——いやいや。なぎちゃんは絶対ロングよりショートのほうが似合うよ!
 ——別におそろいじゃなくてもいいんじゃない? 私、こっちの色のが好きだし。なぎちゃんはそっち買いなよ。



 脳裏にあの日の言葉が浮かび上がる。

 今、この瞬間に言葉を発したような鮮明さで繰り返される。

 過去の声は、いつだって明瞭たった。テレビから流れる懐メロみたいにくぐもってない。鮮明で、少しも劣化しない、あの日のままの声が脳に貼り付いていた。

 本当は思い出したくなかった。だけど、彼女の名前を直接聞いてしまったら、もう逃げることはできない。

 一宮、凪沙。

 その名前を人の口から聞くのは小学生ぶりだった。

 ずっと避けてきた、彼女の名前。なにがあってもそれだけは思い出したくなかったのに。

 でも、どんなに逃げ続けても、私は呪縛から逃げられないんだ。

 夢の中で私が話す言葉は、全部、彼女に向けた言葉だったのだから。

 ——そう? 私は結構好きだけどなぁ、りほちゃんのこと。
 ——ごめん、その日はお父さんと出かける約束しててさ。また誘って!

「……ごめん」

 気づくと要くんが一歩私に近寄っていた。

 いつのまにか私の右腕を握っている。触れられた記憶もない。少しの間、放心していたみたいだった。

 意識を取り戻しても、要くんの突然の謝罪の意味はわからなかった。

「……なにが?」
「やっぱり、嫌だよな。ごめん。忘れて」

 そう言って、私の腕を引っ張ってベンチに座らせる。
 要くんもすぐ横に座った。

 駅前の広場を囲むように設置されたベンチは、二人掛けで距離が近い。でもそれも気にならないくらい、思考は要くんの言葉へと向いていた。

 なんで、謝るの?
 なんで……凪沙ちゃんの名前、知ってるの?

 なにかが起きているのに、事態が掴めない。

「要くん……なにか、知ってるの」

 考えてもしかたがなくて、全部ひっくるめて聞いた。

 要くんは足を伸ばし、無表情のままスニーカーの先端を眺めている。

「俺と凪沙、従兄妹なの」

 驚いて、思わず要くんの目を見た。

 要くんは言いづらそうに、でもゆっくりと話を続ける。

「俺の苗字、一宮。一宮、要。俺の親父と、凪沙の父親が兄弟だから」

 ……うそ。

 要くんと、凪沙ちゃんが……従兄妹?

 現実を飲み込めない。

 こんな身近に、凪沙ちゃんの親戚がいたなんて。そんな偶然……。

 ……ううん。違うのかも。

 もしかしたら、考え方が、逆で……。

「要くん……私のこと、凪沙ちゃんから聞いてたの……?」

 私のことを知ってたから、私に近づいたの……?

