しかし、司は面白そうに目を細めた。嘲るような様子はなく、ただただ興味を引かれているような雰囲気だ。
「本当に、なんなのだろうな。お前には、清流のような気がある」
「はぁ」
突然よくわからないことを言われて、李瀬の口からは気の抜けた声が漏れた。
「清流、ですか」
「ああ。熱を冷まし鎮めるような気だ」
「……よくわかりません」
軽く肩をすくめた彼は、それ以上説明するつもりはないようで、早々に話を変える。
「……五年も関わらずにいた俺を恨むか」
「いいえ」
李瀬は迷わず答えた。正真正銘の本心なので、即答だ。
「だが、離縁を望んだだろう」
「先ほど申し上げた通り、私たちの結婚を決めたのは、今は亡き前当主ではございませんか。これ以上は無用だと思うのです。私には幸い薬学の心得があり、生計も立てられます。力が弱い上に存在感も薄いのか、妖魔にも気取られづらく襲われません。市井で一人で生きていてもおそらく無事でいられるでしょう。私のことなどどうぞ気にせず、夫婦の縁をお切りください」
「何がなんでも離縁したいというわけか?」
少し細められた目が、真意を探るようにひたりと李瀬を見据える。
「好いた男でもいるのか」
「まさか」
「では、俺が望めば離縁を思い留まるか」
一言一句しっかり耳に入ったのに、あまりに想定外だったため理解が遅れた。
「……不思議なことをおっしゃいますね。貴方は祓魔師界の筆頭。力の制御も難なくこなしていらっしゃる今、妻になりたいと望む方は多いでしょう」
「そうだな」
「では、私を引き留める必要など──」
手で制されて、李瀬はそれ以上続けることなく口を閉ざした。
「確かに、俺の妻の座を狙う者は多い。だが、俺は望んでいないし、大きな誤解もある」
(誤解?)
小さく首をかしげると、疑問は伝わったらしい。頷いた司は、実にあっさりと言った。
「俺は力の制御を難なくこなしているわけではない。今でも苦労しているのだ」
「……それは」
霊力制御に苦労しているというのは、祓魔師にとってかなり重大な秘密の暴露だ。一応はまだ妻とはいえ、軽々しく話していい内容ではない。
「離縁する者にそのようなことを知らせてよいのですか」
「離縁するつもりなどない、と言ったら?」
司が婚姻関係の継続を望むことを、正直なところ李瀬はまったく想定していなかった。
視線を逸らすことすら許されないほどまっすぐに見つめられて、思わず息を呑む。
「身勝手な話だが、ずっと近寄らずにいたことを悔いている。五年も前に、珠玉がこの手に転がり込んでいたのに、哀れな贄だと思い遠ざけていた。……独断で結婚を決めた父への反発も無きにしもあらずだが」
自嘲と疲れが混じったような声音の裏にある心境は、李瀬にもわかる気がする。
「……故人を悪く言いたくはありませんが、お互い勝手な父を持ちましたね。祓魔師の家にはよくあることでしょうけれど」
「そうだな」
傍から見たら恵まれている名家の子女でも、ままならぬことは山程ある。同じ苦労を知る者同士、小さな笑いが漏れた。
「にしても、妙なことをおっしゃいますね。自惚れや聞き間違いでなければ、私を珠玉と……? 欠けた硝子玉がいいところでしょうに」
幼少期からずっと、やれ能無しだ穀潰しの役立たずだと言われていたのだ。実際、李瀬には一端の祓魔師になるほどの力もなく、名家の生まれとしては期待外れにも程がある。
すっかり染み付いている自嘲を紡いだ途端、頬へと司の手が伸ばされた。優しく咎めるように、親指が唇をそっと押さえる。
「自分を貶めるな。俺はお前を珠玉だと思っている」
どうしてそうまで言ってもらえているのかわからず、李瀬は戸惑いに瞳を揺らした。
初めて会ったのは昨日で、夫婦として顔を合わせてからは一時間も経っていないというのに、彼からの評価が異常に高い理由がさっぱりわからない。
「兄や八重も、李瀬を大事にしているだろう? なのにお前自身が自分を誇らねば、お前を大事にしている者たちの思いも踏みにじることになる。そのことは忘れるな」
