外は雨だ。雨の降る空を背景にして、背中を丸めた清澄がノートを取っている。ペン回しの堪能な指先に光る、小指のリング。あちこちに挟み込まれた、僕と共用の蛍光ピンクの付箋。
数学の時間は他の授業よりも少し気だるげで、クラス全体が眠気の層に包まれたみたいになって、うつ伏せている生徒も少なくない。その中で顔を上げてペンを回しながらも教師の解説に耳を傾けている清澄は目立った。よく風紀委員と戦ってる地毛の茶髪と、形のいい耳と、それから――。
「この問題を、深角。――深角?」
女性教諭の凜とした声で僕は我に返る。慌てて立ち上がって、椅子を蹴飛ばして倒し、慌てて起こす。
「は、はい!」
「……どうした?」
「す、すみません! ぼうっとしてました!」
クラスから小さな笑いが起こる。「あの学年一位がぼうっとしてたって」といわんばかりだ。僕は示された問題の答えをすぐさま言うことができたけれど、言えなかったらさらに笑いものになっていただろう。
清澄はチラリと僕を振り返った。視線が遇うと、遇っただけで、僕の頭の中には先日の事がリフレインする。
キスしてしまった。幼なじみと。
このクラスのキングと。
一軍の、鉢谷清澄と。
それを思うだけで、頭が爆発しそうになるから、考えないようにして、パンドラの箱の中に押し込んで、蓋をしたはずなのに、気づいたら授業中も清澄の姿を視線で追いかけている。
ざあざあ降りの雨の下、ビニール傘を盗まれた僕はため息をついた。
このバケツをひっくり返したような雨の下帰るか、雨が収まるまで待つか。そんな風に空の顔色をうかがっているとき。
「キヨ、わたし傘忘れちゃった。いーれて!」
「は? 他の奴に入れてもらえ」
清澄に絡んでいる甘ったるい声の持ち主は、今日も「抜け感」を意識した三つ編みを揺らして小首をかしげた。
「キヨの傘がいいのー! こんな中家に帰ったらわたし、風邪引いちゃうよ」
「ああそう、はい」
清澄は鞄の中から紺色の折りたたみ傘を差し出した。
「やった! ありがと、キヨ、やっさしー!」
「これ貸すからお前はひとりで帰れ」
声の主――ナナちゃんがピシっと固まる音がこちらにまで聞こえてきそうだった。
「え? 送ってくれないの?」
「用事あるから。風邪引かないように帰れよ」
そして清澄はこちらを振り向いて、僕の腕をつかんだ。
「走って五分だ。走るぞ」
「え、ちょ……!」
「ちなみに、俺の最短は三分。信号待ちなし、ノンストップで三分な」
お前といっしょにするなよお! という心の叫びは清澄には届かない。鞄を頭に乗せて、手を繋いで、全速力で走り抜ける僕らは、ナナちゃんの目にはどう映っただろう。きっと快くは映らなかっただろうな。
だけど僕の心臓は、血管は、ずっとばくばくうるさくて、ずっとずっと鳴り続けていて、耳元で破裂せんばかりだった。走ってるせいなのか、繋いでる手のせいなのか、はたまた清澄のせいなのか――判別できないでいるうちに、びしょ濡れの僕らは我が家にたどり着く。
「は、六分もかかった」
息を乱した清澄が子供みたいに笑う。僕は膨れた。
「運動部と一緒にするな!」
「元、な」
そうして、見つめ合ったら、清澄とキスしたときのことを思い出して不意に恥ずかしくなる。清澄はそんな僕の手を握ったまま笑い、「着替えようぜ」と僕を促した。
「着替えたら、そっち行くからさ」
濡れた制服から簡単な部屋着に着替えた清澄が、タオルを肩に掛けたままの格好で僕の家に上がり込むまで十五分。僕はその間に着替えて、部屋の中を整えておく。いつものちゃぶ台。蛍光ピンクの付箋。清澄専用になった座布団。
濡れた髪をタオルで拭いながら、清澄は僕の隣に座る。
「中間近いから、数学も英語も小テスト範囲を中心にやっていこうかな」
「はーい、深角センセー」
いつも通りに進んでいくはずの、放課後の勉強の時間なのに。
清澄の横顔ばかり見ているのは、何なんだろう。
僕だって集中したいのに、なぜか清澄の顔ばかり見ている。視線の先とか、睫毛の先とか。目の下のほくろとか、すっと通った鼻筋とか。
「なーんか、熱烈な視線を感じるんだけど」
「……見てないし」
「見てただろ。正直に白状しろ」
「見てないから!」
いや、がっつり見てました、すみません。
「郁にそんなに見つめられたら、さすがの俺でも集中できないんだけど?」
「ご、ごめん……」
「素直でよろしい」
清澄は人差し指でとんと僕の拳の骨を小突いた。手から響く軽快な振動が、またあのうるさい心音に混ざっていく。
「なに、どうした」
小首をかしげて、ざらめみたいな甘ったるい声で問われると、隠し事なんかできないような気持ちになってしまう。だから僕は素直に、そっと目をそらした。正直、目を見て言えるようなことじゃなかった。
「……清澄が最近、なんも、しないから、なんか」
「は?」
「や、真面目に勉強してるだけなのは分かってんだけど、最近、」
ことあるごとに詰め寄られたりあちこち触られたりあげくにキスなんかしちゃった弊害なのかもしれない。近すぎた距離感が生み出した僕の心の空洞。
「清澄が近くないから、なんか……」
「なんでなにもしないのって?」
「……うん」
全部清澄に言わせてしまった。改めて言葉にされるとすごく、照れる。
清澄は目元をかくして「はー」とため息をつき、首をゆるゆると横に振った後、口元で笑った。
「――郁、それとんだ殺し文句」
覆いを取り払った目は熱を帯びている。
「言ってみて、何してほしいか」
「ちが、何してほしいとかじゃなくて!」
