清澄が熱を出したのはその三日後だ。
「熱が出たから今日はパス」
簡単なメッセのあと、何を打っても返事がないので、この前のびしょ濡れネズミーでの疲労が結構効いてるんだろうなと勝手に想像する。
「しっかりやすめよ」
そう最後にメッセを打って、独りで勉強机に向き合うと、あのピンク色の付箋が目に入ってくる。蛍光ピンク。僕らの共通色。あちこちに散らばる勉強のあと。
夏休みの宿題はとっくに終わってる。清澄はどうだか知らないけど。
だから僕がやることと言ったら自習くらいしかない。
でも今日はその自習もやる気が起きなくて、途中でペンを置いてしまった。暇だ。清澄がいないから暇。
いっそ今日はサボってしまおうか、ということにして。じゃあ本でも読もうか。僕は本棚を見やる。清澄が持ち込んだバスケ漫画と、清澄が押し打ってきた芥川龍之介の「トロッコ」とか。
僕はバスケ漫画の中の一冊を適当に抜き取って、ぱらぱらとめくる。
漫画の読み方を知らなかった僕に漫画を教えたのは清澄で、僕は清澄の持ち込んだ漫画でバスケを覚えて、清澄の「シューティングガード」ってポジションを覚えて、――清澄がどんな人間なのか知っていった。
あの顔面で意外と読書家なこと。漫画は単行本派。ネタバレは絶対許せない。流行の音楽には疎いけど、ジャズはよく聞くこと。好きな食べ物は天ぷらときのこの混ぜご飯。特技はペン回しとスリーポイントシュート。
町を歩いてるとスカウトされるから、休日は僕の家に入り浸ること。僕の事を「夢に見るほど」好きなこと。……。
僕はゆっくり漫画本を閉じた。
あちこちに清澄がいる。本人が居なくても。本人が居ないのに。僕の部屋も僕の心も、清澄でいっぱいで、どうしようもない。僕という人間の中に、確実に食い込んできている。清澄が。
「……やばいな」
清澄のかけらに囲まれているとおもったら本人に会いたくなってきた。僕は清澄の座布団を引っ張り出して敷くと、そこにごろりと横になった。
「どうしよ」
清澄のことは好きだ。清澄が他の誰かと居るのがイヤなくらいには好きだ。だけど、僕は恋愛が出来ない。出来ないから、付き合えない。
「どうしよう……」
清澄が座りすぎてせんべいみたいになってるそれに頬を押し当てると、
「……おにい何やってんの?」
上から頼の冷淡な声が降ってきた。
「うわっ」
ノックくらいしろ!
「キヨくんの座布団になにやってんの?」
「ちが、これは、なんでもない!」
じー、とじっとりした視線を向けてくる妹になんと説明すれば良いか考えている間に、頼はなにか合点したようにぽんと手を打った。
「暑すぎておかしくなっちゃった?」
「ちがうわ!」
「うそうそ、冗談。……ねえ、おにい?」
頼は僕の部屋に入ってきて、畳んだ布団の上にちょんと腰掛けた。
少ししおれている。
「――キヨくんとすれ違った時ってどうしてる?」
「はえ?」
思いがけない質問に、僕は目を丸くする。
「だーかーらー。キヨくんと揉めた時ってどうやって解決する?」
「解決もなにも……」
清澄と喧嘩したことは二回しかない。そんなに頻繁に揉めたことがないので、これといって明確な答えを出すことも難しい。
「僕が悪いと思ったら謝ったかな。清澄が悪かったこともあって、清澄から謝られたこともあったけど。……で、それがどうした?」
「実はね、カオくんと上手くいってなくて」
スマホを握りしめた頼がうつむく。何度も電源を入れてはおとす。多分メッセの着信を待っているんだ。
「カオくんて、お前の彼氏の?」
「うん」
僕にこの手の話を振ってもどうにもならないぞ頼。なんて思ったけど、あまりに妹が深刻そうなので、兄・僕はため息を一つついて、清澄の座布団の上に腰を落ち着けた。
「どううまくいってないんだ」
「……カオくんが、他の女子と話すの」
頼はしょんぼりしながら言った。
「それがほんと、無理で。あんまり他の子と話さないでって言ったら、怒らせちゃって」
「なんて言われた?」
「友達と話すのもダメなのかよって」
「あー」
「キヨくんはね。そういうこともあるよって言うんだけど……」
清澄にも相談済みなのか。ということは、清澄がダウンしているから僕のところに駆け込んできたという流れだ。なるほど納得した。