「……!」
先程までの困惑がどうでもよく思えるほど、司の指摘は李瀬の胸に刺さった。
……小さい頃から、父の期待に応えられず散々なことばかり言われていた。
自分に力がないのは、紛れもない事実。
だから自分で先回りして卑下して、惨めさを和らげようとしていたのかもしれない。
だが、大事なものを悪しざまに言われるのは不愉快なことだ。
兄や八重ならばたしかに、李瀬の自己卑下を快く思わないだろう。
「……ありがとうございます」
小さくお礼を言ってみるものの、面と向かって真剣な表情で珠玉とまで言われるのは照れくさいし、やはりよくわからない。
「ですが、会ったばかりでそのように言われる心当たりもないものですから」
言い訳を付け加えると、司は「それもそうだな」と苦笑した。
「俺にもまだわからないことが多いから、いろいろ確かめていきたいと思っている。手始めに、この屋敷で過ごす時間を増やす」
一体どういう流れでそういう結論に至ったのか、これまた謎だ。脳内が疑問符で埋め尽くされそうになりながら、李瀬はとりあえず思いついた疑問を投げかけることにする。
「……祓魔のお仕事で立て込んでいるのでは……?」
「仕事をしていなければまともに暮らし難かったのだが、なんとかなりそうなのでな。理由ははっきりしないが、お前がいれば」
「……はい?」
話を聞けば聞くほどわけがわからなくなってくる。
「五年も放置しておいて今更と、疎ましく思うか」
「ええと……戸惑ってはいますが、放置も温情であったと理解しておりますから、疎ましいとは思いません」
「ならば離縁はなしだ。いいな」
「は、はい」
有無を言わせぬ口調で告げられ、思わず頷いてしまった。
「今週分の仕事くらいは自分で片付けるが、来週以降については俺でなくともできるものは人に任せるか。確かめるにはそれなりに時間がかかるしな」
李瀬に話して聞かせるというよりは、思考をただ口に出しているといった感じで呟いたあと、司は涼やかなかんばせに綺麗な笑みを浮かべた。
「そういうわけだ。夫婦水入らずといこう」
「はい……?」
何もかもわからなくて、先程から疑問と半端な了承の「はい」しか言えていない。
李瀬の疑問の「はい」は都合よく了承に置き換えられたようで、満足げにひとつ頷いた司は颯爽と去っていったのだった。
「本当に、なんなのだろうな。お前には、清流のような気がある」
「はぁ」
突然よくわからないことを言われて、李瀬の口からは気の抜けた声が漏れた。
「清流、ですか」
「ああ。熱を冷まし鎮めるような気だ」
「……よくわかりません」
軽く肩をすくめた彼は、それ以上説明するつもりはないようで、早々に話を変える。
「……五年も関わらずにいた俺を恨むか」
「いいえ」
李瀬は迷わず答えた。正真正銘の本心なので、即答だ。
「だが、離縁を望んだだろう」
「先ほど申し上げた通り、私たちの結婚を決めたのは、今は亡き前当主ではございませんか。これ以上は無用だと思うのです。私には幸い薬学の心得があり、生計も立てられます。力が弱い上に存在感も薄いのか、妖魔にも気取られづらく襲われません。市井で一人で生きていてもおそらく無事でいられるでしょう。私のことなどどうぞ気にせず、夫婦の縁をお切りください」
「何がなんでも離縁したいというわけか?」
少し細められた目が、真意を探るようにひたりと李瀬を見据える。
「好いた男でもいるのか」
「まさか」
「では、俺が望めば離縁を思い留まるか」
一言一句しっかり耳に入ったのに、あまりに想定外だったため理解が遅れた。
「……不思議なことをおっしゃいますね。貴方は祓魔師界の筆頭。力の制御も難なくこなしていらっしゃる今、妻になりたいと望む方は多いでしょう」
「そうだな」
「では、私を引き留める必要など──」
手で制されて、李瀬はそれ以上続けることなく口を閉ざした。
「確かに、俺の妻の座を狙う者は多い。だが、俺は望んでいないし、大きな誤解もある」
(誤解?)
