嘘をつくのはよくないと思う。そんな正義を覚えたての子供みたいな理由で、僕はエイプリルフール、四月馬鹿を嫌っている。
 それを知ってる清澄は、四月一日の開口一番こう言った。
「今日もお前はかわいいね」
「……はい、眼科に行くか、早く家の中に入りましょうね」
「おい突っ込めよ。それ嘘なのかほんとなのかって」
「清澄は僕のことよく知ってるだろ。それとも、嘘なの」
「嘘な訳あるか。いつだってお前はかわいい」
 玄関口でそんな犬も食わないような会話を繰り広げていると、バッチリ化粧した頼が階段を駆け下りてきた。
「あ、キヨくんおはようー!」
「頼ちゃんおはよ。服もメイクも似合ってるよ。かわいいね」
「えへへ、ありがと。これから友達とネズミーに遊びに行くんだ。というわけで、遅くなるからおにい、お父さんの説得よろしく」
 しれっと言い放つ妹に、兄・僕は目を剥く。
「はあ? 話通しておけよ!」
「許可してもらえないから事後報告ってやつ。いってきまーす」
「ちょっと待て、頼!」
「いってらっしゃい、楽しんできてね」
 憤慨する僕と手をひらひら振る清澄の両方を見比べた頼は、振り返りざま、
「ゆっくりしていってね、キヨくん」
 そう、ぐっと両親指を立ててから出かけて行った。



「年度初めのテストは難易度が高めだから――」
 相変わらずの僕たちは、ピンク色の付箋を新調した。使い切ってしまって無くなったからだ。新しいケースから取り出した真新しい付箋を弄りながら、清澄が訊ねる。
「だから?」
「応用問題が結構な数出てくると思う。変化球に惑わさずに冷静に解き方の糸口を探すこと」
 僕が理系で、清澄が文系なのは、けっこう早い段階で分かっていた。僕は英語と数学、理系科目を清澄に教え、清澄は僕に現国と古文のやり方をレクチャーする。それが僕らの決まりだ。
「でも現状把握と力試しのテストにそんなに命懸けなくても」
「無理難題ほど燃える」
 清澄は「うわ」と唇の形だけで言って、それから付箋の分厚い束をひらひらさせた。
「付き合うけどさ……郁だし」

「郁ー? 入るよ」
 勉強を始めて数十分ほどしたところで、母が僕らの部屋にジュースを差し入れに来た。よく冷えたリンゴジュースのペットボトルを二本持った母は、清澄によそ行きの笑顔を見せる。
「清澄くん、いつも郁に付き合ってくれてありがとうね」
「いえいえ、こちらこそ勉強させてもらってます」
 お隣さん同士だから、何度も顔を合わせているし、お互いの事もある程度知っているのに、ふたりは社交辞令を欠かさない。
「清澄くんはいつ見ても、清潔感があっていいよねえ。うちの郁なんかほら、いつもこんなんで」
「母さん……」
「髪の毛はいつも千円カットだし、眼鏡拭かないし、女の子の気配も無くて……」
「母さん! 僕への文句言いたいなら後にして!」
 僕は長い前髪を掻き上げて母をにらみあげた。
「今勉強してるんだから……!」
「俺は、郁の外見についてどうこう思ったことはありませんよ」
 清澄がするりと僕らの間に入ってくる。
「郁はすごく教え方が上手だし、いつも誠実だし、嘘をつきません。周りの奴らは、それに気づかないだけです」
 僕は言葉も無く清澄を見上げた。清澄は、母にゆっくり微笑みかけた。
「俺にとって郁は、ちゃんと魅力的な男に見えてますよ」
 清澄の口から出る援護射撃ときたら、とんだ殺し文句だ。母はすっかり調子に乗ってしまって、語尾にハートマークを散らし、「清澄くん、ゆっくりしていってね♡」などと言いながら階下へ下りていった。
 冷たいジュースに手をつける気にもならず、僕はただうつむいて、清澄に礼を言うほかない。
「……あ、ありがとう、その」
 清澄がそんなに僕のことを思っていてくれてるなんて。ちょっと感動しちゃったじゃないか。
「ま、外見のくだりは嘘だけど」
 前言撤回。
「僕の感謝返して⁉」
「嘘も方便っていうだろ。……俺は、お前が垢抜けて誰かに発見されるのがやなの」
 清澄は僕の長い前髪に手を伸ばした。耳の後ろにかかるほど長いそれを、冷たい指がそっと耳にかける。
「とにかく郁はそのままでいて」
「……よくわかんないけど、おまえ、さては重いな?」
「そうだよ。俺重いんだわ」
 清澄は僕に距離を詰めると、しなだれかかるように僕の肩に頭を乗せた。物理的に重い。
「好きな子には一途だし?」
「……僕は、恋愛はしないよ、絶対……」
「ん、知ってる」

