よかった。今日も彼女は生きている。
校内で会えたのはあの屋上のとき以来。
俺は場の空気にそぐわず安堵した。
そんな中ガチ鬼は、彼女を睨みつけて大きな口を開くんだ。
「なんだ、玉木! こいつをかばうつもりか? お前も生活指導の対象になりたいのか!」
「なにを仰います? 先生は彼の事情を知らないんですか」
釈然とした態度で、彼女は怯む様子もなく抗議をはじめた。
ガチ鬼に向かって、よくビビらないな。
だがガチ鬼だって引けを取らず。大声を出し続け、鬱陶しい。
「この学校では髪を染めるのは禁止しているんだぞ。お前、それでも風紀委員なのか!」
「先生こそ、そんなんでよく生活指導をやっていますね? 他人の話を全く聞かないのも問題です」
「なんだとっ。どういうことだ!」
ガチ鬼が威嚇するように騒いでも、彼女は一切表情を変えない。冷静沈着な彼女は、俺の顔をチラッと見てきた。
「あなた、イヴァン・ファーマーよね?」
「えっ? そ、そうですけど」
どうして彼女は俺の名を……?
もしかして、マニーカフェでネームプレートを見られていたのか。だとしても、ファミリーネームしか記されていないから、フルネームを知られているのは不思議だ。
疑問符を浮かべる俺をよそに、彼女はもう一度ガチ鬼に体を向ける。
「彼のこの髪色は自然なものですよ。決して染めたわけではありません」
「……なんだと?」
「イヴァン・ファーマーは入学時に地毛証明書を提出しています。保護者の方のサインもちゃんとされていますよ。風紀委員会と生活指導担当が共有しているファイルに挟んでありますが、先生はもちろんご覧になりましたよね」
「……え」
今まで凄んでいたガチ鬼の表情が、一変した。口をパクパクさせて、反論をしようとしているのだろうが、言葉が出てこないようだ。
彼女は更にまくし立てる。
「まさか、確認してないわけないですよね? よければ職員室からファイルを持ってきましょうか。ま、いち風紀委員である私なんかが知っているのに、生活指導の先生がご存知ないなんて絶対にありえないはずですので、必要ないとは思いますが」
なんとも皮肉を込めた言いかただ。ガチ鬼を狼狽えさせるなんて、ただ者じゃない。
他の風紀委員たちも、アカネも、空いた口が塞がらないと言った様子でやり取りを眺めている。
張り詰めた空気の中、ガチ鬼は先ほどよりも遙かに声量を落とした。
「そ、そんなものは必要いらん。いや、そうか……君はファーマーくんだったか。一年生の名前と顔がまだ一致していなくてな。わはは」
渇いた声で誤魔化すように笑うが、ガチ鬼は一切謝罪の言葉を口にしない。
あーあ……この人、生徒たちに嫌われる先生の典型なんだな、と俺は密かに思った。
彼女はさりげなく俺にアイコンタクトを送り『もう行っていいわよ』と伝えてくれる。
彼女に軽く会釈してから、俺はアカネと共にそそくさと下駄箱へ向かった。
また、助けられてしまった。俺が出した届け出を、彼女はしっかり目を通して、覚えていてくれていたんだ。
朝のイライラした気持ちがいつの間にか消え去っていた。
「よかったね、イヴァンくん。指導なんて受けたくないもんね」
上履きに替えてから、アカネは俺の顔をぐいっと覗き込んでくる。
「それにしても……あの風紀委員の人と知り合いなの? イヴァンくんの名前、知ってたよね」
「え? ああ……」
実は彼女、屋上から飛び降りようとしてて、俺がなんとか止めたんだ。そういう縁があって……なんて言えるはずもなく。
