靴箱を開けるとき、僕は一番無防備になる。
片道十分の徒歩で学校にやってきた僕の頭の中には、タスク「靴箱の中の上履きを取って履く」と、トピック「今日の時間割について」、タスク「課題と小テスト対策」がジェンガみたいに積み上がっていて、靴箱に手を掛ける瞬間はそのジェンガを綺麗に整えるそのときだから、今日みたいに上履きの代わりにメモ用紙が指先に引っかかったりすると――予期せぬ出来事に思わず、勢いよく尻餅をつく。漫画みたいな悲鳴付きで。
「ぎゃあああ⁉」
深角郁。高校一年生のバレンタインに、ペールイエローの可愛いメモが靴箱に入っていた。
「『昼休み体育館裏に来てください』ってこれ、勝ち確じゃん深角ぃ!」
隣の席の山田直巳は大声でメモの文面を読み上げて、あたかも自分がそれをもらったかのように勝ち誇った顔をした。「よかったな!」
「よ、よくない……」
「どうしてそこでダウンすんだよ! 昼休みウキウキ告白タイムだぜ⁉」
僕は車酔いのあとのようにぐったりと机にうつ伏せたまま、山田から寄越された例のメモを見つめた。丸くて小さな字は可愛らしい女子を思わせる。
「僕が、恋愛ごと苦手なの、知ってるだろ、山田……」
恋愛というか、恋バナやのろけの類いも受け付けない。多分根本的にダメなんだと思う。恋愛が。
いつからこうなってしまったのかはもう記憶の彼方だけど、恋愛に関して嫌な思い出があるのは確かだ。開けちゃいけないパンドラの箱があって、僕は懸命にその蓋を閉めているというわけで。
「そんなの、実際恋愛したら変わるって! 変わる変わる! やってみなきゃ何も分からない!」
かく言う山田だが、二次元が恋人なタイプの男だ。山田に言われても全く説得力がない。僕は机にうつ伏せたままメモを放ると、机の中をまさぐり、数学の参考書を取り出してパラパラめくった。
「ええと今日の予習範囲は……」
「心を落ち着かせるのに青チャート読む奴初めて見た。さすが学年トップは違うね」
「なんていうか、恋愛は盛者必衰だけど、数学は春の夜の夢じゃないから安心するんだよね」
「言ってること微妙に分かるようで分かんねえなー」
「山田には分からなくていいよ僕の気持ちなんか」
僕はピンク色の付箋を眺めてふうとため息をつく。予習範囲は昨日のうちに目を通したし、問題もある程度解けるようになっている、あとは予習中に出てきた疑問点を授業で補完するだけ。
と、教室の入り口がにわかに騒がしくなった。女子――恋する乙女たちの高い声が立て続けに響く。
「キング、あの、バレンタインチョコ受け取ってください!」
「わたしも! 清澄くんのために必死に選んだから」
「鉢谷くん! 鉢谷くんこれも受け取って!」
山田がひそ、と僕の耳元にささやく。
「来たぜ、本日の主役級。俺らの王様が」
山田にささやかれなくても分かってる。嫌というほど知っている。
鉢谷清澄。僕たち特進クラスA組の王様。モデルみたいな体型とモデルみたいな顔立ちで、週に一度は俳優かモデルにスカウトされているような美形男子。少なくとも瓶底眼鏡でぼさぼさ頭のガリ勉男子とは比べものにならないほど魅力的な男だ。だから――特進クラスの王様って呼ばれてる。
王様は差し出されるチョコレートを微笑みとともに受け取っては、持参したらしい紙袋にしまい込んでいく。こうなると分かっていたんだろう。用意周到なことで。
一方(おそらく)本命チョコを手渡す女子たちは必死だ。薄く化粧していたり、目一杯おしゃれしていたり。さほど詳しくない僕でも分かる、彼女たちは本気だ。本気で清澄にチョコを渡している。恋愛に必要なのは勇気と勢いだ、といわんばかりに。
「はぁー、渡す方もだけど受け取る方も大変だな」と山田がつぶやいた。僕はペールイエローの衝撃のままうつ伏せていたけれど、やがて清澄を中心とするバレンタインの喧噪に耐えきれなくなって、数学の参考書を片手に廊下に出た。ホームルームまではまだ十五分ある。
「深角」
教室を出る僕に清澄が声をかけ、一瞥をくれる。頭一つ高いところから、僕の首筋にちくりと視線が刺さる。蜂が刺すみたいに、ちくっと感じる。僕はそれを敢えて無視する。
僕らの教室には「カースト」がある。一軍・二軍・三軍、その他、以上。一軍は陽キャの上澄み、二軍は陽キャと普通の人たちで「自称」が多い。三軍は一軍を崇拝している連中か、陰キャ。その他は、そこにも入り込むことができなかった陰キャ中の陰キャ。そんなふうにざっくり分けられている。
――で、鉢谷清澄はその一軍のリーダーみたいなものだ。愛称は王様。
顔面偏差値の高い女子を何人も侍らせて、読者モデルもやってるようなイケメンとつるみ、高校の休み時間になれば後ろの黒板周辺を占拠して落書きをする。SEX&LOVE&PEACE! とか。書いたままの自由さで、彼らは休み時間をつぶしている。
笑い声が絶えないのは大抵一軍の連中だ。二軍は廊下に出ていて、三軍とその他は教室の隅っこで冬に凍えたダンゴムシみたいに集まっている。
バレンタインで一悶着あった清澄は、紙袋に収まりきらなかったチョコレートを自分の机の上に積み上げていた。
「一軍の連中、チョコ食い切れんのかな」
「知らない」
ダンゴムシ山田が無限に話しかけてくるのを、同じくダンゴムシ僕は適当に流す。僕らはカーストに属することすらできない陰キャとして石の陰で生きているから、陽キャたちの気持ちは分からない。……というか、わかりたく、ない。
「キヨ、チョコもらいすぎ! あたしにもちょっと分けてよ、ね、いいでしょ、ちょっとだけ」
「お前は自分で買ってこいよ」と清澄がいう。一軍の女子は高い声できゃらきゃらと笑った。
「キングってば辛辣!」
