俺の心臓はありえないくらいドキドキしていた。唇と唇を重ねただけの優しい口づけに、とろけてしまいそうになる。心がフワフワ浮かぶような変な感覚もするんだ。

 そっと彼女の唇から離れると、俺はもう一度愛しい人の体を包み込む。
 暑さなんて関係ない。ただひたすら、大好きな人のぬくもりを感じていたい。

「サエさんは、どこまでも優しくて、どこまでも勇敢な人だ」
「そう?」
「そうだよ。だけど……自分の身の安全も考えてほしい。もし死んだら、何もかも終わりなんだ。俺はサエさんがいなくなったら悲しいよ」

 束の間の無言。
 彼女はおもむろに俺の背に腕を回すと、両手で全身を引き寄せてきた。

「私ね、人生を諦めていたの」
「……うん」

 ──俺の脳裏に、彼女と出会った日の光景が過った。風が強い春の日、屋上の向こう側に身を投げ出そうとしていた彼女。
 絶望が漂い、闇に包まれた背中だった。

「学校には、私の居場所なんてない。他人と関わるのが怖くてたまらなくて、色んな人たちを避けて。こんな私だから、周りの人たちも私と距離を置くようになる。当たり前よね。家に帰ってもママたちに勉強しろってうるさく言われ続けて。おまけに自分の将来すら親に決められる。なんて虚しい人生なんだろうって思ってた。だけど……あなたと出会って、全てが変わった。こんな私と仲良くなりたいと言ってくれて、嬉しかった。それに、自分の意志を曲げずに両親の言いなりにならないイヴァンの姿勢に感激したの」
「それってまさか……イギリスへ移り住みたくないって、俺が両親に反抗している話か?」
「そう。私にとっては凄く衝撃的だった。親に反発するなんて、私には考えられなかったもの。でもあなたを見ていて、考えかたが変わったわ。私も自分の希望を、親に伝えてみたい。自分の好きなようにできたら、どんなに楽しいだろう。考え出したら止まらなくなっちゃった。あなたのおかげで前向きに生きたいって思えたのよ」

 そんなこと、初めて言われた。俺はただの反抗期なんだぞ? 誇れることじゃないし、むしろ恥ずかしい話だ。
 思いがけないことで彼女に影響を与えていたなんて、俺が驚いている。

「将来の夢」
「……え?」
「本当はなにになりたいんだ? 上海の大学に行くことは、サエさん自身の目標じゃないんだろ?」
「そうね。どちらかといえば、ママが望んでる」
「だったら教えて。サエさんの、目指しているもの」
「……聞きたいの?」
「うん。聞きたい」
「笑わないで、聞いてくれる……?」
「もちろん」

 彼女はそこで、声量を落としてこう呟いた。

「私、本当はフラワーコーディネーターになりたいの」

 小さな声だけれど、力のこもった口調だった。
 ──イングリッシュローズの庭で、色とりどりの薔薇たちに囲まれて幸せそうにしていた彼女の姿を思い出す。心から花を愛でるその姿は優しくて、綺麗で、そして美しかった。

「いい夢だ。サエさんにすごく似合ってる」

 自分の頬が、自然と緩んでいくのがわかった。

「青い薔薇の花言葉は『夢叶う』だったよな? サエさんには、立派な夢がある。きっと実現させてほしい」
「……ありがとう、イヴァン」

 日本のフラワーコーディネートの技術は、世界の中でも最もレベルが高いらしい。いつか日本で勉強をして資格を取りたいと、彼女は花を咲かせたように語ってくれる。
 
「でもね、将来のことだけじゃなくて今も大事にしたい。私も高校生活を楽しんでみたいの。だから……明日から、登校しようと思ってる」

 彼女の話を聞いて、俺はハッと息を呑んだ。

「……もう、大丈夫なのか?」

 俺の問いかけに、彼女はゆっくりと頷いた。おもむろに、体育館の小窓に目を向ける。その視線の先には──柔道に打ち込むリュウジさんの姿があった。

「たぶん、平気。私を気にかけてくれる友だちがいるもの。いつまでも殻に閉じ籠ってられない。それに……」

 今度は俺の目をじっと見つめて、彼女は優しく囁くんだ。

「心の支えになってくれる人がいるから、もう大丈夫」

 その言葉を受け取って、俺は急に恥ずかしくなった。

「あの……ええっと。そうだな。俺も、明日から、学校再開しようかな」
「イヴァンも、もう平気?」
「ああ。サエさんの元気な姿見たら、俺も元気になった。ずっと家にいても、余計に気分が落ち込むしな。あの日のことは簡単には忘れられないかもしれないけど……もう怖い思いをしないように、俺がサエさんを守るからな」

 俺のそんな宣言に、彼女はくすりと笑う。

「あなたが?」
「そうだよ。俺の決意は揺るがないぜ」

 横目で、俺はリュウジさんの姿を確認する。真剣な顔で稽古をする姿は、あまりにもかっこよくて、眩しい。

 必ず彼女を守れるような強い男になってみせる。強く心に決めた瞬間だった。