三月が近づくにつれ、にわかに王様は不在になる。読者モデルくんも、頻繁に不在になる。山田はこれを「一軍告白ラッシュ」と呼んでいる。
「要するにこの節目に告白しておきたいって事だよ。キングなんか今日だけでもう三回も呼び出されてる。さすがはキングだ。……まあ、告ったらしい女子が軒並み全員泣きながら帰ってきてる時点でお察しだけどな」
「僕には分からん世界だよ」
分からないといえば、もう一つある。
『好きだよ、俺は』
あの後。何事もなかったかのように体を起こして僕らは勉強をし、頼の作ったチョコケーキを一緒に頬張り、清澄に勉強を教えて過ごし、適当なところで別れた。
その後があまりに普通の日常的な風景だったので忘れかけるほどだったけれど、清澄の言葉は刺さったままで、小さな棘が指先に残ってるみたいに、ちくちくと気になる。
『好きだよ』なんて、あの場で出る言葉だっただろうか?
というか、何が『好き』なんだ? 僕はあの場のやりとりを何度も何度も反芻しては、『よく分からないな』という結論とともに戻ってくる。今日だけじゃない。あの日から毎日ずっと、清澄の事を考えている。
「俺は確信したね――絶対彼女いるって鉢谷」
山田の言葉で、僕は現実に帰る。目の前に置きっぱなしの公式の暗記帳の中身が何も入ってこない。
「だって、そういう感じするもん。こう、みんな王様とか神様とか持ち上げてるけど、清いだけじゃないっていうかさー、誰かもう決めた女がいるって顔だよあれは」
「……清澄に彼女はいないよ」
僕はむっとしていった。むっ、というか、むかっ。としたから。
山田は口をあけ、僕を両手で指さしてギャグめいたポーズをして見せた後、「言質!」と叫んだ。
「キングに彼女はいない! お隣さんの証言は信憑性高いぞ、うひょー!」
「こ、声がでかい!」
二軍の連中がこちらを見ている。僕は山田の肩を軽く殴った。
「今のは内緒で、オフレコで、ていうか忘れて!」
鉢谷清澄に関しては、僕は徹底的に幼なじみであることも、仲が良いことも、隣同士の家に住んでいることもひみつにしてきた。学校ではあまり関わらないようにしてきたし、清澄もそれを望んでいるから、僕らふたりの間の暗黙の了解で、学校内では特に接点を持たないようにしてきたのに。何でこんなこと口走っちゃったんだろう。浅はかだった。
「……ねえ、なんか聞き捨てならない言葉が聞こえてきたんだけど、今のほんと?」
一軍のショートボブ女子が話しかけてきた。ほらみろ! 山田はやにさがった顔で別人のように挙動不審になる。ちょっと、いやかなり気持ち悪い。山田、そういうところだぞ。
「あ、エヘヘ。深角くんがそう言ってました」
困ったからって僕に話を振るな!
僕はショートボブさん――彼女が苦手だ。隙あらば清澄のご機嫌取りをしようとし、道化を演じ、甲高い声できゃらきゃら笑うところとか、……すごく苦手なんだけど。
僕を見る彼女の目はいやに真剣で、いつもと雰囲気が違ったから、思わずその可愛い顔とか、うっすら化粧をしてるのとか、いろいろ観察してしまった。ショートボブさんのことを知っているようで知らなかったんだな、僕は、などと思っている間に、ショートボブさんは腕を組んだ。
「……好きな子は居るって聞いてたんだけど、彼女いないならワンチャンあるかな? どう思う、深角くん」
ああー、ええ、どうでしょうかねー……僕にはちっともわからんです。でも清澄は恋愛なんかしないって言ってましたよ。
って、言いたい言葉が喉の奥に張り付いて出てこない。恋愛。恋愛は苦手だ。それが他人のものでも自分のものでも苦手だ。
「……分からないです」
結局この言葉に逃げてしまう。僕の悪い癖だ。
「学年トップの深角くんでさえ分からないんなら、あたしにはもっとわかんないじゃん」
ショートボブさんは偏差値の高い顔面でにこりと笑って見せた。
「じゃあ、深角くんの証言を信用して、あたしもマジ告してみようかなー」
ドッ、と心臓が脈打った。ショートボブさんが清澄に告白する?