「全部食うつもりか」と突っ込まれて、清澄は初めて、かすかに笑う。泣きぼくろのある目を笑ませる。
「それは企業秘密」
「なんだよ、教えろよ。全部本命チョコなんだから、もらった奴にはもらった責任があるんだからな」
「お前だって本命チョコ、いくつもらったんだよ。谷垣」
読者モデルくん、と僕が脳内で呼んでいる読者モデルの谷垣くんは、机の上を指し示した。そこにはやはりちょっとした山になっているチョコの包みがある。
「鉢谷ほどじゃないって」
そんな一軍の縁遠い悩み事が聞こえてくる中で、山田が悩ましげにため息をついた。
「レベチの悩みだな。ていうか次元が違う」
「山田暇なの? 次の英語の小テスト大丈夫?」
「次の小テストはとっくの昔に捨ててる。一軍ウォッチのが楽しいんだよ」
「何が……」
山田にほらと示されて体ごとぐるりと振り返ると、ちょうど、偶然、清澄のアイスブルーの瞳と瞳がかちあった。ペールイエローのメモのことが不意に頭の中にログインしてくる。それは暗記していた英単語の中を泳ぎ、鉢谷のアイスブルーの瞳にぶつかってバラバラになった。
『昼休み/体育館裏/来てください』
ああ、もう、だから恋愛ごとっていやだ。
「これ、鉢谷清澄くんに渡してください! よろしくお願いします!」
体育館裏で頭を下げられて差し出されたのは、手作りブラウニーらしいものが可愛らしくラッピングされたバレンタインのチョコだった。
あーそうだよねこんなことだろうとは思ってた、と考える僕と、僕宛じゃなくてよかった、と喜ぶ僕とがせめぎ合って、僕は唇の端を引きつらせる。
うん、わかるよ。あの顔に、あの目にじっと見つめられて平常心でいられる人の方が少ないんじゃないだろうか。彫りの深い顔立ち。地毛の茶髪に、文句の付け所がない目鼻立ち。目の下には絶妙に配置されたほくろ。甘いマスクと形容しても許される希有な美貌。
直接渡せなくても仕方がない。必要なのは勇気と勢い、だけど、それを準備できない人も居るってだけの話だ。
「……ごめんなさい、鉢谷は手作りのチョコを受け取ってないんです」
僕ははっきりと彼女、ペールイエローさんに告げた。紛れもない事実だった。鉢谷は絶対に手作りチョコを受け取らない。さっき受け取っていた、というか回収していたチョコだって、全部既製品だ。
「詳しいことは鉢谷に聞いてください、じゃあ僕はこれで――」
「えっ、お隣さんなのに渡してくれないんですか⁉」
僕を呼び出した女子は食い下がって僕をひきとめた。
「深角くんと鉢谷くんって幼なじみで、仲が良いって聞いてたから、お願いしようと思ったのに……!」
「いや、だから、鉢谷は手作りのチョコは食べられないんです、本当に」
「そう言って、適当に断ろうって言うんですか!」
いや、面倒なことになった。だから恋愛ごとは嫌いだ。心底嫌いだ!
「違うんです、そうじゃなくて、本当に――」
「深角の言ってることは本当だよ」
背後から、聞き知った声が聞こえてきた。女子は肩をそびやかし、僕は片手で頭を抱えた。
「きよ……鉢谷、聞いてたのか」
「うん」
体育館の外壁に寄りかかって話を聞いていたらしい清澄は、ゆっくりとこちらへ歩みを進めてくる。そして、僕の肩を訳もなくがっちり抱くと、ことんと首をかしげた。
「深角郁と、俺が幼なじみで、家が隣で、実は仲いいのは本当。俺が、手作りチョコを受け取ってないことも、手作りチョコを食べられないのも本当」
「な、なんで……?」
すぐ隣で清澄の低い声が応える。
「おまじない? 的に、血液入りのチョコ食わされたことあって、トラウマなんだ。だから既製品しか受け付けられない。気持ち籠もってるのは分かってるし、俺のこと思ってくれたのもよく分かってる。だけど受け入れられない」
「……ごめんなさい」
ペールイエローさんは目に涙を一杯に浮かべた。清澄は僕から離れると、彼女の頭に手を載せて、涙を隠すようにそっと抱き寄せた。
「泣かないで。もったいないから」
「う、うう、ごめんなさい、知らなくて……」
「大丈夫、いつでも受け取るから」
ねえ清澄、僕、何を見せられてるわけ?
放置された僕は、どこへ行けばいいか分からなくなり、おろおろと視線をさまよわせた。そうしたら、清澄の目が僕をしっかり見つめている事に気づいて、なおのことどうしていいか分からなくなる。
「あの、僕、もういいですか」
「だめ」
即答だ。なにゆえ!
「深角にはあとでたっぷり説明してもらうから」
いったい何を⁉
だけど、ペールイエローさんが泣き止むまで彼女に付きそっていた清澄は確かにかっこよかったし、確かに王様って感じがした。「王様」だとか「神様」だとか「名前の通り清い」とか言われるわけだ。
まあそう呼ばれる清澄と、実際に僕の前に立ったときの清澄とでは全く全然違うんだけどね。
「そういうわけで問一。女子と体育館裏に二人きりでいた理由を十文字以内で答えよ。はい郁さん早かった」
「呼び出されたからです」
「なんで呼び出されたの?」
そこまで答えなきゃならんのか。知ってるくせに。
「鉢谷清澄の幼なじみで、家が隣だってことがバレてるからだろ!」
「おかしいな。誰が漏らしたんだろう。処さないと」
「処すな。処してどうすんだよ」
「え? つるす」
「つるすな」
綺麗な唇からつぎつぎ迸り出る物騒なワードをいちいち否定しながら帰路をたどる。徒歩十分、たった十分、されど十分。
先を行く清澄へ「鉢谷」と呼びかけると、「き・よ・す・み」と返される。がさがさと音を立てるチョコレートの紙袋の音に紛れて、清澄が小さな声で言った。
「今は清澄な」
「その基準、未だにわかんないんだけど」
「わかれ」
短い言葉の応酬。これは幼なじみとしての「清澄」のものだ。王様としての「鉢谷」のものではない。