「じゃあ、なに? さみしい?」
「寂しいとか、じゃなくて!」
「手でも繋ぐ?」
清澄は手を伸ばしてきた。小指のリングがきらめく。僕は無意識にその手に、手を重ねる。僕の手に、冷たい清澄の指が絡む。
「そっか、郁さびしかったか。俺がなにもしないから」
「なっ、ちが、違うから」
握られた手はやっぱり少し冷たい。僕の平熱が、清澄より高いせいなのかもしれない。
「俺さあ。好きな子にとにかく振り向いてほしかったから、もうなりふり構わなかったわけよ。そいつがさあ、押し倒してもデコチューしてもあっちこっちチューしてもなびかなかったような鈍感なやつで」
「うっ」
心当たりが多すぎる。
「でも今は、気づいてもらえたからセーブしてんの。そいつ勉強好きだし、俺も勉強に真剣なそいつのことかっこいいと思ってるから」
「……清澄」
「でもまあ隙あらば一線越えたいよね」
さらっととんでもないこと言いやがったこいつ。僕はまたうるさく響き始めた心音を振り払うみたいに、僕は首を横に振った。
「一線っておまえ」
「いつかはね。今すぐじゃなくていいからさ。そのうち、郁の全部ちょうだい」
あ。
いま。
いますごく、この手、離したくない。
清澄は僕の手をにぎにぎと握った後に、そっと手を離して、それから僕の顔をまじまじと見た。
「郁?」
「へ?」
「郁がそんな顔してんの初めて見た」
「どんな顔だよ」
「手離さないでほしかった、みたいな。さびしそーな顔」
うそだろ顔に出てた。僕は両手で顔を覆い、首を横にぶんぶん振りたくる。
「なんでなのかなもおぉおお……」
「郁、俺のこと好きすぎない?」
「好きかもってだけで、――す、す、好きとは言ってない!」
「へりくつ捏ねる郁のことも大好き」
だって恋愛は、僕の中のパンドラの箱は、開けちゃいけないから。
僕の内心の葛藤にも気づかない清澄は、また僕の手を握る。そして片手でスマホを操ると、それを耳に当てた。
「あー、すみれ? 今日郁んち泊まるから」
「えっ」
電話相手は清澄のお母さん、すみれさんらしい。
「あ? そんなの深角の奥さんに聞いてみないと分かんない。聞いてみる? あ、でも聞くならお前が聞いて、今忙しいから」
忙しい、という言葉とともに手が握り込まれる。
清澄の家族構成を知らなかったら、彼女にでも電話してるんじゃないかと勘違いしそうだ。
「良いだろ別に、そもそもお前が寂しいからだろ。今から用意すれば間に合うんじゃね? 天ぷら」
「天ぷら?」
「うん。……あ、今の郁。だから、深角家の分も作って持ってくればいいじゃん。そんでお裾分けしながら晩酌すれば? 俺もいるし」
なんだか話が大きくなっている。
「とにかく、深角の奧さんと晩酌したいんだろ? なら聞けば良いじゃん昔みたいにさ。別に、喧嘩別れしたわけじゃあるまいし」
「あの、僕、母さんに聞いてこようか」
「ダメ。……あ、今の郁」
握りあった手を硬くして、清澄は電話の向こうに向かって微笑みかける。
「片思いの女子高生みたいに突っ込んで来なよ。晩酌しない? って。ていうかそれだけが取り柄だろお前。頑張れよ。うじうじするな」
――片思いの女子高生みたいに突っ込め。うじうじするな。
まるで僕に言われてるみたいだな。本人に自覚はないだろうけど。
電話を終えた清澄はスマホを放り出すと、大きなあくびをしてちゃぶ台にうつ伏せた。
「あいつも、本当にめんどくさいやつ」
「自分の母親のことめんどくさい奴って言うなよ。すみれさんいい人じゃん」
「いい人過ぎて我が通せなくって後で息子に八つ当たりすんのはめんどくさい奴だよ、まったく」
清澄は清澄なりの苦労があるらしい。
「すみれ曰く、郁の母さんとずっと友達で居たいんだそうで」
「え、いつ来てもいいよ。大歓迎だよ」
「それ、本人に言ってやってよ」清澄が苦笑する。「父さんを単身赴任に取られてから、すみれのやつ、もー、しょぼくれちゃってさ。そんなこと言われたら毎晩でも来るよ多分」
毎晩は流石にちょっと遠慮したいかもしれない。
「でも、鉢谷家には清澄がいるんじゃないの?」
「いるけど、居るだけだ」
本当にそうなんだろうか? 僕にはとてもそうとは思えないんだけれど。さっきのなれなれし過ぎる電話も、すみれと呼び捨てにするのも、全部仲の良さというか、近しさを表していると思うし。
「そういえばすみれさんがうちに来るのって何年ぶり? 中学ぶり?」
「少なくとも三年ぶりくらいじゃね? あのとき、ナナいたし」
僕の心臓がざわっとした。ざわっと。いや、ぞわっと。
「……ナナちゃんか」
さっきの事を思い出す。甘ったるい声とおねだり。清澄は怠そうに首をぐるりと回した。
「あいつ、俺の折りたたみ傘持って行きやがった」
「あれは清澄が渡したんであって、ナナちゃんが持っていったんじゃないよ」
「相合い傘するなら郁とって決めてんだよ」
話してる間も、ずっとずっと握ったままの手と手。清澄はちらりと僕らの手を見下ろして、大きな声とともに伸びをした。
「邪魔されたくねーんだわ」
「……でも、元カノじゃん」
「過去より今のこと。今より未来のこと。俺のモットー」
清澄はそう言って笑った。「それとも、気にした? ナナと俺の会話」
「なっ……!」
気にしなかったって言ったら絶対嘘だ。ナナちゃんはかわいいし、清澄はかっこいいし、だって、元恋人同士だし。その会話の中に、何か見いだしちゃっても、仕方ないじゃないか。
僕は勢いよく清澄の笑顔から顔を背けた。清澄は声を上げて笑い、僕の手を軽く揺すった。