「見てて分かると思うんだけど、ちょいちょい伝えてるんだよね。いっつもシカトされるけど。マジだって分かってくれたらいいんだけどなぁ。……どう思う?」
どう思うも何も。自分で考えてくれよそんなこと。僕にそんなこと考えさせないでくれよ。
だけど、小心者の僕はただ彼女の喜ぶ言葉を探して、AIみたいに出力してしまうのだ。
「い」
喉の奥に張り付いた言葉を無理やり引き剥がす。
「――いいんじゃ、ないですかね……」
清澄とショートボブさんがじゃれてる光景が頭の中にちらつく。ちょっとした違和感のようなものが、殻を破って芽吹く。
いま、僕は嘘をついた、気がする。
気がするだけだ、わからない。
「だよねー!」
AI僕の返答にショートボブさんはご満悦だ。
「頑張ってください! 応援してます!」と山田が言い添える。ショートボブさんは手をひらりと振って元のポジションに戻っていった。
僕は想像する。ショートボブさんが清澄を呼び出して、清澄に告白する。きっと魅力的な言葉の数々で、清澄に「彼女にしてください」って言う。そうしたら、清澄はどうするんだろう。
ドッ、とまた心臓が鳴った。嫌な音だ。
僕は背中を丸めて口に手を当てた。何も出てこないけど、何か出てきそうだった。
「小南さんとキングのカップルが成立したら一軍どうなるかな?」
「……ごめん、具合悪い」
「は?」
僕は口を押さえたまま、慌ただしく暗記帳を机の中に押し込み、立ち上がった。
「保健室行ってくる」
「おい、大丈夫かよ。顔色悪いぞ」
山田がおろおろと立ち上がって僕に肩を貸そうとしたり支えようとしたりするけれど、僕はとにかく一人になりたかった。山田をふりきり廊下に飛び出して、一刻も早く横になりたくて、保健室のことだけ考えてたから、前を全く見てなかった。
思い切り誰かとぶつかって、僕はふらっと後ろに倒れ込む。尻餅をつく前に、腕をつかまれて事なきを得た。
「ご、っ、めんなさい!」
「みす……、郁?」
なんと、ぶつかったのは渦中の清澄だ。僕の心臓がドッ、と音を立てる。
「顔、真っ青じゃん。どうしたんだよ」
「具合悪くて、保健室に……」
言いきる前に、清澄はしゃがみ込んで僕に背を向けた。
「その感じ、歩くのも辛いだろ。俺がおぶっていく。来い」
「きよ、すみ」
すがるような声音になってしまったのは否めない。清澄は急かすように後ろへ手を伸ばした。
「早く」
僕は考える間もなく王様の背中に体を預けた。腕をしっかりと回してしがみつくようになってしまったのは、僕が弱っているせいだろう。
清澄の使っている整髪料の香りがする。清澄の匂いがする。清澄の家の匂いもする。少し安心する。清澄は僕の膝裏に手を回すと、呼吸も乱さずに立ち上がる。
「――清澄、僕、重くない? だいじょうぶ?」
「かわいいこと言うじゃん。……全然重くないよ。むしろ軽すぎる。もっと色んなもん食べな」
キング清澄に向けられる視線も、ダンゴムシ僕に向けられる視線も、キングとダンゴムシっていう珍しい組み合わせに向けられる奇異の目も、今はどうでもよくて。一刻も早く保健室で横になりたかった。それをわかっていたのか、清澄はすいすいと廊下を歩き、階段を難なく下りて、一階の保健室に僕を運び込んでくれた。
「ありがとう、清澄……」
「気にしなくていい。ゆっくり休みなよ」
清澄は僕の頭をゆっくりゆっくり撫でてから、手を振って去って行った。
「……はぁ」
僕は何度目かのため息をつき、清澄の匂いを思い出しながら、ベッドの上に横たわった。清潔なシーツの匂いがいっそう、清澄の残り香を際立たせる。
『好きだよ、俺は』
好きという言葉には、良い思い出がない。一般的に人には三回のモテ期が来るというけど、僕はその三回をすでに終えている。一回目は三才の時のスミちゃん。二回目は小一の時のカナちゃん。そして三回目は――。
僕は寝返りを打った。外はぬかるんだグラウンドで、人っ子一人いない。僕はその空白を眺めながら、今までのことを少しずつひもといていく。
一回目のスミちゃんは自然消滅した。結婚の約束までしていたけど、今じゃもうどこに居るかも分からない。でも、三才の時の事を未だに引きずっているとしたら、相当重い女の子だろうな、と思う。
二回目のカナちゃんは、好きだ好きだと繰り返してくれたけど――僕が返事をする前に、中一の時にヤリチンと噂の年上の先輩と付き合って、外見も性格も様変わりしてしまい、最終的に退学した。僕は僕のことを好きだと言ってくれたかわいくて優しいカナちゃんの面影がなくなってしまった彼女をどうしていいか分からず、そして変わり果てた彼女に向き合ったときに自分の心に浮き上がってくる澱みたいなものをどう処理していいかわからなかった。
今もそうだ。
今も、さっきのショートボブさんや、バレンタインの時のペールイエローさんと向き合ったとき、僕は僕の中に生じるなんらかの「反応」に対処できない。自分のことなのに。
数学のように美しくなく、英語のように端正でもない。曖昧なのに強烈なこれらの感情に、みんなはどうやって対処してるんだろう。清澄は――、なんであんなこと言ったんだろう?
『好きだよ、俺は』
箱の中にしまって早く忘れてしまいたいのに、清澄の言葉ははっきりと僕の中に残っている。
「大丈夫? 郁」
清澄がカーテンを薄く開けると、授業終了のチャイムがちょうど鳴り響く。僕は眼鏡をかけ直して、早すぎる清澄の登場に首をかしげた。
「……なんか早くない?」
「親戚が危篤だからって言って五分前に抜けてきた」
「親戚が危篤ネタ、何回目だよ」
「かれこれ十回くらい使ったかな」
こいつ、不謹慎すぎる。僕が言葉もなく呆れていると、清澄はパイプ椅子を引っ張ってきて、僕の横たわるベッドの隣に広げて座り、僕の顔をじっとのぞき込んだ。
「さっきよりは顔色ましになってる。あと一コマ残ってるけど、帰るか? 帰るんなら担任に言っておくけど」
ありがたい申し出だけれど、次は数学で、小テストがある。
「流石に次は出るよ、ありがとう、清澄」
「うん、学校で聞く『清澄』からしか採れない栄養があるんだよな」
「……なんて?」
僕はずれてしまった眼鏡を直した。清澄は笑み、僕の髪や耳に触れてくる。
「いつもと違ってて新鮮だって話」
「ちょ、冷たっ」
清澄の手は冷たくて、小指に嵌めてるリングはもっと冷たい。耳を食むようにもまれて、背筋にぞわっとした感覚が走り、腰のあたりまで滑り落ちていく。
「清澄! ちょっと!」
「なに、郁」
透明感のある美貌がゆるりと笑って、冷たい手で僕の手を揉んだり、僕の指の間や水かきのところへ指を入れてみたりするから、僕は身をよじって抵抗した。でも清澄の前では弱々しい抵抗だ。
「くすぐったいからやめて!」
「やめてほしい理由はそれだけ?」
意地悪!