頼は僕がこの手の話題に明るくない事は知っているはずだから、もう誰かに聞いてほしくて助けを求めに来た、といったところだろう。
「で、でもね。すごく親しそうにするから。嫉妬しちゃうの」
「なるほどな」
「それで、おにいもそういうことあるかなって……」
「僕はないな」
僕はすっぱり言い切った。
「ない。その人にはその人の交友関係があるし、そこに口を挟むことは僕には出来ない、と思う」
「……そうなんだ」
「でも」
僕は言葉を選んだ。
「清澄が、僕以外に好きって言ったら、さすがに許せないかもな」
それだけじゃない。ハグもキスも何もかも、他の誰かにやったらもう許せない気がする。流石の僕も一発殴るかもしれない。アレは嘘だったのかよって。
僕はもうお前のいない人生なんか考えられないのに。って。
「え」
頼が震える声で言い、口元を手で覆った。
「おにい、キヨくんのことめっちゃ好きじゃん」
「……驚くところ? 知ってたんじゃないのか」
「知らない知らない。キヨくんからはずっと劣勢って聞いてたし、え、今のキヨくんに聞かせてあげたかった」
「今清澄は熱出してるから、そっとしとけ」
頼はスマホから顔をあげた。
「ってことはおにいとキヨくんてずっと両片思いなわけ?」
「……そういうことはよくわからない」
「肝心なとこで逃げんな!」
頼は僕を指さした。「ずるいぞ! あんなかっこいい人そうそう居ないんだぞ!」
「知ってる」
清澄がどれくらいかっこいいかは僕が一番知ってる、と思う。同じくらい、どれくらい情けないかも、僕が一番知ってる。多分。
「でも、清澄が求めるものを、僕があげられるかどうかはわからない」
「好きだよって言われたら自分も好きだよって伝えるだけでいいじゃん」
「……難しいんだよ」
変わりたくない。
「単純に、恋愛で自分が変わって元に戻れなくなるのがこわいんだ」
「はあ?」
頼は半ギレで僕を見た。
「なに寝ぼけたこと言ってんのおにい。もうとっくに変わってんじゃん」
「え?」
「好きなんでしょ? キヨくんのこと。じゃあもう変わってるじゃん」
「そういう意味じゃなくて」
「じゃあキヨくんはどうなの。どうなんの。おにいのために沢山努力して変化してるキヨくんはどうなっちゃうの」
そう言われたとき、僕は頼にぶん殴られたか、蹴っ飛ばされたかといった衝撃を受けた。
「清澄が?」
努力を?
「キヨくんはおにいのために沢山努力してる、自分をかっこよく見せたいってわたしに相談してくる、郁にかっこよく思ってもらいたいからって!」
『 』
頭の中で樋口さんが何か言っている。でも僕の耳にはもう何も聞こえない。
聞こえない。何も聞こえてこない。頼の言葉だけが脳みそを揺らしている。
「変わることがこわいなんてあまっちょろいこと言ってんなよ朴念仁! 皆変化して生きてんのに、自分だけぜったい変わりませんなんてアホなこと言うな!」
妹にあるまじき暴言だったけれど、その全てが僕の閉じた考えに穴を開けていく。
「……頼」
「恋愛で自分が変わるのなんか当たり前じゃん、キヨくんが不憫。ほんとに不憫だよ。なんなの」
「頼、あのさ」
「なに!」
僕は口元を覆った。頬がかっかと燃えていた。
「変わっても良いのかな、僕」
「そんなの自分で決めて! ああもう何の話だっけ? 忘れた!」
ぶち切れている妹をよそに、僕はゆっくりゆっくり、今の決意を飲み込んでいった。変わってもいい。変わったっていい。
清澄のためになら、変わってもいい。
『 』
樋口さんの影が何か言っている。だけどもう、彼女の顔も声も思い出せなかった。それ以上の衝撃が、彼女のおとした影を拭い去ってしまっていた。
「……頼、ちょっと清澄ん家行ってくる。母さんに伝えといて」
「ちょうどよかった。呼びに行こうと思ってたところだったの」
すみれさんはふんわりと僕を迎えてくれた。僕はコンビニで買ってきたスポドリの袋を提げたまま、首をかしげる。
「ちょうどよかった?」
「うん。なんかね、清澄が『郁、郁』って魘されてるから――」
「すみれェ!」
額に冷却シートを貼った清澄が階段の上から真っ赤な顔を出す。顔が赤いのは熱のせいなのか、それとも別の要因があるんだろうか?