「郁、嫉妬してくれんの? ねえねえ、嫉妬?」
「……う、うう、うるさい。嫉妬してない」
「耳真っ赤」
ざらりと鼓膜に残る声。進まない勉強と握りあった手。
「ねえ、郁も」
居心地の悪そうなピンクの付箋。
「郁も、俺が誰かと話してたら嫉妬してくれんの?」
「……も?」
「俺はずっと嫉妬し続けてるよ」
清澄はゆっくり僕の指を触る。関節を撫で、骨を触るように揉み、爪をひっかく。
「山田にも、小南にも、谷垣にも」
「清澄、それは」
「――郁の中にずっとずっと居座ってる、樋口アイコにも」
樋口アイコ。
僕の思考がぴたりと止まったそのとき、清澄はぱっと手を離した。
「勉強しようぜ。そんで、今晩はすみれの揚げた天ぷら食ってさ」
「う、うん……」
「そんで、一緒に寝よ」
清澄はそう言って誤魔化したけれど、「彼女」の名前を出したとき、清澄は全く笑っていなかった。僕は誤魔化されたふりで蛍光ピンクの付箋に手を伸ばす。
「そうだね」
「いつも清澄がお世話になってます!」
夕飯の三十分前。天ぷらがたっぷり載せられた大皿を捧げ持ったすみれさんが玄関口に登場したので、僕はあんぐり口をあけた。そのときちょうど部活を終えた頼が帰ってきて、「すみれさんだ! こんにちは!」と靴を脱ぎ始める。狭い玄関はカオスだ。
「すみれ、いつまでそうしてんだよ、後がつかえてるぞ」
「清澄。あんたはいつの間に深角さんちの子になったわけ?」
「そうなの。俺今日から深角清澄」
「みすみきよすみ。……『み』多くない?」
やっぱり彼氏彼女の距離感に思えちゃうな。何だろうこの親子。
と、清澄が名案とばかりに手を打った。
「そっか、逆だ。鉢谷郁」
「なんでだよ!」
「ああ、その手があったわ。郁くんいらっしゃい。今日からわたしがママよ~!」
「は? 郁から離れろババア」
「だれがババアだガキ」
なんだこの親子! いや元からこうだったけども!
すみれさんにハグされた僕は親子の睨み合いの間に挟まれてどぎまぎした。その間に頼は天ぷらをキッチンへ運び、自室に行き、部屋着に着替えて下りてきている。早いな。
「お母さんに聞いたけど、今日はパーティーなの?」
「そう、そうなの!」すみれさんが僕から離れて手を打った。
「久々にあおいちゃんと呑みたくなっちゃって……清澄も泊まるって言うし」
「なら、お母さんもとっときのシャンパン開けなきゃねぇ」
頼がにんまりと笑った。
「シャンパンに合うお菓子、ありもので作れるかな」
「あ、ああ、お気遣いなく! ウィスキーとつまみ買ってきたから!」
盆か正月か、両方いっぺんに来たかといった具合で、深角家の居間はにわかに騒がしくなる。
すみれさんが天ぷらを持ってくると言ったからか、母は寿司を頼んでいた。
「あおいちゃん、思い切ったね」
「どれもこれも旦那が出張だからできることよ」
二人の母親はにんまり笑い交わしている。一方腹ぺこの僕らは、寿司と天ぷらにかぶりつく。
「おいしい!」
頼がほっぺたを押さえて寿司と天ぷらを楽しんでいる間、僕は寿司のたまごだけをつついている。
「郁、他のも食えよ。取ってやろうか」
「あ、大丈夫。寿司のたまごが特別好きなだけだから」
「え、知らんかった」
清澄は僕とたまごの組み合わせを見た後、僕の取り皿にたまごを一貫載せた。そして母親の間で始まりかけている酒盛りを見るや、そちらへ突っ込んでいく。
「あ、深角さんストップ。すみれが飲むなら俺を通してもらおうか」
「え?」と母がいい、
「あ、いいのに」とすみれさんが言うのへ、
「よくねえ」
きっとそう言い返した清澄は、すみれさんのコップへ黄金色の液体を注ぎ入れていく。八分の一ほどだろうか。それを炭酸水で割ると、ようやく清澄はコップを母親へと戻した。
「はい、清澄ブレンド」
「あんがと清澄」
「なにやってんのキヨくん」
我が家ではまずない光景に、頼が目を丸くしている。
「ん、バーテンの真似。放っておくとどんどん酒の割合が濃くなっていくから、俺が調整すんの」
「良いって言ってるのになぁ」
「そう言って勝手に飲んで毎晩トイレに籠もってんだろ。加減を知れ加減を」
「だって濃い方がおいしいんだもの」
といいつつ、乾杯をしたすみれさんは秒でそれを飲み干してしまった。清澄は次を用意しながらため息をつく。
「いかにも強いですって顔してんだろ。こいつ、弱いんだぜ」
「弱くないですぅー」
「嘘つけ。俺より弱いだろ。弱いくせにハイペースで飲むからそんなことになんだよ」
僕はその言葉になんだか引っかかって、清澄にこそっと聞いた。
「……飲んだことあんの?」
「はは、ないしょ」
いやに乾いた声だった。
要するに「ある」んだな。僕は賢いのでそれ以上は追求しない。
「そういえば清澄くん」とほろ酔いの母が清澄に話題を振った。
「ナナちゃんとはうまくいってる?」
「あ、もう何年も前に別れました。三ヶ月保たなかったんですよ」
清澄はすみれさんのためのハイボールを作りながらさらりと言ってのける。手慣れたものだ。
「うそお。あんなに可愛い子だったのに?」
「……あれは我儘な子供です」
清澄は目を細めた。
「ぬいぐるみを独り占めしたい子供だ。恋愛すんのに向いてないです」
「キヨくんが言うと何でも格言に聞こえちゃう」
頼がつぶやいた。
「恋愛って難しい事なんだなって思わされちゃうな」
「頼ちゃん、恋愛はめっちゃ難しいけど、楽しいよ。楽しみな」
「楽しむ、か……」
「って、頼。恋愛するようなことがあったの? わたし聞いてない」
「あ、やば」