「王様が言うことはいつも難しいデス」
「いや、学年トップ深角郁の言うことじゃねえな。こんなに単純でわかりやすい奴もそうそういないんだわ」
「清澄がわかりやすかった事なんかある?」
「いつもわかりやすいでーす。郁がボケボケで物わかり悪いだけ」
「悪口!」
清澄は両手にぶら下げた紙袋をがさがさ言わせて大ぶりにポーズを取った。
「問二。今、俺が深刻に考えてる事を当てなさい。はい郁さん早かった」
「えっ。えーっと。チョコが重いなーうざいなーとか?」
「半分正解。清澄ポイント五ポイント贈呈」
「半分正解って何?」
「当たらずとも遠からずってことで」清澄は前を向いた。「おまえっていつも、クリティカル出してくれないよな」
「だって。わかんないよ、違いすぎて」
顔が良くて頭もよくてスポーツもできて苦手なことなんか一つもなくて、クラスの王様だ神様だなんだともてはやされてる清澄の事なんか僕には一生かかっても理解できない。いつもふわっと、「なんとなく」の手探りで触ってるだけだ。幸か不幸か、清澄はそのふわっとした僕の態度を許してくれるけれど、基本的なことは変わらない。僕は清澄の事が分からない。
「そっか」
清澄はからりとした返事をかえした。冬の空気みたいに冷たく乾いた声だ。
我が家の玄関先に到着して、凍えた手で鞄をまさぐって家の鍵を探していると、清澄が隣から走ってきて、小さな紙袋を押しつけてきた。
「ハッピーバレンタイン。俺から郁へ」
「へ? あ、ありがと」
「ちゃんと食えよ、王様命令」
手をひらりと振り、清澄は自宅に消えていった。僕はぼんやりと、チョコレートの包みを見下ろした。茶色の地に金色の線が入ったストライプの包み紙。
「……お情けかな」
僕は散々考えたけれど、やっぱり王様が考えている事はわからなくて。僕はバレンタインチョコを一個ももらえていないから、きっと王様が恵んでくれたんだろう、そう思うことにして。
僕は隣の鉢谷家に向かって手を合わせた。
「いただきます」
メッセージカードには流麗な筆記体の手書きでこう書いてある。『ハッピーバレンタインフォアユー』。
「ほんと――」
最初のチョコを頬張りながら、僕はつぶやいた。
「モテるだろうにな……」
鉢谷家が僕――深角郁の家の、隣の空き地に家を建てて住み始めたのは、僕が八歳の頃。あれからの付き合いと思うと、この短い人生の半分くらいを一緒に過ごしている訳だけど、僕が知っている清澄と母が知っている清澄とには大分差があるらしい。母と清澄の話をすると二回に一回は「清澄くんの爪の垢でも煎じて飲ませたい」と言われ、「清澄くんって彼女いるのかしらねえ、あんな良い子、女の子が放っておかないわよ、郁、あなたも――」と僕の恋愛事情の話になる。統計上八割の確率でそうなるので、僕は積極的に清澄の話題を母には振らないようにしている。恋愛の話なんか僕に振らないでほしい。
恋愛はこわい。人をたやすく、跡形もなく、変えてしまうから。
「おにい! バレンタインのチョコいくつもらえた?」
「うわっびっくりした!」
翌朝――土曜日の朝。僕が布団の中で部屋の寒さと戦っていると、三つ下の妹の頼がふんわり甘い香りとともに部屋に乗り込んできた。おいノックくらいしろよ。
布団の中から芋虫のように顔を出した僕は、きっちりとエプロンを装備した頼をおろおろと見上げた。
「なに。なんだ。これからお菓子でも作るのか?」
頼はとにかくお菓子を作るのが好きだ。将来は本格的にお菓子の勉強をして、パティシエールになりたいと言っている。だからこの光景は特別珍しいものではない。いつものように何か作ろうと思い立ったのだろう。
「うん。一日遅れだけど、バレンタインのチョコケーキを焼こうと思って。お父さんとおにいと、キヨくんに。そうだなぁ、せっかくだしすみれさんにもあげようかな」
ちゃっかりお隣さんの清澄も入っている。ちなみにすみれさんは清澄のお母さんだ。
僕が部屋着のまま瞬きを繰り返していると、
「で、おにいの今年の戦歴は?」
ずかずかと中へ入ってきた頼が僕をじろりと見下ろした。
「なんだよ戦歴って」
「チョコの数! わたしがこれから焼くチョコケーキでしょ、お母さんからでしょ、すみれさんからでしょ……あとキヨくんからでしょ」
何で知ってるんだ?
「他になければ四つかぁ。おにいにしては善戦といったところかな。でも三つは義理で。ふむふむ。まあキヨくんのチョコがあるし――よかったね!」
「いや、何で知ってるんだよ? すみれさんや母さんからの義理チョコはともかく、その、清澄からの友チョコは……?」
もらったチョコの数だなんて、誰にも言ってないのに。ていうか、幼なじみからもらった友チョコはバレンタインの戦歴とやらに入るのか? 女子の感覚はよく分からない。そう言ったら、
「えぇ? なんでわかんないの? ほんとに分かんないの⁉」
頼はずいずいと僕に顔を寄せると、ツインテールに結った髪を揺らして首をかしげた。心底不思議そうに。
「変だな。あんなにわかりやすいのに、なんでおにいだけ分かんないのかな。変なの」
「なんでって……何が?」
心当たりが全くない。というか、何の話をされているんだろう、僕は。きょとんとしていると、頼がわなわな両手を震わせた。どうしたというんだ。
「ああもう、頭が良くったって! 察しが悪い男はアイソ尽かされんだからね! アイソ尽かされないように頑張れよ!」
「何の応援だよ!」
「おにいの将来と輝かしい未来へのエールだよ! 後は自分で考えて!」
頼は言いたいことだけ言ってぷいと部屋を出て行った。嵐のような妹だ。
「さて起きるか」とスマホを見て、メッセージアプリに「きよすみ」から連絡が来ているのを発見する。