「余計なこと言うな!」
「余計なこと? 余計じゃないよ、ね、郁くん」
すみれさんは清澄によく似た顔で笑う。「全然余計じゃありません」
「郁も! 感染ったらどうすんだよ! 何で来た!」
「ただの風邪だろ? 大丈夫だよ」
「だめだ! 入ってくんな!」
清澄はそう言い放つと部屋のドアをぴしゃりと閉めた。
「あー。鍵閉めちゃったか。ちっ」
すみれさんは舌打ちをした。そして僕に向き直ると、僕が持ってきた見舞いの品を受け取り、いたずらっぽく笑った。
「じゃあ、こっちはこっちで楽しくやっちゃいましょ、ね」
「あ、いいんです、その……お見舞いに来ただけなので」
「わたしも郁くんとお話ししたかったの。お茶だけ飲んでいって。ね?」
清澄の家に上がるのは久しぶりだ。家中に名前も知らないハーブの匂いがして、どことなく西洋の魔女の家を思わせる。
「カモミールティー。へいき?」
「あ、はい。大丈夫だと思います」
オープンキッチンでお湯を沸かしたすみれさんは、瓶の中からひと匙、茶葉を急須に入れる。
「……清澄ね」
手を動かしながら、すみれさんは言う。
「昔っからああなの。わかる?」
「ああ」の意味を図りかねていると、すみれさんがふふっと笑った。
「かっこつけで、見栄っ張りで、大丈夫じゃないのに大丈夫って言っちゃうの」
「ああ、……ああー、わかります」
「でしょ?」
すみれさんは急須の中のものを透明なカップに移していく。薄く色づいた液体と同時に、ふわっとカモミールの香りがただよった。
「わたしがいけなかったのかな。わたしが、清澄をわたしの小さな彼氏にしちゃったから。人の顔色ばっかり見て振る舞う子になっちゃった」
すみれさんが何を言おうとしているのか、僕にはまだ分からなかった。
僕がすみれさんの次の言葉を待っているうちに、目の前にカモミールティーのカップが差し出される。
「ありがとうございます。いただきます」
「どうぞ」
次いで差し出された菓子鉢の中にクッキーがたくさん入っている。僕はクッキーの包みを開けた。
「だからね、だから、郁くんのこと呼ばなきゃって思ったのね」
「……はい?」
すみれさんの言葉は、僕の中でつなげるには難しい。すみれさんは少し考えたあと、こう切り出した。
「清澄は、欲しいものをほしいって言わない子なの」
「はあ……」
「ほしいなんて滅多に言わないの。あの子がちゃんと欲しがったのは――バスケットボールだけかな。だから驚いたのね」
僕はカモミールティーを口に含む。
「さっき、なにか欲しいものある?って聞いた時に、郁、郁に会いてー、って言ったの」
――口に入れたものを全部噴きそうになった。
「そう、だから呼ばなくちゃと思ってたのね。そしたら郁くんのほうから来てくれるから、驚いちゃった」
「そう、いうことでしたか……」
「でも、実際に会うとああでしょ? 意地っ張りだよね。誰に似たのかな」
僕はさっきの清澄の剣幕を思い出した。「会いたい」なんて、本当は言うつもりなかったんだろうな。
「ねえ郁くん」
同じ香りのお茶を飲みながら、すみれさんが訊ねる。
「清澄、ちゃんと清澄の人生を生きることが出来てるかな」
「……それは」
ちょっと前のやりとりを思い出して、僕は小さく唸る。
「私のせいで、清澄の人生が曲がっちゃったのかなってずっと思ってた。いろいろあって……私が泣いてばかりいたから。あの子は小さな彼氏になるしかなかったの」
二人の恋人同士のような距離感は、そこから始まっていたのか。僕は何も言えなかった。
「これでも心配してるんだけどなぁ。本人に伝わらないのよね。いつまでも過保護で」
「すみれさんのこと、大事にしてるんですよ、清澄は」
僕は確かなことだけを口にした。すみれさんは小さく笑う。
「母親離れしてくれてもいいのにな」
「特別なんです。アイツにはちゃんと特別があって、そのうちの一つが、すみれさんなだけですよ」
「……うん」
僕は、カップを置いてすみれさんの整った顔を見つめた。
「大丈夫です。清澄は大丈夫」
すみれさんは驚いたような顔をして、僕を見つめた。
「大丈夫です。……僕が保証しますから。任せてください」
「郁くん」
「お茶、ごちそうさまでした。清澄の顔を見たら、帰ります」
すみれさんは穏やかに僕を見つめた。そして最後に、去り際の僕にそっとこう言った。
「清澄をよろしくね」
「清澄?」
きよすみ、と札が下がっている部屋の扉をノックすると、小さな声で「かえれ」と言われる。
「やだ。顔見せろよ」
「かえれ。ぜったい感染るからだめ」
