あれから数週間経ったけれど、一年の時は考えられなかったことが起こっている。
「深角センセー! ヤマダ! おはよー!」
小南さんはあれから毎日通ってくるし、
「小南、声がでかい」
「あっはは、デルモおはよー!」
そこに谷垣くんが絡む事も増えた。一軍とその他が交じって会話するなんて、ふたり一組になりなさいとか、四人でグループを作りなさいとかいう、強制的なイベントがなければ起こらないようなことなんだけど、最近それが教室で頻繁に起こる。山田が「カーストが見えなくなった」と言ったのもそれが原因だろう。
「なんか高気圧と低気圧とその間って感じ。境界線が消えたって言ったらわかる?」
「感覚的すぎる」
王様だけが変わらず自分の机の上に座し、つまらなそうにピンク色の付箋を指で弾いている。そこだけ凪いだ海のように静かだ。
あれから清澄と勉強をしていない。一緒に家にも帰っていないし、メッセージも来ない。それが少しだけ、ほんの少しだけ、つまらない。
「昨日の課題で発展問題だけわからなかったんだけどー」
小南さんが一問だけ解けていない課題のプリントを出してきた。僕はすかさず教科書の該当箇所を開いてみせる。そこには蛍光ピンクの付箋が貼ってあった。
清澄と勉強した場所。
「ここはこの公式を変形させてから――」
清澄と同じ躓き。
「うーん。うーん? 見ても分からない」
「一回やってみようか?」
僕は小南さんの後ろに回り込んで、新しいルーズリーフを取り出し、彼女に見えるように公式を書き出した。
「で、これを――こう変形して」
「え、何が起こってるか分からない」
「だから、ええと……」
シャーペンをもったまま、頭を掻くと、後ろから声が飛んできた。
「お前ら、近いぞ」
振り返ると、腕を組んだ清澄がこちらをじっと見ている。アイスブルーの瞳がちくちくと刺すように僕と小南さんを見据えていた。
「キング! そんなに怒んないでよ! ごめんってば!」
「怒ってない、近いって言っただけだ」
小南さんがなぜか謝り、清澄はわざとらしく腕を組んだ。
「あんまり近いと郁は問題が解けなくなるらしいからな」
「……いく?」
きょとんとする小南さんに山田がささやく。「深角の下の名前!」
「へー、深角センセー、いくって名前だったんだ」
「なっ、」
僕は数週間前のことをようやく思い出した。近すぎて問題が解けないと、清澄を押しのけたことも思い出した――顔に血が集まってきて暑い。
「清澄、あれは、お前が――!」
「あ、名前呼び」
谷垣くんが僕を指さした。
「すげえ、キングの下の名前なんか俺以外誰も呼ばないのに」
「あっ」
僕ははっとして清澄を見たけれど、清澄は相変わらずで、というか若干にやついていて、どうだ、みたか、といった風にドヤっている。
清澄が自ら暗黙の了解を破るなんて。僕はぽかんと口を開けて清澄の顔を見つめた。
こいつ、僕が他の人に発見されるのが嫌だとか言ってなかったか?
「そんなに見るなよ、郁」
「……なんで?」
なんでこんなことを?