懸命に釈明しようとしている頼の横で、頬を赤くしたすみれさんが笑った。
「ふふ、あんた、そうしてると手練れのホストみたいよ」
「誰のせいだと思ってんだ。主にすみれのせいだろが」
「あたしがボトル入れてあげようか。ドンペリー!」
「こいつ酔ってる。だめだ。水飲ませろ。郁、水もってきて」
「わかった」
ぼくがサーバーに水を持ってくると、清澄はそれをからのグラスに注ぎ入れてすみれさんに握らせた。
「はい、ハイボール」
「ドンペリ?」
「ハイボール!」
酔っ払いだ。
「そ、そういえばキヨくんはさ、その元カノさんの後に誰か好きな人いるの?」
母に追求された頼が強引に話を清澄に戻す。清澄は、ゆっくり水を飲んでいる母親から視線を離すと、頼の方を向いて小さく笑った。
「ナナに告られるずっとずっと前から、好きな人がひとり」
「へえー!」
母の興味は清澄の恋愛に戻ってきたらしい。頼はうまいこと母の興味を自分から逸らす事に成功して、そそくさと自室に戻っていく。
逃げやがった。
「え? でも付き合ってないのよね? 清澄くんほどの子が?」
「なかなか言えなくて」
「そこは、勇気を出さなくちゃ」
「結構アピールしたんですけどね。あ、でも最近意識してもらえてるかな」
母はこの手の話が好きだ。大好きだ。あとドロドロの昼ドラとか。韓ドラとか。
清澄はにこやかに話を進めていくのだが、まさか母もこの場に当事者がいるとは思わないだろう。
「母さん、あんまそういうこと根掘り葉掘り聞くなよな」
僕はたまらず口を挟むんだけど、
「郁、よく聞いておきなさい。参考になるから」
ダメだ、聞いてない。僕が助けを求めるように清澄を見ると――
「……俺の好きな人は、目の前の事に一生懸命で、」
清澄のアイスブルーの瞳が、僕をまっすぐに見ていた。
「問題に付き当たったら一緒に考えてくれるし、」
他に誰もいない、僕の部屋にいるみたいに。
「あと、ちょっと抜けてて、かわいいんですよ」
僕は唇をきゅっと引き結んだ。何も言えなかった。
「こんなに好きだって態度でも言葉でも言ってるのに、全然気づかないの」
何も言えないし、めちゃくちゃ、恥ずかしかった。
「いつも目の前の問題の事ばかり気にしてて、俺のほうぜんぜん見てくれないのに、……ちゃんと気遣ってくれるところとか」
顔が熱い。僕はうつむいて、顔を両手で覆った。
「あ、でも。最近俺の好意に気づいてくれたみたいで。意識し始めたら、すぐ赤くなっちゃうし、すごく俺のこと好きっぽいのに、好きって言ってくれないんですよね」
「それは恋人秒読みね。問題は相手の子が自分の気持ちに素直になってくれないこと」
うんうんと母が頷く。なに訳知り顔で頷いてるんだ。清澄が言ってるのは、僕だよ母さん。想像もしないだろうけど。
聞いてる僕は心臓が爆発しそうだよ。
「でもそういうとこも可愛くて仕方ないんですよね。だって、可愛いじゃないですか。好きな子が、俺のことで一生懸命悩んでるの。可愛い」
「清澄!」
僕は膝の上に突っ伏す勢いでうなだれた。心音は聴覚の半分を占めていた。
「もう、いいから……!」
「あら、郁ってば。昔はあんなにモテてたのにすっかり恋愛ベタになっちゃって。まだまだねえ」
「そっかあ、郁には刺激が強かったかな」
「ふざけんなよおま、ほんと、えぐいんだけど」
「ごめんごめん」
すみれさんは机に突っ伏してすやすや眠っていた。やがて会はお開きになり、流れですみれさんもうちに泊まっていくことになった。
「あれ、そんなにえぐかった?」
僕とおなじシャンプーを使ったらしい、清澄から僕の匂いがする。
「えぐいわ」
二組敷いた布団の上で、僕と平行する清澄がことりと首をかしげる。
「本音を余すところなく暴露しただけなんだけどな」
「えぐい」
僕は思い出してまた赤面した。火照る頬を手の甲で冷やしていると、真っ赤になっているだろう耳に、清澄が触れてくる。
「真っ赤……意識してる?」
こいつが不意に見せる真面目な顔とかに、僕は弱い。というか、弱くなった。
「し、てる……」
この飄々としているクラスのキングが、僕を前にして、僕のことだけ考えてて、僕のことだけ好きで居るって言う、この状況が、いかに大変な事なのかを今更思い知ったというか。
恋の重さってこういうことなんだろうか。
「お前と二人っきりのとき、俺いつもこんなんだから。思い知れ」
「……うん、思い知った」
「よろしい」
隣の布団に横たわった清澄は、僕を眺めるように体勢を変えると、おもむろに微笑んだ。
「はは、鉢谷郁か。……ばれてんのかな。まあ、すみれにならバレててもいいか。別に隠してないし」
「ばれ、バレてるとして、鉢谷郁はその、い、いろんなもんすっ飛ばしすぎだろ」
僕はつっかえながら清澄のおでこをつついた。
「まだ僕とおまえ、付き合ってないぞ!」
「郁、付き合ってくれる?」
また、あの顔。切ないような、真面目な顔。
僕は何も言えなくなって、身をよじって、赤子みたいに体を丸めた。
「……お前のことは、好きかも、だけど、分かんない」
「そうか」
「恋愛、やっぱ無理、怖さが先に来て……」
「よしよし」
「赤ん坊扱いするなよ……! ほんとに悩んでるんだから」
「分かってるよ」
清澄が両腕を述べて僕を抱きしめる。
「分かってる。好きな奴のことだから」
髪を梳かれると、やっぱり気持ちよくて、目を閉じてしまう。
雨の音がしている。僕は清澄の心音を聞いている。僕のそれと同じくらいせわしくて、うるさいそれが、僕を少しだけ、ほんの少しだけ安心させてくれる。
ああ、僕とおんなじなんだ――。
