まだ俺は部活をはじめたばかり。リュウジさんに投げられる日々だが、いつか取りの練習もしてみたい。体を鍛えて、いくつもの技を習得して、試合にも出てみたい。リュウジさんのように強くなりたい。俺には、たくさんの目標がある。やる気が漲って仕方がなかった。
さらに、アカネがマネージャーとして来てくれた。そしてなによりも、彼女がそばにいてくれる。
空っぽだった俺の青春が、まさに動き出したんだ。
──さっきのことを考えていると、無意識に口元が緩む。
「関さん」
「なんだ」
「俺、関さんに言われたことがやっとわかったんです」
「あ?」
「『きっかけは身近にあるもの』なんですよね。俺も、ひとつの答えを見つけられたんです」
俺のひとことに、関さんの目が一瞬だけ優しくなった。
「お前、本当にもう大丈夫そうだな」
「はい」
「よし、そろそろ表に出るぞ。今日も客が多いんだ。……お前がいないと、この店も白けるからな。引き締めていけよ、イヴァン」
わざとらしい咳払いをして、関さんは俺から顔を背けた。
思ってもみない言葉に、俺は目を張る。でも──素直に嬉しかった。
「今日からまたよろしくお願いします!」
◆
八月五日。夜七時。
部活の練習後、俺は彼女と共にこっそりとある場所に訪れていた。
誰もいない校舎の屋上。夏の夜に風が吹き、優しく俺と彼女の横を通り過ぎた。
ここからは、横浜の景色を一望できる。夜景を照らす街の明かりは、まるで宝石をばらまいたような美しさだった。レインボーに輝く観覧車や、赤レンガの建物が目に映り、見れば見るほど素晴らしい眺め。
俺は彼女と肩を並べて、まったりした時間を過ごしていた。
「夜になるとすごい絶景なんだな」
「そうね」
「驚いたよ。サエさんが、夜にこっそり屋上へ来たいって言うんだから」
「あなたと二人きりで、もう一度ここに来たかったの」
彼女はにこりと微笑んだ。
初めてここで会ったあの日、彼女は全てに絶望したような顔をしていたのを俺は覚えている。
そんな彼女が、本当によく笑うようになった。表情が明るくなって、冷たい眼差しを向けてくることはめっきりなくなった。
そっと彼女の肩に触れ、優しく体を抱き寄せる。安心するこのぬくもりに、俺はいつだって癒しをもらってるんだ。
「ねえ、イヴァン」
「うん?」
「私、毎日が楽しいの。楽しくて幸せで、たまらない」
俺の肩にそっと顔を置き、彼女はゆったりとした口調で想いの丈を綴っていく。
「部活に参加できる日はすごく充実している。あなたが柔道の稽古している姿を、そばで見られるのが嬉しい」
「俺もだよ。サエさんがいてくれる日は、いつも以上に気合いが入るんだ」
「どんなに厳しい練習でも、真面目にやってるものね? リュウジにしごかれて、アカネからちょっとからかわれて。でも、真面目に練習に励んでるイヴァンの姿、私は好き」
──好き。
このひとつの単語に、俺の心臓は過剰に反応してしまう。
「最近ね、ちょっとずつクラスメイトと話すように意識してるの。最初は私から話しかけられて、みんなびっくりしたような顔をしてたけど。未だに私から距離を置く人もいる。だけど、一部の人とは挨拶を交わしたり普通に会話ができるようになったのよ」
友だちだと呼べる相手は、クラスではリュウジしかいないんだけどね、と付け加える彼女は苦笑する。その声は、弾んでいた。
他人と関わるのを恐れていた彼女が変わった。積極的に周囲の人間とコミュニケーションを取ろうと頑張っている。
「サエさん」
「なに?」
「出会ったときよりも明るくなったよな」
「……そう?」
「ああ。キラキラしてて、俺は今のサエさんも好きだ」
俺の素直な気持ちに、彼女はうつむき加減になった。耳が赤くなっていて、また照れてるんだとわかった。
本当に、可愛い。
「サエさんにはいいところがたくさんあるからな。焦らなくても大丈夫。柔道部ではもちろん、クラスでもどこでも、サエさんのよさを少しずつみんなに理解してもらえるはずだ」
俺はそっと、彼女の髪を撫でた。サラサラで、ふんわりと甘い香りがする彼女の髪の毛は、癒しそのもの。
彼女の鼓動を感じながら、目の前に広がる夜景に感激し、二人きりの時間に幸せを感じた。
なにものにもかえられない、大切なひととき。
「ねえ、イヴァン。私、あなたと出会えてよかった」
「……ん? どうした、急に」
「日本に来てから、毎日がこんなにも充実していることなんて一度もなかった。あなたが私の悩みを少しでも解消してくれたおかげよ。イヴァンと出会わなかったら、私はずっと自分自身の存在に悩み続けていたと思う」
「俺だって同じだよ。サエさんが俺の心のわだかまりを解かしてくれたんだから」
目を細め、彼女はおもむろに俺の胸に抱きついてきた。
俺は今、幸せの絶頂にいる。ずっとずっと、彼女のそばにいたい。大好きな人だからこそ、手放したくない。
大切に彼女の全身を包み込みながら、俺は心の底からそう思った。
──でも、そうはいかない現実があるのもたしかだ。俺たちがこの国で出会えたことは、奇跡に近いから──
しんみりとした声で、彼女は自らの想いをこぼす。
