靴箱を開けるとき、僕は一番無防備になる。いつも通り靴箱を開けて、中の上履きを取り出そうと言うとき、指先に別のものが引っかかると、反射で声を上げてしまうし、そのまま派手に尻餅をついてしまう――んだけど、今回は違った。
『放課後教室に残ってろ』とだけ書かれた蛍光ピンクの付箋を目にした僕は、それを丁寧に剥がして、しげしげと眺めた。
「なんでこんなまだるっこしいことを……」
メッセひとつで済むだろうに、なんで付箋を使ったんだろう。
「まあいいか」
教室に入ると、夏休み明けでどこか変わった空気が教室中を満たしていた。それぞれがそれぞれの夏休みを過ごしたからか、みんな少しずつ変わったみたいだ。
「おはよーセンセー」
山田の膝の上に落ち着いている小南さんが手を振る。隣の机に陣取っている谷垣くんもひらりと手を挙げた。
「おはようみんな。……清澄は?」
「さっきまでいたけど。すぐ戻ってくるんじゃない」
谷垣くんが言う。
「あー、だりい」
山田が大きなため息をつく。「午前授業じゃなかったら終わってたわ。午前授業に感謝」
「夏休みボケしてんじゃん、直巳」
谷垣くんが山田の背中を叩く。「しゃきっとしろ」
「うええ、無理。二日前に戻りたい」
「なんで二日前?」
僕が訊ねると小南さんがすかさず山田の頭をチョップした。
「あいてっ」
なんとなく察した。
二人の二日前についてはスルーすることにして、僕は席に着く。山田の言ったとおり、今日は登校日でしかないので、夏休みの宿題の提出と、ホームルームをして解散のはずだ。その放課後だから、蛍光ピンクさん(仮)が想定しているのは結構早い時間ということになる。
そうしているうちに教師が入ってきて、出欠をとるぞーと怠そうな声を出す。夏休みボケなのは山田だけじゃないかもしれない。
僕は蛍光ピンクさん(仮)の後ろ頭を見つめる。
あれから特段変わったことはなかった。いつも通りの僕らの日常に、「恋人」という名前がついただけだった。劇的になにか変化することもなかったし、何か強いられる事もなかった。僕らは勉強をし、教え合い、時々手を繋いで、まれにキスをした。
恋人ってこんなに簡単なことだったんだろうか。それとも、これまでに清澄に散々慣らされたから、僕の感覚が麻痺してるんだろうか。
少なくとも恋愛は、僕が恐れるほど恐ろしいものではなかったし、僕にかみついてきたりしなかった。
ぬるい空気のホームルーム。回収されていく宿題。時折恋人と遇う視線。
蜂みたいだと思ってたあの視線は柔らかな綿に変わって、ちくりとした鋭さよりもくすぐったさをもたらすようになった。清澄の視線がくすぐったい。
「深角。数学の自習ノート、数学科準備室に持ってきてくれるか」
「わ、わかりました」
大量のノートを運ぶ前に、蛍光ピンクさん(仮)に、「ちょっと遅れる」とメッセを打っておく。返事が来る前にあの綿みたいにくすぐったい視線が飛んできたので、僕は気を取り直してノートを抱えた。
「深角。大学はどこを受けるつもりなんだ」
「ああ、T大を受けようと思ってます。数学科で」
「将来の夢があってのことか」
さっぱりした口調の女性数学教師は、ノートを運び終えた僕にそう話題を振ってきた。以前であれば、「なんとなく、趣味で」とか答えていたかもしれないけれど、僕ははっきり答えた。
「数学の、教師になりたいと思います」
「そうか、頑張れ。応援してる」
「ありがとうございます」
「実は、お前が自主的に塾を始めてから平均点が上がってる。だから、……まあ、なんだ。向いてると思うよ」
僕はそれを聞いて、なんだか羽が生えたような気持ちになった。
「ごめん遅れた!」
「おせえ」