「会いたいんだろ? 僕に」
「うるせえ。すみれの言うこと真に受けるな」
「――会いたいよ、僕も」
ドアの向こうが静かになった。やがてよたよたとした足音が聞こえてきたかと思うと、鍵が開いて、ドアの隙間から清澄が顔を出した。思ったよりやつれている。
「……殺し文句使うなよ」
「大分参ってるな、清澄」
「見せたくなかった」
清澄はぼそっとつぶやいた。「こんな情けねー姿、郁に見せるつもりなかった」
「いいよ。どんなに情けなくっても、清澄だろ」
清澄は熱のせいで潤んだ目で、僕をじっと見下ろした。
「……やっぱ感染しそうだから、もう帰れよ」
「やだ。中に入れろ。話がある」
「なに、話って」
「中に入ってから話す」
僕は清澄の部屋のドアに手を掛けた。清澄は苦々しい顔をして、固く閉ざそうとしていたドアを開放した。
「熱何度あるの」
「さっきは三十八度……」
「あっつ」
僕は清澄の首筋に手を当ててその熱を確かめる。清澄は肩をそびやかした。
「つめてえ」
「ちゃんと布団入れ、布団。スポドリ飲むか」
「飲む……」
清澄のベッドサイドの本棚には、沢山の本が並んでいる。ミステリとホラー、純文学と綺麗に分けられた棚の隣には、古いバスケットボールが並べてあった。清澄の部屋。しばらくぶりだ。
「小学校ぶりかな」
部屋を見渡して僕がつぶやくと、清澄が小さく言った。
「小五ぶり。あとは俺が郁ん家行ってたから」
「そっか」
「……こんなとこ、見せたくなかったのに」
まだ言ってるのか。僕は清澄の熱い額に触れた。
「どんなにかっこわるくても清澄だろ」
「かっこわるいからイヤだ」
「……清澄ならなんでもいいよ」
僕はそっと付け足した。清澄は熱い手を伸ばして、僕の手を握った。
「郁。勘違いするぞ」
「していいよ……ていうか、」
僕はしばらく言葉を探した。長いこと探した。その間、清澄は辛抱強く待ってくれた。
「――恋愛、することにしたよ」
清澄は何度か瞬きをした。どういうことだか分かりかねている風だった。僕は熱い清澄の手を握ったまま、清澄の部屋の天井を見上げた。天体図を模した青い夜空が広がっている。
「つまり?」
「もう、変えられてもいいやって思ったから」
「どういう……」
「変わることはこわいけど、お前になら変えられても良いと思ったから!」
勢いを緩めたら負ける。自分に負ける。僕は、熱の集まった頬を隠しもせずに、清澄を見つめた。
「清澄。好きです。僕と恋愛をしてくれませんか!」
――瞬間、恐ろしい力でベッドの中に引きずり込まれた。
「わっ!」
抱きすくめる強い力で、清澄は問いかける。
「……郁。ドッキリとかじゃないよな。違うよな」
「ちがうよ!」
「物陰から小南とかが出てきてドッキリの看板掲げたりしないよな」
「しないよ!」
熱い腕に抱きしめられて、肩口に顔を押しつけられている。僕は、清澄が少し泣いていることに気づく。
「泣くなよ」
「……、泣く。マジ泣きする」
「清澄、お前、それはそうとしてめっちゃ熱いわ。休め」
「……うわー、キスしてえ、」
「おい、聞いてるか」
清澄は全く聞いてない。
「それ以上もしてえ! あれもこれもしてえ! 風邪なんか引いてる場合じゃなかった。すみれ追い出してあんなことやこんなことしてえ」
「すみれさんは追い出すなよ」
「くっそおおおおお」
清澄はぎりぎりと歯を食いしばったかと思うと、へたりと力を抜いて僕を抱きしめた。
「夢? まぼろし? 俺の熱が見せてる蜃気楼?」
「蜃気楼はそういうやつじゃないからね」
「マジレスきた……郁だ……」
清澄は何度も目を拭って、それから僕の手を握った。
「機会があったら見てろよ、なんだってしてやるから」
「お手柔らかにお願いします」
「俺の積年の愛を思い知れ。重いぞ。重いからな」
「……うん、スミちゃん」
清澄はそれを聞いて目を見開いた。
「覚えてないと思ってたのに」
それを聞いて僕は笑った。
「覚えてるよ。最初に僕に好きって言ってくれた人だから」
清澄は何かをこらえるような顔をして、それから恥ずかしそうに目をそらした。
「めちゃキスしてえんだけど。風邪うつ――」
「ん」
僕は勇気を振り絞って、清澄の唇に僕のそれを押しつけた。歯と歯ががちんとぶつかって、ちょっといたかった。だけど清澄はそれで充分だったらしい。
「こんの……へたくそ、こうやんだよ」
「え、ん? ん、……――」
唇をあわせるだけだったキスが、実は氷山の一角だったことに僕は初めて気づく。熱い舌で、僕の知らないキスをされて、とろんと溶けた頭の中に、こいつ慣れてんな、むかつく、という感情がじわじわしみてくる。
