晴天の霹靂だった。
霹靂なんていう言葉、これ以外で使ったことないな、と静穂は頭の隅で思った。急な雷のことなんだから、霹靂は雷の意味だよね、と今更ながらに考える。
眼の前には、黒とみまがうような紫の髪の、美しい男。金色がかった紫の瞳がきらめく。細身の体にスーツを纏い、整った顔立ちをきりりと引き締めている。
人ならざる色を持った彼は雷を使うことのできるあやかしで、書類上は自分の夫だった。日本の書類上では、詩洲雷刀という名前で二十七歳。自分の七歳上だ。本名は知らない。
彼はあやかしの国と日本との外交を担うあやかし側の外交官だった。
婚約中も結婚してからも一度も会ったことはなかった。
その彼が、初めて会うなり玲瓏な声で言ったのだ。
「離婚しましょう」
と。
静穂には青空に突如として轟いた雷鳴も同然だった。
「……どうして」
かろうじて絞り出した声は、かすれていた。
「あなた、花帆さんではありませんよね」
ばれてるー!
静穂の顔がひきつった。
静穂はカクッとなって、はっと目を覚ました。
「では、今日の授業を終わります」
教壇に立つ男性教授がお辞儀をして教室を出て行く。
やば! また寝ちゃった!
隣を見ると、江山沙彩が笑いながら静穂を見ていた。
「花帆、今日も寝てたね」
静穂はうなずく。十二歳のときに双子の姉である花帆になりかわってから八年。花帆と呼ばれても違和感はなかった。
「先生の声が心地よすぎるのが悪いのよ」
「人のせいにするにもほどがある」
静穂はえへへ、と笑いを返した。
「それより沙彩、お昼にいこ! 席がなくなっちゃう」
二人は机の上を片付け、カフェテラスに向かった。
この大学には二つの食堂と二つのカフェテラスがある。中でも大きなガラス張りのカフェが二人のお気に入りだった。
すでに人でにぎわうカフェの中、トレイに本日のランチを載せ、なんとか窓際の席を確保して座る。
季節の花が咲く中庭を眺め、静穂はため息とともに呟いた。
「あやかし学、いっつも眠くなるのよね」
「でもこれからは必要だよ。瑞穂之国と国交正常化するらしいじゃんね」
十年前、富士山麓の洞窟に、突如としてあやかしの国である瑞穂之国との回廊がつながった。
観光化どころか調査もされていない洞窟だった。当時から立入禁止だったそこを、日本政府は厳重に囲い、立入禁止を徹底した。
回廊が開通した原因は不明だった。
あやかしは龍や鬼、、天狗など、日本では霊獣、妖怪とされているものたちだった。敵対することもあれば味方となることもある。
回廊の存在が発表された当時、日本は混乱した。今までは一時的に回廊がつながることはあっても稀で、自力で行き来ができるのは強力なあやかしに限られていた。ゆえに幻の存在とされてきた。
回廊が常時つながっていては人とあやかしの往来により、どのようなトラブルが発生するかわからない。
それを防ぐため、不可侵条約が結ばれた。
没交渉とすることが発表され、国は一応の落ち着きを取り戻した。
回廊の発生から二年後、友好的な不可侵であるという証明のために、極秘に代表者の婚姻が行われることになった。
迷惑な話だ、と静穂は思う。おかげで自分は花帆とすり替わり、日本代表としてあやかしと結婚するはめになった。極秘結婚なので、沙彩は『花帆』が既婚であることを知らない。
「これからはあやかしを本格的に勉強する学科もできるのかな」
沙彩がランチのハンバーグを食べながら言う。
「今まで交流はなかったんだし、そのままで良かったんじゃないかなあ」
「もと退魔師の家系としては気になる?」
「関係ないよ。亡くなった祖父が退魔師だったけど、お父さんもお母さんも普通の人だし」
静穂は答えた。
「退魔師も国家資格にして警察組織に編入するとかなんとか噂があるけど」
「国交ができたら、あやかし専門の警察も必要になる……のかな」
「あやかしって、ようは妖怪よねえ」
「妖怪ってたくさん種類があって、覚えるの大変。今からテストが心配。豆腐小僧なんて、どうして豆腐を配り歩くのか謎で仕方ない」
