靴箱を開けるとき、僕は一番無防備になる。いつも通り靴箱を開けて、中の上履きを取り出そうと言うとき、指先に別のものが引っかかると、反射で声を上げてしまうし、そのまま派手に尻餅をついてしまう。
「ぎゃっ」
「うわっどうした深角」
尻餅をつきかけた僕を支えてくれたのは意外にも山田だった。隣に小南さんの姿もある。二人、偶然、同時に登校してきたんだろうか。
「靴箱に虫でも入ってたんか」
「ちょっと! やめてよだーやま。あたしそういうの無理。想像だけでも無理」
「あ、ごめん小南さん」
こいつら仲いいな。いや、そんなことより指先に引っかかった何らかの紙だ。僕はおそるおそる靴箱の中をのぞき込んで、その小さな紙を取る。それは蛍光イエローの四角の付箋で、丸っこい字でこう書いてある。
『今日の放課後、体育館裏に来い!』
エクスクラメーションマーク《!》の下の丸のところがハートマークになってる。
「何これ。果たし状?」
小南さんが僕の手元をのぞき込んで言った。「にしては愛らしい筆跡ですこと。誰だろうね」
「おおかたキングがらみだろ」と山田が頭の後ろで手を組んだ。僕は何度経験しても慣れないこの手の呼び出しにすでに憂うつになっている。
かといって行かなかったら面倒なことになるに違いない。なんたって清澄に直接言えない、行けないような子だ。清澄の前に立って思いを打ち明ける事ができるような勇気があれば、僕の事を呼び出しなんかしない。僕がここで行かなかったら……。
「キングに言った方がいいかな?」
小南さんが僕の顔をのぞき込んでくる。僕の顔色を見ているんだろう。僕は首を横に振った。
「いや、大丈夫。僕の方でなんとかする。僕宛だし」
「ほんとにい? センセー、ほんとに女の子に免疫ないからさぁ。あたしの時だってすごい怯えちゃって」
「う……」
小南さんが苦手だったこと、本人に分かられていた。気まずくて、彼女の顔を見ることが出来ない。
「でも、あたしに関しては、今はそんなことないでしょ? 慣れだよ、慣れ」
「小南さん、あんま深角に近寄らないでください」
山田がむっとしたように言う。小南さんは「にゃはは」と笑って山田の頬をつついた。
「あたしの彼氏様はヤキモチ焼きなんだから」
「うぇっ⁉」
僕はのけぞって二人を見比べた。今なんて言った? 彼氏様?
「山田と小南さんが? 嘘だろ」
「嘘じゃないよ~」
小南さんが手をひらひら振る。
いや確かに、山田に好きな人がいるっぽいことは前々から悟ってはいたけれど、まさかそれが小南さんだなんて。小南さんも小南さんで山田のことを憎からず思っていたってことか?
ぐるぐるする僕の頭の中をよそに、にぱっと笑った小南さんが僕の肩をたたく。
「まあでも、センセーはいつもどおり接してくれればいいだけだから。気とか使わなくていいし」
「……お、おめでとう? 二人とも」
「ありがとセンセー」
「さんきゅ深角」
二人は仲良く連れだって校舎の中へと入っていく。僕はぽかんとふたりを見送ったけど、肝心な事が解決していないことをすっかり忘れていて。
「あ」
蛍光イエローの付箋。果たし状みたいな文面。
「わかんないよ」
頬をべったり机にくっつけて山田小南カップルのイチャイチャを見ていると、「わかんない」が加速していく。山田の膝の上に座っている小南さんは、いちご牛乳のパックをぐびぐび飲んでいた。確かに言われてみれば、ふたりのこの距離感は今に始まったことじゃない。
「あのふたりに関しては球技大会からだから、お前がただ鈍感なだけ」
と、清澄が言う。僕はひとり、地べたに這いつくばるみたいに机のうえでぐねぐねする。
「いつも通り接するってどうすればいいんだ」
「いつも通り接すればいいだろ」
「むずかしい」
「彼女がいようが彼氏がいようが、そんなんで人間まるごと変わるわけじゃないんだから、大丈夫だろ。それとも郁、俺とお前が付き合ったら周りが変わると思ってる?」
「……ちょっとだけ」
「お前のそういうとこ、繊細すぎると思うんだよな」
清澄が言った。
「そうそう変わんねえよ」
そうだろうか。清澄に彼女が出来たとき、僕はかなり気を遣ったような気がするんだけど。今まで通りじゃダメだろうと思って。遊びに誘うのも家に誘うのも控えた気がする。清澄と、その彼女のために。
「ほんとに?」
「変わんねえって」
僕は筆箱の中に押し込んでいた蛍光イエローの付箋を思い返した。女性は親族以外ちょっと苦手だし、恋愛はもっと苦手だ。机に頬をくっつけたまま、僕はあのハートマークの主について思いを馳せた。
――恋愛に必要なのは勇気と勢い、そして覚悟。
僕はそのどれもを持っていない。清澄は全部を持っている。
釣り合うんだろうか。ふっと湧いてきた疑念が、不安を膨らましていく。
僕と清澄はつりあうんだろうか?