「キス上手すぎるのもどうかと、おもうよ」
「外国映画の見よう見まね。エッチなキス、気持ちよかった?」
いたずらっぽく笑う清澄は、僕の頬に熱いキスを落すと、それからぱたりと横になった。
「……幸せすぎて死ねる」
「死ぬな。生きろ」
「だって、あの郁が。あの郁が、俺のこと好きだって。昔の事も覚えてるって――」
「現実だから」
僕は体を起こしながら小さくささやく。
「治るの、待ってるぞ」
「おい。思わせぶり。期待すんぞ」
打てば響く返事。僕はあるかなしかの勇気を振り絞って、こう言った。
「期待して、いいよ」
「熱が出たから今日はパス」
簡単なメッセのあと、何を打っても返事がないので、この前のびしょ濡れネズミーでの疲労が結構効いてるんだろうなと勝手に想像する。
「しっかりやすめよ」
そう最後にメッセを打って、独りで勉強机に向き合うと、あのピンク色の付箋が目に入ってくる。蛍光ピンク。僕らの共通色。あちこちに散らばる勉強のあと。
夏休みの宿題はとっくに終わってる。清澄はどうだか知らないけど。
だから僕がやることと言ったら自習くらいしかない。
でも今日はその自習もやる気が起きなくて、途中でペンを置いてしまった。暇だ。清澄がいないから暇。
いっそ今日はサボってしまおうか、ということにして。じゃあ本でも読もうか。僕は本棚を見やる。清澄が持ち込んだバスケ漫画と、清澄が押し打ってきた芥川龍之介の「トロッコ」とか。
僕はバスケ漫画の中の一冊を適当に抜き取って、ぱらぱらとめくる。
漫画の読み方を知らなかった僕に漫画を教えたのは清澄で、僕は清澄の持ち込んだ漫画でバスケを覚えて、清澄の「シューティングガード」ってポジションを覚えて、――清澄がどんな人間なのか知っていった。
あの顔面で意外と読書家なこと。漫画は単行本派。ネタバレは絶対許せない。流行の音楽には疎いけど、ジャズはよく聞くこと。好きな食べ物は天ぷらときのこの混ぜご飯。特技はペン回しとスリーポイントシュート。
町を歩いてるとスカウトされるから、休日は僕の家に入り浸ること。僕の事を「夢に見るほど」好きなこと。……。
僕はゆっくり漫画本を閉じた。
あちこちに清澄がいる。本人が居なくても。本人が居ないのに。僕の部屋も僕の心も、清澄でいっぱいで、どうしようもない。僕という人間の中に、確実に食い込んできている。清澄が。
「……やばいな」
清澄のかけらに囲まれているとおもったら本人に会いたくなってきた。僕は清澄の座布団を引っ張り出して敷くと、そこにごろりと横になった。
「どうしよ」
清澄のことは好きだ。清澄が他の誰かと居るのがイヤなくらいには好きだ。だけど、僕は恋愛が出来ない。出来ないから、付き合えない。
「どうしよう……」
清澄が座りすぎてせんべいみたいになってるそれに頬を押し当てると、
「……おにい何やってんの?」
上から頼の冷淡な声が降ってきた。
「うわっ」
ノックくらいしろ!
「キヨくんの座布団になにやってんの?」
「ちが、これは、なんでもない!」
じー、とじっとりした視線を向けてくる妹になんと説明すれば良いか考えている間に、頼はなにか合点したようにぽんと手を打った。
「暑すぎておかしくなっちゃった?」
「ちがうわ!」
「うそうそ、冗談。……ねえ、おにい?」
頼は僕の部屋に入ってきて、畳んだ布団の上にちょんと腰掛けた。
少ししおれている。
「――キヨくんとすれ違った時ってどうしてる?」
「はえ?」
思いがけない質問に、僕は目を丸くする。
「だーかーらー。キヨくんと揉めた時ってどうやって解決する?」
「解決もなにも……」
清澄と喧嘩したことは二回しかない。そんなに頻繁に揉めたことがないので、これといって明確な答えを出すことも難しい。
「僕が悪いと思ったら謝ったかな。清澄が悪かったこともあって、清澄から謝られたこともあったけど。……で、それがどうした?」
「実はね、カオくんと上手くいってなくて」
スマホを握りしめた頼がうつむく。何度も電源を入れてはおとす。多分メッセの着信を待っているんだ。
「カオくんて、お前の彼氏の?」
「うん」
僕にこの手の話を振ってもどうにもならないぞ頼。なんて思ったけど、あまりに妹が深刻そうなので、兄・僕はため息を一つついて、清澄の座布団の上に腰を落ち着けた。
「どううまくいってないんだ」
「……カオくんが、他の女子と話すの」
頼はしょんぼりしながら言った。
「それがほんと、無理で。あんまり他の子と話さないでって言ったら、怒らせちゃって」