静穂はうんざりと言う。
「雷獣なんてけっこうドジだよね。雷と一緒に落ちてくるなんて」
沙彩が苦笑する。
「だよね。けがとか大丈夫なのかな」
「あやかしだから頑丈なんじゃない?」
「推察が雑」
今度は静穂が苦笑した。
「ただただ驚かす系の妖怪って多いよね」
「昔の人が不思議な現象を妖怪のせいにしていたらしいけど。ほんとに驚かしてたなら愉快犯だよね」
静穂は答える。
「人食いとか病気をもたらす事実はないっていうけど、本当かな。国交正常化に向けて、イメージ戦略もすごいみたいだけど、反対派もいるし」
そこまで言って、あ、と沙彩は目を輝かせる。
「昨日の『退魔師の恋』見た?」
女性に人気のアニメだ。
「見てないよ。第一話を見逃したら見る気なくした」
「見逃し配信もしてるし、今からでも見なよ。すっごい良かった。退魔師の少女とあやかしのイケメンの帝との禁断の恋! あやかしは外見や年齢で恋をしないから、主人公の魂の輝きにどうしようもなく惹かれて」
うっとりと沙彩が言う。
「そんな設定なんだ」
「瑞穂之国は実際にそうらしいよ。昨日はね、退魔師を失格になるのを覚悟で主人公が王の真実の名を守ろうとするの。主人公がひたむきで良かった!」
「真実の名前を知られると支配されちゃうんだっけ?」
「そうそう。だから伴侶に真実の名前を伝えるのが最大級の愛の誓いなのよ」
またうっとりと沙彩が言う。
あやかしとの恋かあ、と静穂は内心でつぶやく。あやかしが夫だが、結婚前も後も、一度も会ったことがない。まったくもって恋どころではない。
「イケメンで優しくて私を深く愛してくれるなら、あやかしもありだな。背が高くて細身で着物……でもあえてのスーツもあり!」
「条件多くない?」
「妄想くらい好きにさせてよ。イケメン退魔師との恋もいいなあ」
「イケメンならなんでもありなの?」
「顔は大事よ。花帆は? 好きな人とかできた?」
興味津々で沙彩がたずねる。
「できない」
静穂は即答した。
「いつまでも初恋引きずってると損するよ」
「初恋でもないし、引きずってもないよ。顔も覚えてないし」
かつて夜祭りの晩に会った、少し年上のお兄さんだ。わたあめをわけてあげたらうれしそうにしていた。それが静穂にもうれしくて、だから忘れられずにいる。だが、ただの思い出だ。
以前にこの思い出話をしたら、沙彩に初恋だと勘違いだとされてしまったのだ。
「じゃあ、恋しなよ」
「無理だって」
今から恋をしたところで自分はもう結婚している。なにもどうにもできない。
わー! と騒ぐ声が聞こえてきた。
そちらを見ると、男子学生たちが一人を取り囲んでわいわいと話している。
「マジだって、大物をあと一歩ってとこまで追い詰めたんだからな!」
叫んでいるのは雰囲気イケメンの明るい茶髪の男だった。派手なTシャツに革ジャンを着て、耳にピアスをいくつもつけて、シルバーのペンダントをつけている。左腕には数珠のようなブレスレットがジャラジャラとついていた。
「無理すんなって」
囲んだうちの一人が笑いながら言う。
「退魔師ってのも嘘だろ?」
別の一人が言う。
「マジだって! 今日だって、授業が終わったらあやかし退治に行くんだ。俺はすべての妖怪を退治して退魔師キングになる!」
「そりゃすげえ」
仲間がゲラゲラと笑う。
「ファイナル・クライマックス退魔師、爆誕!」
彼は真面目な顔でポーズを決めた。
うわあ、恥ずかしい。
静穂は他人ながら羞恥を覚えた。将来、布団をかぶってもだえることになりそうなセリフだ。
「いまだにいるんだ、あんなの。河童がすごい万能薬を持ってるらしいけど、さすがにあれは治らないよね」
沙彩はあきれてつぶやいた。
「そもそも、あやかしイコール悪じゃないよね」
「人と同じ、いい人も悪い人もいるんだって。おじいちゃんが言ってた」
「あいつに倒されるあやかしはいない気がする」
「そうだね」
強そうには見えないのは静穂も同意だった。