『今日そっち行っていい?』
三十分ほど前だ。僕はすぐに返事をした。
『今日はデザート付きだよ。楽しみにしてて』
『え。なんだろ』
清澄はあの教室の王様の影も形もない可愛らしいスタンプを連打してきた。「たのしみ!」とはしゃぐデフォルメされたポメラニアンの図柄だ。
『やかましいわ!』
『えー、デザートって何、気になるじゃん』
『頼特製チョコケーキ。まだできてないけど。今から作るってよ』
少しの間があった。僕が着替え終わる頃、ようやく返信が来た。
『頼ちゃんのケーキ美味いからなぁ』
『我が妹ながらよくできたおなごである』
僕がそう返したあたりで、玄関のチャイムが鳴った。そのまま応対したらしい、頼の悲鳴が聞こえてきた。
「やだ! キヨくん来ちゃった! 今日化粧してないのに!」
早くも清澄が来たらしい。僕はざっと部屋のちゃぶ台の上を片付けると、清澄専用の座布団を押し入れから出しておく。さらに机の上からピンク色の付箋を取りあげ、ちゃぶ台の上に置く。そして清澄を出迎えるために玄関へ顔を出した。
「おはよう、清澄」
「はよ」
「やだもう、やっぱりキヨくん肌綺麗すぎ、化粧水何使ってるの? それとも元がよすぎるの? 顔整いすぎ」
「うーん、化粧水は母さんが選んでるのを適当に使ってるだけだよ。銘柄までは覚えてない」
「ほんとに? じゃああとですみれさんに聞いてみよ。……はぁーつるつる。つるっつる」
頼は清澄の肌と顔に夢中だ。僕は我を失っている頼に「チョコケーキはどうしたんだよ」と促す。
「あっ、そうだった! そうだったそうだったよー!」
エプロン姿の妹はバタバタとキッチンに戻っていった。僕はやれやれとため息をつき、清澄にごめんと笑いかける。
「いつもごめん、本人に悪気はないんだ」
「いいよ。女の子はあれくらいがいい。……ていうか郁、寝起きだな、かわいい」
清澄の長い指が伸びてきて、僕の前髪を撫でる。「あちこち跳ねてるよ、寝癖」
「えっ嘘だろ」
「ほんとほんと、こことか。すげーぞ。ふわっふわのひな鳥みたいだ」
清澄は僕の頭にふわふわと触れてくる。あんまりなので、僕はスマホのカメラを起動した。
「うわ。ひな鳥ってより河童みたいじゃん」
「……まあ、郁だからなんでもいいけど」
「直してくる!」
「……いいのに」
清澄の小さなつぶやきが聞こえてきたけれど、僕はそれを無視した。僕にだって一応羞恥心があるのだ。
まさか、学校でもないのに寝癖を直す日が来るなんて思ってなかった。河童になっている頭頂部を軽くぬらしてドライヤーで乾かす、と、陰キャも陰キャなりに頑張ってみる。まあ、何もしないよりまともだろう。河童の皿がなくなっただけましだ。
「ごめん、待っただろ」
「別に?」
畳んだだけの僕の布団にもたれかかっていた清澄は、弾みをつけて体をおこし、勝手知ったる僕の部屋とばかりに定位置に座る。そして、ピンクの付箋の束をつまむと、ハリセンみたいにひらひらさせた。
いつからかは忘れてしまったけど、こうして清澄が僕の部屋に押しかけてくると、気づけば勉強会みたいな雰囲気になる。勉強しにきているのか、単純に遊びに来てなりゆきで勉強会になるのかは不明だ。特進クラスの王様は、僕の前でだけ無敵のバリアを解く。無防備になり、やたら近くなる。そして僕もまた、ライオンがネコ科動物だってことをふと思い出すみたいに、清澄に対して親しくなれる。
僕が数学の参考書を広げると、清澄もそれにならうように教科書を出した。ピンク色の付箋はちゃぶ台の真ん中で、出番を待っている。
「テスト範囲ってどこまでだっけ?」
「教科書は一三二ページから。参考書は単元五のところから。習ったところまで全部だから、来週の授業もちゃんと聞かなきゃダメだよ」
清澄がピンクの付箋を取り上げた。テスト範囲のページにぺたりと貼り付けられた蛍光ピンクは、はじまりはここですよ、とばかりに主張を始める。僕の参考書と教科書にはすでに同じ付箋が貼ってあって、数日前からその役目を果たしていた。
「さすが学年トップ、期末テスト範囲もバッチリ」
「わざわざ言わんでいい」
清澄は綺麗な顔をにまにまさせながら、隣から僕の頬を冷たい指で小突く。王様・神様・清澄様と彼を崇め奉っている二軍・三軍の連中や一軍ウォッチに熱を上げている山田が見たらひっくり返りそうだな、と思う。
「なあ、郁はチョコいくつもらった?」
さっきもこのくだり、やったぞ。僕は頼の言葉をそのままそらんじる。
「ええと、……四つ。三つは義理で一つは友チョコ」
「ははん。母さんズと頼ちゃんと俺ってとこ」
清澄は目を細めてにやっと笑った。僕は眼鏡のつるを弄りながら唇を尖らせる。
「笑うなら笑えよ。ノーダメだから」
「男子高校生だろ。異性からもらったチョコレートの数で一喜一憂しろ」
僕は別にチョコが大好きというわけでもないし、女の子が大好きというわけでもないから、その基準には全く同意できない。世の中のその他大勢のみなさんがそうであるというだけで。
「そういう王様はいくつもらったんですかぁ」
だる絡みのノリで訊ねると、清澄はついと目をそらした。
「まだ数えてない。そんなの気にしてどうすんだよ」
「『本命チョコもらった側にはもらった側の責任がある』んじゃないの? ……読者モデルくんが言ってたじゃん」
僕が何気なくそう言うと、清澄は目をついと細めた。
「……その理屈だと、郁もさ――」
「え?」
「なあ、郁」
「なに?」
「俺があげたチョコ食った?」
「ちょっとずつ食べてるけど……」
「じゃあ好きな人いる?」
「い、い、いいいいいるわけないじゃん⁉」
『じゃあ』って、接続詞として間違ってる!