放課後、体育館裏についた僕は、あたりをおそるおそる見渡した。小南さんには再三「キングに言おうか」と言われたけれど、頭の中にもたげた疑問の答えを探すためにも、このチャンスに乗っておく必要があると感じていた。僕は自問自答を繰り返しすぎる。
「来ましたね、深角先輩」
「……ナナちゃん」
そこに立っていたのは、綾瀬ナナ――清澄の唯一の元カノだった。蛍光イエローさんはナナちゃんだったようだ。
「先輩にナナちゃんって呼ばれる筋合いは無いと思いますけど」
ナナちゃんは腰に手を当てて柳眉をひそめ、むっと唇を突き出した。昔から変わらないあざとい仕草が、とってつけたように感じないのは、彼女が常に見られる事を意識しているモデルだからかもしれない。僕がそうして彼女の仕草を観察していると、ナナちゃんはすっと背筋を伸ばして、静かに、
「単調直入に言いますけど、あたしにキヨを返してください」
「……へ?」
いきなり、本題とばかりに切りかかってきた。流石に渾身の一撃だってことは分かったんだけれど、僕はその言葉の意味を捉えかねていた。
「……なんて?」
「だから、キヨをあたしにください」
――清澄を? ナナちゃんに?
僕は拳を握って、ナナちゃんの目をじっと見つめた。
「清澄の心は、清澄のものだ。僕のものじゃない」
「ちがう、そうじゃなくて」
ナナちゃんは可愛い顔を振りたくった。
「隣に居る権利、ってあるでしょ。今のキヨ、ずっと深角先輩にべったりで、あたしの入る隙が無いんです。だから、深角先輩の方から、キヨのこと振ってあげてください」
「……何をいってるんだ?」
「言ったままのことですよ、深角先輩。国語の成績悪いんですか?」
ナナちゃんの入る隙がないから、僕に、清澄を振れって?
そんなのむちゃくちゃだ。
「僕は清澄とは付き合ってないし、ナナちゃんが思ってるような仲じゃない。僕らは――」
「じゃあなんでキヨはあたしのこと見てすらくれないの」
悔しそうに歯がみする美少女を見下ろして、僕はなんと言えば良いのか、言葉を探した。
「清澄には、その、好きな奴がいるんだ、だから――」
ナナちゃんが、言いかけた僕に噛みつく。
「分かりますよ、深角先輩でしょう。だから、その気が無いんだったら振ってくださいって言ってるんです」
僕はぽかんとした。
「その気が、無いんだったら?」
「そうです。好きじゃないんでしょ? 好きじゃないんなら、好きでもない人からの好意なんか、ただ気持ち悪いだけじゃないですか。気持ち悪いって言って振ってあげてくださいよ。そうしたら、あたしが――」
彼女の言葉が僕の一番弱いところに刺さった。刺さって抜けない。「好きでもない人からの好意なんか、ただ気持ち悪いだけ」。痛い。痛すぎる。
だけど、僕はそれでも言わなければならなかった。
「できない」
僕ははっきり答える。
「僕たちは、幼なじみだ。僕は清澄と幼なじみを辞める気は無いよ」
ナナちゃんが、目を見開いた。睨まれている、と数瞬遅れて気づいた。
「あんた、ずるい」
――ずるい?
「そうやって別の関係性に逃げることができていいよね。羨ましい」
「逃げてなんか……」
「逃げてんじゃん!」
ナナちゃんはだんっと足を踏み鳴らした。
「清澄の気持ちからもあたしの言葉からも逃げてんじゃん! いっそ幼なじみなんかやめて全くの他人になってみたらいいよ! 存在の全部を懸けて一回恋の一つもしてみてよ! あたしの気持ちの、百分の一でも、わかってよ! ふざけんな!」
ナナちゃんの目から涙があふれ出す。僕が泣かせたんだ、と思う。
「キヨの事、あたしのほうがずっとずっとずっと先に好きだったのに……!」
僕はナナちゃんの細い腕に胸ぐらをつかまれてなお、呆然としていた。
そうか。ナナちゃんは清澄の事が好きなんだ。とても、とても好きなんだ。抜き身の自分自身で、僕に斬りかかるくらい。そうなんだ。すとんと腑に落ちたかとおもったら、落ちたそれが僕の腹の中で暴れ出して、ずきんと疼痛が心臓のあたりを突き抜けていった。
「中学の時――別れるときになんて言われたと思います? 『やっぱ無理』って。好きな子のこと忘れらんないから無理って。その相手が、まさか、こんな」
「ナナ!」
そのとき、清澄の声がナナちゃんの言葉を止めた。
「それ以上言うな。自分の品格を落としたくなかったらな」
清澄の姿を認めたナナちゃんが、僕をきっとにらみあげる。清澄を呼んだのが僕だと思ったからだろう。
「どこまでもずるい奴……!」
「ちが、僕じゃない」
「やめろ。もうやめろ。手を放せ」
清澄がナナちゃんの手をつかむ。ナナちゃんは抵抗もせず清澄に腕をつかまれていたけど、やがてぼろぼろ泣き出した。
「あたしのほうがキヨのこと好きだもん……! まだ大好きだもん……!」
「分かってるよ。でも、俺の方が郁のこと好きだから」