「あいつとの恋だけはないわ」
沙彩が言って、あやかしの話は終わった。その後は二人で授業やバイトの話をして笑った。
授業を終えて帰るときだった。
門のあたりに女性が集まってきゃあきゃあ騒いでいるのが見えた。
「芸能人でも来てそうな騒ぎだね」
「イケメンが来てるといいな」
沙彩の声は弾んでいた。
固まって騒ぐ女子学生を横目に門にさしかかったときだった。
「花帆さん!」
男性の声がかかり、静穂は立ち止まった。
「待っていましたよ。こちらへ」
「あ!」
静穂は声を上げた。
写真でしか見たことのない自分の夫、雷刀だった。
紫の髪も瞳も、写真より美しく妖艶だった。背が高く、スーツがよく似合っている。
「花帆、知り合い?」
「えーっと」
どう説明したものか、と沙彩を見たときだった。
人々の視線が自分に向いていることに気づき、静穂の顔がひきつった。
「花帆さん、私は忙しい。早く車に乗って」
雷刀が催促した。
「はい。沙彩、また今度ね」
静穂は謝って、彼に誘導されるままに黒い高級車に乗った。突き刺さるような視線から、とにかく逃げたかった。
車が到着したのは豪華な洋館だった。あやかしの駐日大使公館ということだが、どこにも表示はなかった。表立って瑞穂之国との国交はないから当然か、と思い直す。
連れて行かれたのは豪華な洋間だった。クラシカルでヨーロピアンな家具が並ぶ。
静穂はソファを勧められ、腰掛けた。
向かい側には雷刀が座る。
目が合うと、彼はにこやかな笑顔を浮かべた。
静穂はほっとした。友好的に迎えられたのだ、変なことにはならないだろうと思った。
それなのに。
「離婚しましょう」
席に着くなりそう言われて唖然とした。
「今、なんて」
聞き返す。
「離婚しましょう、と言いました」
「どうして」
静穂がかろうじて絞り出した声は、かすれていた。
「あなた、花帆さんではありませんよね」
静穂の顔がひきつった。
ばれてるー!
「あなたは妹の静穂さんでしょう?」
「ち、違いますよ。そんなわけないじゃないですか」
うろたえて否定するのは肯定になるのでは。予想外のことを言われたからうろたえたのだというふりをしなくては。
なりすましがバレたら外交問題になるかもしれない。そうなったら、自分だけの問題ではすまない。
静穂の心臓はばくばくと早鐘を打つ。口の端に刻んだ笑みが不自然なことは自分でもわかった。
「嘘ですね」
彼は一刀両断した。
どうやってごまかそうか、静穂が目をさまよわせたときだった。
どこからともなく現れた小さな動物が、ひょこっとテーブルに載った。
「かわいい!」
状況を忘れて、思わず声をあげた。
「あ、デンカ、駄目です」
雷刀が捕まえようとするが、するりとしなやかに抜けて静穂に近づく。
丸い頭に小さな丸い耳、小さな金色の目、ピンク色の鼻。細長い体に短い手足、長いしっぽ。全身は金色のやわらかな毛で覆われていた。
「フェレットですか?」
「雷獣ですよ」
雷刀が答える。
あやかし学の授業で、雷獣はイタチのような姿だと言われたことを静穂は思い出した。
「なでて良いですか?」
「それは……」
雷刀が雷獣を見る。雷獣はうなずくような仕草を見せた。
「ちょっとだけですよ」
静穂は目を輝かせ、雷獣の頭をそっと撫でる。首につけられた黒っぽい首輪が重々しくて不似合いだった。
「やわらかい。かわいい」
そういえば、とちらりと雷刀を見る。
彼もまたあやかしのはずだが、なんのあやかしなのか、説明がなかった気がする。
国の威信をかけた政略結婚のはずなのに、杜撰なのではないのか。もしかしたら聞いても忘れているだけかもしれないが。
疑問を押し込み、静穂は別のことを聞いた。
「名前はデンカなんですか?」
「……そうです。電気の電に火、ですよ」
わりと安直な名前だな、と静穂は思った。
あやかしにとって、名を知られるのは魂を縛られるのと同義だという。だから真の名は秘して人に知らせず、仮の名を人に教える。だからデンカも仮の名だろう。