小さく首をかしげると、疑問は伝わったらしい。頷いた司は、実にあっさりと言った。
「俺は力の制御を難なくこなしているわけではない。今でも苦労しているのだ」
「……それは」
霊力制御に苦労しているというのは、祓魔師にとってかなり重大な秘密の暴露だ。一応はまだ妻とはいえ、軽々しく話していい内容ではない。
「離縁する者にそのようなことを知らせてよいのですか」
「離縁するつもりなどない、と言ったら?」
司が婚姻関係の継続を望むことを、正直なところ李瀬はまったく想定していなかった。
視線を逸らすことすら許されないほどまっすぐに見つめられて、思わず息を呑む。
「身勝手な話だが、ずっと近寄らずにいたことを悔いている。五年も前に、珠玉がこの手に転がり込んでいたのに、哀れな贄だと思い遠ざけていた。……独断で結婚を決めた父への反発も無きにしもあらずだが」
自嘲と疲れが混じったような声音の裏にある心境は、李瀬にもわかる気がする。
「……故人を悪く言いたくはありませんが、お互い勝手な父を持ちましたね。祓魔師の家にはよくあることでしょうけれど」
「そうだな」
傍から見たら恵まれている名家の子女でも、ままならぬことは山程ある。同じ苦労を知る者同士、小さな笑いが漏れた。
「にしても、妙なことをおっしゃいますね。自惚れや聞き間違いでなければ、私を珠玉と……? 欠けた硝子玉がいいところでしょうに」
幼少期からずっと、やれ能無しだ穀潰しの役立たずだと言われていたのだ。実際、李瀬には一端の祓魔師になるほどの力もなく、名家の生まれとしては期待外れにも程がある。
すっかり染み付いている自嘲を紡いだ途端、頬へと司の手が伸ばされた。優しく咎めるように、親指が唇をそっと押さえる。
「自分を貶めるな。俺はお前を珠玉だと思っている」
どうしてそうまで言ってもらえているのかわからず、李瀬は戸惑いに瞳を揺らした。
初めて会ったのは昨日で、夫婦として顔を合わせてからは一時間も経っていないというのに、彼からの評価が異常に高い理由がさっぱりわからない。
「兄や八重も、李瀬を大事にしているだろう? なのにお前自身が自分を誇らねば、お前を大事にしている者たちの思いも踏みにじることになる。そのことは忘れるな」
「……!」
先程までの困惑がどうでもよく思えるほど、司の指摘は李瀬の胸に刺さった。
……小さい頃から、父の期待に応えられず散々なことばかり言われていた。
自分に力がないのは、紛れもない事実。
だから自分で先回りして卑下して、惨めさを和らげようとしていたのかもしれない。
だが、大事なものを悪しざまに言われるのは不愉快なことだ。
兄や八重ならばたしかに、李瀬の自己卑下を快く思わないだろう。
「……ありがとうございます」
小さくお礼を言ってみるものの、面と向かって真剣な表情で珠玉とまで言われるのは照れくさいし、やはりよくわからない。
「ですが、会ったばかりでそのように言われる心当たりもないものですから」
言い訳を付け加えると、司は「それもそうだな」と苦笑した。
「俺にもまだわからないことが多いから、いろいろ確かめていきたいと思っている。手始めに、この屋敷で過ごす時間を増やす」
一体どういう流れでそういう結論に至ったのか、これまた謎だ。脳内が疑問符で埋め尽くされそうになりながら、李瀬はとりあえず思いついた疑問を投げかけることにする。
「……祓魔のお仕事で立て込んでいるのでは……?」
「仕事をしていなければまともに暮らし難かったのだが、なんとかなりそうなのでな。理由ははっきりしないが、お前がいれば」
「……はい?」
話を聞けば聞くほどわけがわからなくなってくる。
「五年も放置しておいて今更と、疎ましく思うか」
「ええと……戸惑ってはいますが、放置も温情であったと理解しておりますから、疎ましいとは思いません」
「ならば離縁はなしだ。いいな」
「は、はい」
有無を言わせぬ口調で告げられ、思わず頷いてしまった。
「今週分の仕事くらいは自分で片付けるが、来週以降については俺でなくともできるものは人に任せるか。確かめるにはそれなりに時間がかかるしな」
李瀬に話して聞かせるというよりは、思考をただ口に出しているといった感じで呟いたあと、司は涼やかなかんばせに綺麗な笑みを浮かべた。
「そういうわけだ。夫婦水入らずといこう」
「はい……?」
何もかもわからなくて、先程から疑問と半端な了承の「はい」しか言えていない。
李瀬の疑問の「はい」は都合よく了承に置き換えられたようで、満足げにひとつ頷いた司は颯爽と去っていったのだった。