「さあなぜでしょうか」
だけど清澄はにこやかに濁すだけで答えをくれはしない。
「やりとりにめちゃくちゃ含みあるな、幼なじみなんだっけ?」
谷垣くんが山田に尋ねた。山田はこくこくと頷き、「家も隣だそうですよ」という。そこへ小南さんが、
「まじで? キングハイパー頑張って! 応援してるから!」
なぞのエールを送っている。
カオスだ。
「小南は、黙れ」
「なんであたしだけ名指しなの⁉」
「うるさいから」
残りの一軍と二軍とがざわついている。カーストにも入らなかったガリ勉がキングの幼なじみで家も隣だという事実がはっきりしたからか、単純に僕がはっきり「清澄」と言ったからかは分からない。
「ていうわけで、深角郁を雑に扱うの、禁止な。キング命令ってことで」
「誰も雑に扱ってないじゃん!」
小南さんがブーと声をあげる。また清澄は「小南うるさい」といい、制服のポケットに手を突っ込んだ。
「要するに――俺のいないところで塾とかやんないで。俺も混ぜて」
僕はようやく合点する。なるほど。
「そうか、お前も勉強したかったのか、清澄」
「うーん、三分の一くらい正解。清澄ポイント三ポイント進呈」
「え、三分の一くらいってなに? 部分点ってこと?」
「そんな感じ」
小南さんがそわそわと清澄に訊いた。
「ねえねえ、清澄ポイントってなに? ためるといいことある?」
「郁限定でな。お前には権利がない」
謎の「清澄ポイント」って僕限定だったのか。ブーイングを繰り返している小南さんと「うるさい」を連発している清澄を見比べて、僕はため息をつく。これから山田の「カースト予報」は大荒れだろうなと思って。
今まで接点もなかったクラスメイトに親切にされるのはあんまり居心地がよくない。どれもこれも清澄の御威光だとは分かっているんだけど、どうしようもなくそわそわする。
落とした消しゴムを拾ってもらうばかりか、教室のドアを開けてもらい、掃除当番を代わってもらい、日直の仕事を引き受けてもらい、……至れり尽くせりなのはいいんだけどここまで来ると罪悪感がすごい。
「僕がすること、いよいよ無くなったんだけど」
「じゃあ、勉強すればいいんじゃない」
幼なじみの王様は「パンが無ければお菓子を食べれば良いじゃない」みたいなことを言う。フランス王妃か。
僕は、教室の秩序を保つためのこれらの仕事がちょっとだけ好きだったので、唇を尖らせて不満を示した。
「僕は勉強以外のこともしたいんだけど」
「なら、深角郁のすることには手を出すなって命令しようか?」
「いや、そこまでせんでも」
命令とまではいかないけど、いつも通りでいいのに。
「いいよ、俺は。そのためのキングの椅子だし?」
清澄は僕を手招いた。そして僕の頭の上に手を伸ばし、何かをつまみ取った。
「埃ついてる」
僕の背中に無数の視線が突き刺さっているのを感じる。清澄ほど鋭くないのに、不躾で、遠慮を知らない誰かの視線。不快感をもたらす、無数の、好奇の視線。
「……清澄、近いよ」
「これでも近い?」
「なんていうかさ……カーストを無視して僕らが仲良くしてるのは、……よくないよ」
「なにが?」
清澄はゆっくり手を伸ばして、僕を引き寄せた。
机の上に腰掛けた清澄に肩を抱かれて、囁かれてる。
「見せつけてんだよ、わかれ」
近い。不意に清澄の告白がよみがえってきて、僕は片手で顔を覆った。こいつは僕のことが好きなんだ。
いよいよオープンになってきた清澄に一抹の不安を感じていると、
「お熱いことで」
谷垣くんが長い足で歩いてきた。清澄が不服そうな声を上げる。
「邪魔すんな谷垣。俺は今郁充してんだよ」
「お取り込み中申し訳ないんだけど、客だぜキング」
谷垣くんは優美な所作で、教室の入り口の方を指し示した。そこに、小柄で可憐な少女が立っていた。
制服自体は普通の女子のブレザーなのに、彼女が着ていると何かの衣装のように思えた。オシャレだ。彼女はゆるくウェーブした髪を二つに結い、三つ編みにまとめている。頼がここにいたら「すごいセットに時間かかるやつだ!」とか言いそうな髪型。「抜け感」ってやつだ。