「なんでだよ! なんで! なんでそんなこというの! キヨあんなにやさしくしてくれたじゃん! なんであたしじゃだめなの!」
「泣くな。化粧落ちるぞ」
清澄はナナちゃんのことをそっと抱き留めた。腕の中にくるまれたナナちゃんはそのまま清澄の胸をぽかぽか殴り始めた。
「自分で振った女に優しくするんじゃねえ! もっと好きになるだろ! バカ! アホ! キヨ! うぇええええん」
「……こればかりはどうしようもないんだよ」
泣きわめくナナちゃんの後ろ頭をぽんぽん叩きながら、清澄の目は僕だけを見ている。
「ごめん、郁。ちょっとだけ外してくれる。こっからは流石に見せらんねえわ」
僕が外している間、二人の間であったことはわからない。でも、清澄は清澄なりにナナちゃんのことを大事にしているんだろうな、という確信だけはあった。どうでも良かったら、こんな風にならないだろうし。
ナナちゃんを必要以上に傷つけないために僕に外すように言ったんだろうし。
と、そう結論づける僕の心臓だけが、ずきっと痛む。あれ? 僕は納得したし、理解したつもりなのに、心臓だけがそれは違うだろ、といわんばかりに痛い。さっきからずっと痛い、気がする。心臓に痛覚ってあるんだっけ。あるのか。
「ってぇ……」
それも比喩だってことは分かってる。心臓が痛いんじゃない。心臓のあたりにあると噂されている、不可解で不明瞭な器官が、僕の中で存在を主張しているのだ。
ここにいるよ、ここにあるよって。
「だめだ……」
パンドラの箱が開いてしまう。必死に蓋を閉めていたはずのそれが、黒々とした口を開けている。
樋口アイコ。思い出したくない記憶。
変わりたくない。もう二度と何一つ変わりたくない。
だから、恋愛なんかしたくない。しない。絶対しない。
『深角くんって、その、意外だったな。恋愛とか興味ないのかと思ってた』
樋口さんは中学校の同級生だった。僕が一番無防備な瞬間に、彼女は僕の隙間に入ってきて、体中身動きができなくなるほどの恋を僕に教えた。
『深角くん、ずっと前から好きでした。付き合ってほしいです』
僕は舞い上がった。僕が彼女にできることしてあげられること、全部をシミュレーションして実行した。彼女は可愛らしかったし、何より中学校の一軍女子だったし、……僕はそんなカーストに興味が無かったから、彼女の言葉の真意をいちいち考えたりしなかった。
『ねえ、深角くん、そろそろ気づいてくれてもいいんじゃないの』
『あれね、罰ゲームだったの。じゃんけんで負けたから、嘘で告白してみようって』
『そしたらオッケーしてくれるからびっくりしちゃった。思いのほかガチって来るし』
『知ってる? 興味の無い相手からの好意って、えげつないくらい気持ち悪いんだよ』
それは手ひどい失恋で、僕のトラウマだ。しかも、三年経ってもまだ忘れられない。目を閉じれば彼女の横顔が冷たく言い放つのが見える。
『要するにキモいってこと。わかった?』
恋愛なんかするもんじゃない。一度爆散を済ませた心臓が下した答えは、一向に覆りそうになかった。あんな風に暴力的に僕を変えてしまうのに、あんな無作為に捨てられてしまう。恋愛ごとが好きな人の気が知れない。僕はこわい。たやすく変えられてしまうことも、その人しか考えられない頭に変えられることも、そのうえでぽいと捨てられてしまうことも。
僕は頭を抱えて座り込んだ。何度目かの世界がまた終わる。何度も何度も僕は、あのとき味わった失恋を繰り返す。もう彼女に気持ちなんかないのに。もう彼女の事なんか好きじゃないのに。ただ、フラッシュバックする言葉だけ耳元に残されて。
『好きでもない人からの好意なんか』
『要するにキモいってこと』
瞼を閉ざして小さくかぶりをふる。息がどんどん浅くなっていく。やばいな。意識して息を吐いて、深呼吸をして、酸素を確保すると、なんとか潤んだ視界が確保できた。人は世界が終わるかもしれないと思いながら恋愛をする。僕なんか、通算一万回は世界が終わってる。うそ、本当はもっと。
こんなに苦しいなら恋愛なんかしたくないよ。何も変わりたくない。何一つ受け入れたくない。何一つ拒絶したくない。僕に干渉しないでくれ、樋口さん。もう、もういいよ――。
「郁。……郁?」
知ってる声がする。僕よりずっと低かったり、沢山の女の子を慰めるために使われる声帯。だけど、ざらめみたいに甘く僕を甘やかす声。
「……きよすみ」
泣き濡れた顔を上げると、清澄がまろぶように走り寄ってきて、僕の頬を包んだ。
「どうした? なにがあった? 誰かになにかされた?」
「なにもない、なんもない、ただ、僕が――」
「ナナか? アイツに何か言われた?」
「なにも、いわれてな……」
つめたい指に涙を拭われて、それだけのことなのに胸が熱くなる。
恋愛なんかしたくないよ。そう思う頭とは裏腹に、心で清澄のことを求めている。