 知ってたからって、なんで私に近づいたのかはわからないけれど。

 でも、たまたま同じ電車に乗っていた男の子が友達の従兄妹だったなんて、考えにくい。

 それに、要くんの話しぶりは、今まで意図的に凪沙ちゃんのことを隠していたみたいだった。

「……聞いてた。けど、あいつは関係ない。ただ、佑唯とふたりで今、行きたいって思った場所があるだけ」

 ……やっぱり、知ってたんだ。

 要くんは凪沙ちゃんからなにを聞いたんだろう。
 凪沙ちゃんは私のことを、どんな人だと言ったんだろう。

 怖い。
 でも……気になる。

「これから行きたい場所って……そこに、凪沙ちゃんがいるの?」

 私が昔、凪沙ちゃんと行った場所。そう言われると、そこに凪沙ちゃんが待ち構えているんじゃないかと思えた。

 でも要くんは慌てて首を振る。

「まさか。いないよ。普通に楽しい場所」
「どこ?」
「……内緒。サプライズだから」

 サプライズ、なんて、なんだか似合わない言葉。

 ……要くん、きっと、全部知ってるんだ。

 私と凪沙ちゃんの間にあったこと。

 だって、さっきから要くんは凪沙ちゃんのことを〝あいつ〟って呼んでる。

 私が凪沙ちゃんの名前を聞きたくないんだって、わかって話してる。
 それを知っていて、要くんは私をある場所に誘ってる。

 凪沙ちゃんが関係する場所……。

 ——でも、行けない。

 凪沙ちゃんのこととか、私が行きたいとか行きたくないとか、それは関係なくて。
 私はもう、要くんとふたりきりにはならないって決めたから。

 だから。だから……。

「……ごめん。楽しい場所なら、杏ちゃんと行ってあげて」

 小さくつぶやいた。

 私はもう、杏ちゃんを裏切ることはできない。
 だから、行けない。

「なんで、杏?」

 要くんが眉根を寄せて私を見る。
 その視線から逃げるように、下を向いた。

「要くん、杏ちゃんと仲直りしたんだよね。だったら」
「杏のことは今、関係ない」

 要くんが言い切る。

 でも、私にとっては直線でつながっている問題だ。

「……関係、なくないの」
「ない。行くか行かないかは佑唯の気持ちで決めていい」
「私が要くんといると、杏ちゃんに嫌な思いさせちゃうの!」

 思わず叫んで、はっとした。

 今の言い方。
 まるで、杏ちゃんが要くんのことを好きだって言ってるみたい……。

 杏ちゃんがもう要くんに告白したのかはわからない。

 でもこんな大切なこと、私から言っちゃいけないのに。

「……杏ちゃんだけ仲間はずれにすると、杏ちゃんに、悪いから……! だから、どこかに行くなら三人で行くか、杏ちゃんと……」
「正直、さ」

 取り繕った私の言葉を、要くんが遮る。

 低く発せられたその声の中に、強い意思と、微かな迷いが感じられる。

「佑唯がいま考えてることは、なんとなく……わかってる。でも、杏の苦しみは杏の苦しみだよ。もし杏が佑唯の行動のせいで苦しむことになったとしても、それは自分で受け止めるべきだよ」

 顔を上げた。
 要くんはまっすぐに私を見つめている。

「佑唯はもっと、自分の気持ちを大切にしろよ」

 これまでにないくらい、真剣な表情をしていた。

「……俺は、もっと、相手の気持ちに寄り添えるように努力するから……。きっとさ、どっちかだけじゃうまくいかないんだよ。自分の気持ちだけ主張しても、だめで。相手の気持ちだけ考えてても、だめなんだよ」

 相手も、自分も……?

 思わず、要くんの顔を見つめた。

 考えたこともない言葉だった。

 ……人のため、だけじゃない。

 自分だけ、でもない。

 たまには自分の気持ちに素直になって、行動してもいい。
 たまには誰かのことを想って、行動してもいい。

 そういう、こと……?

 自分の心の声を聴くように、膝の上の手のひらを見つめる。

 私は、すごく極端で。

 小さいころは、自分のことばかり考えてて。

 今は人のことばかり考えてる。

 どうしたらいいのかわからなかった。本当に、ばかで。生きるのが下手で。

 でも……。

 もしかしたら、私が今まで繰り返してきたことには、意味があったのかもしれない。

 ずっと、失敗してきたけれど。
 だめになる選択ばかり選んできたけれど。

 それでも、今まであったことを全部活かせたら。

 私、また、やり直せる……?

「……俺はさ、相手が演技をしてる、ってことしかわからない」

 要くんが続ける。

「演技の向こうでなにを考えてるのかまでは、俺にはわからない。人のこと考えるの苦手だから、言ってくれなきゃわからない。だから……」

 私のすぐそばに片手をついて、顔を覗き込む。

「本当の気持ち、教えて」

 本当の、気持ち。

 私の、本当の……。

 ——怖いけど、知りたかった。

 要くんがなにを考えているのか。
 凪沙ちゃんとなにを話して、私と知り合ったのか。

 これから行くところに、そのヒントがあるのかもしれない。凪沙ちゃんとの思い出がある場所。

 行くのは、怖い。
 杏ちゃんのことも気になってしまう。

 でも、要くんが全部わかったうえで、私をそこに連れていこうとしているのなら。だったら、きっと。

 要くんなりの、意図があるんだ。

「……行き、たい……」

 小さな声になってしまった。
 けれどそれは、紛れもない自分の本心だった。

 私の心の奥にある、誰の干渉も受けない、本当の、本当の気持ち。

「……私、要くんのこと……もっと、知りたい」