清澄が盛大な舌打ちをして、僕の隣からすっと抜けた。
「なんだよ、ナナ。お前何しにきた」
「長袖ジャージの上、忘れたから借りにきたの。貸して、キヨ」
「は? 同学年の女子から借りろよ」
「貸してくれる人がいないの。キヨなら貸してくれるでしょ?」
長い睫毛が招くように瞬くと、星でも散りそうだ。雪のように白い肌、赤い唇、まるでおとぎ話に語られる白雪姫みたいな顔をした彼女は――。
山田がすっ飛んできて、あれだれ? とばかりに口をパクパクとさせている。僕はつぶやいた。
「ナナちゃんだ……久々に見た」
彼女は清澄の中学時代の元カノだ。綾瀬ナナ。モデル事務所に所属するモデルでもある。僕らの学年の一つ下で、中一の時に清澄に猛烈アタックして彼女の座を射止めたとかそうでないとか、いろんな噂のある子ではある。
「二年の教室に借りに来なきゃならないほど友達居ないのかお前は」
「そうだよ! 言わせんな馬鹿」
威勢の良いナナちゃんの言葉に清澄はため息をひとつつき、きびすを返してロッカーからジャージを取り出した。
「仕方ねえな」
「やった、キヨだいすき!」
顔に喜色をたたえたナナちゃんは、大きなジャージを抱きしめてにっこり笑う。僕は、感じたことの無い心臓の挙動を感じていた。
ドッ、ではなく。
ぞわっ。
「うるせえ」
清澄がナナちゃんの言葉を一蹴して、虫でも追い払うみたいにしっしと手を振った。
「俺は取り込み中なんだよ。用済んだら帰れ」
「えへへ。キヨの匂いだ。ありがとキヨ!」
「だからうるせえって」
「やばいの出てきたんじゃない? 深角センセー」
気づいたら山田の隣に小南さんが居て、僕にひそひそと囁いた。
「あの子、たぶんキングのこと狙ってるよ。女の勘」
「いやどう見てもキング狙いだわ。なんで男物のジャージ借りに来るんだよ。サイズ合わないでしょうよ」
山田が小南さんに囁き返す。二人はうんうんうなずき合った。いつの間にそんなに仲良くなったんだ。
「まあ、綾瀬は何着てても許されるところあるしなぁ」
何か事情を知っていそうな谷垣くんが、両手を広げて降参のポーズを取った。
「それに綾瀬、前の彼氏と別れたばっかりだから、清澄狙いは間違いじゃないかも。キング、優良物件だからな」
……優良物件?
「綾瀬は歴代の彼氏自慢が好きなんだよ。特に清澄はお気に入りでさ。優しくてほどよく束縛してきてすごくよかったって――撮影現場でよく言ってるって噂」
さすが読者モデルくん。モデルの間のことならなんでも知っている。……じゃなくて。
ぞわっ。ぞわぞわ。ざわめいているのは僕の背中の毛だってことに、僕はようやく気づく。
ぞわぞわする。気持ち悪い。すごく――。
「……そんなことを、ナナちゃんが」
僕の中からそんな感想が出てくることに、僕は驚いている。
そこへ清澄が戻ってきた。
「誰が誰のこと狙ってるって?」
「え? 綾瀬ナナが鉢谷清澄を狙ってるんじゃないかって巷では噂ですよ」
谷垣くんがこたえると、清澄はまた舌打ちをした。
「余計な噂立てんな。俺に俺の恋愛をさせろ」
「俺の恋愛とは?」
小南さんがにやにやしながら訊く。清澄はそのショートボブの頭を鷲掴んだ。小南さんが小さな悲鳴をあげる。
「あいたたたたた」
「わかりきってることを訊く口はどれかなー?」
「最近キング横暴じゃない⁉ ねえどうして⁉ 暴力反対なんだけど!」
コントみたいな二人のやりとりを遠目に、僕は先ほどのナナちゃんのことを考えていた。
気づいたら幼なじみの清澄に彼女ができていた。それがナナちゃんだ。二人はお似合いで、どこを歩いていても絵になって、僕はそれを見て、清澄が遠くに行っちゃったなって思ってた。……思ってた矢先に。
僕の前に彼女が現れた。
『郁くんのこと、ずっと好きだったんだ。だから、付き合ってほしい』
あの女――樋口アイコが。
「……恋愛、やっぱ苦手だよ」