僕は清澄をじとっとにらんで、それから顔を背けた。
「こんなところ誰かに見られたら、キングから陥落するぞ。あっという間に落ちるぞ!」
「いーよ、別に」
思いがけない台詞に僕が目を見開く前に、清澄はなんてことなさそうに言う。
「俺は周りに担ぎ上げられてるからそれに乗っかってるだけ。深角郁に手を出したらころすって言うのに便利だから座ってるだけ」
「……は?」
いや、ころすとか言うなよ。物騒だな。――いやそうじゃなくて。そうじゃなくて。
「そうじゃなかったらこんな面倒くさいことしない」
清澄は僕の手を握り込んだ。冷たい手と僕の体温がとけあっていく。
「郁、誰にも絡まれなくて、楽だろ?」
「あのさ、……勘違いだったらごめん、ほんとにごめん、先に謝っておく。……あのさ。ひょっとしてだけど」
『好きだよ、俺は』
僕はたぶん一生分の勇気を振り絞った。
「その――清澄って、僕のこと好きなの? そういう意味で?」
清澄は僕から目をそらして、自嘲気味に笑った。
「好きだよ。やっと気づいたか?」
「へっ」
「好きだよ、郁」
実のところ、その後の記憶がほとんどない。
でも数学の小テストは十点満点だったし、ノートも綺麗に取ってあった。教科書にも書き込みがあったから、数学の授業はちゃんと受けたらしい。玄関に置かれた靴は綺麗に揃えてあるし――普段通りに清澄は自分専用の座布団を敷いて僕の隣で課題をこなしている。共用しているピンクの付箋は清澄の手元にあり、清澄の手で随所に貼り付けられている。
あの告白だけが夢だったんじゃないかと思わされる。清澄の態度は変わらず、清澄の態度が変わらないから、僕の態度も変わらない。
「郁、ここどうやって公式に当てはめんの」
僕はいつも通り清澄のほうへ距離を詰めて、彼の教科書を使って小さな講義をする。順序立てて、正確に、解き方を解説する。
「それで最後にここを――」
「郁」
「――なに?」
「距離、近いな」
僕はきょとんとして、それからぶわっと顔に血液が集まるのを感じ、ばっと清澄から離れた。
「ななななな、なんだよいきなり!」
「離れんなよ、寂しいから」
「……お前が、変なこと言うからだろ!」
「変なことじゃないだろ。俺がお前のこと好きで、お前と距離が近いな、って感想を漏らしただけだろ」
「それが変なことなんだって!」
僕は恋愛に興味がない。多分、おそらく、無理。とにかく無理。
清澄は眉を下げ、両手を広げて首を横に振った。
「何も変なことじゃない、郁が人からの好意に慣れてないだけ。っていうか今更じゃん、俺らの距離の近さ」
「こ、今度から距離取ってやる……!」
「それは寂しいからだめ」
アイスブルーの瞳が笑う。
「郁は俺の好意に慣れて。今までもそうだったんだから、思い出してみろよ」
「今までって……」
僕は今までの事を思い返そうとしたけれど、どれもこれも「当たり前」に受け入れてきてしまったから、取り立てて何かを思い出すこともできなくて。
「……なんかあったっけ?」
「お前な、怒るぞ」
「ご、ごめん」
「かわいいなって、何度も言ったろ。チョコもあげたし。あれ本命だぜ」
「……あ」
僕は今までに言われてきた、考えもしなかった清澄の「かわいい」について考えて、頭が沸騰しそうになってしまった。確かに言ってた。しかも僕はそれに慣れきってしまってて、特に何の感想も抱かなくなっていて……
「いや、おかしいだろ、な、なんで、男にかわいいって……?」
「好きな奴がかわいいからに決まってるだろ」
王様が言うととにかく様になるのがずるい。問題は喋ってる内容なんだけど。
「じゃ、じゃあ! なんで、僕のこと好きなの……?」
「好きだから」
「答えになってない、やり直し、もう一回」
「メッチャ好きだから」
「さっきと同じじゃん!」
騒ぐ僕らの間に、ピンク色の付箋の束がぱさりと落ちた。僕らはそれにも気づかないで、言い合いを続ける。
「こんなことならもっと早くはっきり言うべきだったな」
清澄は笑いながら、笑いすぎてにじんできた涙を拭った。
「気づいてくれるまで待つつもりだったけど。今の郁、えげつないくらいかわいいよ」
「かわいい言うな、禁止、やめて」
「なんで」
「…………なんでも!」
実のところ、言われるたびに心臓が変に跳ねるんだ。
そんなこと清澄に言ったら、調子に乗られるに決まってるんだから。
「ねえー、フラれたんだけどー」
ショートボブさんがえーんと言いながらお弁当を持ってきたから、山田がのけぞって僕は単語帳を落としかけた。
「傷心なの。混ぜて」
「一軍の小南さんがこんなところに来てもいいんですか⁉」
山田が震える声で訊ねる。ダンゴムシの巣、石の裏、何でもいいけど、とにかくここは彼女の定位置じゃない。いつもと違う彼女の行動に教室全体がざわついているなか、ショートボブさんはお弁当を広げて何事もなかったかのようにしゃべり出した。
「キングにフラれた。夢に見るほど好きな子いるんだってさぁー。もおー、勝ち目ゼロって感じで一周して応援したくなっちゃったよ」
夢に見るほど好きな子。僕はひっくり返りたくなるのをこらえた。
「へえー!」
ずっとのけぞっていた山田が、ようやく身を乗り出した。
「キングの好きな子誰だか分かります? 小南さん」
「うーん、わかんない!」
ショートボブさん、違った、小南さんは僕をじっと見つめた。おにぎりを食べ終えて単語帳ばかり見ている僕をじいっと。
「え、えと、なんですか」
「いつもどうやって勉強やってんの? コツとかあるの?」
「えーと、コツ……毎日やること、とか……?」
「あたしだって毎日やってるよ! それ以外のコツだよ、ないの?」
小南さんの目は不思議と、笑っていない。なんだか詰められているみたいだ。何か彼女の気に触るようなことでもあったんだろうか?