「なんて言われた?」
「友達と話すのもダメなのかよって」
「あー」
「キヨくんはね。そういうこともあるよって言うんだけど……」
清澄にも相談済みなのか。ということは、清澄がダウンしているから僕のところに駆け込んできたという流れだ。なるほど納得した。
頼は僕がこの手の話題に明るくない事は知っているはずだから、もう誰かに聞いてほしくて助けを求めに来た、といったところだろう。
「で、でもね。すごく親しそうにするから。嫉妬しちゃうの」
「なるほどな」
「それで、おにいもそういうことあるかなって……」
「僕はないな」
僕はすっぱり言い切った。
「ない。その人にはその人の交友関係があるし、そこに口を挟むことは僕には出来ない、と思う」
「……そうなんだ」
「でも」
僕は言葉を選んだ。
「清澄が、僕以外に好きって言ったら、さすがに許せないかもな」
それだけじゃない。ハグもキスも何もかも、他の誰かにやったらもう許せない気がする。流石の僕も一発殴るかもしれない。アレは嘘だったのかよって。
僕はもうお前のいない人生なんか考えられないのに。って。
「え」
頼が震える声で言い、口元を手で覆った。
「おにい、キヨくんのことめっちゃ好きじゃん」
「……驚くところ? 知ってたんじゃないのか」
「知らない知らない。キヨくんからはずっと劣勢って聞いてたし、え、今のキヨくんに聞かせてあげたかった」
「今清澄は熱出してるから、そっとしとけ」
頼はスマホから顔をあげた。
「ってことはおにいとキヨくんてずっと両片思いなわけ?」
「……そういうことはよくわからない」
「肝心なとこで逃げんな!」
頼は僕を指さした。「ずるいぞ! あんなかっこいい人そうそう居ないんだぞ!」
「知ってる」
清澄がどれくらいかっこいいかは僕が一番知ってる、と思う。同じくらい、どれくらい情けないかも、僕が一番知ってる。多分。
「でも、清澄が求めるものを、僕があげられるかどうかはわからない」
「好きだよって言われたら自分も好きだよって伝えるだけでいいじゃん」
「……難しいんだよ」
変わりたくない。
「単純に、恋愛で自分が変わって元に戻れなくなるのがこわいんだ」
「はあ?」
頼は半ギレで僕を見た。
「なに寝ぼけたこと言ってんのおにい。もうとっくに変わってんじゃん」
「え?」
「好きなんでしょ? キヨくんのこと。じゃあもう変わってるじゃん」
「そういう意味じゃなくて」
「じゃあキヨくんはどうなの。どうなんの。おにいのために沢山努力して変化してるキヨくんはどうなっちゃうの」
そう言われたとき、僕は頼にぶん殴られたか、蹴っ飛ばされたかといった衝撃を受けた。
「清澄が?」
努力を?
「キヨくんはおにいのために沢山努力してる、自分をかっこよく見せたいってわたしに相談してくる、郁にかっこよく思ってもらいたいからって!」
『 』
頭の中で樋口さんが何か言っている。でも僕の耳にはもう何も聞こえない。
聞こえない。何も聞こえてこない。頼の言葉だけが脳みそを揺らしている。
「変わることがこわいなんてあまっちょろいこと言ってんなよ朴念仁! 皆変化して生きてんのに、自分だけぜったい変わりませんなんてアホなこと言うな!」
妹にあるまじき暴言だったけれど、その全てが僕の閉じた考えに穴を開けていく。
「……頼」
「恋愛で自分が変わるのなんか当たり前じゃん、キヨくんが不憫。ほんとに不憫だよ。なんなの」
「頼、あのさ」
「なに!」
僕は口元を覆った。頬がかっかと燃えていた。
「変わっても良いのかな、僕」
「そんなの自分で決めて! ああもう何の話だっけ? 忘れた!」
ぶち切れている妹をよそに、僕はゆっくりゆっくり、今の決意を飲み込んでいった。変わってもいい。変わったっていい。
清澄のためになら、変わってもいい。
『 』
樋口さんの影が何か言っている。だけどもう、彼女の顔も声も思い出せなかった。それ以上の衝撃が、彼女のおとした影を拭い去ってしまっていた。
「……頼、ちょっと清澄ん家行ってくる。母さんに伝えといて」
「ちょうどよかった。呼びに行こうと思ってたところだったの」
すみれさんはふんわりと僕を迎えてくれた。僕はコンビニで買ってきたスポドリの袋を提げたまま、首をかしげる。
「ちょうどよかった?」
「うん。なんかね、清澄が『郁、郁』って魘されてるから――」
「すみれェ!」
額に冷却シートを貼った清澄が階段の上から真っ赤な顔を出す。顔が赤いのは熱のせいなのか、それとも別の要因があるんだろうか?