 清澄の「好き」が僕にバレる前から、僕らはこうやって日々を過ごしてきた。いわば「いつも通り」のこの距離なのに、僕ときたらなんだかおかしい。続きを解こうとするシャーペンの先が空をさまよい、文字にすらならない。
 頭がぼうっとする。集中できない。問題が解けない。
「清澄、その」
 離れてよ、って。言いたいのに言葉が出てこない。この状態に浸っていたい僕と、勉強したい僕とが頭の中で激しい舌戦を繰り広げている。

――勉強をさせてほしいんですが。どいてほしいんですが。
――だけど、清澄はいつも通りじゃん。お前が変わっちゃったんだよ、郁。こんなん、いつも通りじゃん。
――僕は変わってないです。変わったのは清澄の態度です。
――そんなわけない。清澄がこうしてくっついてくるのはいつものことだ。おかしいのは、その程度で問題が解けなくなるお前だよ、郁。
――その程度とは申しますが、実際現実に影響が出ているのは確かです。問題が解けません。訳やプロセスはともかく、解けません。
――じゃあ、やっぱりお前が変わったんだよ。清澄の気持ちを知って、変わってしまったんだ。清澄を意識してるって事だろ? 認めろよ、

「……郁?」
 僕は気づけば、清澄の頭を押しのけていた。押しのけられた清澄が、少し傷ついたような顔で僕を見下ろしてくる。
「いやだったか?」
「う、ううん、あの、なんか、その……問題解けなくて」
 本当のことを言ってるはずなのに、なんだか嘘のような気がした。エイプリルフールにかこつけるわけじゃないけど。
「ちょっと、うん。ごめん」
「そっかごめん。邪魔したな」
 清澄はすっと離れていったけれど、その背中は明らかに傷ついていて。でも僕は彼を慰める立場にはなく、どう触っても彼を傷つけてしまいそうだった。
「清澄、あのさ……」
 僕はおずおずといった。
「僕らの距離、ちょっと近すぎると思うんだ」
 清澄は僕の言葉を黙って聞いていた。
「適正距離って、あると思わないか」
「……俺、近すぎる?」
「う、うん」
 肯定したら、清澄の傷つき度合いが増した気がした。僕はでも、やっぱりこの言葉を言わなければならないと思った。

「幼なじみの距離感じゃないよ、こんなの……」

 僕のことをそういう意味で好きだという清澄には申し訳ないけれど。でも僕は清澄と幼なじみでいたいし、今まで通りでいたい。
 清澄と居てどきどきするのはおかしいし、頭がぼうっとするのも、おかしい。おかしい。まるで――これじゃあ。
「え。――郁、俺と居てどきどきすんの?」
 思考が全部口から漏れていたらしい。清澄はアイスブルーの瞳をこちらへまっすぐ向けてきた。
「あ、いや、ちが……」
「頭もぼうっとする?」
「ちがうって! なんでも無いから! 違うから!」
「ああ、だから離れてほしいんだ? なるほどね」
 清澄は意地悪く笑った。傷ついた顔はどこへやら、立ち上がって座布団をぐいっと僕から遠ざけ、ちょっとだけ距離を取り、少し離れた場所で頬杖をついてにまにましはじめる。
「……なに、清澄」
「かわいい郁を遠目に眺めてました」
「だからそういうのやめてって!」
「距離は置いてるけど? かわいいってのも前からずっと言ってるじゃん」
「僕が言ってるのはそういう意味じゃなくて……!」
 僕は清澄に距離を詰めて、その頬に人差し指をぷにっと突き刺した。
「特進クラスのキングが、石の裏のダンゴムシに目を掛けるのがおかしい!」
「なにもおかしくないだろ」
 清澄は僕の指を受け止めたまま、まっすぐな目で言い放つ。
「恋ってのはそういうもんだ、郁。社会的な地位とか物理的な壁とか関係ないの、そんなもんは恋の前には無力。映画とか小説でよくテーマになってるだろ」
 指を絡め取られて、手を繋がれる。指と指の間に、清澄の冷たい手が入ってくる。
「それに、お前が『石の裏のダンゴムシ』だなんて、誰が言った?」
 清澄は――王様は、真剣なまなざしで言う。「誰が言った? 一軍か? 二軍か? それとも……」
「じ、自称です、自称!」
 大変な事になる前に、僕は白状した。
「集まってひそひそしてるのが、越冬するダンゴムシみたいだなと思って」
「二度とその喩え使うなよ。俺の大事な郁に」
 釘を刺されて、僕は唇をつぐむ。
 自虐的なことも、自傷的なこともバレてしまって、全てが王様の目の前に晒されてしまった。握られてる手が熱い。清澄の手は冷たいのに。