スマホを弄っていた蛍光ピンクさん(仮)はじっとりと目を細めた。目の下のほくろ。青い瞳。日を浴びて金色に光る髪。
「ちょっと、進路の話してたら遅くなった」
「……そっか」
清澄は窓の枠にもたれて外を見た。ベランダの外側は太陽光に照らされて輝いている。
「流石にお前のレベルの大学にはついていけないもんな、俺。どうしようかな」
「清澄は清澄の人生を生きなよ」
清澄がバスケ部を手放してまで特進クラスを選んだのは、きっと僕のためだった。僕と一緒に居るためだった。確信がある。絶対そうだ。
「清澄は清澄がしたいことをすればいい。……僕は、ずっと一緒にいるからさ」
僕はその隣に腰を下ろす。はためくカーテンが少し暴れる。
僕ら以外誰もいなくなった特進Aクラス。窓を開け放して二人で話すと、まるでここだけ時間が切り離されたかのようだ。
「はは。小説でも書こうかな」
「小説?」
「ほら、知られざる才能が鉢谷清澄の中に眠ってるかもしれないし?」
「案外、俳優とか向いてるかもしれないよ」
本気で言ったのだけど、冗談ととられたらしい。笑いながら清澄が首を横に振った。
「やだよ。演技でも、お前以外と恋愛したくねえし」
「清澄ってそういうところ、あるよね」
「どういうところだよ」
「ド一途なとこ」
「ドの使い方微妙に違わない?」
清澄はゆっくりと僕の方を向いた。
「ね、郁。もう一回言ってよ」
「え?」
「あのとき、俺熱でぼんやりしてたから。もう一回聞きたい」
そのためだけに今日ここに僕を呼んだのか。別に家でも好かったじゃないか。この蛍光ピンクさん(仮)め。
「……仕方ないな」
僕は清澄の耳元に唇を寄せる。そして囁く。前と同じ言葉、一言一句そのまま。僕と恋愛をしてください。
清澄の目が、ゆっくり笑む。
「うん。……俺ら、恋愛しよっか」
清澄が目を伏せて顔を傾ける。僕は目を閉じて清澄を待つ。
カーテンがさっと暴れる。僕らの姿を覆い隠す。
了
『放課後教室に残ってろ』とだけ書かれた蛍光ピンクの付箋を目にした僕は、それを丁寧に剥がして、しげしげと眺めた。
「なんでこんなまだるっこしいことを……」
メッセひとつで済むだろうに、なんで付箋を使ったんだろう。
「まあいいか」
教室に入ると、夏休み明けでどこか変わった空気が教室中を満たしていた。それぞれがそれぞれの夏休みを過ごしたからか、みんな少しずつ変わったみたいだ。
「おはよーセンセー」
山田の膝の上に落ち着いている小南さんが手を振る。隣の机に陣取っている谷垣くんもひらりと手を挙げた。
「おはようみんな。……清澄は?」
「さっきまでいたけど。すぐ戻ってくるんじゃない」
谷垣くんが言う。
「あー、だりい」
山田が大きなため息をつく。「午前授業じゃなかったら終わってたわ。午前授業に感謝」
「夏休みボケしてんじゃん、直巳」
谷垣くんが山田の背中を叩く。「しゃきっとしろ」
「うええ、無理。二日前に戻りたい」
「なんで二日前?」
僕が訊ねると小南さんがすかさず山田の頭をチョップした。
「あいてっ」
なんとなく察した。
二人の二日前についてはスルーすることにして、僕は席に着く。山田の言ったとおり、今日は登校日でしかないので、夏休みの宿題の提出と、ホームルームをして解散のはずだ。その放課後だから、蛍光ピンクさん(仮)が想定しているのは結構早い時間ということになる。
そうしているうちに教師が入ってきて、出欠をとるぞーと怠そうな声を出す。夏休みボケなのは山田だけじゃないかもしれない。
僕は蛍光ピンクさん(仮)の後ろ頭を見つめる。