もっと触って。もっと撫でて。もっとくっついていいよ。
清澄、僕のこと清澄のものにしていいよ。問答無用にお前のものにしていいよ。
それなのに頭はかたくなに過去の失敗を引きずっているから、難しい。この気持ちを言葉にするのは、今の僕にはむりだ。
「清澄」
僕に言えたのはそれだけだった。
「キスして……」
ごく自然に寄せ合った唇の間に僕の涙が流れる。しおからい、しおからくて熱い。甘かったり酸っぱかったりするといわれる恋愛の味からはほど遠くて、ちょっと笑いそうになる。泣いてるのに。
「樋口さんのこと思い出して、ちょっと、はは」
「無理すんな」
「無理なんかしてない」
「無理して笑い話にすんな。誰も笑わないぞ」
清澄の手が伸びてきて、僕を抱きすくめる。
「――ほんとに」
清澄の声音は真剣味を帯びている。
「ほんとに、お前が恋愛をしたくないなら、しなくていい」
「……清澄」
「そうしたら、俺も、恋愛しない。ただの幼なじみでいい。ずっとそばに居る幼なじみで構わない」
清澄が、心からそう言っていることがわかるから、僕の胸はしくしくと傷む。また泣きたくなってきて、目に力を入れる。
「清澄は、清澄の好きなように生きていいのに」
「……無理」
清澄は耳元に囁く。
「お前が、全部、ぜんぶ大丈夫になったら考える。ていうか――お前が俺を選ばなくてもいい。お前が彼女連れてきても構わない。お前が、結婚式のスピーチを俺に頼んだっていい。なんだっていい。お前が、あの女の呪いから、解放されるなら……なんでもいい」
「きよ――」
「郁。好きだよ。愛してる。だから絶対幸せになってくれ」
重たすぎる愛は、時間を掛けて、僕をゆっくり押しつぶしていく。もうその重さに、慣れてしまった。慣れきってしまった。もうこれくらい重くないと、物足りない。僕と清澄じゃ、全然釣り合わないのに。月とすっぽんなのに。
「――そうじゃなかったら、俺がお前をさらう」
「それ、いいね。いいじゃん」って心が言う。でも頭は「変わりたくなんかないよ」と駄々をこねる。矛盾してる。全部矛盾してる。世界を逆さまにしても、視野を四十五度傾けても、どうしても、心と頭が一致しない。どっちかをなだめすかして、同じ方向を向けてやるしかない。
「清澄、たとえばさ――」
僕は清澄の腰に手を回すと、抱きしめる力が強くなった。完全に抱き合っている僕らの姿を、誰かが見ていたとしても、もうそんなのは些細なことだ。
「僕がよぼよぼのおじいちゃんになってから、清澄の良さに気づいたらさ。清澄は、いいよっていってくれるの」
「当たり前だろ」
即答だった。僕は清澄の顔をじっとのぞき込んだ。
「清澄は順当に老けてロマンスグレイになってるかもしれないけど。僕はきっと、しわくちゃのジジイだよ」
「それでもいい」
「なんで」
「郁だから」
清澄は綺麗な目を伏せた。わかれよ、と小さな声が言う。
「俺が好きになった深角郁だから。決まってんだろ」
そして僕らはまたキスした。今度は、清澄のくちびるの味がした。
僕は夢を見る。僕は、ずいぶん幼い。四才くらいだろうか。
砂場で泣いている長い髪の女の子がいる。迷子になったらしい。お母さんがどっかにいっちゃった、と彼女は言う。
「なまえ、おしえて」
女の子が泣いてるんだ。なんとかしなくちゃ。幼心にそう思う。
「――、すみ」
――青い目の女の子。
「すみ、大きくなったら、いくくんとけっこんするよ」
「ほんと?」
「うん。すみ、いくくんのこと、すきなんだよ。これくらい」
彼女は大きく手を広げてみせる。このくらい。
そうか、彼女は僕の第一次モテ期の相手、すみちゃんだ。思い出した。
高校生の僕は、少し遠いところから、ふたりが砂場で遊んでいるのを見ている。ふと隣をみると、王様然とした清澄が制服姿で立っていて、ちらりと僕を窺う。
清澄、なんでこんなとこにいるんだよ。これは僕の夢だぞ。
そう言うと、清澄はふっと微笑んで、唇の前でしいっと指をたてた。
――しずかに。
幼い僕とすみちゃんは、手を繋いでブランコに乗っている。
「いくくん、すみのこと忘れないで。ぜったい、ぜったいわすれないで」
「うん、忘れない」
「いくくん、だいすきだからね。ずっとだよ」
僕の夢の中の清澄は穏やかにふたりを見守っている。僕はそんな清澄の隣で、幼いふたりの恋の終わりを見た。
結局深角郁は、すみちゃんとの恋の終わりの事を今やっと思い出したわけだから、彼女のことを忘れたことになるんだろう。時の流れは残酷だ。
清澄を見ると、穏やかに僕を見ている。どうしたんだ? って訊ねると、清澄は頬を掻きながら恥ずかしそうに笑った。
「ね、郁。思い出した?」
はた、と目覚めると保健室で、隣に清澄が椅子に座って、ベッドにうつ伏せて眠っていた。どうやらどこかのタイミングで僕は意識を失ったらしかった。かすかに開いた窓から、七月の風が吹いてきた。