「あのさ、……清澄」
 僕は必死に言葉を探した。彼の目を、見ることができない。
「……手、離して」
 握られた手は結び目みたいだ。僕の力だけでは簡単にほどけそうに無かった。
「嫌なら振りほどいていいよ」

 そのときだ。
「郁ー! シュークリーム買ってきたから取りに来て! 清澄くんのぶんも!」
 階下から母が叫ぶ声が聞こえた。
「はーい!」
僕は清澄の手をそっと振りほどいて、シュークリームを受け取るために階下へ下りていった。
 そしてシュークリームを載せた盆を両手に戻ってくると、清澄は帰る準備をしているところだった。
「帰るの、清澄」
「うん、急用思い出した」
 嘘だな、と僕は直感的に思った。確信ですらあった。これは「嘘」だ。だけど、嘘だろうと、急用があると言う清澄を止める権利は僕にはない。
「シュークリーム、せっかくだから持って行けよ」
「うん」
 普段通りの会話。普段通りの表情。だけど、僕と清澄の間には確実に溝ができていた。蛍光ピンクの付箋が、頼りなくちゃぶ台の上に残されていた。



 特進クラスにクラス替えは無い。だから、特進クラスのカーストにも揺らぎが無い。新学期が始まったとしても王様は変わらず、一軍も変わらず、そして僕らも変わらなかった。
 実力テストの結果が出た山田は、放課後に赤点の数学のテストを僕に見せてくる。僕はそれを一瞥し、問題に残された途中式を解読して、山田を袈裟懸けにバッサリ切り捨てる。
「――山田の場合覚えてる公式が嘘だからそこからやり直し」
「さすが、実テ数学満点の学年一位」
「やかましい」
 そこへ、
「え? あのテストの数学百点だったの? うっそお」
 ショートボブさん、いや小南さんが僕の机までやってきて、机の端にさっと座った。
 え? 近くない?
 山田も同じ事を思ったらしい。
「こ、小南さん、どうなさいました?」
「実テ数学百点とか、気になる話が聞こえてきちゃったから、来ちゃった」
 語尾に星でもついてそうなテンション感。僕はたじたじしながら、小南さんの短く切ったスカートや、そこからのぞく太ももから目を背ける。
「あたし数学苦手なんだよね。テストも赤点逃れギリギリ。ねえ、深角くんさあ、あたしに数学教えてくれない?」
「ふぁ?」
 唐突すぎる。僕はカチコチに固まりながら、小南さんのキラキラしたオーラを浴びた。
「あ、ええ、うん、かま、いませんけど……」
「やった! ねえデルモ! 深角くんが数学教えてくれるって! やったね!」
 デルモ?
 すると読者モデルくん――谷垣くんがこちらへ大股でやってきた。山田はひっくり返りそうになりながらその様子を見ている。僕はすでに、椅子に寄りかかって動けなくなっていた。
「マジ? 次の定期テストまで数学の点数あげときたいんだよね、俺」
「でしょでしょ! 学年トップの深角くんのミスミ塾! どうよ」
 一軍ふたりのオーラがギラギラしている。まぶしい、苦しい、動けない。僕は助けを求めるように王様の方を見たけれど、王様は心ここにあらずといった風でこちらを見もしない。
「で、でも、僕なんかにできるんですかね」
「キングが言ってたよ。アイツは教えるのが上手だって」
 清澄ー! お前か!
「キングなんでも知ってる説更新されたよね」と小南さん。
「さすが俺らの王様っていうか」と谷垣くん。「アイツもなんだかんだ数学八割取ってたし」
 それを聞いて僕はちょっと安心した。清澄もそれくらい取れたのか。教えた甲斐がある。
 僕は一軍男女に挟まれて、画面が壊れてガビガビになったスマホみたいな挙動をしながら、とりあえず座ってとふたりを周りの席に座らせた。
「ええとまず、大問一からやっていきます、おふたりの正答率は……」

 ちく。

 首筋に視線が突き刺さってくる。
 蜂が何度も刺すみたいに、それは僕の首筋に何度もかみついてくる。清澄の視線。あのまっすぐな視線。
「ここは公式を使ってシンプルに解く基礎問題です。計算ミスさえ無ければひねりもなく解けると思います」
「あぁー計算ミスー!」
 読者モデルくん……谷垣くんが崩れ落ち、小南さんがそれを指さして笑っている。一軍のノリ、わからない。こわい。
「で、これの発展問題が大問三の問二にあって――」
「うそお、そこに飛ぶの?」
「そう、ここに飛びます。で、この公式が変形した形で利用されるのが――」
「まじかあ!」
 小南さんが大きな目を丸くする。彼女の声がいちいち大きいので、なんだなんだと他の一軍や二軍の連中が集まってきた。
「俺も深角の講義聴こうかな……」
「わたしも気になるところある! 問題持ってこよ」
 そんなこんなで、旧「石の裏」は大盛況。山田と僕を中心にした円ができ、そこに実力テストの数学の問題を手にした生徒が集まってきた。僕は僕で必死で、首筋に突き刺さってくる視線がどんどん苛烈になっていくことに気づかない。
「おい、キング。そんなとこで寂しそうにしてないで、お前も混ざれよ」
 そう言ったのはモデ……谷垣くんだった。
「迷子になった子猫みたいな顔してないでさ」
「迷子になった子猫って! 言えてる!」
 小南さんがきゃらきゃら笑う。
「もお、キングってば深角くんのこと好きすぎじゃん?」
「小南!」
「あっはは、失敬失敬!」