あれから特段変わったことはなかった。いつも通りの僕らの日常に、「恋人」という名前がついただけだった。劇的になにか変化することもなかったし、何か強いられる事もなかった。僕らは勉強をし、教え合い、時々手を繋いで、まれにキスをした。
恋人ってこんなに簡単なことだったんだろうか。それとも、これまでに清澄に散々慣らされたから、僕の感覚が麻痺してるんだろうか。
少なくとも恋愛は、僕が恐れるほど恐ろしいものではなかったし、僕にかみついてきたりしなかった。
ぬるい空気のホームルーム。回収されていく宿題。時折恋人と遇う視線。
蜂みたいだと思ってたあの視線は柔らかな綿に変わって、ちくりとした鋭さよりもくすぐったさをもたらすようになった。清澄の視線がくすぐったい。
「深角。数学の自習ノート、数学科準備室に持ってきてくれるか」
「わ、わかりました」
大量のノートを運ぶ前に、蛍光ピンクさん(仮)に、「ちょっと遅れる」とメッセを打っておく。返事が来る前にあの綿みたいにくすぐったい視線が飛んできたので、僕は気を取り直してノートを抱えた。
「深角。大学はどこを受けるつもりなんだ」
「ああ、T大を受けようと思ってます。数学科で」
「将来の夢があってのことか」
さっぱりした口調の女性数学教師は、ノートを運び終えた僕にそう話題を振ってきた。以前であれば、「なんとなく、趣味で」とか答えていたかもしれないけれど、僕ははっきり答えた。
「数学の、教師になりたいと思います」
「そうか、頑張れ。応援してる」
「ありがとうございます」
「実は、お前が自主的に塾を始めてから平均点が上がってる。だから、……まあ、なんだ。向いてると思うよ」
僕はそれを聞いて、なんだか羽が生えたような気持ちになった。
「ごめん遅れた!」
「おせえ」
スマホを弄っていた蛍光ピンクさん(仮)はじっとりと目を細めた。目の下のほくろ。青い瞳。日を浴びて金色に光る髪。
「ちょっと、進路の話してたら遅くなった」
「……そっか」
清澄は窓の枠にもたれて外を見た。ベランダの外側は太陽光に照らされて輝いている。
「流石にお前のレベルの大学にはついていけないもんな、俺。どうしようかな」
「清澄は清澄の人生を生きなよ」
清澄がバスケ部を手放してまで特進クラスを選んだのは、きっと僕のためだった。僕と一緒に居るためだった。確信がある。絶対そうだ。
「清澄は清澄がしたいことをすればいい。……僕は、ずっと一緒にいるからさ」
僕はその隣に腰を下ろす。はためくカーテンが少し暴れる。
僕ら以外誰もいなくなった特進Aクラス。窓を開け放して二人で話すと、まるでここだけ時間が切り離されたかのようだ。
「はは。小説でも書こうかな」
「小説?」
「ほら、知られざる才能が鉢谷清澄の中に眠ってるかもしれないし?」
「案外、俳優とか向いてるかもしれないよ」
本気で言ったのだけど、冗談ととられたらしい。笑いながら清澄が首を横に振った。
「やだよ。演技でも、お前以外と恋愛したくねえし」
「清澄ってそういうところ、あるよね」
「どういうところだよ」
「ド一途なとこ」
「ドの使い方微妙に違わない?」
清澄はゆっくりと僕の方を向いた。
「ね、郁。もう一回言ってよ」
「え?」
「あのとき、俺熱でぼんやりしてたから。もう一回聞きたい」
そのためだけに今日ここに僕を呼んだのか。別に家でも好かったじゃないか。この蛍光ピンクさん(仮)め。
「……仕方ないな」
僕は清澄の耳元に唇を寄せる。そして囁く。前と同じ言葉、一言一句そのまま。僕と恋愛をしてください。
清澄の目が、ゆっくり笑む。
「うん。……俺ら、恋愛しよっか」
清澄が目を伏せて顔を傾ける。僕は目を閉じて清澄を待つ。
カーテンがさっと暴れる。僕らの姿を覆い隠す。
了