「ええと……」
「小南、八つ当たりならそんくらいにしとけよ」
冷たい声がかかる。教室の入り口に立ったキングは、ゆっくりと教室を見回して、それから「石の裏」でお弁当を食べている小南さんをじっと見た。
「珍しい組み合わせだな」
「だってキングが冷たいんだもん」
「いつものことだろ」
「違うし! 明らかに冷たいし!」
入り口に手をかけ、もたれるように立った清澄は僕にちらと目線をくれる。
「悪いな、深角、山田。うちのが迷惑掛けて」
「とんでもないです!」山田が言った。「小南さんとお昼ご一緒できて嬉しいですよ、でへへ」
だから山田、そういうところだぞ。そういうところが、ダンゴムシの理由だぞ。
「キヨ、『うちの』ってもう一回言って」
「言わないよ」
「もう、意地悪!」
「こんなん意地悪に入らねえから、勘違いするな」
「キングー!」
小南さんは食べかけのお弁当をもちあげて、清澄の席の方へ移動していった。しんとした「石の裏」で、山田と僕は見つめ合う。
「嵐だったな、小南さん」
一軍女子と会話するのなんか、滅多にないことだ。穏やかになった「石の裏」こと僕と山田の席は、そのあと凪いだ海のように静かだった。黙ったままの僕のとなりで、山田が首をかしげる。
「しっかし、じゃあキングに好きな子が居るとして、その子は誰だ? って話になるんだよな。夢に見るほど……誰だろ。その幸運な女子は……」
ちくり、と首筋に視線が刺さる。笑い声の絶えない一軍のたまり場から、その中央から、清澄がこちらを見ている。大ぶりなジェスチャーの読者モデルくんも、隣できらきら笑ってる小南さんの事も見てない。
みんなに好かれる王様は、僕だけを見てる。
僕は恋愛に興味がない――のに。
首筋に突き刺さってくるこの視線を、嫌じゃないと思ってしまう。僕は単語帳の、ピンク色の付箋にさりげなく触れる。スマホが震え、「きよすみ」からメッセージが届く。
『今日も行くから、待ってろよ』
「小南に余計なこと吹き込んだろ」
ピンクの付箋を貼った指先が、僕のおでこをぴんと弾く。
「いたっ」
専用座布団に座り直した清澄は、忌々しげにぶつぶつ言う。
「あの小南に、――よりによってあの小南に、根掘り葉掘り聞かれただろ、……まったく」
「なら、適当に誤魔化せばよかったのに」
「やだ。嘘だけはつきたくない」
小南さんの告白に関して、明らかに僕が悪いんだけれど、清澄も清澄だと思う。
「ていうか、夢に見るほど好きって何だよ。ポエム?」
「チッ――小南、そこまで喋ったのか。あのやろう」
女子相手に「やろう」はないだろう。そう思って僕が顔を上げると、セットした髪をくしゃりとかき混ぜた清澄が、恥ずかしそうにうつむいていた。
「清澄?」
「見んな。王様命令」
ねえ清澄、なんでそんなに照れてんの? 僕は清澄を尊重して、問題集に視線を戻す。
「そんなに恥ずかしかった?」
「――ったりまえだろ」
消え入りそうな声で王様が言うから、僕は可笑しくて、ぐしゃぐしゃに乱れた髪をそっと直してやる。
「髪の毛くっしゃくしゃじゃん。もったいないぞ」
「……ほら、そういうとこだよ」
「なにが?」
清澄は僕の両手をつかむと、また畳に仰向けに横になった。僕はまた、あの、清澄しか見えない景色に連れて行かれる。
「な、なんなんだよ……」
「俺は郁だけ。郁が恋愛しないって言うなら、俺も恋愛しない」
「……か、勝手にしてよ」
「そうだよ。俺が勝手に郁のこと好きなの」
アイスブルーの瞳が近い。手首を放した腕は、僕の腰に回されている。
「だから郁は――郁が望むんなら、恋愛なんかしなくていい」
重力に負けた体が清澄のそれと重なる。耳元に熱くて柔らかいものが触れる。
「恋愛なんか、しなくていい」
僕は、謎にぼんやりする頭の中で、今耳に触れたものは何だろうと、そればかり考えていた。あまい清澄の匂いがして、清澄の鼓動が聞こえた。僕は頭の中で自分を小南さんに置き換えて――めちゃくちゃ嫌だな、と思った。
清澄と小南さんがこんなことしてたら、僕は嫌だ。
「ねえ、誰にでもこんなことやってるわけじゃないよね」
「俺は郁だけだって言ってるだろ」
「……勘違い、するよ。こんなことされたら、みんな」
清澄はそれを聞いて小さく耳元で笑った。
「じゃあ郁はこれで勘違いしてくれる?」
「しない……」
僕は、恋愛はしない。もう、こりごりなんだ。
清澄はそれをきいて体を離した。そしていつも通りの風景が戻ってくる。痛いほど脈打つ、僕の心臓ひとつを残して。
「要するにこの節目に告白しておきたいって事だよ。キングなんか今日だけでもう三回も呼び出されてる。さすがはキングだ。……まあ、告ったらしい女子が軒並み全員泣きながら帰ってきてる時点でお察しだけどな」
「僕には分からん世界だよ」
分からないといえば、もう一つある。
『好きだよ、俺は』
あの後。何事もなかったかのように体を起こして僕らは勉強をし、頼の作ったチョコケーキを一緒に頬張り、清澄に勉強を教えて過ごし、適当なところで別れた。
その後があまりに普通の日常的な風景だったので忘れかけるほどだったけれど、清澄の言葉は刺さったままで、小さな棘が指先に残ってるみたいに、ちくちくと気になる。
『好きだよ』なんて、あの場で出る言葉だっただろうか?