 ドッ、と心臓が鳴る。

 清澄は僕のことが好き。そんなのは分かってる、自明だ、知ってた。数ヶ月前から分かってた。なのに。
 清澄が仕方なしにこちらに来るのを、僕はじっと見ている。なぜだろう。なぜこんなにも、心臓が痛いんだろう。
「邪魔して悪い、深角。続けて」
 清澄が言う。僕は静かに頷いて、講義を再開した。

「あー、もっと早くに知っておくべきだったな」
 と小南さんが言った。一通り解説を終えたあとの教室は謎の熱気に包まれている。僕もちょっとヒートアップしてしまっていた。最終的には黒板に図なんか書いてしまって、本格的な数学の授業みたいだった。
「なにを?」
「深角くん、いや、深角先生がこんなに教えるの上手だったなんて知らなかった」
「先生はよしてくださいよ、小南さん……」
「深角先生、学校の先生向いてるよ。すごくわかりやすかったしあたしでも次百点取れちゃいそう」
 学校の先生に向いている。そう言われて僕は後ろ頭を掻いた。ちょっと、照れるな。
「お前が百点取れるとか無理無理、それは言い過ぎ」と谷垣くんが言う。「でも、助かったわ。ありがとうな、深角」
「って。そんなこと言ったらキングが妬くでしょ、デルモ。控えおろう」
「は? 妬く? なんでキングが? ……ていうかキングいなくね?」
「ほんとだ」
 僕はナチュラルに会話に交じって清澄の姿を探した。
「放課後だし、帰ったんじゃねーか? もう結構な時間だぜ?」
 山田が言う。
「なんだ。……じゃあ僕も帰ろうかな」

 いつもなら、待っていてくれるのにな。

 外はうららかな春の夕方だ。桜の花びらがそこここで舞っている。通学路の散り始めの桜の木の下では、誰かが告白を受けていた。あー春だな、春ですね、なんて思っていると、告白しているほうの女の子が、告白されているほうの男子にすがりついた。
「じょ、情熱的……」
 僕は見てはいけないものを見た気がして、さっと目をそらそうとする。しかし、あちらのほうが数秒早かった。はたと気づいたきれいな顔が、少し歪む。
「――清澄?」
 すがりついている女子を引き剥がす腕が、いつもより乱暴に見えたのは僕の気のせいだろうか?
「……ごめん。俺、好きな奴いるから、付き合えない」
 僕にも聞こえる声で、清澄は言った。女の子はさめざめと泣き出し、やはり大きな声で言った。
「先輩の好きな人って誰ですか。顔を一目見たら諦めます。諦めますから」
「言えない」
「なんで……」
「片思いなんだ」
 また、ドッ、と心臓が疼く。
「そいつに迷惑を掛けるから、教えられない」
「先輩の嘘つき! そんな人いないんでしょ、本当は……! わたし、中学の時から先輩のことずっと好きで……!」
「嘘じゃ無いよ。……ごめんね」
 清澄はいつもするように彼女の涙を衆目から隠した。そうやって良いやつぶって、心の中では別のことを考えているくせに。
「夢に見るほど好きなんだ。あいつは振り向いてくれないけど。でも、やっぱり諦められなくて、好きなんだ」
 ずき、じゃなくて、ぎゅう、と締められるような痛みが襲ってくる。心臓が苦しい。どくどく脈打つ鼓動が耳元に響く。

 気づいたら僕は脱兎のごとく走り出していた。清澄から、清澄が告白を受けているその場から、全速力で。
 徒歩十分の道を駆け抜けて、家にたどり着いた僕は玄関先でへなへなとへたり込んだ。
「な、にやってんだろ、僕」

 瞼の裏に抱き合う男女の姿が映り込む。僕はかぶりを振って、その残像を追い払った。
「忘れろ」

 思い出すのは、砂糖菓子みたいに甘ったるい声。
『郁くんのこと、ずっと好きだったんだ。だから、付き合ってほしい』

「忘れろ……!」
 靴を脱ぐのも忘れて玄関に横になった僕は、頼に発見されて怒られるまでずっとそうしていた。