俺は、目を見開く。彼女が以前言っていたことをふと思い起こした。
 彼女は、フラワーコーディネーターになるために日本で勉強したいと語っていた。
 その夢を叶えるなら、このまま日本に住み続けてもいいはずだ。少なくとも俺は彼女の夢を聞いたとき、そうなるんじゃないかと思っていた。
 そんなの、俺の都合のいい解釈に過ぎない。実は心のどこかで、俺は少なからず不安に感じていた。彼女はいつか、中国へ帰ってしまうのではないだろうかと。「玉木サエ」としてではなく「姜子涵(キョウシカン)」として生きていくことになると聞いたから。

 しんみりとした空気が流れる。

「進路は変えずに、上海交通大学を受験するつもりなの。ママの言うことを単に聞くだけじゃない。幼い頃からたくさん勉強してきて英才教育も受けてきて、それを無駄にするのは違うと思ったの」
「ああ……わかってる。色んな事情があるもんな。けど、サエさんの本当の目標はどうなるんだ? まさか、フラワーコーディネーターの夢を諦めるわけじゃないよな」
「もちろん」

 迷いなく、かつ、彼女は力強く頷いた。

「絶対に諦めない。大学に合格して無事に卒業して、社会経験を積んでから必ず日本に戻る。この国でフラワーコーディネートの勉強をして、資格を取って見せるわ」

 夢を語る彼女は、とても生き生きしている。俺はそんな彼女に釘付けになった。

「俺は、なにがあっても応援する。サエさんの夢を」

 本音を言うと、寂しくてたまらなかった。あと二年もすれば、彼女は海の向こうへ行ってしまう。何年後に日本に戻るかもわからない。
 本当は、止めたかった。中国へ帰ってほしくない。日本の大学じゃだめなのか、と彼女に問いたかった。

 けれど──そんなこと、してはいけない。

 彼女の決めた道なのだ。日本での暮らしが楽しくて幸せだと語る彼女が、卒業後はこの国を去る選択をしたのだから。たくさん悩んだ末に決めた可能性だって大いにある。
 俺のわがままや願望で、その決意を揺るがせてはいけない。

 どうにか表には出さないよう、俺は無表情を貫こうとした。けれど、目の奥は熱くなる一方だ。

「イヴァン」
「うん?」
「私が卒業したら、あなたとの関係はどうなるのかな」

 切ない顔をして、彼女はポツリと呟いた。
 ──やめてくれ。そんな表情を俺に見せないでほしい。
 俺はそっと、彼女の頬に触れた。滑らかな肌触りが心地よくて、こんなときでさえも癒される。

「どうって。不安なのか?」
「いざそのときがきたらって想像すると、色々と考えちゃう。離ればなれになったら、あなたとの関係も変わっちゃうのかなって……」

 ここは、俺の正直な気持ちを伝えよう。決して彼女の意を変えてしまうような言葉は口にせずに。

「たとえ離れて暮らしても、俺はサエさんを想い続ける自信があるけどな」
「……本当?」
「遠距離は辛いと思う。会いたいときに会えないわけだろ? 考えただけで泣きそうだ。でも、だからこそ一緒にいられる時間を大切にできるんじゃないかな」

 まだ先のことで実感が湧かないし、考えても仕方がない話だ。彼女の気持ちはわかるし、言い様のない不安は俺にもある。
 だからと言って、今から悩み耽っても仕方がない。そばにいられるこのときを、無駄にしたくないんだ。

「会いに行くよ、必ず。行ってみたいんだ、サエさんが生まれ育った上海に」

 俺がそう言うと、彼女は笑みをこぼす。花を咲かせたような、明るい表情だった。

「ビザを取るの、結構大変なのよ?」
「サエさんに会いに行くためなら、なんでもするさ」
「だったら、私が招聘(しょうへい)状を用意するわ」
「ああ、頼むよ。だから、約束して。いつか俺に、サエさんの故郷を案内してくれないかな」
「……ええ。約束するわ」

 俺はもう一度、彼女を抱き締めた。どんなに触れ合っても、足りない。もっともっとこのぬくもりがほしくなる。
 彼女は、俺にとって特別な人。たとえこの先なにがあっても、大切にしたいと思える人なんだ。
 
 ──不意に、大きな破裂音が鳴り響いた。と同時に、眩しい光が横浜の夜空を照らした。

「花火?」

 突如現れた美しい閃光に、俺は息を呑む。
 みなとみらいの海で咲く花。
 目を細め、それを眺めながら彼女は呟いた。

「やっぱり、見えた」
「え?」
「村高の屋上って、横浜の風景がよく見えるでしょう? あなたと出会った日に、初めて気づいた。花火も、もしかしたら綺麗に見られるかなって。あなたと一緒に楽しみたいって思ったのよ」

 舞い上がる夜空の花は、カラフルに宙を彩る。打ち上げられるたびに大きな音を響かせ、横浜の空を照らし輝かせた。

「本当に、綺麗だ」

 ──日本の夏を堪能する彼女の横顔を見つめながら、俺は自然とそう呟いた。
 彼女はもう大丈夫だ。初めて会った日、ここに立っていたときと違って、今は希望に満ちた顔をしているから。
 繊細な文字で書き綴られていた遺書の出番も、もう永遠に来ない。

「サエさん。渡したいものがあるんだ」

 俺は、屋上の隅にさりげなく置いていた紙袋に手を伸ばす。中から一輪の花を取り出し、彼女にそれを差し出した。

「プレゼント」
「え。これ……青い薔薇?」

 ラッピングされた一本の青い薔薇は、花びらがほんの少し萎れてしまっている。けれど、懸命に花を咲かせているんだ。
 俺の自宅マンションのベランダで暑さにも負けずに咲き続けていた薔薇の花。母に頼んで、譲ってもらった。「渡したい人がいる」と正直に話して。

「サエさんの夢が、きっと叶うように。そういう想いが、この薔薇にはたくさん込められてる」
「素敵……。すごく逞しい薔薇の花なのね」

 サファイアのように煌めく薔薇を、彼女はうっとりと見つめていた。
 大切に薔薇の花を抱えながら、俺の頬にそっと手を添えると、彼女は俺に愛を捧げてくれる──
 何度目かもわからない口づけを、彼女と交わした。

 俺たちは、お互いにとってふたつとない心の支えだ。これからも自らのアイデンティティについて悩まされたり、辛い壁にぶつかったりするのかもしれない。
 だけど、理解し合える人がいればきっと大丈夫。俺たちはみんな、同じ空の下で生きているのだから。

 ──国境を越えて、この花火のような輝かしい未来を、君と共に描いていこう。
 

【終】