というか、何が『好き』なんだ? 僕はあの場のやりとりを何度も何度も反芻しては、『よく分からないな』という結論とともに戻ってくる。今日だけじゃない。あの日から毎日ずっと、清澄の事を考えている。
「俺は確信したね――絶対彼女いるって鉢谷」
山田の言葉で、僕は現実に帰る。目の前に置きっぱなしの公式の暗記帳の中身が何も入ってこない。
「だって、そういう感じするもん。こう、みんな王様とか神様とか持ち上げてるけど、清いだけじゃないっていうかさー、誰かもう決めた女がいるって顔だよあれは」
「……清澄に彼女はいないよ」
僕はむっとしていった。むっ、というか、むかっ。としたから。
山田は口をあけ、僕を両手で指さしてギャグめいたポーズをして見せた後、「言質!」と叫んだ。
「キングに彼女はいない! お隣さんの証言は信憑性高いぞ、うひょー!」
「こ、声がでかい!」
二軍の連中がこちらを見ている。僕は山田の肩を軽く殴った。
「今のは内緒で、オフレコで、ていうか忘れて!」
鉢谷清澄に関しては、僕は徹底的に幼なじみであることも、仲が良いことも、隣同士の家に住んでいることもひみつにしてきた。学校ではあまり関わらないようにしてきたし、清澄もそれを望んでいるから、僕らふたりの間の暗黙の了解で、学校内では特に接点を持たないようにしてきたのに。何でこんなこと口走っちゃったんだろう。浅はかだった。
「……ねえ、なんか聞き捨てならない言葉が聞こえてきたんだけど、今のほんと?」
一軍のショートボブ女子が話しかけてきた。ほらみろ! 山田はやにさがった顔で別人のように挙動不審になる。ちょっと、いやかなり気持ち悪い。山田、そういうところだぞ。
「あ、エヘヘ。深角くんがそう言ってました」
困ったからって僕に話を振るな!
僕はショートボブさん――彼女が苦手だ。隙あらば清澄のご機嫌取りをしようとし、道化を演じ、甲高い声できゃらきゃら笑うところとか、……すごく苦手なんだけど。
僕を見る彼女の目はいやに真剣で、いつもと雰囲気が違ったから、思わずその可愛い顔とか、うっすら化粧をしてるのとか、いろいろ観察してしまった。ショートボブさんのことを知っているようで知らなかったんだな、僕は、などと思っている間に、ショートボブさんは腕を組んだ。
「……好きな子は居るって聞いてたんだけど、彼女いないならワンチャンあるかな? どう思う、深角くん」
ああー、ええ、どうでしょうかねー……僕にはちっともわからんです。でも清澄は恋愛なんかしないって言ってましたよ。
って、言いたい言葉が喉の奥に張り付いて出てこない。恋愛。恋愛は苦手だ。それが他人のものでも自分のものでも苦手だ。
「……分からないです」
結局この言葉に逃げてしまう。僕の悪い癖だ。
「学年トップの深角くんでさえ分からないんなら、あたしにはもっとわかんないじゃん」
ショートボブさんは偏差値の高い顔面でにこりと笑って見せた。
「じゃあ、深角くんの証言を信用して、あたしもマジ告してみようかなー」
ドッ、と心臓が脈打った。ショートボブさんが清澄に告白する?