おんなじなら、いいや。
僕はそっと目を閉じる。聴覚に秒針の音が加わった。
数学の時間は他の授業よりも少し気だるげで、クラス全体が眠気の層に包まれたみたいになって、うつ伏せている生徒も少なくない。その中で顔を上げてペンを回しながらも教師の解説に耳を傾けている清澄は目立った。よく風紀委員と戦ってる地毛の茶髪と、形のいい耳と、それから――。
「この問題を、深角。――深角?」
女性教諭の凜とした声で僕は我に返る。慌てて立ち上がって、椅子を蹴飛ばして倒し、慌てて起こす。
「は、はい!」
「……どうした?」
「す、すみません! ぼうっとしてました!」
クラスから小さな笑いが起こる。「あの学年一位がぼうっとしてたって」といわんばかりだ。僕は示された問題の答えをすぐさま言うことができたけれど、言えなかったらさらに笑いものになっていただろう。
清澄はチラリと僕を振り返った。視線が遇うと、遇っただけで、僕の頭の中には先日の事がリフレインする。
キスしてしまった。幼なじみと。
このクラスのキングと。
一軍の、鉢谷清澄と。
それを思うだけで、頭が爆発しそうになるから、考えないようにして、パンドラの箱の中に押し込んで、蓋をしたはずなのに、気づいたら授業中も清澄の姿を視線で追いかけている。
ざあざあ降りの雨の下、ビニール傘を盗まれた僕はため息をついた。
このバケツをひっくり返したような雨の下帰るか、雨が収まるまで待つか。そんな風に空の顔色をうかがっているとき。
「キヨ、わたし傘忘れちゃった。いーれて!」
「は? 他の奴に入れてもらえ」
清澄に絡んでいる甘ったるい声の持ち主は、今日も「抜け感」を意識した三つ編みを揺らして小首をかしげた。
「キヨの傘がいいのー! こんな中家に帰ったらわたし、風邪引いちゃうよ」
「ああそう、はい」
清澄は鞄の中から紺色の折りたたみ傘を差し出した。
「やった! ありがと、キヨ、やっさしー!」
「これ貸すからお前はひとりで帰れ」
声の主――ナナちゃんがピシっと固まる音がこちらにまで聞こえてきそうだった。
「え? 送ってくれないの?」
「用事あるから。風邪引かないように帰れよ」
そして清澄はこちらを振り向いて、僕の腕をつかんだ。
「走って五分だ。走るぞ」
「え、ちょ……!」
「ちなみに、俺の最短は三分。信号待ちなし、ノンストップで三分な」
お前といっしょにするなよお! という心の叫びは清澄には届かない。鞄を頭に乗せて、手を繋いで、全速力で走り抜ける僕らは、ナナちゃんの目にはどう映っただろう。きっと快くは映らなかっただろうな。
だけど僕の心臓は、血管は、ずっとばくばくうるさくて、ずっとずっと鳴り続けていて、耳元で破裂せんばかりだった。走ってるせいなのか、繋いでる手のせいなのか、はたまた清澄のせいなのか――判別できないでいるうちに、びしょ濡れの僕らは我が家にたどり着く。
「は、六分もかかった」
息を乱した清澄が子供みたいに笑う。僕は膨れた。
「運動部と一緒にするな!」
「元、な」
そうして、見つめ合ったら、清澄とキスしたときのことを思い出して不意に恥ずかしくなる。清澄はそんな僕の手を握ったまま笑い、「着替えようぜ」と僕を促した。
「着替えたら、そっち行くからさ」
濡れた制服から簡単な部屋着に着替えた清澄が、タオルを肩に掛けたままの格好で僕の家に上がり込むまで十五分。僕はその間に着替えて、部屋の中を整えておく。いつものちゃぶ台。蛍光ピンクの付箋。清澄専用になった座布団。
濡れた髪をタオルで拭いながら、清澄は僕の隣に座る。
「中間近いから、数学も英語も小テスト範囲を中心にやっていこうかな」
「はーい、深角センセー」
いつも通りに進んでいくはずの、放課後の勉強の時間なのに。
清澄の横顔ばかり見ているのは、何なんだろう。
僕だって集中したいのに、なぜか清澄の顔ばかり見ている。視線の先とか、睫毛の先とか。目の下のほくろとか、すっと通った鼻筋とか。
「なーんか、熱烈な視線を感じるんだけど」
「……見てないし」
「見てただろ。正直に白状しろ」
「見てないから!」
いや、がっつり見てました、すみません。
「郁にそんなに見つめられたら、さすがの俺でも集中できないんだけど?」
「ご、ごめん……」
「素直でよろしい」
清澄は人差し指でとんと僕の拳の骨を小突いた。手から響く軽快な振動が、またあのうるさい心音に混ざっていく。
「なに、どうした」
小首をかしげて、ざらめみたいな甘ったるい声で問われると、隠し事なんかできないような気持ちになってしまう。だから僕は素直に、そっと目をそらした。正直、目を見て言えるようなことじゃなかった。
「……清澄が最近、なんも、しないから、なんか」
「は?」
「や、真面目に勉強してるだけなのは分かってんだけど、最近、」
ことあるごとに詰め寄られたりあちこち触られたりあげくにキスなんかしちゃった弊害なのかもしれない。近すぎた距離感が生み出した僕の心の空洞。
「清澄が近くないから、なんか……」
「なんでなにもしないのって?」
「……うん」
全部清澄に言わせてしまった。改めて言葉にされるとすごく、照れる。
清澄は目元をかくして「はー」とため息をつき、首をゆるゆると横に振った後、口元で笑った。
「――郁、それとんだ殺し文句」
覆いを取り払った目は熱を帯びている。
「言ってみて、何してほしいか」
「ちが、何してほしいとかじゃなくて!」
「じゃあ、なに? さみしい?」
「寂しいとか、じゃなくて!」
「手でも繋ぐ?」