「それか気になる人。……何でもいいからさ。そういう、大事な人」
「い、いない! いないいない!」
普通の会話の中に唐突に投げ込まれた爆弾発言に僕は動悸が止まらなくなる。恋愛関連は勘弁してくれ。清澄とこの部屋にいるときだけは、そんなこと考えたくなかったのに――。
「僕は恋愛してる場合じゃないし、恋愛するつもりもない! 一生! ……で、なんでそんなこと聞くの?」
幼なじみは僕の言葉を聞くなり、ふっと微笑んでペンを置いた。何かすとんと腑に落ちたような、納得したような風だった。
「じゃ、――俺もそういうことにしようかな」
「へ」
「勉強で忙しいもんな、俺ら」
「う、うん……?」
清澄はとびきり綺麗な顔で僕の手首をつかんで引く。畳に仰向けに倒れ込む清澄の上に乗り上げるような形になって、僕はゆっくり、ゆっくりなんども瞬きをした。今の状況をどう受け取っていいか分からなかったから。
「郁、恋愛なんかしなくていいよ」
ごく近くで、清澄がささやく。特にセットとかしてない伸びっぱなしの髪を梳かれると、清澄が小指に嵌めてるリングが耳に触れて、冷たい。アイスブルーの瞳が、あの完璧な顔が近い。
「俺も恋愛しないし。郁が居るから」
「……モテすぎて困るだけだろ。僕のせいにするなよ」
どこに落ち着ければいいのか分からない気持ちの置き所を探して、僕は清澄の胸に手をついた。そこはせわしなくどくどくと脈打つ心臓の上で。
「……郁のせいだよ、全部」
長い睫毛を伏せて王様が言う。これは世間で一般的な幼なじみの距離なんだろうか? そう僕が疑問に思いかけたそのとき、清澄はにわかに僕の頭を肩口に引き寄せてつぶやいた。
「好きだよ、俺は」
「え?」
――そのときの僕は、清澄の言葉の意味の、百分の一も理解できなかったのだ。
片道十分の徒歩で学校にやってきた僕の頭の中には、タスク「靴箱の中の上履きを取って履く」と、トピック「今日の時間割について」、タスク「課題と小テスト対策」がジェンガみたいに積み上がっていて、靴箱に手を掛ける瞬間はそのジェンガを綺麗に整えるそのときだから、今日みたいに上履きの代わりにメモ用紙が指先に引っかかったりすると――予期せぬ出来事に思わず、勢いよく尻餅をつく。漫画みたいな悲鳴付きで。
「ぎゃあああ⁉」
深角郁。高校一年生のバレンタインに、ペールイエローの可愛いメモが靴箱に入っていた。
「『昼休み体育館裏に来てください』ってこれ、勝ち確じゃん深角ぃ!」
隣の席の山田直巳は大声でメモの文面を読み上げて、あたかも自分がそれをもらったかのように勝ち誇った顔をした。「よかったな!」
「よ、よくない……」
「どうしてそこでダウンすんだよ! 昼休みウキウキ告白タイムだぜ⁉」
僕は車酔いのあとのようにぐったりと机にうつ伏せたまま、山田から寄越された例のメモを見つめた。丸くて小さな字は可愛らしい女子を思わせる。
「僕が、恋愛ごと苦手なの、知ってるだろ、山田……」
恋愛というか、恋バナやのろけの類いも受け付けない。多分根本的にダメなんだと思う。恋愛が。
いつからこうなってしまったのかはもう記憶の彼方だけど、恋愛に関して嫌な思い出があるのは確かだ。開けちゃいけないパンドラの箱があって、僕は懸命にその蓋を閉めているというわけで。
「そんなの、実際恋愛したら変わるって! 変わる変わる! やってみなきゃ何も分からない!」
かく言う山田だが、二次元が恋人なタイプの男だ。山田に言われても全く説得力がない。僕は机にうつ伏せたままメモを放ると、机の中をまさぐり、数学の参考書を取り出してパラパラめくった。
「ええと今日の予習範囲は……」
「心を落ち着かせるのに青チャート読む奴初めて見た。さすが学年トップは違うね」
「なんていうか、恋愛は盛者必衰だけど、数学は春の夜の夢じゃないから安心するんだよね」
「言ってること微妙に分かるようで分かんねえなー」
「山田には分からなくていいよ僕の気持ちなんか」
僕はピンク色の付箋を眺めてふうとため息をつく。予習範囲は昨日のうちに目を通したし、問題もある程度解けるようになっている、あとは予習中に出てきた疑問点を授業で補完するだけ。
と、教室の入り口がにわかに騒がしくなった。女子――恋する乙女たちの高い声が立て続けに響く。
「キング、あの、バレンタインチョコ受け取ってください!」
「わたしも! 清澄くんのために必死に選んだから」
「鉢谷くん! 鉢谷くんこれも受け取って!」
山田がひそ、と僕の耳元にささやく。
「来たぜ、本日の主役級。俺らの王様が」
山田にささやかれなくても分かってる。嫌というほど知っている。
鉢谷清澄。僕たち特進クラスA組の王様。モデルみたいな体型とモデルみたいな顔立ちで、週に一度は俳優かモデルにスカウトされているような美形男子。少なくとも瓶底眼鏡でぼさぼさ頭のガリ勉男子とは比べものにならないほど魅力的な男だ。だから――特進クラスの王様って呼ばれてる。
王様は差し出されるチョコレートを微笑みとともに受け取っては、持参したらしい紙袋にしまい込んでいく。こうなると分かっていたんだろう。用意周到なことで。
一方(おそらく)本命チョコを手渡す女子たちは必死だ。薄く化粧していたり、目一杯おしゃれしていたり。さほど詳しくない僕でも分かる、彼女たちは本気だ。本気で清澄にチョコを渡している。恋愛に必要なのは勇気と勢いだ、といわんばかりに。
「はぁー、渡す方もだけど受け取る方も大変だな」と山田がつぶやいた。僕はペールイエローの衝撃のままうつ伏せていたけれど、やがて清澄を中心とするバレンタインの喧噪に耐えきれなくなって、数学の参考書を片手に廊下に出た。ホームルームまではまだ十五分ある。
「深角」
教室を出る僕に清澄が声をかけ、一瞥をくれる。頭一つ高いところから、僕の首筋にちくりと視線が刺さる。蜂が刺すみたいに、ちくっと感じる。僕はそれを敢えて無視する。
僕らの教室には「カースト」がある。一軍・二軍・三軍、その他、以上。一軍は陽キャの上澄み、二軍は陽キャと普通の人たちで「自称」が多い。三軍は一軍を崇拝している連中か、陰キャ。その他は、そこにも入り込むことができなかった陰キャ中の陰キャ。そんなふうにざっくり分けられている。
――で、鉢谷清澄はその一軍のリーダーみたいなものだ。愛称は王様。
顔面偏差値の高い女子を何人も侍らせて、読者モデルもやってるようなイケメンとつるみ、高校の休み時間になれば後ろの黒板周辺を占拠して落書きをする。SEX&LOVE&PEACE! とか。書いたままの自由さで、彼らは休み時間をつぶしている。