僕はそっとつぶやくと、きびすを返して自分の席に腰掛けた。安定剤が必要だ。僕は数学の参考書の中に没頭する。揺らぐことも消えることもない美しい数式の中に身を浸す。
ピンク色の付箋のことは、無視する。
季節がゴールデンウィークにさしかかっても、僕らのやることは特に変わらない。
「きよすみ」から届く「そっちいってもいい?」に画像で答えると、僕はいつもの通りちゃぶ台をセッティングし、ピンク色の付箋を用意する。
「おにいさあ」
「うわっびっくりした」
上から降ってきた頼の声にのけぞると、指先までオシャレした頼がびしっと僕を指さしていた。
「キヨくんと最近どうなんですか」
「清澄と?」
「そうです。どうなんですか」
そういう頼は、この前テーマパークに一緒に遊びに行った「男友達」と恋人同士のお付き合いをしているという。僕にだけ教えてくれた。まだ父にも母にも言えないけど、いずれ言うつもりだという。
「どうもこうも、なにも……」
「嘘つけーい! なんかあるでしょ」
「何もないって!」
「……おにいが気づいてないパターンだわこれ」
頼は鼻息荒く言い放つと、目一杯おしゃれした格好で腰に手を当てた。
「キヨくんがフビン。おにいだってわかってんでしょ」
「……」
「ほらそこで黙る。気づいてるんだったらいい加減、向き合ってあげるのが――」
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
母が応対する。やはりというか、清澄だった。
「お邪魔します。郁、いるか?」
二階まで直接上がってきた清澄と目が遭う。とたんに頼が声色を変えた。
「あ、キヨくん。この前はありがと!」
「頼ちゃんも相談乗ってくれてありがとね。俺、女々しかったっしょ」
「そんなことないよー。こちらこそうちのボクネンジンがごめんね」
いつの間にか二人はメッセージをやりとりしていたらしい。
誰が朴念仁だよ。
「今日もお出かけ?」
「うん。これから。アドバイスされたこと実践してみるね。行ってきまーす!」
「行ってらっしゃい」
ひらひら手を振る清澄を見ていると、僕と清澄のどちらが頼の兄なのか分からなくなってくる。
「いったい頼に何吹き込んだんだよ」
「カレシくんをメロメロにするマル秘テク」
「人の妹になんちゅーもん教えてんだこいつ」
僕は呆れながらちゃぶ台の前に座る。
「俺がキュンとする仕草を教えてあげただけだけど」
清澄も座布団の位置に座る。前より少し遠くなった距離感で、清澄が笑う。
「カレシの寝癖直してあげるとか。埃ついてるよって嘘ついて、髪の毛に触ってみるとか」
「……それお前じゃね? 頭触られるの好きなの?」
清澄はまさか、と首を横に振った。そして長い腕を伸ばして、僕の野放図に伸びっぱなしの髪の毛に触れた。
「俺はこうやって触る方が好き」
冷たい指がこうやって髪を梳くのは何度目だろう。あらがいがたい気持ちよさに目を細めてしまえば、もう清澄の手のひらの上だ。
「こうやって耳に触ったりして。ちょっとエッチかな」
「なに、頼に教えてんだよ……ばか」
「俺の好きな触り方」
耳を食む銀色のリングが冷たい。身をよじると、首筋を伝った指が僕の鎖骨に触れた。あっという間に、清澄は距離を詰めている。
「で、……ゆっくり主導権を握ったところで、こうやって攻め落とす」
視界がゆっくりひっくり返った。目の前に清澄の綺麗な顔があって、僕は清澄の真下で、どろどろにとけた蝋みたいに横たわっていた。
せんべいのような座布団を下にして、清澄は囁く。
「郁、キスしてもいい?」
「なんで……」
「かわいいから」
僕は考えることもままならず、清澄の瞳の、薄い青を見つめた。祖父から受け継いだという異国の血が、清澄を幻想的に見せている。
「す、すんなって言っても、するのがお前じゃん……」
「そ? じゃ、遠慮なく」
僕はぎゅっと目を閉じて唇に触れるだろう衝撃に備えた。
だけど清澄の唇が触れたのは、僕の額だった。
前髪を掻き上げられて、あらわになったおでこにキスがおちる。心臓がドッと脈打ち、耳元に心音がこだまする。
