……!」

目の前の光景に思わず小さな感嘆の声が出た。

リサがジルベールと朝早くに城を抜け出し、石畳を下って清く澄んだ小さな川に掛かる眼鏡のような形をした橋を渡った先にある城下町。

フランスのマルシェのように色とりどりのテントが軒を連ね、果物やパン、お菓子や肉料理などの食べ物を扱う店から、食器類や家の手入れに使う道具を扱う店。さらにドレスやワンピースを仕立てるための反物屋、靴屋、帽子屋、アクセサリー屋、それから花屋まで、石畳の道の両脇に所狭しと店が並んでいる。

昨日馬車で通った道ではあるものの、リサは終始下を向いていたためこの辺りの景色を見ていなかった。それゆえ初めて見る光景に圧倒される。

今まで現実の世界でも海外旅行の経験がない"梨沙"は、こうした活気ある朝市を見るのはテレビの中くらい。

しかしやはり頭の片隅のどこかに"リサ"の記憶があるおかげで、初めて見る景色のはずなのに、どの店が新鮮な果物を置いていて、どの店が自分の好みの雑貨を置いているのか、なんとなくわかるのだった。

ふとリサの目に、たくさんのキラキラしたアクセサリーや雑貨が並ぶ店が映った。ここはいつも行っていたと記憶の彼方にある雑貨屋で、実際この店で買った商品が城のリサの部屋にはいくつかある。

あまりアクセサリーに興味がなかったリサだが、トップ部分に小さな赤い石を埋め込んだ華奢な指輪が視界に入った。

赤はラヴァンディエ王国の紋章の色。故にジルベールが正装として着ていた軍服も赤だった。

つい目を奪われてしまい、手にとってまじまじとその指輪を見つめる。デザインも好みだが、何より彼を思い起こさせる赤い石を身につけるのもいいかもしれないと恋する乙女な思考に囚われる。

ジルベールの存在を一瞬失念してしまっていたリサは、「気に入ったのか?」と急に声を掛けられ飛び上がるほど驚いた。

「い、いえ! 大丈夫です、行きましょう」

まさか女性もののアクセサリー屋にジルベールを付き合わせるわけにいかない。すぐに手に持っていた指輪を元の位置に戻した。

それからしばらくあちこちを見て歩き回ったリサとジルベールは朝食を取ろうと、すぐに食べられるパン屋や簡単な食事を提供する店が多く並ぶ通りへ向かった。

「リサは何が食べたい?」
「え? あ、私は何でも大丈夫です。ジルは?」

真っ先に自分の意見を主張するのが苦手なリサは、同じ質問をジルベールに返した。彼の希望のものを食べに行きたいという思いもあった。

すると『ボヌール』という記憶の彼方でリサのお気に入りだったパン屋から、焼きたての良い匂いが辺りに漂ってくる。その匂いにつられてつい口から言葉が溢れた。

「いい匂い……!」
「ふっ、ここで朝食を買おうか」

食欲をそそる香ばしいにおいを大きく吸い込もうと両手を広げて深呼吸をしているリサを見て、後ろにいたジルベールは笑いながら声を掛けた。

「もうっ、笑わないでください」

リサは子供っぽい自分の行動を恥ずかしく思いつつクスクス笑うジルベールを仰ぎ見ると、深緑色の瞳が優しげに細められ、痛いほど真っ直ぐに見つめられている。

そんな彼にやっとの思いで「ここのパン、おいしいんです」と伝えると視線を下におろした。愛しいものを見るような彼の眩しい眼差しに耐えきれなかった。

今日のジルベールは王子のお忍びという体で来ているので、胸元が紐で編み上げになっている白いチュニックに濃い茶色のズボンというシンプルな装い。それなのにどことなく気品が漂っていて、ジルベールの王子様役への追求が素晴らしいと思う一方で、今日くらいはいつも通りのジルベールでいてほしいとも思った。

いつも通りのジルベールというものを知っているわけではないが、自分と一緒にいる時は無理に演技などしてほしくない。

リサは王子のフリをしたジルベールだから惹かれたわけではない。その強い眼差しと強引なくらいの優しさに心を強く惹きつけられたのだ。

王子様の演技をする彼ももちろん素敵だが、もし違った一面もあるのなら今日はそれを見てみたいと思っていた。

一方リサは生成り色のブラウスに柔らかい黄色のベスト型のコルセットを締め、同じ色のスカートをペチコート2枚の上に履いている。

さらに肩から萌黄色の三角のストールを掛け、腰には刺繍をあしらったポケットを巻き付けてあり、中には少ない硬貨とハンカチを入れていた。

ジルベールがいくつかパンを選び、袋に詰めてもらったのを受け取ると、両替商で予め換金していたこの国の通貨で支払いを済ませる。

「あっ、お金」

腰のポケットに手を入れ、慌てて硬貨を取り出したが、片手であっさり制されてしまった。

「いい」
「でも……」
「腹が減った。どこかで座って食おう」
「はい。ありがとうございます」

この話は終わりだとでも言いたげに先に進んでいくジルベールに小走りでついて行く。男性に奢ってもらうことなど、恋愛経験のないリサには初体験だった。

店が並ぶ通りをさらに奥へ進むと、大きな噴水の広場がある。リサとジルベールはそこにあるベンチに座り朝食を取ることにした。

「ここで待ってろ。なにか飲み物も買ってくる」
「あ、それなら私が」
「今は君は侍女ではない。こういう時は男に任せればいい」
「……はい」
「いい子だ」

小さい子供にするように軽く頭を撫でてから、ジルベールは今来た通りへ足早に歩いていく。その背中を見送りながら、リサはすでに胸が一杯で朝食が食べられそうにないと感じていた。

(これってデート、なのかな……?)

昨日は罰と言われてこの待ち合わせをした。

しかし先程からパンを奢ってもらい、飲み物まで買いに行かせるなど、彼がこの"お忍びのお出かけ"を本気で罰だなんて思っていないことはわかっている。それでも、彼の真意はリサにはわからない。

朝厩舎で待ち合わせをしてから今まで、何度もジルベールの微笑みにドキドキさせられていた。こんなに鼓動が早くなっては心臓が壊れてしまうのではないかと思うほど早鐘を打つ。

今までにない経験に戸惑いながらも、これが『恋』というものだと漠然と理解出来る。まだ相手を深く知らない間にこんなにも惹かれるのは、やはり絵本の世界で結ばれる運命の相手だからなのだろうか。

いや。もしそうでなかったとしても、きっと彼に惹かれていたはず。そのくらいジルベールは素敵な人だとリサは思った。

こんな気持ちになるなんて。思えば、この絵本の世界に来て3日目。夢だと思っていたところからどうやら現実らしいと分かったが、元の世界にはもう戻れないのだろうか。