笑い声が絶えないのは大抵一軍の連中だ。二軍は廊下に出ていて、三軍とその他は教室の隅っこで冬に凍えたダンゴムシみたいに集まっている。
バレンタインで一悶着あった清澄は、紙袋に収まりきらなかったチョコレートを自分の机の上に積み上げていた。
「一軍の連中、チョコ食い切れんのかな」
「知らない」
ダンゴムシ山田が無限に話しかけてくるのを、同じくダンゴムシ僕は適当に流す。僕らはカーストに属することすらできない陰キャとして石の陰で生きているから、陽キャたちの気持ちは分からない。……というか、わかりたく、ない。
「キヨ、チョコもらいすぎ! あたしにもちょっと分けてよ、ね、いいでしょ、ちょっとだけ」
「お前は自分で買ってこいよ」と清澄がいう。一軍の女子は高い声できゃらきゃらと笑った。
「キングってば辛辣!」
「全部食うつもりか」と突っ込まれて、清澄は初めて、かすかに笑う。泣きぼくろのある目を笑ませる。
「それは企業秘密」
「なんだよ、教えろよ。全部本命チョコなんだから、もらった奴にはもらった責任があるんだからな」
「お前だって本命チョコ、いくつもらったんだよ。谷垣」
読者モデルくん、と僕が脳内で呼んでいる読者モデルの谷垣くんは、机の上を指し示した。そこにはやはりちょっとした山になっているチョコの包みがある。
「鉢谷ほどじゃないって」
そんな一軍の縁遠い悩み事が聞こえてくる中で、山田が悩ましげにため息をついた。
「レベチの悩みだな。ていうか次元が違う」
「山田暇なの? 次の英語の小テスト大丈夫?」
「次の小テストはとっくの昔に捨ててる。一軍ウォッチのが楽しいんだよ」
「何が……」
山田にほらと示されて体ごとぐるりと振り返ると、ちょうど、偶然、清澄のアイスブルーの瞳と瞳がかちあった。ペールイエローのメモのことが不意に頭の中にログインしてくる。それは暗記していた英単語の中を泳ぎ、鉢谷のアイスブルーの瞳にぶつかってバラバラになった。
『昼休み/体育館裏/来てください』
ああ、もう、だから恋愛ごとっていやだ。
「これ、鉢谷清澄くんに渡してください! よろしくお願いします!」
体育館裏で頭を下げられて差し出されたのは、手作りブラウニーらしいものが可愛らしくラッピングされたバレンタインのチョコだった。
あーそうだよねこんなことだろうとは思ってた、と考える僕と、僕宛じゃなくてよかった、と喜ぶ僕とがせめぎ合って、僕は唇の端を引きつらせる。
うん、わかるよ。あの顔に、あの目にじっと見つめられて平常心でいられる人の方が少ないんじゃないだろうか。彫りの深い顔立ち。地毛の茶髪に、文句の付け所がない目鼻立ち。目の下には絶妙に配置されたほくろ。甘いマスクと形容しても許される希有な美貌。
直接渡せなくても仕方がない。必要なのは勇気と勢い、だけど、それを準備できない人も居るってだけの話だ。
「……ごめんなさい、鉢谷は手作りのチョコを受け取ってないんです」
僕ははっきりと彼女、ペールイエローさんに告げた。紛れもない事実だった。鉢谷は絶対に手作りチョコを受け取らない。さっき受け取っていた、というか回収していたチョコだって、全部既製品だ。
「詳しいことは鉢谷に聞いてください、じゃあ僕はこれで――」
「えっ、お隣さんなのに渡してくれないんですか⁉」
僕を呼び出した女子は食い下がって僕をひきとめた。
「深角くんと鉢谷くんって幼なじみで、仲が良いって聞いてたから、お願いしようと思ったのに……!」
「いや、だから、鉢谷は手作りのチョコは食べられないんです、本当に」
「そう言って、適当に断ろうって言うんですか!」
いや、面倒なことになった。だから恋愛ごとは嫌いだ。心底嫌いだ!
「違うんです、そうじゃなくて、本当に――」
「深角の言ってることは本当だよ」
背後から、聞き知った声が聞こえてきた。女子は肩をそびやかし、僕は片手で頭を抱えた。
「きよ……鉢谷、聞いてたのか」
「うん」
体育館の外壁に寄りかかって話を聞いていたらしい清澄は、ゆっくりとこちらへ歩みを進めてくる。そして、僕の肩を訳もなくがっちり抱くと、ことんと首をかしげた。
「深角郁と、俺が幼なじみで、家が隣で、実は仲いいのは本当。俺が、手作りチョコを受け取ってないことも、手作りチョコを食べられないのも本当」
「な、なんで……?」
すぐ隣で清澄の低い声が応える。
「おまじない? 的に、血液入りのチョコ食わされたことあって、トラウマなんだ。だから既製品しか受け付けられない。気持ち籠もってるのは分かってるし、俺のこと思ってくれたのもよく分かってる。だけど受け入れられない」
「……ごめんなさい」
ペールイエローさんは目に涙を一杯に浮かべた。清澄は僕から離れると、彼女の頭に手を載せて、涙を隠すようにそっと抱き寄せた。
「泣かないで。もったいないから」
「う、うう、ごめんなさい、知らなくて……」
「大丈夫、いつでも受け取るから」
ねえ清澄、僕、何を見せられてるわけ?
放置された僕は、どこへ行けばいいか分からなくなり、おろおろと視線をさまよわせた。そうしたら、清澄の目が僕をしっかり見つめている事に気づいて、なおのことどうしていいか分からなくなる。
「あの、僕、もういいですか」
「だめ」
即答だ。なにゆえ!
「深角にはあとでたっぷり説明してもらうから」
いったい何を⁉
だけど、ペールイエローさんが泣き止むまで彼女に付きそっていた清澄は確かにかっこよかったし、確かに王様って感じがした。「王様」だとか「神様」だとか「名前の通り清い」とか言われるわけだ。
まあそう呼ばれる清澄と、実際に僕の前に立ったときの清澄とでは全く全然違うんだけどね。
「そういうわけで問一。女子と体育館裏に二人きりでいた理由を十文字以内で答えよ。はい郁さん早かった」
「呼び出されたからです」
「なんで呼び出されたの?」
そこまで答えなきゃならんのか。知ってるくせに。
「鉢谷清澄の幼なじみで、家が隣だってことがバレてるからだろ!」
「おかしいな。誰が漏らしたんだろう。処さないと」
「処すな。処してどうすんだよ」
「え? つるす」
「つるすな」
綺麗な唇からつぎつぎ迸り出る物騒なワードをいちいち否定しながら帰路をたどる。徒歩十分、たった十分、されど十分。
先を行く清澄へ「鉢谷」と呼びかけると、「き・よ・す・み」と返される。がさがさと音を立てるチョコレートの紙袋の音に紛れて、清澄が小さな声で言った。
「今は清澄な」
「その基準、未だにわかんないんだけど」
「わかれ」
短い言葉の応酬。これは幼なじみとしての「清澄」のものだ。王様としての「鉢谷」のものではない。
