その後、俺たちは互いのことを話した。誕生日や生まれ育った故郷の話、好きな食べ物や苦手なもの、どんな音楽を好んで聴くのかなどなど、たくさん語り合った。
 知っても知っても、もっと彼女を知りたくなる。なんでもない会話がこんなにも楽しいなんて。
 なによりも、彼女がずっと笑顔でいてくれるのが嬉しい。

「──へえ。あなたの家のベランダに、青い薔薇が咲いてるのね」

 母のガーデニングについての話を俺が口にすると、彼女は目を輝かせた。

「夏に花を咲かせるなんて凄いわ。薔薇は暑さと湿気に弱いのよ」
「そうなのか?」
「あなたのお母さんは、大切に花を育てているのね」

 別に自分が褒められたわけじゃないのに、彼女のひとことにくすぐったい気持ちになった。

「いつかサエさんに、薔薇の花束をプレゼントするよ」
「どうして?」
「もっと気持ちを伝えたいんだよ。『好き』って言葉を、薔薇と一緒に贈ってあげる」
「な、なにそれ。別に、いいわよ……」

 彼女はパッと俺の腕から離れると、顔を背けてしまった。
 その様子を見ただけでわかる。照れているんだ。なんて可愛い人なんだろう。
 俺から目を逸らしたまま、彼女は小さく呟いた。

「如果你真这样说,我就幸福哦」
「えっ」

 また、唐突な中国語だ。
 俺はジト目で彼女の横顔を見る。

「サエさん。今、なんて?」
「……秘密」

 ずるい。彼女は本当にずるい。そうやっていつも、照れると中国語で喋って俺にわからないようにする。
 でも、今の俺なら理解できる気がする。彼女の仕草だとか声だとか様子なんかを見て、言いたいことがだいたい予想できてしまうんだよ。

「『あなたにそんなことを言われたら幸せだ』。そんな感じのニュアンスで言ってるんだろ?」
「えっ!?」

 彼女は声を裏返して、目を丸くしながら俺の方を向いた。

「ああ、その反応。正解なんだな?」
「違う。違うわよっ」

 必死に首を横に振って否定しているが、もう遅い。
 そうか。彼女の本心はそういうことだったのか。いつか本当に薔薇の花を贈ってあげよう。

 俺が密かに計画を考えているさなか、彼女は背を向けて急に歩き出した。

「どこ行くんだ?」
「自販機。喉が渇いたから、なにか飲み物がほしい」

 早歩きで立ち去ろうとする彼女のあとを、俺は慌てて追いかける。
 本当に、可愛いリアクションをしてくれるよな。彼女は単なるクールな女性なんかじゃなくて、ちょっと恥ずかしがり屋な面もあるんだ。

 食堂前の自販機の手前までたどり着くと、彼女は急に立ち止まった。俺の足も一緒に止まる。

「イヴァン。あの子……」

 彼女は一点を見据え、静かに声を漏らした。
 その視線の先にいた人物を目にして、俺は思わず声を上げる。

「アカネ……?」

 俺の呼び掛けに反応し、アカネはすぐにこちらを振り向いた。
 まさか。来てくれていたなんて。返事がなかったから、まだ外に出られるゆとりはないと思っていた。
 アカネの姿を見て、俺は息を呑んだ。いつもおしゃれに気を配っているはずなのに、今日のアカネは髪が乱れて、肌も荒れていた。
 俺たちを見るなり、急に涙ぐむんだ。

「……イヴァンくん。それに、サエさんも」

 目からポロポロと大粒の涙を流すアカネは、体を震わせている。一歩二歩こちらに歩み寄ってくると、勢いよく頭を下げるんだ。

「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい……!」

 足まで震わせて、アカネは謝罪の言葉を並べた。いつも明るくて元気なアカネの面影は全くない。

 俺と彼女は顔を見合わせた。しかし、彼女はすぐさまアカネのそばに寄り、そっと肩に手を置いた。

「謝らないで。顔を上げてくれる?」
「……でも」
「いいから。あなたの目を見てお話がしたいの」

 そう促され、渋々といった様子でアカネは頭を上げた。涙は止まることを知らない。

「具合はどう?」
「え……あたし、ですか?」
「あんなことがあったんもの。怖かったでしょ? 心配してたの」
「そんな。あたしなんて、全然平気……です」

 下唇を噛み締め、アカネは顔面を真っ赤にした。そんなアカネに、彼女は柔らかい眼差しを向ける。

「怪我がなくても、気持ちはまだまだ落ち着かないでしょう。きっと、あなたも警察からの事情聴取を受けたりなんかして大変だったんじゃない?」
「……はい」
「学校にも行けていないとイヴァンから聞いたわ。すぐに立ち直るのは難しいと思うけど、無理しないでね」
「……」

 彼女のひとつひとつの言葉に、アカネは小刻みに首を横に振った。

「サエさんは、どうしてあたしに優しくするんですか……?」
「え?」
「サエさんだって、大変な想いをしたはずですよね。心も体も傷ついた。それなのに、あたしを心配するようなことばっかり言って……! あたしは、サエさんに申しわけない気持ちでいっぱいです」
 わんわんと泣き喚くアカネは、今までに見たこともないほど悲痛な表情を浮かべている。恐怖と後悔と責任に押し潰されそうになっていたのに、彼女からの誠意を受け取って、感情がぐちゃぐちゃなのだろう。
 しかし彼女は、落ち着いた様子でこう答えるんだ。

「危険な目に遭っている人が目の前にいたから助けただけ。とにかく、あなたが無事で本当によかった」

 彼女は、どこまでもあたたかい人だ。
 勢いよく彼女に抱きつき、アカネは声を大きく震わせた。

「ごめんなさい、ごめんなさい、サエさん……」
「だから、謝らないでって言ってるでしょ?」
「違うの……違う! あたし、勘違いしてたから。先輩たちから変な噂を聞いて、イヴァンくんにもサエさんにも失礼なことを言っちゃったの……! サエさんはこんなにいい人なのに、関わらない方がいいなんて。あたし、どうかしてた……!」
「いいのよ。私だって、みんなに失礼な態度を取り続けてきたんだもの」
「でも……あたし、もう周りの噂なんかに流されない。サエさんは、とっても素敵な人だから……!」

 アカネの言葉を受け取った彼女は、笑窪を浮かべてゆっくりと頷いた。

 ──セミの大合唱が鳴り止まない夕暮れ時。西陽に照らされる彼女の顔は、とても輝いていた。
 俺たちにも、新たな夏がやってくるんだ。