「余計なこと言うな!」
「余計なこと? 余計じゃないよ、ね、郁くん」
すみれさんは清澄によく似た顔で笑う。「全然余計じゃありません」
「郁も! 感染ったらどうすんだよ! 何で来た!」
「ただの風邪だろ? 大丈夫だよ」
「だめだ! 入ってくんな!」
清澄はそう言い放つと部屋のドアをぴしゃりと閉めた。
「あー。鍵閉めちゃったか。ちっ」
すみれさんは舌打ちをした。そして僕に向き直ると、僕が持ってきた見舞いの品を受け取り、いたずらっぽく笑った。
「じゃあ、こっちはこっちで楽しくやっちゃいましょ、ね」
「あ、いいんです、その……お見舞いに来ただけなので」
「わたしも郁くんとお話ししたかったの。お茶だけ飲んでいって。ね?」
清澄の家に上がるのは久しぶりだ。家中に名前も知らないハーブの匂いがして、どことなく西洋の魔女の家を思わせる。
「カモミールティー。へいき?」
「あ、はい。大丈夫だと思います」
オープンキッチンでお湯を沸かしたすみれさんは、瓶の中からひと匙、茶葉を急須に入れる。
「……清澄ね」
手を動かしながら、すみれさんは言う。
「昔っからああなの。わかる?」
「ああ」の意味を図りかねていると、すみれさんがふふっと笑った。
「かっこつけで、見栄っ張りで、大丈夫じゃないのに大丈夫って言っちゃうの」
「ああ、……ああー、わかります」
「でしょ?」
すみれさんは急須の中のものを透明なカップに移していく。薄く色づいた液体と同時に、ふわっとカモミールの香りがただよった。
「わたしがいけなかったのかな。わたしが、清澄をわたしの小さな彼氏にしちゃったから。人の顔色ばっかり見て振る舞う子になっちゃった」
すみれさんが何を言おうとしているのか、僕にはまだ分からなかった。
僕がすみれさんの次の言葉を待っているうちに、目の前にカモミールティーのカップが差し出される。
「ありがとうございます。いただきます」
「どうぞ」
次いで差し出された菓子鉢の中にクッキーがたくさん入っている。僕はクッキーの包みを開けた。
「だからね、だから、郁くんのこと呼ばなきゃって思ったのね」
「……はい?」
すみれさんの言葉は、僕の中でつなげるには難しい。すみれさんは少し考えたあと、こう切り出した。
「清澄は、欲しいものをほしいって言わない子なの」
「はあ……」
「ほしいなんて滅多に言わないの。あの子がちゃんと欲しがったのは――バスケットボールだけかな。だから驚いたのね」
僕はカモミールティーを口に含む。
「さっき、なにか欲しいものある?って聞いた時に、郁、郁に会いてー、って言ったの」
――口に入れたものを全部噴きそうになった。
「そう、だから呼ばなくちゃと思ってたのね。そしたら郁くんのほうから来てくれるから、驚いちゃった」
「そう、いうことでしたか……」
「でも、実際に会うとああでしょ? 意地っ張りだよね。誰に似たのかな」
僕はさっきの清澄の剣幕を思い出した。「会いたい」なんて、本当は言うつもりなかったんだろうな。
「ねえ郁くん」
同じ香りのお茶を飲みながら、すみれさんが訊ねる。
「清澄、ちゃんと清澄の人生を生きることが出来てるかな」
「……それは」
ちょっと前のやりとりを思い出して、僕は小さく唸る。
「私のせいで、清澄の人生が曲がっちゃったのかなってずっと思ってた。いろいろあって……私が泣いてばかりいたから。あの子は小さな彼氏になるしかなかったの」
二人の恋人同士のような距離感は、そこから始まっていたのか。僕は何も言えなかった。
「これでも心配してるんだけどなぁ。本人に伝わらないのよね。いつまでも過保護で」
「すみれさんのこと、大事にしてるんですよ、清澄は」
僕は確かなことだけを口にした。すみれさんは小さく笑う。
「母親離れしてくれてもいいのにな」
「特別なんです。アイツにはちゃんと特別があって、そのうちの一つが、すみれさんなだけですよ」
「……うん」
僕は、カップを置いてすみれさんの整った顔を見つめた。
「大丈夫です。清澄は大丈夫」
すみれさんは驚いたような顔をして、僕を見つめた。
「大丈夫です。……僕が保証しますから。任せてください」
「郁くん」
「お茶、ごちそうさまでした。清澄の顔を見たら、帰ります」
すみれさんは穏やかに僕を見つめた。そして最後に、去り際の僕にそっとこう言った。
「清澄をよろしくね」
「清澄?」
きよすみ、と札が下がっている部屋の扉をノックすると、小さな声で「かえれ」と言われる。
「やだ。顔見せろよ」
「かえれ。ぜったい感染るからだめ」
「会いたいんだろ? 僕に」
「うるせえ。すみれの言うこと真に受けるな」
「――会いたいよ、僕も」
ドアの向こうが静かになった。やがてよたよたとした足音が聞こえてきたかと思うと、鍵が開いて、ドアの隙間から清澄が顔を出した。思ったよりやつれている。
「……殺し文句使うなよ」
「大分参ってるな、清澄」