「王様が言うことはいつも難しいデス」
「いや、学年トップ深角郁の言うことじゃねえな。こんなに単純でわかりやすい奴もそうそういないんだわ」
「清澄がわかりやすかった事なんかある?」
「いつもわかりやすいでーす。郁がボケボケで物わかり悪いだけ」
「悪口!」
清澄は両手にぶら下げた紙袋をがさがさ言わせて大ぶりにポーズを取った。
「問二。今、俺が深刻に考えてる事を当てなさい。はい郁さん早かった」
「えっ。えーっと。チョコが重いなーうざいなーとか?」
「半分正解。清澄ポイント五ポイント贈呈」
「半分正解って何?」
「当たらずとも遠からずってことで」清澄は前を向いた。「おまえっていつも、クリティカル出してくれないよな」
「だって。わかんないよ、違いすぎて」
顔が良くて頭もよくてスポーツもできて苦手なことなんか一つもなくて、クラスの王様だ神様だなんだともてはやされてる清澄の事なんか僕には一生かかっても理解できない。いつもふわっと、「なんとなく」の手探りで触ってるだけだ。幸か不幸か、清澄はそのふわっとした僕の態度を許してくれるけれど、基本的なことは変わらない。僕は清澄の事が分からない。
「そっか」
清澄はからりとした返事をかえした。冬の空気みたいに冷たく乾いた声だ。
我が家の玄関先に到着して、凍えた手で鞄をまさぐって家の鍵を探していると、清澄が隣から走ってきて、小さな紙袋を押しつけてきた。
「ハッピーバレンタイン。俺から郁へ」
「へ? あ、ありがと」
「ちゃんと食えよ、王様命令」
手をひらりと振り、清澄は自宅に消えていった。僕はぼんやりと、チョコレートの包みを見下ろした。茶色の地に金色の線が入ったストライプの包み紙。
「……お情けかな」
僕は散々考えたけれど、やっぱり王様が考えている事はわからなくて。僕はバレンタインチョコを一個ももらえていないから、きっと王様が恵んでくれたんだろう、そう思うことにして。
僕は隣の鉢谷家に向かって手を合わせた。
「いただきます」
メッセージカードには流麗な筆記体の手書きでこう書いてある。『ハッピーバレンタインフォアユー』。
「ほんと――」
最初のチョコを頬張りながら、僕はつぶやいた。
「モテるだろうにな……」
鉢谷家が僕――深角郁の家の、隣の空き地に家を建てて住み始めたのは、僕が八歳の頃。あれからの付き合いと思うと、この短い人生の半分くらいを一緒に過ごしている訳だけど、僕が知っている清澄と母が知っている清澄とには大分差があるらしい。母と清澄の話をすると二回に一回は「清澄くんの爪の垢でも煎じて飲ませたい」と言われ、「清澄くんって彼女いるのかしらねえ、あんな良い子、女の子が放っておかないわよ、郁、あなたも――」と僕の恋愛事情の話になる。統計上八割の確率でそうなるので、僕は積極的に清澄の話題を母には振らないようにしている。恋愛の話なんか僕に振らないでほしい。
恋愛はこわい。人をたやすく、跡形もなく、変えてしまうから。
「おにい! バレンタインのチョコいくつもらえた?」
「うわっびっくりした!」
翌朝――土曜日の朝。僕が布団の中で部屋の寒さと戦っていると、三つ下の妹の頼がふんわり甘い香りとともに部屋に乗り込んできた。おいノックくらいしろよ。
布団の中から芋虫のように顔を出した僕は、きっちりとエプロンを装備した頼をおろおろと見上げた。
「なに。なんだ。これからお菓子でも作るのか?」
頼はとにかくお菓子を作るのが好きだ。将来は本格的にお菓子の勉強をして、パティシエールになりたいと言っている。だからこの光景は特別珍しいものではない。いつものように何か作ろうと思い立ったのだろう。
「うん。一日遅れだけど、バレンタインのチョコケーキを焼こうと思って。お父さんとおにいと、キヨくんに。そうだなぁ、せっかくだしすみれさんにもあげようかな」
ちゃっかりお隣さんの清澄も入っている。ちなみにすみれさんは清澄のお母さんだ。
僕が部屋着のまま瞬きを繰り返していると、
「で、おにいの今年の戦歴は?」
ずかずかと中へ入ってきた頼が僕をじろりと見下ろした。
「なんだよ戦歴って」
「チョコの数! わたしがこれから焼くチョコケーキでしょ、お母さんからでしょ、すみれさんからでしょ……あとキヨくんからでしょ」
何で知ってるんだ?
「他になければ四つかぁ。おにいにしては善戦といったところかな。でも三つは義理で。ふむふむ。まあキヨくんのチョコがあるし――よかったね!」
「いや、何で知ってるんだよ? すみれさんや母さんからの義理チョコはともかく、その、清澄からの友チョコは……?」
もらったチョコの数だなんて、誰にも言ってないのに。ていうか、幼なじみからもらった友チョコはバレンタインの戦歴とやらに入るのか? 女子の感覚はよく分からない。そう言ったら、
「えぇ? なんでわかんないの? ほんとに分かんないの⁉」
頼はずいずいと僕に顔を寄せると、ツインテールに結った髪を揺らして首をかしげた。心底不思議そうに。
「変だな。あんなにわかりやすいのに、なんでおにいだけ分かんないのかな。変なの」
「なんでって……何が?」
心当たりが全くない。というか、何の話をされているんだろう、僕は。きょとんとしていると、頼がわなわな両手を震わせた。どうしたというんだ。
「ああもう、頭が良くったって! 察しが悪い男はアイソ尽かされんだからね! アイソ尽かされないように頑張れよ!」
「何の応援だよ!」
「おにいの将来と輝かしい未来へのエールだよ! 後は自分で考えて!」
頼は言いたいことだけ言ってぷいと部屋を出て行った。嵐のような妹だ。
「さて起きるか」とスマホを見て、メッセージアプリに「きよすみ」から連絡が来ているのを発見する。
『今日そっち行っていい?』
三十分ほど前だ。僕はすぐに返事をした。
『今日はデザート付きだよ。楽しみにしてて』
『え。なんだろ』
清澄はあの教室の王様の影も形もない可愛らしいスタンプを連打してきた。「たのしみ!」とはしゃぐデフォルメされたポメラニアンの図柄だ。
『やかましいわ!』
『えー、デザートって何、気になるじゃん』
『頼特製チョコケーキ。まだできてないけど。今から作るってよ』
少しの間があった。僕が着替え終わる頃、ようやく返信が来た。
『頼ちゃんのケーキ美味いからなぁ』
『我が妹ながらよくできたおなごである』
僕がそう返したあたりで、玄関のチャイムが鳴った。そのまま応対したらしい、頼の悲鳴が聞こえてきた。
「やだ! キヨくん来ちゃった! 今日化粧してないのに!」