あれ、どうして僕、キスって聞いて、唇だと思ったんだろう。
「郁、かわいい」
細められた瞳のままで、清澄がおでことおでこを合わせる。重なり合った身体から、早鐘のような清澄の心臓の鼓動が伝わってきて、共鳴するみたいに僕の心臓も鳴る。
「ど、して」
どうして。
「なんで、僕なの」
僕は早くこの気持ちから逃げてしまいたくて、必死で。
「クラスにも、学校にも、かわいい子、いっぱいいるじゃん。なんで、僕なの」
清澄の腕から早く逃げたくて。なのに、体は言うことを全く聞かなくて。
「ん。郁のこと、好きになったから」
「だからなんで」
「理由、必要?」
清澄は僕の髪の毛に鼻を埋めた。
「人を好きになるのに、理由なんか必要ある?」
ごまかしがきかないほどの心音の中で、清澄の声が響く。
「……分かんない、僕。分かんないよ……」
「郁。どんだけ逃げても、いいけど」
見透かしたような声のあと、ふに、と耳に何か触れる。それが唇だってことに気づかない僕じゃない。
「逃がさないからね、俺」
「深角センセー! ヤマダ! おはよー!」
小南さんはあれから毎日通ってくるし、
「小南、声がでかい」
「あっはは、デルモおはよー!」
そこに谷垣くんが絡む事も増えた。一軍とその他が交じって会話するなんて、ふたり一組になりなさいとか、四人でグループを作りなさいとかいう、強制的なイベントがなければ起こらないようなことなんだけど、最近それが教室で頻繁に起こる。山田が「カーストが見えなくなった」と言ったのもそれが原因だろう。
「なんか高気圧と低気圧とその間って感じ。境界線が消えたって言ったらわかる?」
「感覚的すぎる」
王様だけが変わらず自分の机の上に座し、つまらなそうにピンク色の付箋を指で弾いている。そこだけ凪いだ海のように静かだ。
あれから清澄と勉強をしていない。一緒に家にも帰っていないし、メッセージも来ない。それが少しだけ、ほんの少しだけ、つまらない。
「昨日の課題で発展問題だけわからなかったんだけどー」
小南さんが一問だけ解けていない課題のプリントを出してきた。僕はすかさず教科書の該当箇所を開いてみせる。そこには蛍光ピンクの付箋が貼ってあった。
清澄と勉強した場所。
「ここはこの公式を変形させてから――」
清澄と同じ躓き。
「うーん。うーん? 見ても分からない」
「一回やってみようか?」
僕は小南さんの後ろに回り込んで、新しいルーズリーフを取り出し、彼女に見えるように公式を書き出した。
「で、これを――こう変形して」
「え、何が起こってるか分からない」
「だから、ええと……」
シャーペンをもったまま、頭を掻くと、後ろから声が飛んできた。
「お前ら、近いぞ」
振り返ると、腕を組んだ清澄がこちらをじっと見ている。アイスブルーの瞳がちくちくと刺すように僕と小南さんを見据えていた。
「キング! そんなに怒んないでよ! ごめんってば!」
「怒ってない、近いって言っただけだ」
小南さんがなぜか謝り、清澄はわざとらしく腕を組んだ。
「あんまり近いと郁は問題が解けなくなるらしいからな」
「……いく?」
きょとんとする小南さんに山田がささやく。「深角の下の名前!」
「へー、深角センセー、いくって名前だったんだ」
「なっ、」
僕は数週間前のことをようやく思い出した。近すぎて問題が解けないと、清澄を押しのけたことも思い出した――顔に血が集まってきて暑い。
「清澄、あれは、お前が――!」
「あ、名前呼び」
谷垣くんが僕を指さした。
「すげえ、キングの下の名前なんか俺以外誰も呼ばないのに」
「あっ」
僕ははっとして清澄を見たけれど、清澄は相変わらずで、というか若干にやついていて、どうだ、みたか、といった風にドヤっている。
清澄が自ら暗黙の了解を破るなんて。僕はぽかんと口を開けて清澄の顔を見つめた。
こいつ、僕が他の人に発見されるのが嫌だとか言ってなかったか?
「そんなに見るなよ、郁」
「……なんで?」
なんでこんなことを?