清澄は手を伸ばしてきた。小指のリングがきらめく。僕は無意識にその手に、手を重ねる。僕の手に、冷たい清澄の指が絡む。
「そっか、郁さびしかったか。俺がなにもしないから」
「なっ、ちが、違うから」
握られた手はやっぱり少し冷たい。僕の平熱が、清澄より高いせいなのかもしれない。
「俺さあ。好きな子にとにかく振り向いてほしかったから、もうなりふり構わなかったわけよ。そいつがさあ、押し倒してもデコチューしてもあっちこっちチューしてもなびかなかったような鈍感なやつで」
「うっ」
心当たりが多すぎる。
「でも今は、気づいてもらえたからセーブしてんの。そいつ勉強好きだし、俺も勉強に真剣なそいつのことかっこいいと思ってるから」
「……清澄」
「でもまあ隙あらば一線越えたいよね」
さらっととんでもないこと言いやがったこいつ。僕はまたうるさく響き始めた心音を振り払うみたいに、僕は首を横に振った。
「一線っておまえ」
「いつかはね。今すぐじゃなくていいからさ。そのうち、郁の全部ちょうだい」
あ。
いま。
いますごく、この手、離したくない。
清澄は僕の手をにぎにぎと握った後に、そっと手を離して、それから僕の顔をまじまじと見た。
「郁?」
「へ?」
「郁がそんな顔してんの初めて見た」
「どんな顔だよ」
「手離さないでほしかった、みたいな。さびしそーな顔」
うそだろ顔に出てた。僕は両手で顔を覆い、首を横にぶんぶん振りたくる。
「なんでなのかなもおぉおお……」
「郁、俺のこと好きすぎない?」
「好きかもってだけで、――す、す、好きとは言ってない!」
「へりくつ捏ねる郁のことも大好き」
だって恋愛は、僕の中のパンドラの箱は、開けちゃいけないから。
僕の内心の葛藤にも気づかない清澄は、また僕の手を握る。そして片手でスマホを操ると、それを耳に当てた。
「あー、すみれ? 今日郁んち泊まるから」
「えっ」
電話相手は清澄のお母さん、すみれさんらしい。
「あ? そんなの深角の奥さんに聞いてみないと分かんない。聞いてみる? あ、でも聞くならお前が聞いて、今忙しいから」
忙しい、という言葉とともに手が握り込まれる。
清澄の家族構成を知らなかったら、彼女にでも電話してるんじゃないかと勘違いしそうだ。
「良いだろ別に、そもそもお前が寂しいからだろ。今から用意すれば間に合うんじゃね? 天ぷら」
「天ぷら?」
「うん。……あ、今の郁。だから、深角家の分も作って持ってくればいいじゃん。そんでお裾分けしながら晩酌すれば? 俺もいるし」
なんだか話が大きくなっている。
「とにかく、深角の奧さんと晩酌したいんだろ? なら聞けば良いじゃん昔みたいにさ。別に、喧嘩別れしたわけじゃあるまいし」
「あの、僕、母さんに聞いてこようか」
「ダメ。……あ、今の郁」
握りあった手を硬くして、清澄は電話の向こうに向かって微笑みかける。
「片思いの女子高生みたいに突っ込んで来なよ。晩酌しない? って。ていうかそれだけが取り柄だろお前。頑張れよ。うじうじするな」
――片思いの女子高生みたいに突っ込め。うじうじするな。
まるで僕に言われてるみたいだな。本人に自覚はないだろうけど。
電話を終えた清澄はスマホを放り出すと、大きなあくびをしてちゃぶ台にうつ伏せた。
「あいつも、本当にめんどくさいやつ」
「自分の母親のことめんどくさい奴って言うなよ。すみれさんいい人じゃん」
「いい人過ぎて我が通せなくって後で息子に八つ当たりすんのはめんどくさい奴だよ、まったく」
清澄は清澄なりの苦労があるらしい。
「すみれ曰く、郁の母さんとずっと友達で居たいんだそうで」
「え、いつ来てもいいよ。大歓迎だよ」
「それ、本人に言ってやってよ」清澄が苦笑する。「父さんを単身赴任に取られてから、すみれのやつ、もー、しょぼくれちゃってさ。そんなこと言われたら毎晩でも来るよ多分」
毎晩は流石にちょっと遠慮したいかもしれない。
「でも、鉢谷家には清澄がいるんじゃないの?」
「いるけど、居るだけだ」
本当にそうなんだろうか? 僕にはとてもそうとは思えないんだけれど。さっきのなれなれし過ぎる電話も、すみれと呼び捨てにするのも、全部仲の良さというか、近しさを表していると思うし。
「そういえばすみれさんがうちに来るのって何年ぶり? 中学ぶり?」
「少なくとも三年ぶりくらいじゃね? あのとき、ナナいたし」
僕の心臓がざわっとした。ざわっと。いや、ぞわっと。
「……ナナちゃんか」
さっきの事を思い出す。甘ったるい声とおねだり。清澄は怠そうに首をぐるりと回した。
「あいつ、俺の折りたたみ傘持って行きやがった」
「あれは清澄が渡したんであって、ナナちゃんが持っていったんじゃないよ」
「相合い傘するなら郁とって決めてんだよ」
話してる間も、ずっとずっと握ったままの手と手。清澄はちらりと僕らの手を見下ろして、大きな声とともに伸びをした。
「邪魔されたくねーんだわ」
「……でも、元カノじゃん」
「過去より今のこと。今より未来のこと。俺のモットー」
清澄はそう言って笑った。「それとも、気にした? ナナと俺の会話」
「なっ……!」
気にしなかったって言ったら絶対嘘だ。ナナちゃんはかわいいし、清澄はかっこいいし、だって、元恋人同士だし。その会話の中に、何か見いだしちゃっても、仕方ないじゃないか。
僕は勢いよく清澄の笑顔から顔を背けた。清澄は声を上げて笑い、僕の手を軽く揺すった。
「郁、嫉妬してくれんの? ねえねえ、嫉妬?」
「……う、うう、うるさい。嫉妬してない」
「耳真っ赤」