「見せたくなかった」
清澄はぼそっとつぶやいた。「こんな情けねー姿、郁に見せるつもりなかった」
「いいよ。どんなに情けなくっても、清澄だろ」
清澄は熱のせいで潤んだ目で、僕をじっと見下ろした。
「……やっぱ感染しそうだから、もう帰れよ」
「やだ。中に入れろ。話がある」
「なに、話って」
「中に入ってから話す」
僕は清澄の部屋のドアに手を掛けた。清澄は苦々しい顔をして、固く閉ざそうとしていたドアを開放した。
「熱何度あるの」
「さっきは三十八度……」
「あっつ」
僕は清澄の首筋に手を当ててその熱を確かめる。清澄は肩をそびやかした。
「つめてえ」
「ちゃんと布団入れ、布団。スポドリ飲むか」
「飲む……」
清澄のベッドサイドの本棚には、沢山の本が並んでいる。ミステリとホラー、純文学と綺麗に分けられた棚の隣には、古いバスケットボールが並べてあった。清澄の部屋。しばらくぶりだ。
「小学校ぶりかな」
部屋を見渡して僕がつぶやくと、清澄が小さく言った。
「小五ぶり。あとは俺が郁ん家行ってたから」
「そっか」
「……こんなとこ、見せたくなかったのに」
まだ言ってるのか。僕は清澄の熱い額に触れた。
「どんなにかっこわるくても清澄だろ」
「かっこわるいからイヤだ」
「……清澄ならなんでもいいよ」
僕はそっと付け足した。清澄は熱い手を伸ばして、僕の手を握った。
「郁。勘違いするぞ」
「していいよ……ていうか、」
僕はしばらく言葉を探した。長いこと探した。その間、清澄は辛抱強く待ってくれた。
「――恋愛、することにしたよ」
清澄は何度か瞬きをした。どういうことだか分かりかねている風だった。僕は熱い清澄の手を握ったまま、清澄の部屋の天井を見上げた。天体図を模した青い夜空が広がっている。
「つまり?」
「もう、変えられてもいいやって思ったから」
「どういう……」
「変わることはこわいけど、お前になら変えられても良いと思ったから!」
勢いを緩めたら負ける。自分に負ける。僕は、熱の集まった頬を隠しもせずに、清澄を見つめた。
「清澄。好きです。僕と恋愛をしてくれませんか!」
――瞬間、恐ろしい力でベッドの中に引きずり込まれた。
「わっ!」
抱きすくめる強い力で、清澄は問いかける。
「……郁。ドッキリとかじゃないよな。違うよな」
「ちがうよ!」
「物陰から小南とかが出てきてドッキリの看板掲げたりしないよな」
「しないよ!」
熱い腕に抱きしめられて、肩口に顔を押しつけられている。僕は、清澄が少し泣いていることに気づく。
「泣くなよ」
「……、泣く。マジ泣きする」
「清澄、お前、それはそうとしてめっちゃ熱いわ。休め」
「……うわー、キスしてえ、」
「おい、聞いてるか」
清澄は全く聞いてない。
「それ以上もしてえ! あれもこれもしてえ! 風邪なんか引いてる場合じゃなかった。すみれ追い出してあんなことやこんなことしてえ」
「すみれさんは追い出すなよ」
「くっそおおおおお」
清澄はぎりぎりと歯を食いしばったかと思うと、へたりと力を抜いて僕を抱きしめた。
「夢? まぼろし? 俺の熱が見せてる蜃気楼?」
「蜃気楼はそういうやつじゃないからね」
「マジレスきた……郁だ……」
清澄は何度も目を拭って、それから僕の手を握った。
「機会があったら見てろよ、なんだってしてやるから」
「お手柔らかにお願いします」
「俺の積年の愛を思い知れ。重いぞ。重いからな」
「……うん、スミちゃん」
清澄はそれを聞いて目を見開いた。
「覚えてないと思ってたのに」
それを聞いて僕は笑った。
「覚えてるよ。最初に僕に好きって言ってくれた人だから」
清澄は何かをこらえるような顔をして、それから恥ずかしそうに目をそらした。
「めちゃキスしてえんだけど。風邪うつ――」
「ん」
僕は勇気を振り絞って、清澄の唇に僕のそれを押しつけた。歯と歯ががちんとぶつかって、ちょっといたかった。だけど清澄はそれで充分だったらしい。
「こんの……へたくそ、こうやんだよ」
「え、ん? ん、……――」
唇をあわせるだけだったキスが、実は氷山の一角だったことに僕は初めて気づく。熱い舌で、僕の知らないキスをされて、とろんと溶けた頭の中に、こいつ慣れてんな、むかつく、という感情がじわじわしみてくる。
「キス上手すぎるのもどうかと、おもうよ」
「外国映画の見よう見まね。エッチなキス、気持ちよかった?」
いたずらっぽく笑う清澄は、僕の頬に熱いキスを落すと、それからぱたりと横になった。
「……幸せすぎて死ねる」
「死ぬな。生きろ」
「だって、あの郁が。あの郁が、俺のこと好きだって。昔の事も覚えてるって――」
「現実だから」
僕は体を起こしながら小さくささやく。
「治るの、待ってるぞ」
「おい。思わせぶり。期待すんぞ」
打てば響く返事。僕はあるかなしかの勇気を振り絞って、こう言った。
「期待して、いいよ」



