八月になった。横浜市内は連日、蚊も活動できないほどの酷暑に見舞われていた。
 夏休みが始まる数日前に俺とアカネと彼女の三人は登校を再開し、残りの期末テストを受けることができた。欠席した分の補習授業に出席して、無事に単位も取れた。
 俺たち三人の夏休みは、八月になってから本格的にはじまったと言えよう。

 ──ある日曜の朝八時。
 朝食を摂るため、俺は寝ぼけた頭でダイニングに訪れた。
 すでにテーブルにはトーストやソーセージ、ビーンズ、目玉焼きなどが並べられていて、母が相変わらずのキラキラした笑顔で出迎えてくれた。
 その隣には、紅茶を飲む父の姿もある。
 父と一切目を合わせることもなく、俺は無言で椅子に腰掛けた。
 
 三人で過ごす、朝の時間。最初は誰もなにも話すことはしなかった。が、父は紅茶のカップをテーブルにそっと置いて口を開くんだ。

「イヴァン」
「……なんだよ」

 反射的に声が低くなってしまう。
 なぜか父は背筋を伸ばし、改まったような姿勢になる。

「今日も学校に行くのか?」
「そうだけど」
「バイトも今日から復帰するんだってな?」
「ああ」
「あんなことがあったんだぞ。もう少し、休んでいてもいいんじゃないのか」
「家にいる方が憂鬱になるんだよ。そんな心配すんな」

 俺は父から故意に顔を逸らす。俺の反抗期はまだまだ続いている。
 この様子を眺めていた母は、くすりと笑うんだ。

「あなた。イヴァンに話したいことがあるんでしょう?」

 ……なんだ? 話って。まさか、またあの件か?

「イギリスへ移住の話なら、俺の意見は変わらないぞ」
「ああ。その話なんだが……」

 父は口をモゴモゴさせて、緊張した面持ちをしている。

 鬱陶しい。「聞きたくない」と俺が立ち上がろうとすると、母が慌てて止めてきた。

「ちゃんと聞いて? イヴァンにとっても、悪い話じゃないから」
「はあ?」

 俺が訝しげに思っている中、父は構わずに話し出す。

「おれは、今までお前のことをなんにもわかっていなかった。だが、これからは本当にお前のやりたいことをしてほしい」
「……え?」
「したいことが、見つかったんだろう?」

 俺はふと、父の顔を見た。その目は真剣そのもの。出任せで言っているようには、到底思えなかった。

 なんだよ、突然。どうしていきなり心を入れ替えてるんだ、この親父。
 俺が疑問符を浮かべる前で、母は優しい口調で言った。

「パパね、実はこの前あなたが部活で練習をしている姿をこっそり覗きにいったのよ」
「は……? えっ!?」

 俺は目が飛び出そうになった。
 部活ってまさか。柔道部の練習(・・・・・・)を見られていたのか? いつの間に!

「あなたが急に部活に入ると言い出すんだもの。イヴァンが自分でなにかをしたい、なんて言ったこと、これまでに一度もなかったでしょ?」
「そりゃ、まあ」

 小学生の頃は、親に言われて色々やってきた。全部「仕方なく」の気持ちで、嫌々と。
 でも、今回は違う。俺は大きなきっかけを見つけたんだ。

 柔道部に急遽訪問した日のことが頭を過る──

 それは、登校を再開してから数日後のことだ。
 放課後、俺は柔道部が練習している最中、体育館へと踏み込んだ。ガチ鬼に頭を下げて、入部させてくれるように頼むために。
 その場にはリュウジさんもいたし、他の部員たちもいた。

「ファーマー? お前、柔道に興味があったのか」
「はい。稽古に打ち込む先輩の姿を見て、俺もやりたいと思ったんです」

 チラリとリュウジさんの顔を見ると、彼は驚いたような表情を浮かべていた。だが、その瞳はどこか柔らかい。

 俺の申し出に、ガチ鬼はううんと低く唸る。

「入部は構わないが、そんな細い体だと、練習だけじゃなくしっかり鍛えないと厳しいぞ?」
「練習も筋トレもなんでもやります!」

 俺が即答すると、ガチ鬼は感心したように顔を綻ばせた。

 だが、俺の入部をあまり歓迎しない部員たちもいた。俺よりも背は低いが、ガッシリした男二人に揶揄されてしまう。

「お前、どこの国の人だよ。柔道は日本の競技なんだぞ?」
「外人が入部なんて初めだ」

 おそらく先輩だろうが、さすがにイラッとした。
 なんだよ、俺が柔道をするのが気に入らないのか?
 胸中で悪態をつくしかない。
 
 だがこのとき、間に入ったのはガチ鬼だったんだ。

「お前たち。バカなことを言うんじゃない!」
「え……でも、先生」
「柔道は世界中の人間がやっている競技だ。国籍は関係なかろう。それにファーマーは村高の生徒だ。入部してなにか問題でもあるか?」
「い、いや……」
「ありませんっ」

 たじろいながら、二人は口を噤んだ。

 ──正直、あのときガチ鬼に庇ってもらえたのは意外だった。その反面、なんだかすごく嬉しかった。

 今日も午前中、練習がある。早く部活に行きたくて仕方がない。無意識のうちに、食事を進める手が早くなっていた。

 俺の様子を眺めながら母は目を細める。

「イヴァンがなにかに夢中になるなんて初めてだったからパパは嬉しかったのよ。ね? あなた」

 母に問われ、父は小さく頷いた。

「お前が幼い頃から、おれは色んなことを押し付けてきてしまった。イギリス移住の件に関してもだ。だが、それじゃダメなんだよな。生き生きとしているお前の姿を見て、考えを改めたよ。もし日本でやりたいことがあると言うなら、おれは全力で応援したい。日本で進学や就職をするなら、サポートしよう。いつか帰化したいと言うなら、親として最大限のことはする」

 父の目は、潤んでいた。なにかを思うような目をして、決して俺から視線を外さない。

 俺はまだ、将来のことを決めていない。けれど、生まれて初めて自分のやりたいことを見つけた。柔道をはじめて日は浅いが、夢中になって練習に励む自分がいる。
 彼女を守れるような強い男になりたい思いがあるおかげだ。そして、俺と同じ気持ちを持つリュウジさんの姿を見たことがきっかけだった。
 なにもなかった俺が、生きる糧を見つけられた。柔道をはじめてから、毎日が充実している。
 俺のやりたいことを応援すると言ってくれた父の言葉が、本当に嬉しくて。心に絡みついていた糸が、ほどけたような気持ちになった。
 母も父の隣で「わたしもパパと同じ気持ちよ」と優しく言ってくれた。

 俺は自分の頬が緩んでいくのを自覚した。でも恥ずかしくて、目を伏せてしまう。

「なんだよ二人とも……。言われなくても俺の好きなようにやらせてもらうからな」

 ご馳走さま、と手を合わせ、朝食を完食した俺は柔道服が入った鞄を手に持つ。
 玄関を出る前に、もう一度父と母に体を向けた。

「練習してからバイトに行ってくる。七時くらいには帰るよ」
「ええ、わかったわ。いってらっしゃい」

 二人に見送られながら、俺は扉を開けた。
 外に出ると、モワッとした暑さが全身を襲う。でも、まったく不快に感じない。
 部活にバイトに、忙しい一日がはじまった。