「見てて分かると思うんだけど、ちょいちょい伝えてるんだよね。いっつもシカトされるけど。マジだって分かってくれたらいいんだけどなぁ。……どう思う?」
どう思うも何も。自分で考えてくれよそんなこと。僕にそんなこと考えさせないでくれよ。
だけど、小心者の僕はただ彼女の喜ぶ言葉を探して、AIみたいに出力してしまうのだ。
「い」
喉の奥に張り付いた言葉を無理やり引き剥がす。
「――いいんじゃ、ないですかね……」
清澄とショートボブさんがじゃれてる光景が頭の中にちらつく。ちょっとした違和感のようなものが、殻を破って芽吹く。
いま、僕は嘘をついた、気がする。
気がするだけだ、わからない。
「だよねー!」
AI僕の返答にショートボブさんはご満悦だ。
「頑張ってください! 応援してます!」と山田が言い添える。ショートボブさんは手をひらりと振って元のポジションに戻っていった。
僕は想像する。ショートボブさんが清澄を呼び出して、清澄に告白する。きっと魅力的な言葉の数々で、清澄に「彼女にしてください」って言う。そうしたら、清澄はどうするんだろう。
ドッ、とまた心臓が鳴った。嫌な音だ。
僕は背中を丸めて口に手を当てた。何も出てこないけど、何か出てきそうだった。
「小南さんとキングのカップルが成立したら一軍どうなるかな?」
「……ごめん、具合悪い」
「は?」
僕は口を押さえたまま、慌ただしく暗記帳を机の中に押し込み、立ち上がった。
「保健室行ってくる」
「おい、大丈夫かよ。顔色悪いぞ」
山田がおろおろと立ち上がって僕に肩を貸そうとしたり支えようとしたりするけれど、僕はとにかく一人になりたかった。山田をふりきり廊下に飛び出して、一刻も早く横になりたくて、保健室のことだけ考えてたから、前を全く見てなかった。
思い切り誰かとぶつかって、僕はふらっと後ろに倒れ込む。尻餅をつく前に、腕をつかまれて事なきを得た。
「ご、っ、めんなさい!」
「みす……、郁?」
なんと、ぶつかったのは渦中の清澄だ。僕の心臓がドッ、と音を立てる。
「顔、真っ青じゃん。どうしたんだよ」
「具合悪くて、保健室に……」
言いきる前に、清澄はしゃがみ込んで僕に背を向けた。
「その感じ、歩くのも辛いだろ。俺がおぶっていく。来い」
「きよ、すみ」
すがるような声音になってしまったのは否めない。清澄は急かすように後ろへ手を伸ばした。
「早く」
僕は考える間もなく王様の背中に体を預けた。腕をしっかりと回してしがみつくようになってしまったのは、僕が弱っているせいだろう。
清澄の使っている整髪料の香りがする。清澄の匂いがする。清澄の家の匂いもする。少し安心する。清澄は僕の膝裏に手を回すと、呼吸も乱さずに立ち上がる。
「――清澄、僕、重くない? だいじょうぶ?」
「かわいいこと言うじゃん。……全然重くないよ。むしろ軽すぎる。もっと色んなもん食べな」
キング清澄に向けられる視線も、ダンゴムシ僕に向けられる視線も、キングとダンゴムシっていう珍しい組み合わせに向けられる奇異の目も、今はどうでもよくて。一刻も早く保健室で横になりたかった。それをわかっていたのか、清澄はすいすいと廊下を歩き、階段を難なく下りて、一階の保健室に僕を運び込んでくれた。
「ありがとう、清澄……」
「気にしなくていい。ゆっくり休みなよ」
清澄は僕の頭をゆっくりゆっくり撫でてから、手を振って去って行った。
「……はぁ」
僕は何度目かのため息をつき、清澄の匂いを思い出しながら、ベッドの上に横たわった。清潔なシーツの匂いがいっそう、清澄の残り香を際立たせる。
『好きだよ、俺は』
好きという言葉には、良い思い出がない。一般的に人には三回のモテ期が来るというけど、僕はその三回をすでに終えている。一回目は三才の時のスミちゃん。二回目は小一の時のカナちゃん。そして三回目は――。
僕は寝返りを打った。外はぬかるんだグラウンドで、人っ子一人いない。僕はその空白を眺めながら、今までのことを少しずつひもといていく。
一回目のスミちゃんは自然消滅した。結婚の約束までしていたけど、今じゃもうどこに居るかも分からない。でも、三才の時の事を未だに引きずっているとしたら、相当重い女の子だろうな、と思う。
二回目のカナちゃんは、好きだ好きだと繰り返してくれたけど――僕が返事をする前に、中一の時にヤリチンと噂の年上の先輩と付き合って、外見も性格も様変わりしてしまい、最終的に退学した。僕は僕のことを好きだと言ってくれたかわいくて優しいカナちゃんの面影がなくなってしまった彼女をどうしていいか分からず、そして変わり果てた彼女に向き合ったときに自分の心に浮き上がってくる澱みたいなものをどう処理していいかわからなかった。
今もそうだ。
今も、さっきのショートボブさんや、バレンタインの時のペールイエローさんと向き合ったとき、僕は僕の中に生じるなんらかの「反応」に対処できない。自分のことなのに。
数学のように美しくなく、英語のように端正でもない。曖昧なのに強烈なこれらの感情に、みんなはどうやって対処してるんだろう。清澄は――、なんであんなこと言ったんだろう?
『好きだよ、俺は』
箱の中にしまって早く忘れてしまいたいのに、清澄の言葉ははっきりと僕の中に残っている。
「大丈夫? 郁」
清澄がカーテンを薄く開けると、授業終了のチャイムがちょうど鳴り響く。僕は眼鏡をかけ直して、早すぎる清澄の登場に首をかしげた。
「……なんか早くない?」
「親戚が危篤だからって言って五分前に抜けてきた」
「親戚が危篤ネタ、何回目だよ」
「かれこれ十回くらい使ったかな」
こいつ、不謹慎すぎる。僕が言葉もなく呆れていると、清澄はパイプ椅子を引っ張ってきて、僕の横たわるベッドの隣に広げて座り、僕の顔をじっとのぞき込んだ。
「さっきよりは顔色ましになってる。あと一コマ残ってるけど、帰るか? 帰るんなら担任に言っておくけど」
ありがたい申し出だけれど、次は数学で、小テストがある。
「流石に次は出るよ、ありがとう、清澄」
「うん、学校で聞く『清澄』からしか採れない栄養があるんだよな」
「……なんて?」
僕はずれてしまった眼鏡を直した。清澄は笑み、僕の髪や耳に触れてくる。
「いつもと違ってて新鮮だって話」
「ちょ、冷たっ」
清澄の手は冷たくて、小指に嵌めてるリングはもっと冷たい。耳を食むようにもまれて、背筋にぞわっとした感覚が走り、腰のあたりまで滑り落ちていく。
「清澄! ちょっと!」
「なに、郁」
透明感のある美貌がゆるりと笑って、冷たい手で僕の手を揉んだり、僕の指の間や水かきのところへ指を入れてみたりするから、僕は身をよじって抵抗した。でも清澄の前では弱々しい抵抗だ。
「くすぐったいからやめて!」
「やめてほしい理由はそれだけ?」
意地悪!