ざらりと鼓膜に残る声。進まない勉強と握りあった手。
「ねえ、郁も」
居心地の悪そうなピンクの付箋。
「郁も、俺が誰かと話してたら嫉妬してくれんの?」
「……も?」
「俺はずっと嫉妬し続けてるよ」
清澄はゆっくり僕の指を触る。関節を撫で、骨を触るように揉み、爪をひっかく。
「山田にも、小南にも、谷垣にも」
「清澄、それは」
「――郁の中にずっとずっと居座ってる、樋口アイコにも」
樋口アイコ。
僕の思考がぴたりと止まったそのとき、清澄はぱっと手を離した。
「勉強しようぜ。そんで、今晩はすみれの揚げた天ぷら食ってさ」
「う、うん……」
「そんで、一緒に寝よ」
清澄はそう言って誤魔化したけれど、「彼女」の名前を出したとき、清澄は全く笑っていなかった。僕は誤魔化されたふりで蛍光ピンクの付箋に手を伸ばす。
「そうだね」
「いつも清澄がお世話になってます!」
夕飯の三十分前。天ぷらがたっぷり載せられた大皿を捧げ持ったすみれさんが玄関口に登場したので、僕はあんぐり口をあけた。そのときちょうど部活を終えた頼が帰ってきて、「すみれさんだ! こんにちは!」と靴を脱ぎ始める。狭い玄関はカオスだ。
「すみれ、いつまでそうしてんだよ、後がつかえてるぞ」
「清澄。あんたはいつの間に深角さんちの子になったわけ?」
「そうなの。俺今日から深角清澄」
「みすみきよすみ。……『み』多くない?」
やっぱり彼氏彼女の距離感に思えちゃうな。何だろうこの親子。
と、清澄が名案とばかりに手を打った。
「そっか、逆だ。鉢谷郁」
「なんでだよ!」
「ああ、その手があったわ。郁くんいらっしゃい。今日からわたしがママよ~!」
「は? 郁から離れろババア」
「だれがババアだガキ」
なんだこの親子! いや元からこうだったけども!
すみれさんにハグされた僕は親子の睨み合いの間に挟まれてどぎまぎした。その間に頼は天ぷらをキッチンへ運び、自室に行き、部屋着に着替えて下りてきている。早いな。
「お母さんに聞いたけど、今日はパーティーなの?」
「そう、そうなの!」すみれさんが僕から離れて手を打った。
「久々にあおいちゃんと呑みたくなっちゃって……清澄も泊まるって言うし」
「なら、お母さんもとっときのシャンパン開けなきゃねぇ」
頼がにんまりと笑った。
「シャンパンに合うお菓子、ありもので作れるかな」
「あ、ああ、お気遣いなく! ウィスキーとつまみ買ってきたから!」
盆か正月か、両方いっぺんに来たかといった具合で、深角家の居間はにわかに騒がしくなる。
すみれさんが天ぷらを持ってくると言ったからか、母は寿司を頼んでいた。
「あおいちゃん、思い切ったね」
「どれもこれも旦那が出張だからできることよ」
二人の母親はにんまり笑い交わしている。一方腹ぺこの僕らは、寿司と天ぷらにかぶりつく。
「おいしい!」
頼がほっぺたを押さえて寿司と天ぷらを楽しんでいる間、僕は寿司のたまごだけをつついている。
「郁、他のも食えよ。取ってやろうか」
「あ、大丈夫。寿司のたまごが特別好きなだけだから」
「え、知らんかった」
清澄は僕とたまごの組み合わせを見た後、僕の取り皿にたまごを一貫載せた。そして母親の間で始まりかけている酒盛りを見るや、そちらへ突っ込んでいく。
「あ、深角さんストップ。すみれが飲むなら俺を通してもらおうか」
「え?」と母がいい、
「あ、いいのに」とすみれさんが言うのへ、
「よくねえ」
きっとそう言い返した清澄は、すみれさんのコップへ黄金色の液体を注ぎ入れていく。八分の一ほどだろうか。それを炭酸水で割ると、ようやく清澄はコップを母親へと戻した。
「はい、清澄ブレンド」
「あんがと清澄」
「なにやってんのキヨくん」
我が家ではまずない光景に、頼が目を丸くしている。
「ん、バーテンの真似。放っておくとどんどん酒の割合が濃くなっていくから、俺が調整すんの」
「良いって言ってるのになぁ」
「そう言って勝手に飲んで毎晩トイレに籠もってんだろ。加減を知れ加減を」
「だって濃い方がおいしいんだもの」
といいつつ、乾杯をしたすみれさんは秒でそれを飲み干してしまった。清澄は次を用意しながらため息をつく。
「いかにも強いですって顔してんだろ。こいつ、弱いんだぜ」
「弱くないですぅー」
「嘘つけ。俺より弱いだろ。弱いくせにハイペースで飲むからそんなことになんだよ」
僕はその言葉になんだか引っかかって、清澄にこそっと聞いた。
「……飲んだことあんの?」
「はは、ないしょ」
いやに乾いた声だった。
要するに「ある」んだな。僕は賢いのでそれ以上は追求しない。
「そういえば清澄くん」とほろ酔いの母が清澄に話題を振った。
「ナナちゃんとはうまくいってる?」
「あ、もう何年も前に別れました。三ヶ月保たなかったんですよ」
清澄はすみれさんのためのハイボールを作りながらさらりと言ってのける。手慣れたものだ。
「うそお。あんなに可愛い子だったのに?」
「……あれは我儘な子供です」
清澄は目を細めた。
「ぬいぐるみを独り占めしたい子供だ。恋愛すんのに向いてないです」
「キヨくんが言うと何でも格言に聞こえちゃう」
頼がつぶやいた。
「恋愛って難しい事なんだなって思わされちゃうな」
「頼ちゃん、恋愛はめっちゃ難しいけど、楽しいよ。楽しみな」
「楽しむ、か……」
「って、頼。恋愛するようなことがあったの? わたし聞いてない」
「あ、やば」
懸命に釈明しようとしている頼の横で、頬を赤くしたすみれさんが笑った。
「ふふ、あんた、そうしてると手練れのホストみたいよ」