早くも清澄が来たらしい。僕はざっと部屋のちゃぶ台の上を片付けると、清澄専用の座布団を押し入れから出しておく。さらに机の上からピンク色の付箋を取りあげ、ちゃぶ台の上に置く。そして清澄を出迎えるために玄関へ顔を出した。
「おはよう、清澄」
「はよ」
「やだもう、やっぱりキヨくん肌綺麗すぎ、化粧水何使ってるの? それとも元がよすぎるの? 顔整いすぎ」
「うーん、化粧水は母さんが選んでるのを適当に使ってるだけだよ。銘柄までは覚えてない」
「ほんとに? じゃああとですみれさんに聞いてみよ。……はぁーつるつる。つるっつる」
頼は清澄の肌と顔に夢中だ。僕は我を失っている頼に「チョコケーキはどうしたんだよ」と促す。
「あっ、そうだった! そうだったそうだったよー!」
エプロン姿の妹はバタバタとキッチンに戻っていった。僕はやれやれとため息をつき、清澄にごめんと笑いかける。
「いつもごめん、本人に悪気はないんだ」
「いいよ。女の子はあれくらいがいい。……ていうか郁、寝起きだな、かわいい」
清澄の長い指が伸びてきて、僕の前髪を撫でる。「あちこち跳ねてるよ、寝癖」
「えっ嘘だろ」
「ほんとほんと、こことか。すげーぞ。ふわっふわのひな鳥みたいだ」
清澄は僕の頭にふわふわと触れてくる。あんまりなので、僕はスマホのカメラを起動した。
「うわ。ひな鳥ってより河童みたいじゃん」
「……まあ、郁だからなんでもいいけど」
「直してくる!」
「……いいのに」
清澄の小さなつぶやきが聞こえてきたけれど、僕はそれを無視した。僕にだって一応羞恥心があるのだ。
まさか、学校でもないのに寝癖を直す日が来るなんて思ってなかった。河童になっている頭頂部を軽くぬらしてドライヤーで乾かす、と、陰キャも陰キャなりに頑張ってみる。まあ、何もしないよりまともだろう。河童の皿がなくなっただけましだ。
「ごめん、待っただろ」
「別に?」
畳んだだけの僕の布団にもたれかかっていた清澄は、弾みをつけて体をおこし、勝手知ったる僕の部屋とばかりに定位置に座る。そして、ピンクの付箋の束をつまむと、ハリセンみたいにひらひらさせた。
いつからかは忘れてしまったけど、こうして清澄が僕の部屋に押しかけてくると、気づけば勉強会みたいな雰囲気になる。勉強しにきているのか、単純に遊びに来てなりゆきで勉強会になるのかは不明だ。特進クラスの王様は、僕の前でだけ無敵のバリアを解く。無防備になり、やたら近くなる。そして僕もまた、ライオンがネコ科動物だってことをふと思い出すみたいに、清澄に対して親しくなれる。
僕が数学の参考書を広げると、清澄もそれにならうように教科書を出した。ピンク色の付箋はちゃぶ台の真ん中で、出番を待っている。
「テスト範囲ってどこまでだっけ?」
「教科書は一三二ページから。参考書は単元五のところから。習ったところまで全部だから、来週の授業もちゃんと聞かなきゃダメだよ」
清澄がピンクの付箋を取り上げた。テスト範囲のページにぺたりと貼り付けられた蛍光ピンクは、はじまりはここですよ、とばかりに主張を始める。僕の参考書と教科書にはすでに同じ付箋が貼ってあって、数日前からその役目を果たしていた。
「さすが学年トップ、期末テスト範囲もバッチリ」
「わざわざ言わんでいい」
清澄は綺麗な顔をにまにまさせながら、隣から僕の頬を冷たい指で小突く。王様・神様・清澄様と彼を崇め奉っている二軍・三軍の連中や一軍ウォッチに熱を上げている山田が見たらひっくり返りそうだな、と思う。
「なあ、郁はチョコいくつもらった?」
さっきもこのくだり、やったぞ。僕は頼の言葉をそのままそらんじる。
「ええと、……四つ。三つは義理で一つは友チョコ」
「ははん。母さんズと頼ちゃんと俺ってとこ」
清澄は目を細めてにやっと笑った。僕は眼鏡のつるを弄りながら唇を尖らせる。
「笑うなら笑えよ。ノーダメだから」
「男子高校生だろ。異性からもらったチョコレートの数で一喜一憂しろ」
僕は別にチョコが大好きというわけでもないし、女の子が大好きというわけでもないから、その基準には全く同意できない。世の中のその他大勢のみなさんがそうであるというだけで。
「そういう王様はいくつもらったんですかぁ」
だる絡みのノリで訊ねると、清澄はついと目をそらした。
「まだ数えてない。そんなの気にしてどうすんだよ」
「『本命チョコもらった側にはもらった側の責任がある』んじゃないの? ……読者モデルくんが言ってたじゃん」
僕が何気なくそう言うと、清澄は目をついと細めた。
「……その理屈だと、郁もさ――」
「え?」
「なあ、郁」
「なに?」
「俺があげたチョコ食った?」
「ちょっとずつ食べてるけど……」
「じゃあ好きな人いる?」
「い、い、いいいいいるわけないじゃん⁉」
『じゃあ』って、接続詞として間違ってる!
「それか気になる人。……何でもいいからさ。そういう、大事な人」
「い、いない! いないいない!」
普通の会話の中に唐突に投げ込まれた爆弾発言に僕は動悸が止まらなくなる。恋愛関連は勘弁してくれ。清澄とこの部屋にいるときだけは、そんなこと考えたくなかったのに――。
「僕は恋愛してる場合じゃないし、恋愛するつもりもない! 一生! ……で、なんでそんなこと聞くの?」
幼なじみは僕の言葉を聞くなり、ふっと微笑んでペンを置いた。何かすとんと腑に落ちたような、納得したような風だった。
「じゃ、――俺もそういうことにしようかな」
「へ」
「勉強で忙しいもんな、俺ら」
「う、うん……?」
清澄はとびきり綺麗な顔で僕の手首をつかんで引く。畳に仰向けに倒れ込む清澄の上に乗り上げるような形になって、僕はゆっくり、ゆっくりなんども瞬きをした。今の状況をどう受け取っていいか分からなかったから。
「郁、恋愛なんかしなくていいよ」
ごく近くで、清澄がささやく。特にセットとかしてない伸びっぱなしの髪を梳かれると、清澄が小指に嵌めてるリングが耳に触れて、冷たい。アイスブルーの瞳が、あの完璧な顔が近い。
「俺も恋愛しないし。郁が居るから」
「……モテすぎて困るだけだろ。僕のせいにするなよ」
どこに落ち着ければいいのか分からない気持ちの置き所を探して、僕は清澄の胸に手をついた。そこはせわしなくどくどくと脈打つ心臓の上で。
「……郁のせいだよ、全部」
長い睫毛を伏せて王様が言う。これは世間で一般的な幼なじみの距離なんだろうか? そう僕が疑問に思いかけたそのとき、清澄はにわかに僕の頭を肩口に引き寄せてつぶやいた。
「好きだよ、俺は」
「え?」
――そのときの僕は、清澄の言葉の意味の、百分の一も理解できなかったのだ。