階段をのぼりながら、俺はわざと咳払いをした。
「彼女、この前俺のバイト先にお客さんとして来店してきたんだよ」
「ふーん? それってただのお客と店員ってだけでしょ。そんなんでよくお互い覚えてるね?」
アカネは訝しげにそう問いかけてくる。
まあ、たしかに。普通なら忘れるものだよな。
「えーっと。彼女に、助けられたんだよな」
「どういうこと?」
「俺のバ先、海外からのお客さんもけっこう来るんだ。中には丸っきり日本語が通じない人がいて。中国語しか話せないお客さんが来店して俺が対応に困ってるとき、たまたま居合わせた彼女が通訳してくれたんだ」
「……へぇ」
アカネは低い声で頷く。
嘘は吐いてないぞ。俺はちゃんと事実を喋っているからな。
流暢な中国語を早口で話していた彼女の姿を思い浮かべながら、俺はあることに気がついた。
「そういうこともあって、覚えていたわけなんだが……そういえば、俺、彼女の名前を知らないな」
記憶の中を探ってみるも、俺は彼女に名前を聞いた覚えがない。
助けてもらったついでに「せめて、お名前だけでも!」と、どこかで聞いたことのある台詞をあの場で口にしていればよかった。
「じゃあ、あの人とは他人なんだね! バイト中に助けてくれた人が、たまたま同じ高校だっただけで」
「まあ、そういうことだな」
他人……か。否定しようがないが、ちょっと切ない。二度も世話になったというのに、俺は彼女のことをなにひとつ知らないなんて。名前どころか、学年すら分からない。
彼女の見た目や大人びた雰囲気からして、一年ではないだろう。そもそも風紀委員をやっているということは、二年生以上だ。村高では、二年になってからでないと委員会には入れないから。
話しているうちに、あっという間に一年の教室に到着した。クラスは一組。俺とアカネは雑談もそこそこに、自分たちの席に各々着いた。
すでに何人かのクラスメイトが登校していて、雑談したり、授業の準備をしたり、スマートフォンを弄ったりしながら時間を潰していた。
俺の席は一番前の窓側だ。鞄を机に置き、ふと外の景色を眺めた。ここからは、昇降口の様子がよく見える。
まだ風紀委員はいるのかと、目が勝手に彼女の姿を探していた。だが、すでに活動時間は終わったらしい。昇降口には風紀委員もいなければ、あの生活指導のガチ鬼もいなくなっていた。
一年の教室からは、二年生の棟がよく見える。しかし、そこにも彼女の姿は見当たらなかった。
また校内で彼女に会えるだろうか、と淡い期待を抱く俺がいる。
校内で会えたのはあの屋上のとき以来。
俺は場の空気にそぐわず安堵した。
そんな中ガチ鬼は、彼女を睨みつけて大きな口を開くんだ。
「なんだ、玉木! こいつをかばうつもりか? お前も生活指導の対象になりたいのか!」
「なにを仰います? 先生は彼の事情を知らないんですか」
釈然とした態度で、彼女は怯む様子もなく抗議をはじめた。
ガチ鬼に向かって、よくビビらないな。
だがガチ鬼だって引けを取らず。大声を出し続け、鬱陶しい。
「この学校では髪を染めるのは禁止しているんだぞ。お前、それでも風紀委員なのか!」
「先生こそ、そんなんでよく生活指導をやっていますね? 他人の話を全く聞かないのも問題です」
「なんだとっ。どういうことだ!」
ガチ鬼が威嚇するように騒いでも、彼女は一切表情を変えない。冷静沈着な彼女は、俺の顔をチラッと見てきた。
「あなた、イヴァン・ファーマーよね?」
「えっ? そ、そうですけど」
どうして彼女は俺の名を……?