「さあなぜでしょうか」
だけど清澄はにこやかに濁すだけで答えをくれはしない。
「やりとりにめちゃくちゃ含みあるな、幼なじみなんだっけ?」
谷垣くんが山田に尋ねた。山田はこくこくと頷き、「家も隣だそうですよ」という。そこへ小南さんが、
「まじで? キングハイパー頑張って! 応援してるから!」
なぞのエールを送っている。
カオスだ。
「小南は、黙れ」
「なんであたしだけ名指しなの⁉」
「うるさいから」
残りの一軍と二軍とがざわついている。カーストにも入らなかったガリ勉がキングの幼なじみで家も隣だという事実がはっきりしたからか、単純に僕がはっきり「清澄」と言ったからかは分からない。
「ていうわけで、深角郁を雑に扱うの、禁止な。キング命令ってことで」
「誰も雑に扱ってないじゃん!」
小南さんがブーと声をあげる。また清澄は「小南うるさい」といい、制服のポケットに手を突っ込んだ。
「要するに――俺のいないところで塾とかやんないで。俺も混ぜて」
僕はようやく合点する。なるほど。
「そうか、お前も勉強したかったのか、清澄」
「うーん、三分の一くらい正解。清澄ポイント三ポイント進呈」
「え、三分の一くらいってなに? 部分点ってこと?」
「そんな感じ」
小南さんがそわそわと清澄に訊いた。
「ねえねえ、清澄ポイントってなに? ためるといいことある?」
「郁限定でな。お前には権利がない」
謎の「清澄ポイント」って僕限定だったのか。ブーイングを繰り返している小南さんと「うるさい」を連発している清澄を見比べて、僕はため息をつく。これから山田の「カースト予報」は大荒れだろうなと思って。
今まで接点もなかったクラスメイトに親切にされるのはあんまり居心地がよくない。どれもこれも清澄の御威光だとは分かっているんだけど、どうしようもなくそわそわする。
落とした消しゴムを拾ってもらうばかりか、教室のドアを開けてもらい、掃除当番を代わってもらい、日直の仕事を引き受けてもらい、……至れり尽くせりなのはいいんだけどここまで来ると罪悪感がすごい。
「僕がすること、いよいよ無くなったんだけど」
「じゃあ、勉強すればいいんじゃない」
幼なじみの王様は「パンが無ければお菓子を食べれば良いじゃない」みたいなことを言う。フランス王妃か。
僕は、教室の秩序を保つためのこれらの仕事がちょっとだけ好きだったので、唇を尖らせて不満を示した。
「僕は勉強以外のこともしたいんだけど」
「なら、深角郁のすることには手を出すなって命令しようか?」
「いや、そこまでせんでも」
命令とまではいかないけど、いつも通りでいいのに。
「いいよ、俺は。そのためのキングの椅子だし?」
清澄は僕を手招いた。そして僕の頭の上に手を伸ばし、何かをつまみ取った。
「埃ついてる」
僕の背中に無数の視線が突き刺さっているのを感じる。清澄ほど鋭くないのに、不躾で、遠慮を知らない誰かの視線。不快感をもたらす、無数の、好奇の視線。
「……清澄、近いよ」
「これでも近い?」
「なんていうかさ……カーストを無視して僕らが仲良くしてるのは、……よくないよ」
「なにが?」
清澄はゆっくり手を伸ばして、僕を引き寄せた。
机の上に腰掛けた清澄に肩を抱かれて、囁かれてる。
「見せつけてんだよ、わかれ」
近い。不意に清澄の告白がよみがえってきて、僕は片手で顔を覆った。こいつは僕のことが好きなんだ。
いよいよオープンになってきた清澄に一抹の不安を感じていると、
「お熱いことで」
谷垣くんが長い足で歩いてきた。清澄が不服そうな声を上げる。
「邪魔すんな谷垣。俺は今郁充してんだよ」
「お取り込み中申し訳ないんだけど、客だぜキング」
谷垣くんは優美な所作で、教室の入り口の方を指し示した。そこに、小柄で可憐な少女が立っていた。
制服自体は普通の女子のブレザーなのに、彼女が着ていると何かの衣装のように思えた。オシャレだ。彼女はゆるくウェーブした髪を二つに結い、三つ編みにまとめている。頼がここにいたら「すごいセットに時間かかるやつだ!」とか言いそうな髪型。「抜け感」ってやつだ。
清澄が盛大な舌打ちをして、僕の隣からすっと抜けた。
「なんだよ、ナナ。お前何しにきた」
「長袖ジャージの上、忘れたから借りにきたの。貸して、キヨ」
「は? 同学年の女子から借りろよ」
「貸してくれる人がいないの。キヨなら貸してくれるでしょ?」