僕は清澄をじとっとにらんで、それから顔を背けた。
「こんなところ誰かに見られたら、キングから陥落するぞ。あっという間に落ちるぞ!」
「いーよ、別に」
思いがけない台詞に僕が目を見開く前に、清澄はなんてことなさそうに言う。
「俺は周りに担ぎ上げられてるからそれに乗っかってるだけ。深角郁に手を出したらころすって言うのに便利だから座ってるだけ」
「……は?」
いや、ころすとか言うなよ。物騒だな。――いやそうじゃなくて。そうじゃなくて。
「そうじゃなかったらこんな面倒くさいことしない」
清澄は僕の手を握り込んだ。冷たい手と僕の体温がとけあっていく。
「郁、誰にも絡まれなくて、楽だろ?」
「あのさ、……勘違いだったらごめん、ほんとにごめん、先に謝っておく。……あのさ。ひょっとしてだけど」
『好きだよ、俺は』
僕はたぶん一生分の勇気を振り絞った。
「その――清澄って、僕のこと好きなの? そういう意味で?」
清澄は僕から目をそらして、自嘲気味に笑った。
「好きだよ。やっと気づいたか?」
「へっ」
「好きだよ、郁」
実のところ、その後の記憶がほとんどない。
でも数学の小テストは十点満点だったし、ノートも綺麗に取ってあった。教科書にも書き込みがあったから、数学の授業はちゃんと受けたらしい。玄関に置かれた靴は綺麗に揃えてあるし――普段通りに清澄は自分専用の座布団を敷いて僕の隣で課題をこなしている。共用しているピンクの付箋は清澄の手元にあり、清澄の手で随所に貼り付けられている。
あの告白だけが夢だったんじゃないかと思わされる。清澄の態度は変わらず、清澄の態度が変わらないから、僕の態度も変わらない。
「郁、ここどうやって公式に当てはめんの」
僕はいつも通り清澄のほうへ距離を詰めて、彼の教科書を使って小さな講義をする。順序立てて、正確に、解き方を解説する。
「それで最後にここを――」
「郁」
「――なに?」
「距離、近いな」
僕はきょとんとして、それからぶわっと顔に血液が集まるのを感じ、ばっと清澄から離れた。
「ななななな、なんだよいきなり!」
「離れんなよ、寂しいから」
「……お前が、変なこと言うからだろ!」
「変なことじゃないだろ。俺がお前のこと好きで、お前と距離が近いな、って感想を漏らしただけだろ」
「それが変なことなんだって!」
僕は恋愛に興味がない。多分、おそらく、無理。とにかく無理。
清澄は眉を下げ、両手を広げて首を横に振った。
「何も変なことじゃない、郁が人からの好意に慣れてないだけ。っていうか今更じゃん、俺らの距離の近さ」
「こ、今度から距離取ってやる……!」
「それは寂しいからだめ」
アイスブルーの瞳が笑う。
「郁は俺の好意に慣れて。今までもそうだったんだから、思い出してみろよ」
「今までって……」
僕は今までの事を思い返そうとしたけれど、どれもこれも「当たり前」に受け入れてきてしまったから、取り立てて何かを思い出すこともできなくて。
「……なんかあったっけ?」
「お前な、怒るぞ」
「ご、ごめん」
「かわいいなって、何度も言ったろ。チョコもあげたし。あれ本命だぜ」
「……あ」
僕は今までに言われてきた、考えもしなかった清澄の「かわいい」について考えて、頭が沸騰しそうになってしまった。確かに言ってた。しかも僕はそれに慣れきってしまってて、特に何の感想も抱かなくなっていて……
「いや、おかしいだろ、な、なんで、男にかわいいって……?」
「好きな奴がかわいいからに決まってるだろ」
王様が言うととにかく様になるのがずるい。問題は喋ってる内容なんだけど。
「じゃ、じゃあ! なんで、僕のこと好きなの……?」
「好きだから」
「答えになってない、やり直し、もう一回」
「メッチャ好きだから」
「さっきと同じじゃん!」
騒ぐ僕らの間に、ピンク色の付箋の束がぱさりと落ちた。僕らはそれにも気づかないで、言い合いを続ける。
「こんなことならもっと早くはっきり言うべきだったな」
清澄は笑いながら、笑いすぎてにじんできた涙を拭った。
「気づいてくれるまで待つつもりだったけど。今の郁、えげつないくらいかわいいよ」
「かわいい言うな、禁止、やめて」
「なんで」
「…………なんでも!」
実のところ、言われるたびに心臓が変に跳ねるんだ。
そんなこと清澄に言ったら、調子に乗られるに決まってるんだから。
「ねえー、フラれたんだけどー」
ショートボブさんがえーんと言いながらお弁当を持ってきたから、山田がのけぞって僕は単語帳を落としかけた。
「傷心なの。混ぜて」
「一軍の小南さんがこんなところに来てもいいんですか⁉」
山田が震える声で訊ねる。ダンゴムシの巣、石の裏、何でもいいけど、とにかくここは彼女の定位置じゃない。いつもと違う彼女の行動に教室全体がざわついているなか、ショートボブさんはお弁当を広げて何事もなかったかのようにしゃべり出した。
「キングにフラれた。夢に見るほど好きな子いるんだってさぁー。もおー、勝ち目ゼロって感じで一周して応援したくなっちゃったよ」
夢に見るほど好きな子。僕はひっくり返りたくなるのをこらえた。
「へえー!」
ずっとのけぞっていた山田が、ようやく身を乗り出した。
「キングの好きな子誰だか分かります? 小南さん」
「うーん、わかんない!」
ショートボブさん、違った、小南さんは僕をじっと見つめた。おにぎりを食べ終えて単語帳ばかり見ている僕をじいっと。
「え、えと、なんですか」
「いつもどうやって勉強やってんの? コツとかあるの?」
「えーと、コツ……毎日やること、とか……?」
「あたしだって毎日やってるよ! それ以外のコツだよ、ないの?」
小南さんの目は不思議と、笑っていない。なんだか詰められているみたいだ。何か彼女の気に触るようなことでもあったんだろうか?