僕は眠っている清澄の頭を撫でて、今見た夢のことを思い返した。角度によっては金色にも見える茶髪を撫でながら、つぶやく。
「お前、ひょっとしてずっと僕のこと――」
「ぎゃっ」
「うわっどうした深角」
尻餅をつきかけた僕を支えてくれたのは意外にも山田だった。隣に小南さんの姿もある。二人、偶然、同時に登校してきたんだろうか。
「靴箱に虫でも入ってたんか」
「ちょっと! やめてよだーやま。あたしそういうの無理。想像だけでも無理」
「あ、ごめん小南さん」
こいつら仲いいな。いや、そんなことより指先に引っかかった何らかの紙だ。僕はおそるおそる靴箱の中をのぞき込んで、その小さな紙を取る。それは蛍光イエローの四角の付箋で、丸っこい字でこう書いてある。
『今日の放課後、体育館裏に来い!』
エクスクラメーションマーク《!》の下の丸のところがハートマークになってる。
「何これ。果たし状?」
小南さんが僕の手元をのぞき込んで言った。「にしては愛らしい筆跡ですこと。誰だろうね」
「おおかたキングがらみだろ」と山田が頭の後ろで手を組んだ。僕は何度経験しても慣れないこの手の呼び出しにすでに憂うつになっている。
かといって行かなかったら面倒なことになるに違いない。なんたって清澄に直接言えない、行けないような子だ。清澄の前に立って思いを打ち明ける事ができるような勇気があれば、僕の事を呼び出しなんかしない。僕がここで行かなかったら……。
「キングに言った方がいいかな?」
小南さんが僕の顔をのぞき込んでくる。僕の顔色を見ているんだろう。僕は首を横に振った。
「いや、大丈夫。僕の方でなんとかする。僕宛だし」
「ほんとにい? センセー、ほんとに女の子に免疫ないからさぁ。あたしの時だってすごい怯えちゃって」
「う……」
小南さんが苦手だったこと、本人に分かられていた。気まずくて、彼女の顔を見ることが出来ない。
「でも、あたしに関しては、今はそんなことないでしょ? 慣れだよ、慣れ」
「小南さん、あんま深角に近寄らないでください」
山田がむっとしたように言う。小南さんは「にゃはは」と笑って山田の頬をつついた。
「あたしの彼氏様はヤキモチ焼きなんだから」
「うぇっ⁉」
僕はのけぞって二人を見比べた。今なんて言った? 彼氏様?
「山田と小南さんが? 嘘だろ」
「嘘じゃないよ~」
小南さんが手をひらひら振る。
いや確かに、山田に好きな人がいるっぽいことは前々から悟ってはいたけれど、まさかそれが小南さんだなんて。小南さんも小南さんで山田のことを憎からず思っていたってことか?
ぐるぐるする僕の頭の中をよそに、にぱっと笑った小南さんが僕の肩をたたく。
「まあでも、センセーはいつもどおり接してくれればいいだけだから。気とか使わなくていいし」
「……お、おめでとう? 二人とも」
「ありがとセンセー」
「さんきゅ深角」
二人は仲良く連れだって校舎の中へと入っていく。僕はぽかんとふたりを見送ったけど、肝心な事が解決していないことをすっかり忘れていて。
「あ」
蛍光イエローの付箋。果たし状みたいな文面。
「わかんないよ」
頬をべったり机にくっつけて山田小南カップルのイチャイチャを見ていると、「わかんない」が加速していく。山田の膝の上に座っている小南さんは、いちご牛乳のパックをぐびぐび飲んでいた。確かに言われてみれば、ふたりのこの距離感は今に始まったことじゃない。
「あのふたりに関しては球技大会からだから、お前がただ鈍感なだけ」
と、清澄が言う。僕はひとり、地べたに這いつくばるみたいに机のうえでぐねぐねする。
「いつも通り接するってどうすればいいんだ」
「いつも通り接すればいいだろ」
「むずかしい」
「彼女がいようが彼氏がいようが、そんなんで人間まるごと変わるわけじゃないんだから、大丈夫だろ。それとも郁、俺とお前が付き合ったら周りが変わると思ってる?」
「……ちょっとだけ」
「お前のそういうとこ、繊細すぎると思うんだよな」
清澄が言った。
「そうそう変わんねえよ」
そうだろうか。清澄に彼女が出来たとき、僕はかなり気を遣ったような気がするんだけど。今まで通りじゃダメだろうと思って。遊びに誘うのも家に誘うのも控えた気がする。清澄と、その彼女のために。
「ほんとに?」
「変わんねえって」
僕は筆箱の中に押し込んでいた蛍光イエローの付箋を思い返した。女性は親族以外ちょっと苦手だし、恋愛はもっと苦手だ。机に頬をくっつけたまま、僕はあのハートマークの主について思いを馳せた。
――恋愛に必要なのは勇気と勢い、そして覚悟。
僕はそのどれもを持っていない。清澄は全部を持っている。
釣り合うんだろうか。ふっと湧いてきた疑念が、不安を膨らましていく。
僕と清澄はつりあうんだろうか?