長い睫毛が招くように瞬くと、星でも散りそうだ。雪のように白い肌、赤い唇、まるでおとぎ話に語られる白雪姫みたいな顔をした彼女は――。
山田がすっ飛んできて、あれだれ? とばかりに口をパクパクとさせている。僕はつぶやいた。
「ナナちゃんだ……久々に見た」
彼女は清澄の中学時代の元カノだ。綾瀬ナナ。モデル事務所に所属するモデルでもある。僕らの学年の一つ下で、中一の時に清澄に猛烈アタックして彼女の座を射止めたとかそうでないとか、いろんな噂のある子ではある。
「二年の教室に借りに来なきゃならないほど友達居ないのかお前は」
「そうだよ! 言わせんな馬鹿」
威勢の良いナナちゃんの言葉に清澄はため息をひとつつき、きびすを返してロッカーからジャージを取り出した。
「仕方ねえな」
「やった、キヨだいすき!」
顔に喜色をたたえたナナちゃんは、大きなジャージを抱きしめてにっこり笑う。僕は、感じたことの無い心臓の挙動を感じていた。
ドッ、ではなく。
ぞわっ。
「うるせえ」
清澄がナナちゃんの言葉を一蹴して、虫でも追い払うみたいにしっしと手を振った。
「俺は取り込み中なんだよ。用済んだら帰れ」
「えへへ。キヨの匂いだ。ありがとキヨ!」
「だからうるせえって」
「やばいの出てきたんじゃない? 深角センセー」
気づいたら山田の隣に小南さんが居て、僕にひそひそと囁いた。
「あの子、たぶんキングのこと狙ってるよ。女の勘」
「いやどう見てもキング狙いだわ。なんで男物のジャージ借りに来るんだよ。サイズ合わないでしょうよ」
山田が小南さんに囁き返す。二人はうんうんうなずき合った。いつの間にそんなに仲良くなったんだ。
「まあ、綾瀬は何着てても許されるところあるしなぁ」
何か事情を知っていそうな谷垣くんが、両手を広げて降参のポーズを取った。
「それに綾瀬、前の彼氏と別れたばっかりだから、清澄狙いは間違いじゃないかも。キング、優良物件だからな」
……優良物件?
「綾瀬は歴代の彼氏自慢が好きなんだよ。特に清澄はお気に入りでさ。優しくてほどよく束縛してきてすごくよかったって――撮影現場でよく言ってるって噂」
さすが読者モデルくん。モデルの間のことならなんでも知っている。……じゃなくて。
ぞわっ。ぞわぞわ。ざわめいているのは僕の背中の毛だってことに、僕はようやく気づく。
ぞわぞわする。気持ち悪い。すごく――。
「……そんなことを、ナナちゃんが」
僕の中からそんな感想が出てくることに、僕は驚いている。
そこへ清澄が戻ってきた。
「誰が誰のこと狙ってるって?」
「え? 綾瀬ナナが鉢谷清澄を狙ってるんじゃないかって巷では噂ですよ」
谷垣くんがこたえると、清澄はまた舌打ちをした。
「余計な噂立てんな。俺に俺の恋愛をさせろ」
「俺の恋愛とは?」
小南さんがにやにやしながら訊く。清澄はそのショートボブの頭を鷲掴んだ。小南さんが小さな悲鳴をあげる。
「あいたたたたた」
「わかりきってることを訊く口はどれかなー?」
「最近キング横暴じゃない⁉ ねえどうして⁉ 暴力反対なんだけど!」
コントみたいな二人のやりとりを遠目に、僕は先ほどのナナちゃんのことを考えていた。
気づいたら幼なじみの清澄に彼女ができていた。それがナナちゃんだ。二人はお似合いで、どこを歩いていても絵になって、僕はそれを見て、清澄が遠くに行っちゃったなって思ってた。……思ってた矢先に。
僕の前に彼女が現れた。
『郁くんのこと、ずっと好きだったんだ。だから、付き合ってほしい』
あの女――樋口アイコが。
「……恋愛、やっぱ苦手だよ」
僕はそっとつぶやくと、きびすを返して自分の席に腰掛けた。安定剤が必要だ。僕は数学の参考書の中に没頭する。揺らぐことも消えることもない美しい数式の中に身を浸す。
ピンク色の付箋のことは、無視する。
季節がゴールデンウィークにさしかかっても、僕らのやることは特に変わらない。
「きよすみ」から届く「そっちいってもいい?」に画像で答えると、僕はいつもの通りちゃぶ台をセッティングし、ピンク色の付箋を用意する。
「おにいさあ」
「うわっびっくりした」
上から降ってきた頼の声にのけぞると、指先までオシャレした頼がびしっと僕を指さしていた。
「キヨくんと最近どうなんですか」
「清澄と?」
「そうです。どうなんですか」