「日本での生活がすごく楽しいからこそ、寂しさもあるの」
「寂しい?」
「うん。やっぱり私、卒業後は一度中国に帰ろうと思ってるから……」
さらに、アカネがマネージャーとして来てくれた。そしてなによりも、彼女がそばにいてくれる。
空っぽだった俺の青春が、まさに動き出したんだ。
──さっきのことを考えていると、無意識に口元が緩む。
「関さん」
「なんだ」
「俺、関さんに言われたことがやっとわかったんです」
「あ?」
「『きっかけは身近にあるもの』なんですよね。俺も、ひとつの答えを見つけられたんです」
俺のひとことに、関さんの目が一瞬だけ優しくなった。
「お前、本当にもう大丈夫そうだな」
「はい」
「よし、そろそろ表に出るぞ。今日も客が多いんだ。……お前がいないと、この店も白けるからな。引き締めていけよ、イヴァン」
わざとらしい咳払いをして、関さんは俺から顔を背けた。
思ってもみない言葉に、俺は目を張る。でも──素直に嬉しかった。
「今日からまたよろしくお願いします!」
◆
八月五日。夜七時。
部活の練習後、俺は彼女と共にこっそりとある場所に訪れていた。
誰もいない校舎の屋上。夏の夜に風が吹き、優しく俺と彼女の横を通り過ぎた。
ここからは、横浜の景色を一望できる。夜景を照らす街の明かりは、まるで宝石をばらまいたような美しさだった。レインボーに輝く観覧車や、赤レンガの建物が目に映り、見れば見るほど素晴らしい眺め。
俺は彼女と肩を並べて、まったりした時間を過ごしていた。
「夜になるとすごい絶景なんだな」
「そうね」
「驚いたよ。サエさんが、夜にこっそり屋上へ来たいって言うんだから」
「あなたと二人きりで、もう一度ここに来たかったの」
彼女はにこりと微笑んだ。
初めてここで会ったあの日、彼女は全てに絶望したような顔をしていたのを俺は覚えている。
そんな彼女が、本当によく笑うようになった。表情が明るくなって、冷たい眼差しを向けてくることはめっきりなくなった。
そっと彼女の肩に触れ、優しく体を抱き寄せる。安心するこのぬくもりに、俺はいつだって癒しをもらってるんだ。
「ねえ、イヴァン」
「うん?」
「私、毎日が楽しいの。楽しくて幸せで、たまらない」
俺の肩にそっと顔を置き、彼女はゆったりとした口調で想いの丈を綴っていく。
「部活に参加できる日はすごく充実している。あなたが柔道の稽古している姿を、そばで見られるのが嬉しい」
「俺もだよ。サエさんがいてくれる日は、いつも以上に気合いが入るんだ」
「どんなに厳しい練習でも、真面目にやってるものね? リュウジにしごかれて、アカネからちょっとからかわれて。でも、真面目に練習に励んでるイヴァンの姿、私は好き」
──好き。
このひとつの単語に、俺の心臓は過剰に反応してしまう。
「最近ね、ちょっとずつクラスメイトと話すように意識してるの。最初は私から話しかけられて、みんなびっくりしたような顔をしてたけど。未だに私から距離を置く人もいる。だけど、一部の人とは挨拶を交わしたり普通に会話ができるようになったのよ」
友だちだと呼べる相手は、クラスではリュウジしかいないんだけどね、と付け加える彼女は苦笑する。その声は、弾んでいた。
他人と関わるのを恐れていた彼女が変わった。積極的に周囲の人間とコミュニケーションを取ろうと頑張っている。
「サエさん」
「なに?」
「出会ったときよりも明るくなったよな」
「……そう?」
「ああ。キラキラしてて、俺は今のサエさんも好きだ」
俺の素直な気持ちに、彼女はうつむき加減になった。耳が赤くなっていて、また照れてるんだとわかった。
本当に、可愛い。
「サエさんにはいいところがたくさんあるからな。焦らなくても大丈夫。柔道部ではもちろん、クラスでもどこでも、サエさんのよさを少しずつみんなに理解してもらえるはずだ」
俺はそっと、彼女の髪を撫でた。サラサラで、ふんわりと甘い香りがする彼女の髪の毛は、癒しそのもの。
彼女の鼓動を感じながら、目の前に広がる夜景に感激し、二人きりの時間に幸せを感じた。
なにものにもかえられない、大切なひととき。
「ねえ、イヴァン。私、あなたと出会えてよかった」
「……ん? どうした、急に」
「日本に来てから、毎日がこんなにも充実していることなんて一度もなかった。あなたが私の悩みを少しでも解消してくれたおかげよ。イヴァンと出会わなかったら、私はずっと自分自身の存在に悩み続けていたと思う」
「俺だって同じだよ。サエさんが俺の心のわだかまりを解かしてくれたんだから」
目を細め、彼女はおもむろに俺の胸に抱きついてきた。
俺は今、幸せの絶頂にいる。ずっとずっと、彼女のそばにいたい。大好きな人だからこそ、手放したくない。
大切に彼女の全身を包み込みながら、俺は心の底からそう思った。
──でも、そうはいかない現実があるのもたしかだ。俺たちがこの国で出会えたことは、奇跡に近いから──
しんみりとした声で、彼女は自らの想いをこぼす。
「日本での生活がすごく楽しいからこそ、寂しさもあるの」
「寂しい?」
「うん。やっぱり私、卒業後は一度中国に帰ろうと思ってるから……」