もしかして、マニーカフェでネームプレートを見られていたのか。だとしても、ファミリーネームしか記されていないから、フルネームを知られているのは不思議だ。
疑問符を浮かべる俺をよそに、彼女はもう一度ガチ鬼に体を向ける。
「彼のこの髪色は自然なものですよ。決して染めたわけではありません」
「……なんだと?」
「イヴァン・ファーマーは入学時に地毛証明書を提出しています。保護者の方のサインもちゃんとされていますよ。風紀委員会と生活指導担当が共有しているファイルに挟んでありますが、先生はもちろんご覧になりましたよね」
「……え」
今まで凄んでいたガチ鬼の表情が、一変した。口をパクパクさせて、反論をしようとしているのだろうが、言葉が出てこないようだ。
彼女は更にまくし立てる。
「まさか、確認してないわけないですよね? よければ職員室からファイルを持ってきましょうか。ま、いち風紀委員である私なんかが知っているのに、生活指導の先生がご存知ないなんて絶対にありえないはずですので、必要ないとは思いますが」
なんとも皮肉を込めた言いかただ。ガチ鬼を狼狽えさせるなんて、ただ者じゃない。
他の風紀委員たちも、アカネも、空いた口が塞がらないと言った様子でやり取りを眺めている。
張り詰めた空気の中、ガチ鬼は先ほどよりも遙かに声量を落とした。
「そ、そんなものは必要いらん。いや、そうか……君はファーマーくんだったか。一年生の名前と顔がまだ一致していなくてな。わはは」
渇いた声で誤魔化すように笑うが、ガチ鬼は一切謝罪の言葉を口にしない。
あーあ……この人、生徒たちに嫌われる先生の典型なんだな、と俺は密かに思った。
彼女はさりげなく俺にアイコンタクトを送り『もう行っていいわよ』と伝えてくれる。
彼女に軽く会釈してから、俺はアカネと共にそそくさと下駄箱へ向かった。
また、助けられてしまった。俺が出した届け出を、彼女はしっかり目を通して、覚えていてくれていたんだ。
朝のイライラした気持ちがいつの間にか消え去っていた。
「よかったね、イヴァンくん。指導なんて受けたくないもんね」
上履きに替えてから、アカネは俺の顔をぐいっと覗き込んでくる。
「それにしても……あの風紀委員の人と知り合いなの? イヴァンくんの名前、知ってたよね」
「え? ああ……」
実は彼女、屋上から飛び降りようとしてて、俺がなんとか止めたんだ。そういう縁があって……なんて言えるはずもなく。
階段をのぼりながら、俺はわざと咳払いをした。
「彼女、この前俺のバイト先にお客さんとして来店してきたんだよ」
「ふーん? それってただのお客と店員ってだけでしょ。そんなんでよくお互い覚えてるね?」
アカネは訝しげにそう問いかけてくる。
まあ、たしかに。普通なら忘れるものだよな。
「えーっと。彼女に、助けられたんだよな」
「どういうこと?」
「俺のバ先、海外からのお客さんもけっこう来るんだ。中には丸っきり日本語が通じない人がいて。中国語しか話せないお客さんが来店して俺が対応に困ってるとき、たまたま居合わせた彼女が通訳してくれたんだ」
「……へぇ」
アカネは低い声で頷く。
嘘は吐いてないぞ。俺はちゃんと事実を喋っているからな。
流暢な中国語を早口で話していた彼女の姿を思い浮かべながら、俺はあることに気がついた。
「そういうこともあって、覚えていたわけなんだが……そういえば、俺、彼女の名前を知らないな」
記憶の中を探ってみるも、俺は彼女に名前を聞いた覚えがない。
助けてもらったついでに「せめて、お名前だけでも!」と、どこかで聞いたことのある台詞をあの場で口にしていればよかった。
「じゃあ、あの人とは他人なんだね! バイト中に助けてくれた人が、たまたま同じ高校だっただけで」
「まあ、そういうことだな」
他人……か。否定しようがないが、ちょっと切ない。二度も世話になったというのに、俺は彼女のことをなにひとつ知らないなんて。名前どころか、学年すら分からない。
彼女の見た目や大人びた雰囲気からして、一年ではないだろう。そもそも風紀委員をやっているということは、二年生以上だ。村高では、二年になってからでないと委員会には入れないから。
話しているうちに、あっという間に一年の教室に到着した。クラスは一組。俺とアカネは雑談もそこそこに、自分たちの席に各々着いた。
すでに何人かのクラスメイトが登校していて、雑談したり、授業の準備をしたり、スマートフォンを弄ったりしながら時間を潰していた。
俺の席は一番前の窓側だ。鞄を机に置き、ふと外の景色を眺めた。ここからは、昇降口の様子がよく見える。
まだ風紀委員はいるのかと、目が勝手に彼女の姿を探していた。だが、すでに活動時間は終わったらしい。昇降口には風紀委員もいなければ、あの生活指導のガチ鬼もいなくなっていた。
一年の教室からは、二年生の棟がよく見える。しかし、そこにも彼女の姿は見当たらなかった。
また校内で彼女に会えるだろうか、と淡い期待を抱く俺がいる。