そういう頼は、この前テーマパークに一緒に遊びに行った「男友達」と恋人同士のお付き合いをしているという。僕にだけ教えてくれた。まだ父にも母にも言えないけど、いずれ言うつもりだという。
「どうもこうも、なにも……」
「嘘つけーい! なんかあるでしょ」
「何もないって!」
「……おにいが気づいてないパターンだわこれ」
頼は鼻息荒く言い放つと、目一杯おしゃれした格好で腰に手を当てた。
「キヨくんがフビン。おにいだってわかってんでしょ」
「……」
「ほらそこで黙る。気づいてるんだったらいい加減、向き合ってあげるのが――」
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
母が応対する。やはりというか、清澄だった。
「お邪魔します。郁、いるか?」
二階まで直接上がってきた清澄と目が遭う。とたんに頼が声色を変えた。
「あ、キヨくん。この前はありがと!」
「頼ちゃんも相談乗ってくれてありがとね。俺、女々しかったっしょ」
「そんなことないよー。こちらこそうちのボクネンジンがごめんね」
いつの間にか二人はメッセージをやりとりしていたらしい。
誰が朴念仁だよ。
「今日もお出かけ?」
「うん。これから。アドバイスされたこと実践してみるね。行ってきまーす!」
「行ってらっしゃい」
ひらひら手を振る清澄を見ていると、僕と清澄のどちらが頼の兄なのか分からなくなってくる。
「いったい頼に何吹き込んだんだよ」
「カレシくんをメロメロにするマル秘テク」
「人の妹になんちゅーもん教えてんだこいつ」
僕は呆れながらちゃぶ台の前に座る。
「俺がキュンとする仕草を教えてあげただけだけど」
清澄も座布団の位置に座る。前より少し遠くなった距離感で、清澄が笑う。
「カレシの寝癖直してあげるとか。埃ついてるよって嘘ついて、髪の毛に触ってみるとか」
「……それお前じゃね? 頭触られるの好きなの?」
清澄はまさか、と首を横に振った。そして長い腕を伸ばして、僕の野放図に伸びっぱなしの髪の毛に触れた。
「俺はこうやって触る方が好き」
冷たい指がこうやって髪を梳くのは何度目だろう。あらがいがたい気持ちよさに目を細めてしまえば、もう清澄の手のひらの上だ。
「こうやって耳に触ったりして。ちょっとエッチかな」
「なに、頼に教えてんだよ……ばか」
「俺の好きな触り方」
耳を食む銀色のリングが冷たい。身をよじると、首筋を伝った指が僕の鎖骨に触れた。あっという間に、清澄は距離を詰めている。
「で、……ゆっくり主導権を握ったところで、こうやって攻め落とす」
視界がゆっくりひっくり返った。目の前に清澄の綺麗な顔があって、僕は清澄の真下で、どろどろにとけた蝋みたいに横たわっていた。
せんべいのような座布団を下にして、清澄は囁く。
「郁、キスしてもいい?」
「なんで……」
「かわいいから」
僕は考えることもままならず、清澄の瞳の、薄い青を見つめた。祖父から受け継いだという異国の血が、清澄を幻想的に見せている。
「す、すんなって言っても、するのがお前じゃん……」
「そ? じゃ、遠慮なく」
僕はぎゅっと目を閉じて唇に触れるだろう衝撃に備えた。
だけど清澄の唇が触れたのは、僕の額だった。
前髪を掻き上げられて、あらわになったおでこにキスがおちる。心臓がドッと脈打ち、耳元に心音がこだまする。
あれ、どうして僕、キスって聞いて、唇だと思ったんだろう。
「郁、かわいい」
細められた瞳のままで、清澄がおでことおでこを合わせる。重なり合った身体から、早鐘のような清澄の心臓の鼓動が伝わってきて、共鳴するみたいに僕の心臓も鳴る。
「ど、して」
どうして。
「なんで、僕なの」
僕は早くこの気持ちから逃げてしまいたくて、必死で。
「クラスにも、学校にも、かわいい子、いっぱいいるじゃん。なんで、僕なの」
清澄の腕から早く逃げたくて。なのに、体は言うことを全く聞かなくて。
「ん。郁のこと、好きになったから」
「だからなんで」
「理由、必要?」
清澄は僕の髪の毛に鼻を埋めた。
「人を好きになるのに、理由なんか必要ある?」
ごまかしがきかないほどの心音の中で、清澄の声が響く。
「……分かんない、僕。分かんないよ……」
「郁。どんだけ逃げても、いいけど」
見透かしたような声のあと、ふに、と耳に何か触れる。それが唇だってことに気づかない僕じゃない。
「逃がさないからね、俺」