放課後、体育館裏についた僕は、あたりをおそるおそる見渡した。小南さんには再三「キングに言おうか」と言われたけれど、頭の中にもたげた疑問の答えを探すためにも、このチャンスに乗っておく必要があると感じていた。僕は自問自答を繰り返しすぎる。
「来ましたね、深角先輩」
「……ナナちゃん」
そこに立っていたのは、綾瀬ナナ――清澄の唯一の元カノだった。蛍光イエローさんはナナちゃんだったようだ。
「先輩にナナちゃんって呼ばれる筋合いは無いと思いますけど」
ナナちゃんは腰に手を当てて柳眉をひそめ、むっと唇を突き出した。昔から変わらないあざとい仕草が、とってつけたように感じないのは、彼女が常に見られる事を意識しているモデルだからかもしれない。僕がそうして彼女の仕草を観察していると、ナナちゃんはすっと背筋を伸ばして、静かに、
「単調直入に言いますけど、あたしにキヨを返してください」
「……へ?」
いきなり、本題とばかりに切りかかってきた。流石に渾身の一撃だってことは分かったんだけれど、僕はその言葉の意味を捉えかねていた。
「……なんて?」
「だから、キヨをあたしにください」
――清澄を? ナナちゃんに?
僕は拳を握って、ナナちゃんの目をじっと見つめた。
「清澄の心は、清澄のものだ。僕のものじゃない」
「ちがう、そうじゃなくて」
ナナちゃんは可愛い顔を振りたくった。
「隣に居る権利、ってあるでしょ。今のキヨ、ずっと深角先輩にべったりで、あたしの入る隙が無いんです。だから、深角先輩の方から、キヨのこと振ってあげてください」
「……何をいってるんだ?」
「言ったままのことですよ、深角先輩。国語の成績悪いんですか?」
ナナちゃんの入る隙がないから、僕に、清澄を振れって?
そんなのむちゃくちゃだ。
「僕は清澄とは付き合ってないし、ナナちゃんが思ってるような仲じゃない。僕らは――」
「じゃあなんでキヨはあたしのこと見てすらくれないの」
悔しそうに歯がみする美少女を見下ろして、僕はなんと言えば良いのか、言葉を探した。
「清澄には、その、好きな奴がいるんだ、だから――」
ナナちゃんが、言いかけた僕に噛みつく。
「分かりますよ、深角先輩でしょう。だから、その気が無いんだったら振ってくださいって言ってるんです」
僕はぽかんとした。
「その気が、無いんだったら?」
「そうです。好きじゃないんでしょ? 好きじゃないんなら、好きでもない人からの好意なんか、ただ気持ち悪いだけじゃないですか。気持ち悪いって言って振ってあげてくださいよ。そうしたら、あたしが――」
彼女の言葉が僕の一番弱いところに刺さった。刺さって抜けない。「好きでもない人からの好意なんか、ただ気持ち悪いだけ」。痛い。痛すぎる。
だけど、僕はそれでも言わなければならなかった。
「できない」
僕ははっきり答える。
「僕たちは、幼なじみだ。僕は清澄と幼なじみを辞める気は無いよ」
ナナちゃんが、目を見開いた。睨まれている、と数瞬遅れて気づいた。
「あんた、ずるい」
――ずるい?
「そうやって別の関係性に逃げることができていいよね。羨ましい」
「逃げてなんか……」
「逃げてんじゃん!」
ナナちゃんはだんっと足を踏み鳴らした。
「清澄の気持ちからもあたしの言葉からも逃げてんじゃん! いっそ幼なじみなんかやめて全くの他人になってみたらいいよ! 存在の全部を懸けて一回恋の一つもしてみてよ! あたしの気持ちの、百分の一でも、わかってよ! ふざけんな!」
ナナちゃんの目から涙があふれ出す。僕が泣かせたんだ、と思う。
「キヨの事、あたしのほうがずっとずっとずっと先に好きだったのに……!」
僕はナナちゃんの細い腕に胸ぐらをつかまれてなお、呆然としていた。
そうか。ナナちゃんは清澄の事が好きなんだ。とても、とても好きなんだ。抜き身の自分自身で、僕に斬りかかるくらい。そうなんだ。すとんと腑に落ちたかとおもったら、落ちたそれが僕の腹の中で暴れ出して、ずきんと疼痛が心臓のあたりを突き抜けていった。
「中学の時――別れるときになんて言われたと思います? 『やっぱ無理』って。好きな子のこと忘れらんないから無理って。その相手が、まさか、こんな」
「ナナ!」
そのとき、清澄の声がナナちゃんの言葉を止めた。
「それ以上言うな。自分の品格を落としたくなかったらな」
清澄の姿を認めたナナちゃんが、僕をきっとにらみあげる。清澄を呼んだのが僕だと思ったからだろう。
「どこまでもずるい奴……!」
「ちが、僕じゃない」
「やめろ。もうやめろ。手を放せ」
清澄がナナちゃんの手をつかむ。ナナちゃんは抵抗もせず清澄に腕をつかまれていたけど、やがてぼろぼろ泣き出した。
「あたしのほうがキヨのこと好きだもん……! まだ大好きだもん……!」
「分かってるよ。でも、俺の方が郁のこと好きだから」
「なんでだよ! なんで! なんでそんなこというの! キヨあんなにやさしくしてくれたじゃん! なんであたしじゃだめなの!」