「ええと……」
「小南、八つ当たりならそんくらいにしとけよ」
冷たい声がかかる。教室の入り口に立ったキングは、ゆっくりと教室を見回して、それから「石の裏」でお弁当を食べている小南さんをじっと見た。
「珍しい組み合わせだな」
「だってキングが冷たいんだもん」
「いつものことだろ」
「違うし! 明らかに冷たいし!」
入り口に手をかけ、もたれるように立った清澄は僕にちらと目線をくれる。
「悪いな、深角、山田。うちのが迷惑掛けて」
「とんでもないです!」山田が言った。「小南さんとお昼ご一緒できて嬉しいですよ、でへへ」
だから山田、そういうところだぞ。そういうところが、ダンゴムシの理由だぞ。
「キヨ、『うちの』ってもう一回言って」
「言わないよ」
「もう、意地悪!」
「こんなん意地悪に入らねえから、勘違いするな」
「キングー!」
小南さんは食べかけのお弁当をもちあげて、清澄の席の方へ移動していった。しんとした「石の裏」で、山田と僕は見つめ合う。
「嵐だったな、小南さん」
一軍女子と会話するのなんか、滅多にないことだ。穏やかになった「石の裏」こと僕と山田の席は、そのあと凪いだ海のように静かだった。黙ったままの僕のとなりで、山田が首をかしげる。
「しっかし、じゃあキングに好きな子が居るとして、その子は誰だ? って話になるんだよな。夢に見るほど……誰だろ。その幸運な女子は……」
ちくり、と首筋に視線が刺さる。笑い声の絶えない一軍のたまり場から、その中央から、清澄がこちらを見ている。大ぶりなジェスチャーの読者モデルくんも、隣できらきら笑ってる小南さんの事も見てない。
みんなに好かれる王様は、僕だけを見てる。
僕は恋愛に興味がない――のに。
首筋に突き刺さってくるこの視線を、嫌じゃないと思ってしまう。僕は単語帳の、ピンク色の付箋にさりげなく触れる。スマホが震え、「きよすみ」からメッセージが届く。
『今日も行くから、待ってろよ』
「小南に余計なこと吹き込んだろ」
ピンクの付箋を貼った指先が、僕のおでこをぴんと弾く。
「いたっ」
専用座布団に座り直した清澄は、忌々しげにぶつぶつ言う。
「あの小南に、――よりによってあの小南に、根掘り葉掘り聞かれただろ、……まったく」
「なら、適当に誤魔化せばよかったのに」
「やだ。嘘だけはつきたくない」
小南さんの告白に関して、明らかに僕が悪いんだけれど、清澄も清澄だと思う。
「ていうか、夢に見るほど好きって何だよ。ポエム?」
「チッ――小南、そこまで喋ったのか。あのやろう」
女子相手に「やろう」はないだろう。そう思って僕が顔を上げると、セットした髪をくしゃりとかき混ぜた清澄が、恥ずかしそうにうつむいていた。
「清澄?」
「見んな。王様命令」
ねえ清澄、なんでそんなに照れてんの? 僕は清澄を尊重して、問題集に視線を戻す。
「そんなに恥ずかしかった?」
「――ったりまえだろ」
消え入りそうな声で王様が言うから、僕は可笑しくて、ぐしゃぐしゃに乱れた髪をそっと直してやる。
「髪の毛くっしゃくしゃじゃん。もったいないぞ」
「……ほら、そういうとこだよ」
「なにが?」
清澄は僕の両手をつかむと、また畳に仰向けに横になった。僕はまた、あの、清澄しか見えない景色に連れて行かれる。
「な、なんなんだよ……」
「俺は郁だけ。郁が恋愛しないって言うなら、俺も恋愛しない」
「……か、勝手にしてよ」
「そうだよ。俺が勝手に郁のこと好きなの」
アイスブルーの瞳が近い。手首を放した腕は、僕の腰に回されている。
「だから郁は――郁が望むんなら、恋愛なんかしなくていい」
重力に負けた体が清澄のそれと重なる。耳元に熱くて柔らかいものが触れる。
「恋愛なんか、しなくていい」
僕は、謎にぼんやりする頭の中で、今耳に触れたものは何だろうと、そればかり考えていた。あまい清澄の匂いがして、清澄の鼓動が聞こえた。僕は頭の中で自分を小南さんに置き換えて――めちゃくちゃ嫌だな、と思った。
清澄と小南さんがこんなことしてたら、僕は嫌だ。
「ねえ、誰にでもこんなことやってるわけじゃないよね」
「俺は郁だけだって言ってるだろ」
「……勘違い、するよ。こんなことされたら、みんな」
清澄はそれを聞いて小さく耳元で笑った。
「じゃあ郁はこれで勘違いしてくれる?」
「しない……」
僕は、恋愛はしない。もう、こりごりなんだ。
清澄はそれをきいて体を離した。そしていつも通りの風景が戻ってくる。痛いほど脈打つ、僕の心臓ひとつを残して。