「誰のせいだと思ってんだ。主にすみれのせいだろが」
「あたしがボトル入れてあげようか。ドンペリー!」
「こいつ酔ってる。だめだ。水飲ませろ。郁、水もってきて」
「わかった」
ぼくがサーバーに水を持ってくると、清澄はそれをからのグラスに注ぎ入れてすみれさんに握らせた。
「はい、ハイボール」
「ドンペリ?」
「ハイボール!」
酔っ払いだ。
「そ、そういえばキヨくんはさ、その元カノさんの後に誰か好きな人いるの?」
母に追求された頼が強引に話を清澄に戻す。清澄は、ゆっくり水を飲んでいる母親から視線を離すと、頼の方を向いて小さく笑った。
「ナナに告られるずっとずっと前から、好きな人がひとり」
「へえー!」
母の興味は清澄の恋愛に戻ってきたらしい。頼はうまいこと母の興味を自分から逸らす事に成功して、そそくさと自室に戻っていく。
逃げやがった。
「え? でも付き合ってないのよね? 清澄くんほどの子が?」
「なかなか言えなくて」
「そこは、勇気を出さなくちゃ」
「結構アピールしたんですけどね。あ、でも最近意識してもらえてるかな」
母はこの手の話が好きだ。大好きだ。あとドロドロの昼ドラとか。韓ドラとか。
清澄はにこやかに話を進めていくのだが、まさか母もこの場に当事者がいるとは思わないだろう。
「母さん、あんまそういうこと根掘り葉掘り聞くなよな」
僕はたまらず口を挟むんだけど、
「郁、よく聞いておきなさい。参考になるから」
ダメだ、聞いてない。僕が助けを求めるように清澄を見ると――
「……俺の好きな人は、目の前の事に一生懸命で、」
清澄のアイスブルーの瞳が、僕をまっすぐに見ていた。
「問題に付き当たったら一緒に考えてくれるし、」
他に誰もいない、僕の部屋にいるみたいに。
「あと、ちょっと抜けてて、かわいいんですよ」
僕は唇をきゅっと引き結んだ。何も言えなかった。
「こんなに好きだって態度でも言葉でも言ってるのに、全然気づかないの」
何も言えないし、めちゃくちゃ、恥ずかしかった。
「いつも目の前の問題の事ばかり気にしてて、俺のほうぜんぜん見てくれないのに、……ちゃんと気遣ってくれるところとか」
顔が熱い。僕はうつむいて、顔を両手で覆った。
「あ、でも。最近俺の好意に気づいてくれたみたいで。意識し始めたら、すぐ赤くなっちゃうし、すごく俺のこと好きっぽいのに、好きって言ってくれないんですよね」
「それは恋人秒読みね。問題は相手の子が自分の気持ちに素直になってくれないこと」
うんうんと母が頷く。なに訳知り顔で頷いてるんだ。清澄が言ってるのは、僕だよ母さん。想像もしないだろうけど。
聞いてる僕は心臓が爆発しそうだよ。
「でもそういうとこも可愛くて仕方ないんですよね。だって、可愛いじゃないですか。好きな子が、俺のことで一生懸命悩んでるの。可愛い」
「清澄!」
僕は膝の上に突っ伏す勢いでうなだれた。心音は聴覚の半分を占めていた。
「もう、いいから……!」
「あら、郁ってば。昔はあんなにモテてたのにすっかり恋愛ベタになっちゃって。まだまだねえ」
「そっかあ、郁には刺激が強かったかな」
「ふざけんなよおま、ほんと、えぐいんだけど」
「ごめんごめん」
すみれさんは机に突っ伏してすやすや眠っていた。やがて会はお開きになり、流れですみれさんもうちに泊まっていくことになった。
「あれ、そんなにえぐかった?」
僕とおなじシャンプーを使ったらしい、清澄から僕の匂いがする。
「えぐいわ」
二組敷いた布団の上で、僕と平行する清澄がことりと首をかしげる。
「本音を余すところなく暴露しただけなんだけどな」
「えぐい」
僕は思い出してまた赤面した。火照る頬を手の甲で冷やしていると、真っ赤になっているだろう耳に、清澄が触れてくる。
「真っ赤……意識してる?」
こいつが不意に見せる真面目な顔とかに、僕は弱い。というか、弱くなった。
「し、てる……」
この飄々としているクラスのキングが、僕を前にして、僕のことだけ考えてて、僕のことだけ好きで居るって言う、この状況が、いかに大変な事なのかを今更思い知ったというか。
恋の重さってこういうことなんだろうか。
「お前と二人っきりのとき、俺いつもこんなんだから。思い知れ」
「……うん、思い知った」
「よろしい」
隣の布団に横たわった清澄は、僕を眺めるように体勢を変えると、おもむろに微笑んだ。
「はは、鉢谷郁か。……ばれてんのかな。まあ、すみれにならバレててもいいか。別に隠してないし」
「ばれ、バレてるとして、鉢谷郁はその、い、いろんなもんすっ飛ばしすぎだろ」
僕はつっかえながら清澄のおでこをつついた。
「まだ僕とおまえ、付き合ってないぞ!」
「郁、付き合ってくれる?」
また、あの顔。切ないような、真面目な顔。
僕は何も言えなくなって、身をよじって、赤子みたいに体を丸めた。
「……お前のことは、好きかも、だけど、分かんない」
「そうか」
「恋愛、やっぱ無理、怖さが先に来て……」
「よしよし」
「赤ん坊扱いするなよ……! ほんとに悩んでるんだから」
「分かってるよ」
清澄が両腕を述べて僕を抱きしめる。
「分かってる。好きな奴のことだから」
髪を梳かれると、やっぱり気持ちよくて、目を閉じてしまう。
雨の音がしている。僕は清澄の心音を聞いている。僕のそれと同じくらいせわしくて、うるさいそれが、僕を少しだけ、ほんの少しだけ安心させてくれる。
ああ、僕とおんなじなんだ――。
おんなじなら、いいや。
僕はそっと目を閉じる。聴覚に秒針の音が加わった。