「泣くな。化粧落ちるぞ」
清澄はナナちゃんのことをそっと抱き留めた。腕の中にくるまれたナナちゃんはそのまま清澄の胸をぽかぽか殴り始めた。
「自分で振った女に優しくするんじゃねえ! もっと好きになるだろ! バカ! アホ! キヨ! うぇええええん」
「……こればかりはどうしようもないんだよ」
泣きわめくナナちゃんの後ろ頭をぽんぽん叩きながら、清澄の目は僕だけを見ている。
「ごめん、郁。ちょっとだけ外してくれる。こっからは流石に見せらんねえわ」
僕が外している間、二人の間であったことはわからない。でも、清澄は清澄なりにナナちゃんのことを大事にしているんだろうな、という確信だけはあった。どうでも良かったら、こんな風にならないだろうし。
ナナちゃんを必要以上に傷つけないために僕に外すように言ったんだろうし。
と、そう結論づける僕の心臓だけが、ずきっと痛む。あれ? 僕は納得したし、理解したつもりなのに、心臓だけがそれは違うだろ、といわんばかりに痛い。さっきからずっと痛い、気がする。心臓に痛覚ってあるんだっけ。あるのか。
「ってぇ……」
それも比喩だってことは分かってる。心臓が痛いんじゃない。心臓のあたりにあると噂されている、不可解で不明瞭な器官が、僕の中で存在を主張しているのだ。
ここにいるよ、ここにあるよって。
「だめだ……」
パンドラの箱が開いてしまう。必死に蓋を閉めていたはずのそれが、黒々とした口を開けている。
樋口アイコ。思い出したくない記憶。
変わりたくない。もう二度と何一つ変わりたくない。
だから、恋愛なんかしたくない。しない。絶対しない。
『深角くんって、その、意外だったな。恋愛とか興味ないのかと思ってた』
樋口さんは中学校の同級生だった。僕が一番無防備な瞬間に、彼女は僕の隙間に入ってきて、体中身動きができなくなるほどの恋を僕に教えた。
『深角くん、ずっと前から好きでした。付き合ってほしいです』
僕は舞い上がった。僕が彼女にできることしてあげられること、全部をシミュレーションして実行した。彼女は可愛らしかったし、何より中学校の一軍女子だったし、……僕はそんなカーストに興味が無かったから、彼女の言葉の真意をいちいち考えたりしなかった。
『ねえ、深角くん、そろそろ気づいてくれてもいいんじゃないの』
『あれね、罰ゲームだったの。じゃんけんで負けたから、嘘で告白してみようって』
『そしたらオッケーしてくれるからびっくりしちゃった。思いのほかガチって来るし』
『知ってる? 興味の無い相手からの好意って、えげつないくらい気持ち悪いんだよ』
それは手ひどい失恋で、僕のトラウマだ。しかも、三年経ってもまだ忘れられない。目を閉じれば彼女の横顔が冷たく言い放つのが見える。
『要するにキモいってこと。わかった?』
恋愛なんかするもんじゃない。一度爆散を済ませた心臓が下した答えは、一向に覆りそうになかった。あんな風に暴力的に僕を変えてしまうのに、あんな無作為に捨てられてしまう。恋愛ごとが好きな人の気が知れない。僕はこわい。たやすく変えられてしまうことも、その人しか考えられない頭に変えられることも、そのうえでぽいと捨てられてしまうことも。
僕は頭を抱えて座り込んだ。何度目かの世界がまた終わる。何度も何度も僕は、あのとき味わった失恋を繰り返す。もう彼女に気持ちなんかないのに。もう彼女の事なんか好きじゃないのに。ただ、フラッシュバックする言葉だけ耳元に残されて。
『好きでもない人からの好意なんか』
『要するにキモいってこと』
瞼を閉ざして小さくかぶりをふる。息がどんどん浅くなっていく。やばいな。意識して息を吐いて、深呼吸をして、酸素を確保すると、なんとか潤んだ視界が確保できた。人は世界が終わるかもしれないと思いながら恋愛をする。僕なんか、通算一万回は世界が終わってる。うそ、本当はもっと。
こんなに苦しいなら恋愛なんかしたくないよ。何も変わりたくない。何一つ受け入れたくない。何一つ拒絶したくない。僕に干渉しないでくれ、樋口さん。もう、もういいよ――。
「郁。……郁?」
知ってる声がする。僕よりずっと低かったり、沢山の女の子を慰めるために使われる声帯。だけど、ざらめみたいに甘く僕を甘やかす声。
「……きよすみ」
泣き濡れた顔を上げると、清澄がまろぶように走り寄ってきて、僕の頬を包んだ。
「どうした? なにがあった? 誰かになにかされた?」
「なにもない、なんもない、ただ、僕が――」
「ナナか? アイツに何か言われた?」
「なにも、いわれてな……」
つめたい指に涙を拭われて、それだけのことなのに胸が熱くなる。
恋愛なんかしたくないよ。そう思う頭とは裏腹に、心で清澄のことを求めている。
もっと触って。もっと撫でて。もっとくっついていいよ。
清澄、僕のこと清澄のものにしていいよ。問答無用にお前のものにしていいよ。
それなのに頭はかたくなに過去の失敗を引きずっているから、難しい。この気持ちを言葉にするのは、今の僕にはむりだ。
「清澄」
僕に言えたのはそれだけだった。
「キスして……」
ごく自然に寄せ合った唇の間に僕の涙が流れる。しおからい、しおからくて熱い。甘かったり酸っぱかったりするといわれる恋愛の味からはほど遠くて、ちょっと笑いそうになる。泣いてるのに。
「樋口さんのこと思い出して、ちょっと、はは」
「無理すんな」
「無理なんかしてない」
「無理して笑い話にすんな。誰も笑わないぞ」
清澄の手が伸びてきて、僕を抱きすくめる。
「――ほんとに」
清澄の声音は真剣味を帯びている。
「ほんとに、お前が恋愛をしたくないなら、しなくていい」
「……清澄」
「そうしたら、俺も、恋愛しない。ただの幼なじみでいい。ずっとそばに居る幼なじみで構わない」
清澄が、心からそう言っていることがわかるから、僕の胸はしくしくと傷む。また泣きたくなってきて、目に力を入れる。
「清澄は、清澄の好きなように生きていいのに」
「……無理」
清澄は耳元に囁く。
「お前が、全部、ぜんぶ大丈夫になったら考える。ていうか――お前が俺を選ばなくてもいい。お前が彼女連れてきても構わない。お前が、結婚式のスピーチを俺に頼んだっていい。なんだっていい。お前が、あの女の呪いから、解放されるなら……なんでもいい」
「きよ――」
「郁。好きだよ。愛してる。だから絶対幸せになってくれ」
重たすぎる愛は、時間を掛けて、僕をゆっくり押しつぶしていく。もうその重さに、慣れてしまった。慣れきってしまった。もうこれくらい重くないと、物足りない。僕と清澄じゃ、全然釣り合わないのに。月とすっぽんなのに。
「――そうじゃなかったら、俺がお前をさらう」
「それ、いいね。いいじゃん」って心が言う。でも頭は「変わりたくなんかないよ」と駄々をこねる。矛盾してる。全部矛盾してる。世界を逆さまにしても、視野を四十五度傾けても、どうしても、心と頭が一致しない。どっちかをなだめすかして、同じ方向を向けてやるしかない。
「清澄、たとえばさ――」
僕は清澄の腰に手を回すと、抱きしめる力が強くなった。完全に抱き合っている僕らの姿を、誰かが見ていたとしても、もうそんなのは些細なことだ。
「僕がよぼよぼのおじいちゃんになってから、清澄の良さに気づいたらさ。清澄は、いいよっていってくれるの」
「当たり前だろ」
即答だった。僕は清澄の顔をじっとのぞき込んだ。
「清澄は順当に老けてロマンスグレイになってるかもしれないけど。僕はきっと、しわくちゃのジジイだよ」
「それでもいい」
「なんで」
「郁だから」
清澄は綺麗な目を伏せた。わかれよ、と小さな声が言う。
「俺が好きになった深角郁だから。決まってんだろ」
そして僕らはまたキスした。今度は、清澄のくちびるの味がした。
僕は夢を見る。僕は、ずいぶん幼い。四才くらいだろうか。
砂場で泣いている長い髪の女の子がいる。迷子になったらしい。お母さんがどっかにいっちゃった、と彼女は言う。
「なまえ、おしえて」
女の子が泣いてるんだ。なんとかしなくちゃ。幼心にそう思う。
「――、すみ」
――青い目の女の子。
「すみ、大きくなったら、いくくんとけっこんするよ」
「ほんと?」
「うん。すみ、いくくんのこと、すきなんだよ。これくらい」
彼女は大きく手を広げてみせる。このくらい。
そうか、彼女は僕の第一次モテ期の相手、すみちゃんだ。思い出した。
高校生の僕は、少し遠いところから、ふたりが砂場で遊んでいるのを見ている。ふと隣をみると、王様然とした清澄が制服姿で立っていて、ちらりと僕を窺う。
清澄、なんでこんなとこにいるんだよ。これは僕の夢だぞ。
そう言うと、清澄はふっと微笑んで、唇の前でしいっと指をたてた。
――しずかに。
幼い僕とすみちゃんは、手を繋いでブランコに乗っている。
「いくくん、すみのこと忘れないで。ぜったい、ぜったいわすれないで」
「うん、忘れない」
「いくくん、だいすきだからね。ずっとだよ」
僕の夢の中の清澄は穏やかにふたりを見守っている。僕はそんな清澄の隣で、幼いふたりの恋の終わりを見た。
結局深角郁は、すみちゃんとの恋の終わりの事を今やっと思い出したわけだから、彼女のことを忘れたことになるんだろう。時の流れは残酷だ。
清澄を見ると、穏やかに僕を見ている。どうしたんだ? って訊ねると、清澄は頬を掻きながら恥ずかしそうに笑った。
「ね、郁。思い出した?」
はた、と目覚めると保健室で、隣に清澄が椅子に座って、ベッドにうつ伏せて眠っていた。どうやらどこかのタイミングで僕は意識を失ったらしかった。かすかに開いた窓から、七月の風が吹いてきた。
僕は眠っている清澄の頭を撫でて、今見た夢のことを思い返した。角度によっては金色にも見える茶髪を撫でながら、つぶやく。
「お前、ひょっとしてずっと僕のこと――」



